日本人の阿闍世コンプレックス (中公文庫 M 167-2)

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  • 中央公論新社
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  • Amazon.co.jp ・本 (231ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784122009134

感想・レビュー・書評

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  • 2020.01―読了

  • 真宗を学ぶようになってからまた小此木啓吾を手に取ることになるとは……という思いで購入しました。
    だって、タイトルに「阿闍世コンプレックス」ですよ。いや、ターム自体は知ってましたけど。
    詳しい学説的な内容については読んだことなかったんで、古本屋でこの文庫本見つけた時初めて小此木啓吾だと(そして読み進むうちに小此木の師である古澤平作にまで遡ることも)知りました。『モラトリアム人間の時代』には反発を覚えながら何とか読みきった記憶がありますが、これはどうかなぁ……と読んでみました。

    頭痛くなりました。よくもこういう問題だらけの論文をいけしゃあしゃあと書けるもんだなぁと、書き上げて平然としてられるなぁと思いますけど、書いた本人にとっては「愛情をこめて書き、何度読んでも心のカタルシスになる」(文庫版まえがき、p.5)論文なんですね。

    私にはオエってきます、正直。随分おぞましいものを読まされたという感じでいっぱいなんですが、これは生きた時代の違い、生まれた世代の違いですかねぇ。

    私からすれば二つの面で気色悪い論文です。
    一つは、王舎城の悲劇を「母性愛」の物語にわざと読みかえ編集しようとするその魂胆。
    もう一つは、親から子へのDVを正当化するような論理を振りかざしてそれを「日本人の心的特性」と、つまり「それが日本の心ってもんよ」という語り方をしていること。

    一つめに関して言えば、単純に「そういう話じゃねぇから、これ」の一言。
    提婆達多から出生の秘密を知ってそれにブチ切れた阿闍世が父ちゃん(頻婆娑羅)を殺し母ちゃん(韋提希)も殺そうとするけど大臣に止められて牢屋に入れると、王舎城の悲劇って言ったらざっとこんな感じです。
    で、牢屋に入れられた後阿闍世の身体に悪い出来物ができたけど、その時看病したのは牢屋にいるはずの母ちゃんだと。これと絡めて「親を怨む子を最後に許すのは母」という趣旨の〈ゆるし〉の話を出してくるんですが……いい?あくまで〈ゆるす〉のは仏さんであって母ちゃんじゃねーんだわ。そこ履き違えて『涅槃経』『観経』を「親不孝のバカ息子阿闍世vs牢屋に入れられても息子を愛そうとした韋提希」みたいに読もうとするのは本当に儒教文化圏日本の良くないところだと思う。
    勝手な深読みです。そんなことはお経のどこにも書いてません。繰り返しですが阿闍世の罪をゆるしたのは仏さんであって母ちゃんではありません。『涅槃経』『教行信証』はそういう書き方です。ついでに言えば、母ちゃんは母ちゃんで阿闍世のゆるし(というか救い)とは関係なく仏さんにゆるしてもらってます。そういうことが『観無量寿経』というお経に書いてあります。
    もっとも、経典に忠実なようでいて実は元ネタにかなり編集を加えた創作であることは「古沢版阿闍世物語の出典とその再構成過程」に書いてあります。そりゃーね。エディプスコンプレックスの文脈で言ったら、阿闍世の物語はオルタナティブな原理を提示するどころか全くもって「良い症例サンプル」だと、フロイドが『涅槃経』『観経』読んだら思うでしょうからねぇ。

    創作意図そのものにキモさを感じるんですよ。それが私の感じる気色悪さ二点目。

    「奇しくもこの阿闍世の物語は、『瞼の母』にも共通する、われわれ日本人が人となるために必ず通過しているはずの普遍的な母子体験の原型を提示している。
    つまり、この母子体験には、まず第一に、“母なるもの”=理想化された母親像との一体感と、この一体感を母に求める「甘え」(土居)がある。
    第二に、母との一体感が幻想であったという幻滅とともに、はげしい怨みがわく。自分が生きるため、夫への愛のためには、子どもさえも棄てたり殺したりしかねない母。それが母の正体だったのか。(中略)
    しかし第三に、“母なるもの”を取り戻したその母は、怨みを向けた息子をゆるし、息子もまた母の苦悩を理解することができるようになる。つまり、この怨みからゆるしへという、お互いの罪とお互いのゆるしの相互作用が見られる。」(p.19)

    キモい。こういう筋書きで阿闍世を語りたいんだなってのは分かったとして、「“母なるもの”を取り戻したその母は、怨みを向けた息子をゆるし、息子もまた母の苦悩を理解することができるようになる」って何なんすか?
    そもそも“母なるもの”って何やねん。フェミニストが読んだら即ブチ切れる文章であることは間違いありませんね。もちろん、今の女性でも十分ドン引くと思いますし。
    つーか、ね?母親だろうと父親だろうと、子どもが親に怨みを持つとしたら、「一体感が幻想だった」以前に、子どもにはあまりに耐え難い暴力が親や周囲の大人から振るわれた事実がある時ですよ。切ないですよねぇ、受けた物理的精神的痛みはあるけれど、言い返そうにもやり返そうにも、親・大人には上手く言葉で伝えられもしなければ理解もされず、かと言って殴り返すのも恐ろしいから、怨むしかないんですよ。怨みの正体ってそういうことでしょう。筋から言っても、謝って許しを請うべきは先に手ぇ出した親であり、理不尽な力の差で子どもをねじ伏せた大人の方です。
    何で母親がゆるすんですか?元はと言えば自分たちが植え付けた子の怨みを?上から目線ですなぁ!「息子もまた母の苦悩を理解することができるようになる」ぅ?ハァ?そうは絶対ならないくらい怨みは深いからDVが深刻化するんでしょうに!
    親がバカスカ家庭で子どもを殴り、教師がバカスカ学校で子どもを殴り、怒鳴り、懲らしめて、それを百害あって一利もないただの暴力とは見ずに子の教育のためだ体罰だしつけだと正当化してきて、剰え家庭内暴力といえば「親に暴力をふるう子がふえているという」(p.35)っちゅう、そーいう認識がまかり通っていた時代ですよ、この本が書かれたのは。そういうことを長ーいことやってきた日本社会がこういう〈ゆるし合いによる一体感〉幻想(事実としては家庭内暴力と怨みの連鎖)を作り出してきたのだと思います。気持ち悪い!
    もっとも、そういう気持ち悪い幻想を見事に分析して炙り出してくれているという意味では、家庭内暴力を考える上でも一読の価値ある読み物ではありますが。。。

  • 長谷川伸の『瞼の母』には、理想化された母への一体感と、それを裏切られたことへの怨み、そして怨みを超えた許しの通いあいというテーマが描かれています。著者は、ここに見られる日本人特有の深層心理を解明したものとして、古沢平作の「阿闍世コンプレックス」の考えを参照します。

    フロイトの「エディプス・コンプレックス」が、父性社会であるヨーロッパの深層心理の構造を表わしているのに対して、古沢から著者が引き継いだ「阿闍世コンプレックス」は、日本的な「甘え」、「日本的マゾヒズム」、そして日本の母性社会的性格と緊密に結びついていることが、順次説明されていきます。

    さらに著者は、伝統的な「阿闍世コンプレックス」を受け継ぎながら、新しい社会の到来によって苦しみを味わっている現代日本人の心理を解き明かそうとしています。

    本質主義的な日本文化論に陥っているきらいもありますが、それなりに興味深く感じたところもありました。とくにベネディクト以来の「恥の文化」の考え方に対して、自分の犯した罪を寛容に許されることによって、内面的で自発的な罪責観が生じるということを重視しているところなどは、おもしろいと思いました。

  • 951夜

  • 一世を風靡した心理学書。
    西洋父系社会に対する、日本母系社会。
    「瞼の母」という理想像を社会が共有している故に、怨念の母となる。
    今、読んだ方が面白い気がする。当時よりも。

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著者プロフィール

1930年東京府生まれ。日本の医学者・精神科医、精神分析家。学位は、医学博士。1954年慶應義塾大学医学部卒業。1960年「自由連想法の研究」で医学博士の学位を取得。慶應義塾大学環境情報学部教授、東京国際大学教授を歴任。フロイト研究や阿闍世コンプレックス研究、家族精神医学の分野では日本の第一人者である。著書はいずれも平易な記述であり、難解な精神分析理論を専門家のみならず広く一般に紹介した功績は大きい。2003年没。主な著書は『精神分析ノート』(日本教文社,1964年)、『モラトリアム人間の時代』(中央公論社、1978年)、『フロイトとの出会い―自己確認への道―』(人文書院、1978年)など。

「2024年 『フロイト著作集第7巻』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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