- Amazon.co.jp ・本 (232ページ)
- / ISBN・EAN: 9784122024137
感想・レビュー・書評
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谷崎潤一郎の、どんどん進む「日本の西洋化」に対する「(自らも言っているが)愚痴」の吐露エッセイである。
曰く(Audibleで聞いているので、原文の儘ではない)。
厠は、母屋から離れた少し薄暗く静かで清潔な、あの空間だから風情があり、落ち着くのである。
曰く。
暖房はストーブはどうしても風情がない。やっと「電気炭火」を入れて落ち着いた。
曰く。
西洋の電化製品をもし日本独自の発達をもって作ったならば、あんなやかましい音は立てさせないだろう。屋根も西洋建築のように採光を工夫するのではなく、瓦と梁とで演出する「闇」の中にこそ、その建築の粋があるだろう。
曰く。
漆器は、燭台や蝋燭のもとでこそその美しさが映えるように作られている。刺し身などの食べ物も、電灯のもとでは美味しく見えないように調理されているのである。
曰く。
座敷の仄暗さは、障子からの採光をもとに作られている。そのための砂壁である。この部屋でこそ、屏風絵や掛け軸が生きるようになる。
曰く。
この違いは、西洋人と日本の気質の違いからきているのだろう。西洋人は黒人の血は1/36でも気にしている。絶対の透明な白を追求する。‥‥白衣を真っ白なものにするのも如何なものか。もっと肌あいに近いものにすれば、とか筆ペンみたいなものを作れば良いのに、とか言っているのは、その後一部実現したのだから、谷崎さんの愚痴もなかなか無視出来ないところもある。
等々、等々、(私のメモは正確ではないことをことわった上で)印象を述べるならば、
audibleで聴くと、なんと聴きやすいことか!著者は漢文と古文の素養があるために難しいという人もいるかもしれないが、耳で聴くとほんと優しい文章を書く。
聴き終わって、いつ頃の文章なのかと想像した。電車に乗りながら、家々の電灯景色を見ているし、ストーブや電化製品をかなり嫌っていることから、戦後だろう。家を新調したのだから、ある程度文豪として落ち着いた晩年の1960年代だろうか、と想像していた。
1933年だそうだ。真からびっくりした。
30年代も、60年代も、古き良き日本を懐かしむ風潮は、全く同じなのだ。流石に今はもう、谷崎老の言ってることは通用しないよ、と言おうとしたけど、この文章が90年前に書かれたことを考えると、通用しているところを幾つか探すことは、日本文化にとっては貴重なことなのかもしれない。
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陰翳という光と影をテーマに日本文化の再評価をしたもので、なるほどぉ~! と思えるところもあって興味深いです。面白おかしく笑えるところもあって軽快。また、エッセイなので作者の考え方がよくよく出ていてわかりやすい。かなり放埓なところはあるけど。
ただ、再読してみても古い文士だな~という印象は学生のころから変わらず。文学作品のほうも再読してみようかな~と思いつつ、ここは何度も楽しんでいる漱石とはちがって、いまひとつモチベーションが上がらない。残念ながら私にはあまり合わないのかもしれない。 -
陰翳をめぐる東洋と西洋の文化の違いをえぐった本。「陰翳礼賛」以外も似た切り口なので、ものごとを捉える時の洋の東西の枠組みの参照としても有益だろう。
陰翳礼賛で谷崎が説く内容にはおおむね賛同する。見えないものに価値、美しさ、時に畏れを見出す姿勢は確かに我々の内部にはある。
だが、彼も触れているように私の体験としてもヨーロッパの街の夜やホテルの照明は日本やアメリカよりも薄暗く、暗すぎて仕事ができないこともあった。青い目の白人は高緯度に住み、太陽の照度が日本よりも弱く、瞳の色が薄いので強烈な明かりは受け入れられないといわれる。そうなると谷崎の主張と入れ替わるように思うのだが、真相を誰か教えてくれないだろうか。
それはさておき、印象的だった箇所をひとつ。
P65
私は、我々が既に失いつつある陰影の世界を、せめて文学の領域へでも呼び返してみたい。文学と言う殿堂の檐を深くし、壁を暗くし、見えすぎるものを闇に押し込め、無用の室内装飾を剥ぎ取ってみたい。それも軒並みとは言わない、一軒ぐらいそういう家があってもよかろう。まぁどういう工合になるか、試しに電燈を消してみることだ。
なお、「客ぎらい」「旅のいろいろ」「厠のいろいろ」も面白く読めた。谷崎の便所のこだわりに納得しつつ、彼が困惑したエピソードなどにはクスッと笑ってしまう箇所もあった。便も陰影の中で見えないことが美しいようだ。
こちらも一箇所だけ抜粋。
P199
それに、そう云うとおかしいが、便所の匂には神経を鎮静させる効果があるのではないかと思う。便所が瞑想に適する場所であることは、人のよく知る通りであるが、近頃の水洗式の便所では、どうもそれが思うようにいかない。と云うのは、他にもいろいろ原因があるに違いないが、水洗式だと、清潔一方になってしまって、草風氏のいわゆる上品な匂、都雅の匂いのしないことが、大いに関係しているのであろう。 -
陰翳にこそ美の真髄があるとする、日本古来の美意識について述べられた本作は、日本という特異な文化的背景の中で醸成された精神世界や実生活の様式に対する深い考察のもとに著され、文学界隈のみならず例えばデザインの世界などでもときにバイブルのように評されることも多い、日本文学の金字塔のひとつである。
たしかに、私は日本人の一人として、本書で述べられるような日本的あるいは東洋的な美的感覚、美意識は価値をつけ難いほどに尊いと思うし、谷崎がこれをしたためた当時よりもさらに時代がくだって完全に西洋文明に取って代わられた現代日本の生活社会の中に置かれて、このような日本的な美がすっかり見えなくなった現状に、やはり寂しさや残念さを感じないわけにはいかない。
しかし私が何に残念さを感じるかといえば、たとえば建築であったり服飾であったり日用品であったりに日本的な美が反映されていることがほとんどないという現実に対してではなく、それを裏打ちする、谷崎が指摘するような奥床しい精神世界がほぼ失せていることに対して、である。そして、そういう感覚=センスが皆無であるばかりか、そういうことに思いが到る遥か前段階の知能と経験値しか持ち合わせていない人間に限って、日本人は他の民族より優れていて高尚だとか、これは日本人にしかできないことだとか、誤りも甚だしい無知蒙昧な論拠で『陰翳礼讃』的言説を持ち出してきて、虚構の民族主義、もとい人種差別主義を掲げていて、恥ずかしい限りである。Twitterなどで日本国旗をアイコンにしているようやつほどその手の痛い手合いで、人を傷つけるような「日本人的美意識」に反することばかりに日々邁進しているいわゆるネトウヨという有様なのだから矛盾も甚だしく閉口する。
少なくともSNSというメディアには、陰翳を礼讃するような精神世界が入り込む余地は全くないし、SNSと切っても切り離せない今の世の中で、『陰翳礼讃』を正しく解することのできる読者は少ないであろう。正しく理解されないのなら谷崎にとっても不本意であろうし、誤った思想に利用されかねないので、本作は現代人にはあまり読まれない方が良いのではないかとさえ思ったりもする。
しかし、谷崎は、当時ですでに失われかけていた陰翳を文学によって呼び戻した。現代に生きる我々に、陰翳を呼び戻す手段があるとすれば、それは文学ももちろん含めたアートでありデザインではないか。鑑賞力のある人間は現代にも少なからずいる。実生活の具象としてではなく、人々の心の中に、美しき陰翳が呼び戻されることを願ってやまない。 -
陰影への礼賛から始まり、世界でみた東西、日本でみた東西の比較だったりの話もあり。持論のエッセイかと。タイトルでの陰影礼賛では陰の奥深さが美しい文章で語られるので情景がしっかり想像できるので読んでいて楽しい。あと、難しい漢字が多く、読了まで思ったより時間がかかった。
だがとても良い一冊だったので谷崎潤一郎の他の書籍にも興味を持ちました。 -
…美と云うものは常に生活の実際から発達するもので、暗い部屋に住むことを余儀なくされた我々の先祖は、いつしか陰翳のうちに美を発見し、やがては美の目的に添うように陰翳を利用するに至った。
人はあの冷たく滑らかなものを口中にふくむ時、あたかも室内の暗闇が一箇の甘い塊になって舌の先で解けるのを感じ、ほんとうはそう旨くない羊羹でも、味に異様な深みが添わるように思う。
たとえば金銀螺鈿の蒔絵。白々とした照明のしたですべてを露わにして見るときと、闇の中に沈み、蝋燭の灯りに蒔絵が揺らめき、ひそやかな輝きが見えるときを想像するとする。
たとえば羊羹。室内の薄暗がりを懲り固めたような四角い菓子の、ひんやりとした切り口が、障子越しのしろいひかりをちらちらと反射する様子を思い出す。
白日の下に、または燦燦とした陽光のもとに、あっけらかんとすべてを照らしだす西洋。対して蝋燭や行燈、障子ごしのかげりにうかびあがる日本。
西洋との本質的な相違を見つめ、日本的な美の本質に迫るエッセイ集。解説は吉行淳之介。
西洋の感覚と日本の感覚、その美しさを感じつつ本質の違いをつらつらと流麗に挙げていく谷崎の日本語の語彙力。現代人の浅学なわたしにはその文章にさえ、ぞっとするようなうつくしさをかんじてしまう。
彼の目から見た日本とは、世情とは、ほんとうにどういったものだったろう。もっともっと。その作品を深く追いたい作家のひとりである。 -
大好きで、幾度も読み直したり、部分的にページを捲った本の1つ。
当時、男女の濃厚な情愛のイメージしかなかった私にとって、陰翳礼讃は驚きと共に、谷崎潤一郎の表現力を改めて思い知らされる1冊となった。
例えば和紙。例えば障子ごしの光。
日本ならではの「仄暗い」からこその美しさを、西洋と比べながら語り尽くす。
情景を表す言葉は巧みで、彼の言わんとする美がよく伝わってくる。
だが、そこまで言うかと思ってしまうほど、痛烈に西洋のそれを引き合いに出すものだから、苦笑いしてしまう。
そこも楽しいのだけれど。
文庫の半ば、恋愛及び色情の章では、今それ言ったら炎上しそうな発言もあるが、逆に、時代の流れ、世の中の移り変わりを冷静に感じながら読み進めて頂きたい。
谷崎の纏わりつくような色気の表現は、こういう目線と感性から生まれたのだ。
どこまでも興味深い。
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影や闇の美しさを描く、谷崎潤一郎の随筆。
人生で何度も引っ越しをし、住むところにこだわった谷崎氏だからこそ書けたのではという感じがします。
安全面のこともありますが、日本は少し明るすぎ、とずっと思っていましたが昔からのようですね。ですが、それでも現代からみると、当時はさぞ風情ある景色が残っていたことでしょう。
羊羹は普段あまり食べないのですが、薄暗い部屋で、この本を思い返しながら食べたら、きっとひんやりと官能的で、すごくおいしく感じそうです。 -
都会に住んでいるので否応なく夜中でも明かりが目に入る。
こういう生活をしていると明るさに慣れっこになって、真の暗闇とか陰翳の深みというものを知らずに生活してしまいがち。
ただ「陰翳礼讃」を読んでみると、なるほどと思うものがいくつもあった。
日本家屋の障子や床の間の役割とか、絵巻物は薄暗がりの中で眺めるものだとか。
きっと現代の生活(=明るさ)に慣れている人間の中にも、陰翳を好む心がどこかに生きているのだろうな。
いちばんおもしろかったのは、「客ぎらい」。
猫のしっぽが欲しいだなんて、谷崎さんかわいすぎる。
こんな一面もあったのね。 -
日本の文化は翳があるからこそ際立つ。常に今を良しとせず違うところを目指す西洋文化は翳を嫌う。だからトイレも照明も白くてぴかぴかだ。女性だってそう。顔と指があれば良い日本の女性。一見白くて魅力的な西洋女性は触れてみればぶよぶよしていて、うぶ毛があって美しくはない。日本の美を愛し、それ故に今言えば若干問題になりそうな西洋への発言もどこか清々しく。便利を追求する昨今。私もトイレは白く清潔で明るくあって欲しいですが、それ以外はもう少し日本の美を再認識するべきなんだろうと思いました。日本の美を愛する優しい文章でした。