- Amazon.co.jp ・本 (236ページ)
- / ISBN・EAN: 9784122025356
感想・レビュー・書評
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戦前に書かれたものであるが、その本旨については、今も納得のいくものである。
文語から、口語へ、現代仮名遣いへ以降する時代の香りというか、匂いというかが伝わってくる。
この書は、われわれ日本人が日本語の文章を書く心得を記したものである
言語は万能はものでないこと、その働きは不自由であり、時には有害なものであることを忘れてはならない
華を去り実に就く、のが文章の本旨、余計な飾り気を除いて実際に必要な言葉だけで書く
実際のことが理解されるように書こうとすれば、なるべく口語に近い文体を用いるようにし、俗語でも、新語でも、或る場合には外国語でも、何でも使うようにしなければならない。
現代の口語文では、専ら「分からせる」「理解させる」ということに重きを置く。
はっきり読者に伝わるのはできるだけ無駄を切り捨てて、不必要な言葉をはぶいているから
文章の条件には、分からせるという目的も、長く記憶させるという目的もある
黙読といっても、結局は音読している
文章を声に出して暗誦し、それがすらすら云えないようなら、読者の頭に入らない悪文である
日本語は、かならずしも、主格(主語)あるを必要としない
多く読むことも必要ですが、1つのものを繰り返し繰り返し、暗誦するぐらいできることも大切です。
文章の要素は6つある
①用語
わかりやすい語をえらぶ
使い慣れた語を使う
耳慣れた外来語や俗語を選ぶ
同義語をたくさん知る
②調子
日本語には2文をつなぐための、関係代名詞というものはない
読んでもらうために、わざとごつごつした調子で書く
③文体
④体裁
息継ぎのタイミングが、句読点を打つところ
⑤品格
言葉使いを粗略にしない
敬語や尊称をおろそかにしない
⑥含蓄
饒舌を慎む
喜怒哀楽をあまり大げさに表現しない
文章読本 完 改版
著:谷崎 潤一郎
紙版 中公文庫
目次
1 文章とは何か
〇言語と文章
〇実用的な文章と芸術的な文章
〇現代文と古典文
〇西洋の文章と日本の文章
2 文章の上達法
〇文法に囚われないこと
〇感覚を研くこと
3 文章の要素
〇文章の要素に六つあること
〇用語について
〇調子について
〇文体について
〇体裁について
〇品格について
〇含蓄について
解説 吉行淳之介
ISBN:9784122025356
出版社:中央公論新社
判型:文庫
ページ数:240ページ
定価:571円(本体)
発行年月日:1975年01月10日初版発行
発行年月日:1996年02月18日改版発行詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
昔は谷崎のいう「流麗な調子」を好んだが、今は「簡潔な調子」のほうが好き。
読むのも書くのも。
この読本の「兵語体」(であります、でありました)は、正直まどろっこしい。
読本に、礼儀深さとか慇懃な心持ちとか求めていない。
ショーペンハウアーを読んだばかりで、毒されているかも。
谷崎は、せめて女子にはやわらかい文体で書いてほしいらしい。
気持ちはわからなくもない。
夏目鏡子の「漱石の思い出」の文体は、人柄が伝わって好かった。
佐藤春夫の調子と文体がどんなものか気になる。 -
◯流れるような文章に対して、内容は理路整然と論理的に文章の書き方や、読ませ方が書かれており、新しい感覚というか、不思議な本であると感じた。
◯書き手が何を思ってその文章としたかを読み解ける視点も得られ、書くことを知ることで読むことも深められた。
◯なによりも、何か書きたくなるような、そんな心持ちになった。 -
誰にでもわかりやすく書くこと。
かつ長く記憶に残るような文章を心がけること。
しかし間隙を作り、説明しすぎてはいけない。
日本人の性質に合わせて日本語を使うという
谷崎の哲学が私は大好きだ。
文章を書くプロなら当たり前なのかもしれないが、
ルビや送り仮名にも神経を使う緻密さに驚いた。
美しい文章を書く谷崎潤一郎だからこそ大いに説得力のある本。
「陰翳礼讃」と合わせて読むとより谷崎の美学が理解できると思う。 -
日本語を好きになる本。
日本語ならではの言葉の使い方を考えさせられ、その良さと味わいを楽しめます。日本語や日本文化への愛あってこその文章だと感じました。
書かれたのはだいぶ昔だけれど、今にも通用する内容ばかりです。谷崎の時代とは生活も文化も何もかも違っているような現代なのにそう感じられるのは、とても喜ばしいと思います。
自分には古文漢文の知識がほとんどないので、是非また勉強したいという気持ちになりました。今使っている言葉をもっと大切にしていこうと思いました。 -
「日本人である以上、日本語に生得的にコミットしている」という考えてみれば当たり前のことに気づかせてくれ、文筆業である人にとっては背筋が伸びる一冊。文法や文体の各論から、日本語特有の文章の全体像まで、この薄さでこの学びは濃い。
滋味深い文章論。味わい深い。
人間が言葉を使うと同時に、言葉も人間を使うことがあるのであります。p107 -
勉強になった。
古文の授業で疑問というか、ひっかかっていたことが明らかになった。
古語は一つの言葉に意味がありすぎて、辞典を覚えるのに苦心した。そもそも言葉数が少なくて、奥ゆかしさが尊ばれていたからだった。
古文訳は主語を補うことが必要で、苦心した。言葉数を絞り敬語で表現することが美徳だったのだ。 -
無駄に修飾語をつけてしまう癖があったのでドキリとした。日本人の文化論のようなところまで踏み込んでいる。含蓄は味わえるが、書くとなれば大変だ。
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今一度文章の書き方を学ぼうと再読。
流麗な文体こそ、識字率の低い現代人の読書に耐えうるものだと思う。
気をつけたいのは、流れるような文体=緩慢な文体という単純な話でもなく、カチッとした冷たい文体のわりに気が抜け、どこか締まりのない文章も多くある。
谷崎が言う流麗と簡潔どちらも、どれだけ余分な言葉や助詞を切れるかが重要になる。
あとやっぱり調子や含蓄。
この人は音すらも文章で作り出す。 -
昭和9年(1934年)刊。後に、三島由紀夫、丸谷才一、川端康成、井上ひさしといった錚々たる文豪たちが同じ題名の本を書いているが、そのすべては本書を下敷きにしている。文章読本の総本山ともいうべき本で、さすがに格調が高い。
とにかく、例文が渋すぎる。「朦朧派」の例として、西鶴の『都のつれ夫婦』
行すゑのしらぬ浮世、うつり替るこそ変化(へんげ)のつねにおもひながら、去年もはや暮て、初霞の朝長閑に、四隣の梢も蠢(うごき)、よろづ温和にして心もいさましげなるこそ、しばらく此所(このところ)をも去て世の有様をも窺ひ猶身の修行にもせんと思ひ、さしも捨がたき窟(いはや)の中を出立(たちいで)、……
「平明派」の例として、森鴎外の『即興詩人』
忽ちフラスカアチの農家の婦人の装したる媼(おうな)ありて、我前に立ち現れぬ。その背はあやしき迄直(すぐ)なり。その顔の色の目立ちて黒く見ゆるは、頭より肩に垂れたる、長き白砂(はくさ)のためにや。膚(はだへ)の皺は繁くして、縮めたる網の如し。黒き瞳は眶(まぶち)を塡(う)めむ程なり。……
を挙げている。
他にも、(装飾過多の悪い例として)「美文体」である太平記の一節、
土墳数尺(すうせき)の草、一径涙(なんだ)尽きて愁(うれひ)未尽きず。舊臣后妃泣く泣く鼎湖(ていこ)の雲を瞻望(せんぼう)して、……
とか、(文章の「間隙」について説明するための良い例として)頼山陽の書簡文(いわゆる「候文」)、
其の後は打絶御尋も不申、平生平塚の二字横胸間居候へども打過申候、其由は御聞も可被下、又々国元へ老母迎に参り花にエイヤツト馳着、淀より直に嵐山へ参未見妻子面内に花のかほを見候、…
なんかを挙げているのだ。
こうしてみると、かつての日本語は実に芸術性が高かった。言語とは本来そういうものなのかもしれない。
これらの多様な文体は、昭和9年の時点でほとんど廃れてしまっていたが、しかし教養としてまだ読まれていたのだろう。
谷崎は、現在使われている文体は口語体のみだとした上で、それを以下の4つに分類している。
1.講義体
2.兵語体
3.口上体
4.会話体
このうち兵語体は、「〜であります」という軍隊言葉である。本書自体がこの文体で書かれているが、今読んでもほとんど違和感を感じない。しかし、現在この文体を使いこなせる人はいないだろう。
この当時はまだ、書き言葉に対してさまざまな実験を行う余地があったことが窺える。
だが、いまや日本語は「だ/である体」と「です/ます体」だけの軽薄な世界になってしまい、かつての豊穣な世界は永遠に失われてしまった。
「日本語には、西洋語にあるようなむずかしい文法と云うものはありません」とか、「日本語には明確な文法がありませんから、従ってそれを習得するのが甚だ困難なわけであります。一般に、外国人に取って日本語ほどむずかしい国語はないと云われる」、などと言われると突っ込みを入れたくなるが、それは現代的な視点に囚われているというものだ。ここでいう「文法」とは、あくまでも英語やドイツ語などのヨーロッパ諸言語の文法が念頭にあるのだから、あながち間違っているとはいえない。
本書を読むと、日本語の変遷がわかって興味深い。
例えば、「文化」「概念」「検討」「認識」「待望」といった言葉は、今は何も意識せずに使っているが、当時はまだ座りの悪い新語だったようだ。
「男女平等というのは、女を男にしてしまう意味ではない以上、また日本文には作者の性を区別する方法が備わっている以上、女の書く物には女らしい優しさが欲しいのでありまして、…(中略)…女の子が書くなら「お父様がおっしゃいました」「お母様がおっしゃいました」とあった方が、尋常に聞こえます」というような記述もある。
今や、「〜よ」「〜だわ」の類の「女言葉」は、海外ドラマの翻訳のような嘘くさいシチュエーションでしか使われないし、「〜しますの」「〜あそばせ」に至っては漫画くらいでしか見かけないが、そう遠くない最近まで、男性と女性は実際にまったく違う喋り方をしていたのだ。
いくら「感覚を磨け」と言われても、今、近松や源氏物語の文章を頭にインプットすることは容易ではないだろう。
すると、実用的な意味での「文章道の極意」とは、「一字一句をおろそかにせず、極限まで無駄を削れ」ということになるだろうか。