檀林皇后私譜 (下巻) (中公文庫 A 97-7)

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  • 中央公論新社
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  • Amazon.co.jp ・本 (345ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784122011694

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  • 歴史の中で一度は目にしたことがある「橘家」
    名家として名高い家系から歴史上唯一立后した橘嘉智子。藤原氏が台頭する中、なぜ橘氏出身の嘉智子が皇后として唯一無二の存在になれたのか。愛憎渦巻く政事に揉まれながらも、純粋無垢な妃から国母として女性最高の地位へ登りつつも、心のどこかで「罪」として捉えていた彼女。晩年において自身の死をこれまでの懺悔として受け入れる姿がとても印象的でした。

  •  橘逸勢(たちばなのはやなり)という男がいる。平安初期の能書家で三筆(さんぴつ・嵯峨天皇と空海、橘逸勢の三大書家)の一人の数えられる人物である。そして『檀林皇后私譜(上)』の記事で少し述べたが、橘嘉智子(たちばなのかちこ)の従兄弟でもある。上巻の記事では名前を紹介する程度に留めていたものの、作品中では、彼は実に非常に重要な役割を担い続けている。というのも、橘嘉智子が神野王子、のちの嵯峨天皇と婚姻関係を結ぼうとする物語の冒頭から、逸勢は従姉妹の嘉智子を密かに恋うる男として登場するからである。

     しかし逸勢は、持ち前の強情さや子供っぽいまでの負けん気の強さから、この従姉妹に対する恋心を死ぬまで明かすことは出来なかった。勿論、どんなに男の側が好意や愛情を押し隠そうと努力していても、あるいは隠しおおせていると思い込んでいても、そういった男の気持ちは女の側には手に取るように判るもので、嘉智子も、彼女を取り巻く女性たちも、逸勢の嘉智子に対する愛情は敏感に感じ取っていたのである。

     けれども嘉智子は、逸勢よりも求婚という形で愛情を示す神野王子を選び、橘家に連なる人々も、嘉智子が神野王子と結婚することを望んだ。なぜならば橘家は、嘉智子や逸勢の二代前に謀叛人の烙印を押されてしまった祖父・橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)を出した家であり、その汚名をそそがねばならなかったからである。同じ橘家の人間同士が結婚したところで、中級官吏以上の家にはなれない。祖父の受けた恥辱もぬぐえない。ならば、桓武帝の子息である神野王子との婚姻の方がはるかに有利で、天皇家に連なることが可能となる…。
    当の嘉智子自身はほとんど意識しなかったけれども、橘家の一族は各々の胸に明確に期する、ある思いがあった。官界における一族浮上、である。

     結婚以来、子に恵まれなかった嘉智子であったが、ようやくにして男児を授かることが出来た。正良(まさら)親王である。一つ下には正子内親王も生まれ、女児にいたっては正子の下に秀子・俊子・芳子・繁子と、生涯で合計五人の内親王をもうける幸福に恵まれた。そして、正良親王・正子内親王がまだ幼い時期に、嘉智子にとって人生を左右する出来事が起こったのであった。

     一つは夫・嵯峨天皇(神野王子)の正室・高津王妃の死。もう一つは薬子の変。
    姦婦とまで揶揄された藤原薬子とその兄・藤原仲成が、嵯峨天皇の兄・平城上皇の復権を目論んで乱を起こしたのである。しかしこれは嵯峨天皇から派遣された坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)将軍によって、即座に制圧される結果となり、薬子は毒を仰いで自殺、仲成は処刑された。弟に敗れた平城上皇は政治に口出しすることは不可能となり、弟の妻たちに明け渡そうとしなかった皇后位も独占することは出来なくなったのだ。そして、薬子の変に先立って、高津王妃が自殺する事件があった。少し前に高津王妃に付いていた乳母が毒による不審な死を遂げていたのだが、彼女を服毒させたのが、主人である高津王妃ではないかとの噂が立った為である。根も葉もないことではあったが、その噂の奥にある悪意に耐えられず、じわじわと苦しめられた王妃はある日突然、縊死(いし)を選んだのであった。

     嵯峨天皇の正室の薨去…。嘉智子にとっては思わぬところでの競争相手の退場。だが、嘉智子にとっては偶然と思われていた高津王妃に関する噂と死は、藤原北家出身の藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)らによって、巧妙に仕組まれたものであるらしかった。嘉智子の姉が藤原家に嫁いでいることを足がかりに、北家の人間たちは政界に進出する機会を狙い、嘉智子にとって有利に事が運ぶように、そして嘉智子に恩を着せるようにと隠密裏に動いていたのである。

     嘉智子はとうとう、女性としての最高位、皇后の位に立てられることとなった。図らずも、あの少女時代に出会った尼の予言が実現したのである。彼女が立后された時には既に、嵯峨天皇の異母弟である大伴王子という人が皇太弟として据えられていたが、皇后となった嘉智子は、大伴皇太弟が天皇として即位した暁には、彼の子供ではなく、自分と嵯峨天皇の第一皇子・正良親王を皇太子にしたいと望むようになっていく。

     私にとって意外だったのは、橘嘉智子という人が宮廷内の骨肉相食む争いから超然として気高く生きるのではなく、長い間待ち望んだ末に誕生した長男を溺愛するあまり、その子の利益や将来を極端なまでに最優先に考える姿勢を見せ始めたことである。上巻までの子をなさない彼女は、さほど上昇志向も強くなく、むしろ周りの近しい人間が彼女を皇后位に押し上げるために画策するといった感じで、要するに嘉智子自身は、才女ではあるけれども世間知らずの娘さんといった印象だったのだ。しかし、正良親王が誕生した途端、彼女は生まれつき虚弱な愛息を守り抜き、皇太子ひいては天皇という顕位に即(つ)けてやるべく、急速に藤原北家との繋がりを深めていく。

     嘉智子は、正良親王に藤原北家という名の強固な後ろ盾をつける為、冬嗣の娘・順子を嫁として獲得しようと躍起になり、皇太子の地位を与える為に彼の異母兄弟を斥(しりぞ)けていく。大伴皇太弟の子息、恒世(つねよ)親王が正良親王の前途に立ちふさがることのないようにと、冬嗣に相談を持ちかけた時などは、嘉智子の意を受けた冬嗣が恒世親王を毒殺してしまった。その場に偶然居合わせた嘉智子の娘・俊子内親王も口封じの為に冬嗣に殺害されたにもかかわらず、嘉智子は娘・俊子の骸(むくろ)を見て(正良の将来の為)と涙を飲んだのである。長男ばかりを偏愛する母を見て育った正子内親王は、いつしか母・嘉智子に対して心を開かなくなっていた。そんな親子の姿を見、変わってしまった嘉智子を見て、橘逸勢は彼女の長女・正子内親王の側近くにいて擁護者になることを決意するのだ。
    「あんたにはすまないが、おれはあの娘(こ)の側につく。きっとそうなると思うよ」
    彼は、愛しているはずの嘉智子に訣別の言葉を放ったのであった。

     正良親王はその後、嘉智子と藤原冬嗣らの期待通りに皇太子となり、大伴皇太弟が淳和(じゅんな)天皇として務めた後に、帝位にのぼって仁明(にんみょう)天皇となる。しかし、嘉智子が正子内親王を、なかば無理やり大伴皇太弟の后(きさき)に据えていたために、正良(まさら)の后・藤原順子が産んだ道康(みちやす)親王と、正子の産んだ恒貞(つねさだ)親王とで皇太子位を争うという予想外の事態が生じる結果となった。

     現天皇の皇子と前天皇の皇子…嘉智子にとってはどちらの皇子も孫だが、彼女は道康親王を皇太子に立てることを望んだ。道康親王を産んだ順子が藤原家の娘だったからである。この時、逸勢は正子の側につき、恒貞親王を皇太子に推したのだ。結果、彼は藤原家によって謀叛事件をでっち上げられ、罪人として配流される途上、無念の内に死ぬ。彼がなくなる数日前、嘉智子にあてて言付けた言葉が印象的だ。
    「憎み合うことで、牽引の強さがたしかめられる……。不幸な、そんな愛情も、男と女の間には存在するんだ」

     仁明天皇となった長男・正良への強すぎる愛情ゆえに、嘉智子は腹を痛めて産んだ他の子供達を陰謀で死なせもし、心を傷つけもした。そして愛してやまなかった、守り通したかった初めての子・正良も三十代の若さで失ってしまう。よくよく家庭内を見渡せば、母である彼女よりも先に旅立った子供の多いことに彼女自身がふと気付く。正良然り、俊子然り。次女の秀子、四女の芳子も早逝していた。そして嘉智子自身にも、そろそろ死期が近づきつつあった。

     嘉智子は長きにわたる宮廷生活の中で、自分が罪を犯しながら生きてきたことを誰よりも自覚していた。彼女は仏教に一応帰依してはいたけれども、その教えによって救われようとは思っておらず、むしろ求めていたものは救済ではなく、地獄での裁きであったようだ。自分が正良を守っていく上で、非業の死を遂げた者、無実の罪を着せられた者、そういった人々に自分は詫びねばならぬが、その詫びによって許してもらおうとは考えていない。地獄の業火に焼かれながら、生前自分が生み出してきた罪を責められる続けること、これこそが自分の望みであると考えていたようである。そのことは彼女の今わの際の言葉にも表れている。
    「裁かれたいのですよ」
    彼女は姉に看取られながら、こう言って旅立っていった。

     彼女はたった一度きりの一生を、子供達の将来が少しでも恵まれたものになるようにと、宮廷遊泳に腐心しながら過ごしたわけだが、その子供達に先立たれ、疎遠になり、時には母と娘とで孫の皇位を争わねばならない状況に置かれたりもして、ずいぶんと孤独だったのではないかと思う。もしも彼女が、生まれ変わってもう一生生きられるとしたら、例えば今度は逸勢と結ばれてもう一度、子を産むことができたとしたら、生き直す嘉智子は一人の母としてきっとこう願うだろう。

     栄達などはどうでも良いのだ。

     子らよ、後生だから親より先に死んでくれるな、と。

  • 檀林皇后私譜(上)(下)を3/21に読了。
    奈良朝から平安朝初期、第五十代桓武天皇から平城天皇・嵯峨・淳和・仁明・文徳天皇の治世下、皇后・親王・内親王そして親子・兄弟・姉妹に藤橘氏族が絡んだ血みどろの権力抗争と陰謀の数々が下敷きである。藤原四家の北家と結ぶ主人公嘉智子が嵯峨天皇の皇后となるまでの出世譚と彼女の権力を極めたあとの子孫への妄執と同族執着の顛末である。
    前半は史実に基いて濃密な描写で希望に満ちた展開をするが、後半は藤原と謀って保身に身をやつす孤独な権力者になり、心なしか作者の筆圧も落ちたように感じる。
    嘉智子は何のために生きたのか、人生に迷い、贖罪のための檀林寺創建にも虚しさが残る。
    歴史に対しては「人名・事件年代・覚える」の思考に囚われるが、作者の著す人間模様の世界は自分の従来知識とは別物であり想像力に愕然とすることが多い。
    皇室を巡る藤原家支配の悍ましさや権力に群がる人間のまがまがしさ等々に厭な気持ちになるが、実際の歴史の発見でありそんなものかという諦観に落ち着く。

  • 歴史は物語で身につくのだよ

  • 2016/03/29完讀

    平城上皇起兵,為拉攏坂上田村麻呂,藥子拋出高津王妃(姪女)登后為、高岳親王和業子內親王結婚並登基之餌。未料城府甚深的坂上田村麻呂竟然直接拿該條件向嵯峨天皇陣營交涉取得允諾,平城上皇方便一敗塗地,藥子也引鴆自盡。仲成被殺,長男阿保親王被踢到九州,高岳親王也出家,是為真如法親王。

    為避免直接兌現諾言,嵯峨天皇和冬嗣決定先立一個緩衝皇太弟--大伴親王(後來他登基之後大伴氏就改名為伴氏),以便繼續拖時間。沒多久,坂上突然在盛年驟逝,毒殺謠言滿天飛(冬嗣??)。接著乳母毒殺事件不知為何又有其實是高津王妃下手的謠言,高津王妃最後盡自縊。於是主角嘉智子就因此順利成為皇后。嵯峨天皇夫妻終於安定下來,可以不用再偽裝自己,便將朝政都交給臣子,自己專心風花雪月(三筆:嵯峨天皇,空海,逸勢),在神泉苑和這兩個惡友把酒言歡。京都周邊都被貴族寺廟佔據,空海便要求高野山一帶地,可以盡情擴張。

    然而後來嵯峨天皇決定要讓位之後,已有皇太弟大伴親王,嘉智子一心想讓自己寵愛的兒子正良親王即位,只好又和冬嗣(這人根本就跟天翔記裡的算盤暗殺部隊一樣好用)商量。冬嗣先反對讓位,說現在國庫無法承擔兩上皇一天皇的支出。再者,皇太弟有兇悍的妻子高志王妃(和嵯峨天皇同父同母)鞭策那膽小的丈夫一定要達成自己兒子繼位的目標。於是,阿保親王登場,高志王妃去探平城上皇的病之後突然淹死在菱池裡(平城病重也隨之撒手人寰)。接下來讓位劇登場,嘉智子的表現令我震驚。皇太弟大伴親王感到生命危險,對於(被迫出來演戲)辭讓立太子的正良親王還是立他,而嘉智子說登基時還是要有皇后,馬上把自己親生的正子(兩人差25歲)硬塞給大伴親王立后,順便把藤原順子和正良親王聯姻,嵯峨天皇寵愛的潔姬則嫁給藤原良房,北家和嘉智子的關係更加堅如磐石。大伴親王登基為淳和天皇。嘉智子此舉,讓一直寵愛正子的逸勢決定公開和她開戰。

    淳和天皇的兒子、高智王妃所生之恒世親王,成為正良親王的障礙,嘉智子只好再找冬嗣商量。此時他雖然已經因病奄奄一息,但是還是安排鴻門宴,恒世親王就被毒酒毒死(路過吵著要喝酒的嘉智子三女俊子內親王也一起被毒殺了)。後來,淳和天皇現皇后正子內親王生下了恒貞親王(小野篁負責教育他,嘉智子一派把他拔掉,希望他屬己方),當然想希望兒子之後繼承王位,便強硬把其立為太子。然而仁明帝正良親王和順子間也生下道康親王,嘉智子非常偏愛道康,於是免不了和女兒公然開戰。這期間發生遣唐使事件, 小野篁因為拒絕換船並無執行任務上皇震怒被流放的事件。

    淳和帝病危,叫仁明天皇來病塌前要求他發誓不會廢皇太子恒貞親王。沒想到嘉智子(雖然事前逸勢已經警告過她)一方已經發動戰鬥,阿保親王(之前因為高志王妃溺水事件後仕途春風得意,四個兒子也分別賜姓在原,其中就有業平)又先來檢舉恆貞親王意圖謀反,是為承和之變。一黨皆被肅清,北家(良房是不輸給父親的狠角色)對手幾乎都趁此機會被拔掉,伴氏從此一蹶不振。逸勢也被廢姓,死在流放途中,小野篁去途中探望他,他把嘉智子的那條帶子交給小野,要他傳話說自己也成為森林中那個老人了(爺爺橘奈良麿)((後來阿保親王也猝逝,眾人傳說是他的怨靈)。後來道康順利成為皇太子(日後為文德帝,娶了良房和潔姬的女兒藤原明子生下惟仁親王,才剛滿九個月馬上在藤原家的壓力下臂力為太子,即日後清和帝。從此以後攝關家的時代正式來臨了)。嘉智子晚年感到相當空虛,雖然替橘奈良麿洗刷冤屈並追封太政大臣,在人生的戰場上也可說是戰勝者,但她依然覺得不知為何而戰。她發願建檀林寺,唐僧義空告訴她四大元空,唯有把握活著的每一刻;生命對每個人都是平等的九相觀。嘉智子也因此徹悟,並且希望風葬。以前所在乎的丈夫也已經日隔漸久,曾經如此關心的兒子仁明帝也不再那麼煩擾。仁明帝先他而去,嘉智子隨後也在六十五歲撒手人寰。

    附帶一提,恆貞親王出家日後成為嵯峨大覚寺初祖。

    **
    讀完下卷之後,終於發現其實前面感到結構太鬆散的地方都有理由,因此評價也隨著提高,這部作品寫得真的比王朝序曲更好。總結而言,是部還算不錯的作品。不過實在太過血腥(每一段的心理描寫其實挖掘下去都會很可怕,例如藥子,或者正子的母女相剋),或許如果要寫很深就會沒完沒了。嘉智子本人的塑型並沒有特別突出或具有強大魅力,略嫌可惜。不過顯然嵯峨帝登基之後並未如王朝序曲所說沒有死傷和死刑,雖然沒有桓武朝般公然的血腥,但是怨靈傳說(北家很徹底地利用這個手段)、謠言中傷與惡意、暗殺還是滿天飛,無怪乎現實社會比花系列更奇。而平安京(長岡京也是)的開創,就是建立在這種陰謀、暗殺、血腥、血族相剋的時代,更糟的是不斷出現疫病和荒作,鴨川和風葬野滿屍體(其中平城上皇要去奈良處那段,還動員很多人先去鴨川清屍體,因為太多無法清只好先堆到堤防下看不到的地方)。平安中期我也不清楚,但是晚期平家物語裡面的都城也是這樣。這個都城的起源充滿血腥和屍臭,但是在漫長的歷史卻孕育出洗鍊的文化。光越強,影越深,這確實是偉大的城市的象徵。星期日經過鴨川柔美依舊,河原曾經是這個城市的暗部,現在則是居民和觀光客散步道,承平豐饒之世,彷彿這裡不曾有任何眼淚,然而眼淚或許比江水更甚。

  • レビュー、一応「上」に書いた。
    三田さん、永井先生、杉本さん一気に読んでみたけれど、
    永井先生のが読みやすくてわたくし的にはしっくりしました。
    実はこの「檀林皇后私譜上・下巻 」は3度目。

  • (上)では純情な少女に見えた嘉智子が、知らぬ間に陰謀事件の中枢に。 守るべき子ができたとき、人は変わるのだろうか。。

  • ここらへんの少し前の時代(藤原氏関係)を知ってるとよりいっそう楽しめるかもとおもいます

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著者プロフィール

杉本苑子

大正十四(一九二五)年、東京に生まれる。昭和二十四年、文化学院文科を卒業。昭和二十七年より吉川英治に師事する。昭和三十八年、『孤愁の岸』で第四十八回直木賞を受賞。昭和五十三年『滝沢馬琴』で第十二回吉川英治文学賞、昭和六十一年『穢土荘厳』で第二十五回女流文学賞を受賞。平成十四年、菊池寛賞を受賞、文化勲章を受勲。そのほかの著書に『埋み火』『散華』『悲華水滸伝』などがある。平成二十九(二〇一七)年没。

「2021年 『竹ノ御所鞠子』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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