ものぐさ精神分析 (中公文庫 き 3-3)

著者 :
  • 中央公論新社
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  • Amazon.co.jp ・本 (429ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784122025189

作品紹介・あらすじ

人間は本能のこわれた動物である-。人間存在の幻想性にするどく迫り、性から歴史まで文化の諸相を縦横に論じる、注目の岸田心理学の精髄。

感想・レビュー・書評

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  • 「常識」から外れている気がするから口には出せない自分だけが感じている違和感とか、みんなが「あるある!」とか「わかるー」とか言いながら共感しあっていることがイマイチ腑に落ちないことってあると思う。その違和感を私的幻想、みんなの共通認識を共同幻想として説明したのが本書。
    人間は本能が壊れた動物で現実世界との接触を本能に従って構築していくことができないからこそ幻想に理想を仮託して、社会を作ることを強いられた。
    私的幻想と共同幻想の一致度が極度に低い状態が神経症なのであって、真人間とされている人間も私的幻想と共同幻想の一致度が高いだけ。両者とも幻想を抱えている点で程度問題でしかない。

    性愛、恋愛、自己嫌悪についての章がなるほどと唸らされた。

    結婚詐欺師的に若くして望まぬ相手と結婚した男が成り行きで一生を添い遂げる。一方で一生の愛を誓った相手を二、三年で気持ちが冷めて捨てる。筆者は前者の方が圧倒的に立派な夫だと看破する。曰く、恋愛とはお互いがお互いを愛しているという幻想をよりうまく抱き続けることであると。なんとも現代的というか物寂しくもある解釈ではあるがまあ要はお互いがお互いの幻想を擦り合わせようと歩み寄る努力抜きにして関係は続かないよねっていう話。

    自己嫌悪は自分のことを自分で蔑む自己の裏側にもっと良くなれるはずだというまだ見ぬ到達点への憧憬がある。自己嫌悪をする人は自分の弱点を客観視しているようでいて、理想の自分を想定していることに気づかない傲慢な人間だと切り捨てる。

    目が覚めるような読書体験でした。フロイトのエス、自我、超自我の話も含めて、興味の範囲が広がって嬉しい。

  • 『ものぐさ精神分析』 岸田秀

    一言で言えば、数多の常識を覆されたシビれる名著。

    ・日本社会は精神分裂症

    精神分裂症は、外的自己と内的自己の分裂に起因するアイデンティティ不安である。
    発端は、外界との適応にある。外界への適応はもっぱら外的自己に任され、外的自己は他者の意志に服従し、一応の適応の役目は果たすが、当人の内的な感情・欲求・判断と切り離されたますます無意味な生気のないものとなる。一方、内的自己は外的自己を偽りの自己とみなし、外的自己が行うことに感情的に関与しなくなり、あたかも他者の行動を眺めるように距離を置いて冷静に突き放してそれを観察しようとする。内的自己のみが真の自己とされるが、内的自己は外的現実及び他者と切り離され、遊離しているため、ますます非現実的となり、純化され、美化され、妄想的になっていく。こうして、内的自己と外的自己は引き離され、当人の自己同一性は彷徨う。内的自己に従ってはその非現実性から不安に駆られ、外的自己に従っては屈辱を感じ、後悔する。外的自己と内的自己の分裂が悪循環的に進行し、外的自己が内的自己にとって耐えがたく重苦しい圧迫となって限界に達すると、内的自己はその圧迫を押しのけて表出する。表出した内的自己は、純化され、その非現実性が極大化しているため、他者には理解不能な発狂や異常行動に現れる。
     江戸時代末期、開国という外界の脅威にさらされた日本は、それに適応する外的自己と内的自己への分裂症状を引き起こす。開国派と尊王攘夷派がそれにあたる。日本という国は、外界に迎合する開国派と、鎖国に固執し、外敵との交渉を拒否する尊王攘夷派に分裂した。結果として、日本は開国派の勝利という形で開国し、不平等条約を結ぶ形で外界に解放される。しかし、抑圧された内的自己は、その後の日本近代史の中で、形を変えて姿を見せる。内的自己の最たるものは、吉田松陰であり、その美化された精神性や純度を増した誇大妄想的な理想論は、ある時は日米開戦という非現実的な選択(もはや発狂ともいえる)として現れる。抑圧されたものは必ず回帰する。そしてそれはトラウマとして、当人には意識されずに表出する。

    ・性の倒錯とタブー

    性のタブー(近親相姦)をフロイトとは異なる観点で語っている点が面白い。
     人間の性生活はまず、不能者として始まる。この生物学的な人間の特異性が性のタブーを形成する。人間が初めて性欲を持った時に、おのれの不能に直面し、無力感と劣等感に打ちひしがれるが、これらを処理するために、むしろその不能を自分の内的な原因に求めず、外的な禁止として認識する努力により、成り立つ。性欲を持った瞬間に、周囲の女性(親族)と性交できないことへの不能感を、社会的な禁忌に都合よく勘違いすることで、その後もタブーを守り続ける。こうして、正常な性行為をもって解消されずに抑圧された性衝動は、別の形を持って現れる。それが性倒錯である。そして、性倒錯者として第一次性徴を越え、身体の発達が性衝動に追いついてくると、性衝動は社会的に正解とされる正常な性行為に還元され、性倒錯は減少していく。しかし、この過程で性衝動の対象物の移行に失敗すると、その人間が性倒錯者的な趣向を捨てきることができない。つまり、身体的に不能な時に性の対象物として認識したもの以外では、不能となる。

    ・恋愛論

    個人というものはさまざまな私的幻想をもつ存在であるが、他者との関係を構築するにあたり、二人の各々の私的幻想を部分的にせよ吸収し、共同化しうる共同幻想がなければならない。その共同幻想に、各々の私的幻想の延長を見て、その私的幻想を従属させるとき、はじめて二人の間に関係が成り立つ。これらは、二人に限らず、複数人であれ同じである。未だ多くの人間が持つ共同幻想は「神」であり、「国家」であり、「家族」である。その最小単位としての共同幻想が「恋愛」であると定義する。ご存じの通り、神も国家も、おそらくは家族も幻想であり、一つの形式である。我々は、いくら科学によって神の存在が打ち砕かれようとも、国家は想像の共同体であるとベネディクト・アンダーソンが言おうとも、これらの形式を使い続ける。形式を使い続けるというその決断の先に、幻想は現実的機能を持つ。こうした幻想の数々は、貨幣や法律など、挙げればキリがないが、恋愛もやはり共同幻想である限りにおいて、形式の使用をめぐる決断に立脚している。そして、同じ共同幻想を信じている時、それらの人々はその基準においては平等であり、同レベルである。特に恋愛の様な成員が二人しかいない共同幻想においては、レベルは均質化される。夫が妻の悪口を言うとき、それは夫による自己の欠点の表出に過ぎない。


    ・時間と空間の起源

    これほどまでに、胸を躍らされた文章はない。
    「時間は悔恨に発し、空間は屈辱に発する。時間と空間を両軸とする我々の世界像は、我々の悔恨と屈辱に支えられている」
    名文である。
     無意識において、時間が存在しないことをフロイトは発見した、無意識では一切矛盾がなく、抑圧がなく、全てが可能であり、空間も障壁もない。意識において、はじめて時間があらわれる。人間が時間を知り、歴史を持つようになったのは、抑圧する動物だからである。
    人間以外の動物の本能は現実に密着しており、本能の満足は個体保存または種族保存の為に絶対に必要不可欠であって、逆に言えば、動物はそのように必要不可欠な本能しか持ち合わせていない。人間は、本能と現実が分離している。だからそこに抑圧が発生する。そして、抑圧するかしないかはいわば決断の問題であって、ある欲望を抑圧したとき、つねにその欲望を抑圧せずに満足させることができたかもしれない可能性はあったのである。ここから悔恨が存在する。この悔恨がわれ笑の関心を満足されなかった欲望に縛り付ける。そして我々はその欲望を抑圧した時点を過去と設定し、その過去と、それと異なる時点としての現在、つまりその欲望を満足させることが出来たかもしれないチャンスを失ってしまった時点としての現在との間に時間というものを構成した。実際、あらゆる欲望が満足されているならば、どうして過去と現在を区別できようか。
     人間はアナクロニズム的な存在である。それゆえに、時間を発明したのである。満足されなかった欲望を媒介として過去が絶えず現在に割り込んでくる故に、現在と、現在の中に割り込んできた過去とを区別する必要があるのである。時間を秒単位で分節化するのは、過去に侵食されることを恐れ、過去のある時点はあくまで過去であって現在ではないことを確認しようとする強迫神経症的症状のように思える。過去が過去として充足し、現在が現在として充足しているのであれば、そこに時間が入り込む隙間はない。われわれは、常に過去にくぎ付けになっており、過去をもう一度やり直したがっており、そして、過去をもう一度やり直すチャンスが得られるかもしれない時点として、過去から現在へと流れる線の延長線上に未来という時点を設定したのである。未来とは、修正されるであろう過去である。死を言い渡された人間の絶望は、過去の修正可能性を失ったことによる絶望である。死の恐怖を知るのは、抑圧する動物たる人間のみである。
     浦島太郎は、無意識と意識の話である。海は羊水のメタファーであり、竜宮城は子宮である。浦島が時間を知るのは乙姫の願いを振り切って現実の世界に戻り、言いつけを守らず玉手箱を開けたときである。玉手箱は乙姫の性器のシンボルである。浦島は竜宮城にいないのに、乙姫を性的に求めたのであり、その挫折を内包した欲望を持った時、浦島は時間の中に組み込まれたのであった。
     記憶とは、想像力の一形態である。我々が生まれてから何年かの記憶がないのは、それが抑圧をしらない時期であったからである。抑圧を知るとき、人は時間の中に組み込まれ、想像力を持って過去を憂う。
     時間は想像力における発明であるゆえに、ある時点における行為は、一つの絶対的な事実であり、別の時点におけるいかなる行為との間で等式が成り立たない。江戸の敵を長崎で討つことはできない。復讐が過剰になりがちなのも、恩返しに限界がないのも、過去と現在、そして未来の行為すべてが絶対的事実であるゆえに、埋め合わせが不可能であるからである。
     空間の起源も同じである。子宮内の生活において、空間も存在していない。幼児が自分の身体を足掛かりに自己と自己以外を区別し始めるまで、人間あ全能であり、そこに空間の別はない。かつては自己の一部であって、自己ならざるものになるのは、排泄物である。それまで排泄物を平気でいじっていた幼児が、初めて排泄物を汚いと感じるのは、それが絶えず生み出される、いや自分が生み出してまう自己ならざる不快な存在であると気づくからである。自己ならざるものに自己が侵されていく屈辱を超克するために、自己ならざるもの
    に転化していったもろもろの対象を閉じ込める為の容器として、空間を発明する。
     少しでも遠くに、少しで早く、人類が空間の征服に賭ける途方もない情熱は、自己ならざるものとして存在する空間への不快感と、それに打ち勝つことが出来なかった屈辱への復讐の欲望である。

     かくして、時間と空間の起源は、悔恨と屈辱なのであり、人間が抑圧する動物である限り、不満足の存在として生き続ける。

  • 父の本棚にあったのを覚えていて、なんとなく手に取りました。正直言って2022年に何かの資料とかでもなくこの本を読んでも世の中が変わりすぎて意味ないのかなあとかんじました。出だしのつかみだけ立派で後半がぼやける感じの編集もあいまって、もやもやしたまま読書を終えました。私の読解力の問題かもしれません、、。
    でも、きっとこの本が出た頃の若者、特に男性はデートで自慢げにこの本の内容を女性にふいてたんだろーかと、、妄想し、胸糞悪いので感想を書いてみました。

  • 読んだ後、ものの見方が根本から変わった。私のバイブル。

  • 問題なのは、経験にどういう意味を付与するか

    文化は進化の代用品
    (進化は決断と実行によっておこる)

    未来とは修正されるであろう過去である

    人間の欲望は過去の状態の再現を求める

    言語はイメージを基盤として成り立っている

    抑圧されて無意識に追いやられた観念は決して消滅せず、絶えずふたたび意識に入ろうとし続ける。
    抑圧されたものが偽装されて回り道をして表現される

    外的自己が内的自己のありのままの自己表現であり、かつ内的自己が外的自己の行動を主体的意志に発し、自分が決定でき、自分の責任ある行動であると実感してこそ、人格の統一、自己同一性は保たれる

    外的自己から切り離された内的自己は現実感覚が不足する

    個人の人格は、個人が直面した状況に内在する矛盾(葛藤)を解決するために人格体制をつくりあげ、またその人格体制そのものが矛盾をはらみ、さらにその矛盾を解決するためにまた別の人格体制を築く、という風に弁証法的にはったつしていく

    自己嫌悪は一種の免罪符である。
    自己嫌悪をもっているかぎり、その「欠点」「悪癖」は治らない
    過去の再発を防止するどころか促進する
    自己嫌悪とは、自己自身に対する偽善である

    自分のある面を嫌悪するのは、はるかにもっと嫌悪すべきものを隠すため
    →本当に向き合って改善すべきことが他にある

  • 幕末~昭和にかけての日本人の精神文化史を、
    ひとりの精神分裂病患者の病歴にたとえて説いた名著。

    頭が良い人というのは、
    時代性や地域性やサイズ感にとらわれず、柔軟に、
    発想を飛び回らせて、複数の事例を並べたり掛け合わせたりしながら、
    現象・ものごとの本質を浮かび上がらせることが出来るんだなぁと感嘆。

    Aという国と、Bという国の歴史であったり、
    古代の出来事と、近代の出来事であったり、
    一人の人間の問題と、国家全体の問題であったり。

    自由を獲得した知性というものは、すごいねぇ。

  • ネットでは「上から目線でものをいう」のが、評判が悪い。
    そういう物言いが、よく叩かれ炎上し、自分もそういう意見を読むと、腹が立つことがある。
    しかし、「上から目線でものを言う」ことが、不快であって「上から目線」で、ものを見るのが悪いわけではない。
    「上から目線」を「俯瞰して見る目線」と言い換えた方がいいかもしれない。「俯瞰して見る目線」がないと、視界や考え方が狭くなってしまう。
    この「ものぐさ精神分析」を読むことで、「俯瞰して見る目線」でのものの見方の練習になるだろう。考え方が狭くなっていると思っている人にぜひ読んでほしい。

  • 桃尻娘の玲奈ちゃんは早稲田で心理学の講座をとろうかと考える。岸田秀さんのファンなのだと。僕は岸田さんの本を読んだことが無かったので、これを機会に。
    あの戦争の原因は何だったのかと、保坂正康さんや半藤一利さんの本を幾つか読んだが、あの時代の狂気の理由は納得できなかった。
    本著の日本人は精神分裂病を発病していたという説は、歴史事実を見れば説得力ある。だけど、日本人全体が精神分裂なんてことあるのかと疑問が湧く。そう思ったのは僕の理解不足。
    共同幻想は私的幻想の最大公約数ではない。私的幻想を共同化することで人は個人となりえる。共同幻想は個人と同じ病理を持つ。黒船襲来以来の外的自己と抑圧された内的自己が精神分裂を起こしてしまった。なるほど。吉本隆明の共同幻想論は昔読んだが、理解してなかったんだなあ。

    人間は共同幻想が無いと生きていけないが、この共同幻想を憎んでいる。愛しい人の命や大切なものを失うことになっても戦争を起こそうとする。栗本慎一郎のパンツをはいたサルを思い出した。そうした社会学や哲学のの基礎に繋がる論証が沢山。エロスについても、多くの記述。ちょっと偽悪的というか、ワザとあからさまにした言い方があり、これが著者の特徴かな。
    最終章の「わたしの原点」がこれらの理論が著者自身の苦闘から生み出されたことを語っている。いや〜。凄かった。

  • どのテーマでも基本的には同じ事が書かれている。幼態成熟の結果、人間の本能はずれてしまい私的幻想のイメージを介してしか外界に接触できず、そのイメージを言語で記述し、個体保存と共に各人のナルシシズムを吸収したものが文化として生み出され、我々は共同幻想の世界に生きている。衝動も欲望も本能とは違い、一度断念し抑圧された過去の本能の対象がイメージとして形成され、その復元を求めるものである。我々のイメージを到達し得ない現実に限りなく近づけようという意志と個体保存の本能が文化を形成している。

    他者の協力なくして個体保存もありえない、その為に互恵的利他行動をスムーズに行う媒介として言語が発達した、とかは書かれてない。

  • いやーこれまたいい本ですね。
    昭和51年だから。。50年くらい前?

    まずは「歴史」
    「抑圧って消えずに戻ってくんじゃん?教室を追い出された学生が力ずくで戻ろうとしたり擬装して戻ろうとしたり」と謎切り口で始まる。集団は1人の人間として分析出来るから擬人化とかじゃなくて人間と同じにやってくよーと。ペリー来航で日本人は精神分裂になっちゃった。外と内が完全に別れてコントロール不可になったの。尊王攘夷、征韓、ほらね。みたいな。
    特に「韓国を征服することは自分を白人側に置くこと」はなんか分かる。女装が言うことって自分が男としてやりたいことだらけで女性に対する配慮ゼロなんだよね。(何の話だっけ)
    冒頭70ページは怒涛の勢いで日本近代を、吉田松陰を、国家を、太平洋戦争を精神分析していく。
    んで「歴史」の中の最後の章では「人間は現実を見失った存在。だから幻想に生きてる。他人と部分的に幻想を共有してるだけ。でそれを現実と呼んで生活してるだけ。」とばっさり。犯罪者ってエリート兄弟に1人だけ現れる穀潰しと一緒よ。んでそいつがいなくなったら他の奴が穀潰しになんの。その正義を存続させるためにどれだけのものを取り除くかにかかってるからね。だってエリート兄弟たち、無理してんだもの。抑圧されてんだもの。だから末の穀潰しの弟の尻拭いしながら解消してんのよ。とな。で、そのエリート兄弟たちは何か神聖なものを拠り所として生きてる。そこでまた問われる。人間って何かを聖化せずに生きていけまんのん?と。
    「必要悪」とはまた違うけど、この世界は全部幻→共同幻想→心許ないから絶対的な何かが欲しい→聖化→でも何かを聖化するとそれ以外を穢れとして血祭りにあげることになる→何かを聖化せずにいられる?もし無理なら未来はあんまり良くないものじゃない?と。
    最後の章は「これって歴史の範疇かね?」って感じだけど歴史を、明治以降の日本人を、精神分析し続ける。
    途中アメリカの話に立ち寄るところもいい。
    自由平等民主っていいますけど100万のインディアン虐殺の上の話ですよね。脅迫的反復が広島長崎ベトナムの大量虐殺に繋がるのよ。父親の虐待にあった女性は同じような男に惹かれる。父親の虐待は実は愛情だったと思い込むために残酷な男に愛情を確認しようとする。が残酷は残酷のみ。
    父親に愛されていなかったことを認めなければ彼女の人生は変わらない。アメリカもそれと同じ。インディアン虐殺を認めて欺瞞と暴力で奪った土地を返さない限り、自由平等民主の幻想が偽りであったことを認めない限り今後もチャンスと口実があればどこかの民族を大量虐殺するで。と。

    「性について」
    赤ちゃんからのナルチシズムの変遷とフェティズムの分析が特におもろい。子供が肌身離さないハンカチは自己の全能性ナルチシズムの投影だと。とするとフェティズムは未熟な人格となる。
    圧倒的に男の方がフェティズムに関する犯罪も多く、男の性欲は性器を離れてると言える。
    フェティズムってブスの証だと思ってたけど根底は未熟さなのね。もう最悪じゃん。笑
    人間の性欲には身体と心のズレがあるからフロイトの言う幼児性欲は不能者だ。幼児は性欲を感じても不能であるが、タブー(近親相姦)を設けて自分の不能が原因ではなく外的禁止と考える。(酸っぱい葡萄)人間は不能者から始まる。だから口唇期があるのだ。(他の動物はいきなり性器期)
    性器を使った性行は本能なんかではなく、自然ではない。勿論倒錯も違う。そもそも人間のエロスに関して自然なものなどどこにもない。
    「人類が滅亡しないのは出産に繋がる性行為を文化とし強制出来たから。動物と人間の性行為は似て非なるもの。花と造花。発情期もなく年中可能なのは造花だから。造花だからバラの木にバラ以外のどんな花も咲く。倒錯は造花。」
    へーーーーー。こんなふうに考える人もいるのね。アインシュタインとフロイトの書簡では子供の数が減る(本能の減少)は文化によるものとして、戦争も文化でなんとかなるといいなぁとしてたけど。ここでは性行為自体を造花と切り捨ててる。ほんまかいなと思ってるところに説明は続く。「だって男らしさとか女らしさとか社会身分でしょ?あれはガッチャンコするためのもの。プラトン饗宴や似た話が世界中であるのもこの文化の合理化。おやまぁ。
    女性器に対する男の性本能は崩壊していて、女性器に対する様々な表現は全部文化だと。
    色んな女を追いかけるのは本能ではなく幻想だと。
    男の性は不能からスタートすんだから女性の抵抗に内的な不能の危険を外在化してそれを克服(女性が段々抵抗を弱める)して内的不能を克服する。と。
    えーーそうかなと思ったけど確かに女性器だけではおそらく全ての男は興奮しない。丸出しでこられても同じだな。てことはやはり本能じゃなくて文化なのか。進化心理学ではどうなんかなとか思ってたら著者もそのまま書いてる。
    「はいどうぞ!頑張って!と言えば男はたちまち萎える」そうよね。その程度のとこが本能なわけないよね。うん、そう。
    で、名言。「恋愛は芸術に比せられよう。それ自体は値打ちのない材木などの素材。美や価値はその素材のそれではない。恋愛の素材は様々な私的幻想。幼児的願望。手前勝手な期待。」
    恋愛において共同幻想のレベルが同じであることが説かれる。んで、「富岡は金でお宮を買う。が貫一が知ってるお宮を買うことは出来ない。強欲な女が本質的特性と思ってはならない。他の男には無欲な女かも知れぬ。共同幻想の質とレベルが関係の質とレベルを決める。」
    だから相手の男(女)の悪口って自分自身の悪口なんだ。。。。

    「人間について」
    時間は悔恨に発し空間は屈辱に発する。
    は?となるとすぐに説明してくれる。
    だって全て思い通りだったら過去なんてどうでもいいだろ。欲望が発生した時点を過去とする。年から秒まで分割したのは過去の侵蝕、過去は過去であるとする強迫神経症的症状だ。と。反応現場に戻る犯人と同じ。未来は仮装された過去。修正されるであろう過去。死を恐れるのは過去修正チャンスが絶たれるから。
    浦島太郎で竜宮城は子宮、陸地と竜宮城を行き来する亀は太郎のペニ◯、玉手箱は乙姫の性器、開けてはならぬ玉手箱とは竜宮城にいないのに乙姫を欲すること、ジジィになるのは場違いさを感じながらも年老いていくだけの私達とな。
    幼少期に自身の排泄物を汚い臭いと感じたときから世界はどんどん狭まっていく。だから短距離で1/1000を競うのも、エベレストに登るのも、月に行くのも、空間の屈辱への復讐快感なんだよ。
    なんだよこれ。最高じゃん。

    「心理学について」
    ここ何?愚痴?笑 急になんかテイストが違うような。。この章丸ごと全く味がしない。

    「自己について」
    幻想我(ナルチシズム)と現実我(エゴイズム)。ボロ(現)は着てても心(幻)は錦。ナルから始まってエゴに行き着く。でも厳密には一生ナルのまま。手段選ばずナルの種に手を伸ばす(親戚に有名人とか実家が旧家とか)
    この本が書かれた頃の方がまだナルを発揮するにも条件があったのかも。今やSNSを舞台にどうにでも幻想は創れるし。でもそのうち戻るかな。
    で。「ナルにとってエゴは邪魔。自殺者の何割かはこれ。三島由紀夫とか。」わかるーーーー。
    部分的自殺としての美容整形もコレのような。
    こういうのを「虚栄」と嘲笑うのもいいんだけどOnOffじゃなくて程度問題ですよね。
    どちらもあまり良くは無さそうだけど、せめてエゴイストでいたいものよ。
    ナルとエゴの関係は自己嫌悪についての分析で「真の自分」(自己嫌悪する側の幻想の自分)と「現実の自分」にそのまま引き継がれる。自己嫌悪をする人は悪癖は直らないとも。(自己嫌悪は免罪符であり恥や罪は洗い流されるし、どうせ他人への嫌悪のように徹底的には行われない。)
    「自己嫌悪はしょせん、強盗殺人犯が強盗だけを自白するようなもの。」
    「自己嫌悪は内的葛藤であり内的緊張である。その解消のために容易に他人への嫌悪に転化する」
    「汲み取り屋が差別されるのは自己の排泄行為を非自己化する」
    というわけで自己嫌悪ほど卑劣なことはないと結論づける。

    本も300ページを超えて僕好みの文章オンパレード。
    「生きづらさ」とかのベストセラーに準えて「まさか本気で言ってませんよね?」と始まり、セルフイメージとは客観的性質ではなく他者からの期待評価もしくは要求評価であると言い切る。
    僕は常々「自分なりに一所懸命やった」だの、平均値のデータがないにもかかわらず「優しい」だの「一途」だのほざく奴が嫌いで、彼らの問題は甲子園の3回戦レベル練習しかしてないのにメジャーリーグ練習レベルで話すことだと思っていたが、筆者は「本人が我慢したレベル」とする。深く納得。
    めちゃくちゃケチな人間がかなり我慢して他人を奢った場合、自己評価はその我慢に比例するだろうね。ふむふむ。
    最後は生い立ちについて。 
    その前に自作の詩を挟んでいるのでゆっくり時間を遡ってそれからまた展開する方法。
    自身の神経症や強迫観念躁鬱が母の呪縛であったこと、敗戦写真へのアレルギー克服から当時の敗戦が無知無能ではなく神経症的なものであった可能性を感じるところまで。(冒頭に戻る)

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著者プロフィール

精神分析者、エッセイスト。1933年生まれ。早稲田大学文学部心理学専修卒。和光大学名誉教授。『ものぐさ精神分析 正・続』のなかで、人間は本能の壊れた動物であり、「幻想」や「物語」に従って行動しているにすぎない、とする唯幻論を展開、注目を浴びる。著書に、『ものぐさ精神分析』(青土社)、「岸田秀コレクション」で全19冊(青土社)、『幻想の未来』(講談社学術文庫)、『二十世紀を精神分析する』(文藝春秋)など多数。

「2016年 『日本史を精神分析する』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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