- Amazon.co.jp ・本 (320ページ)
- / ISBN・EAN: 9784122033986
感想・レビュー・書評
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情報の文明学
著:梅棹 忠夫
紙版
中公文庫 う 15 10
現代の情報化社会の到来を予見した書とし、文明と見なして考察を行ったものと紹介されています。
本書が書かれた1988年は Internet が誕生した年、商用化されたWindows3.0 は1990年の発売ですので、確かに情報産業が台頭しつつある時期と重なっています。ちなみに家庭用のワープロが発売されたのは、1985年で、カシオとキャノンが商品化し、50,000代でした。
タイプライターで四苦八苦していて、ワープロで簡単に修正ができるようになって、ネットワークでメールや共有ができるようになり、SNSによって、世界に拡散していく。その原点の年に本書は世にでているのである。
3部に分かれていて
1部:新聞業界から放送業界へ、第3次産業(商業、サービス)から、情報産業が分離していく
新聞人からの文化と脱却の行為を情報化と読んでいる
2部:情報と情報産業との違いや、関連を取り上げている。情報とは何かをその中で問うている
3部:コンピュータの導入は、情報産業自体に止まらず、第1次産業(農林漁業)や、第2次産業(工業)などにも、影響を及ぼし、産業全体が高度化していく
気になったのは、以下です。
・放送人の発生と成長の歴史は、ある意味では、新聞人からの分化と脱却の歴史であるといえるかもしれない
民間放送がはじまったころ、スタッフのおおくは、新聞社からやってきた
・農業から工業へ、工業から情報産業へと産業がおきかわっていくわけではありません。
そうではなくて、併存しながら、重点がうつってゆくということなのです
・現代は、あきらかに産業革命以後の工業化の波が全世界をひろくおおいつつある時代であります
・工業化イコール近代化とかんがえていた時代はもうすぎさって、今日は、脱工業化イコール近代化、現代化、あるいは未来化なのであります
・情報の蓄積ということのもっている文明史的意味をしっかりつかまえる必要がある
まあ、情報の論理ですね
情報とはいったいなんなのかということを、はっきりさせておく必要があるのですよ
・情報を入れることによって、ハードあるいはものの価値があがるということが多少わかってきた。
・情報というものは、コミュニケーションとは区別しなければなるまい
情報は、おくり手からうけ手へながされるものとはかぎらない
情報にはおくり手も、うけ手もないのだ
情報は甘えく存在する。世界そのものが、情報である
・紙は聖書を印刷するために存在したのではない
印刷の可能性が出現するとともに、ありとあらゆる、種々雑多な情報が紙のうえにのりはじめたのである
・工業の時代になっても、農業が消滅するわけではない。むしろ、工業製品としての農機具の発達、あるいは肥料、農薬などの大量生産によって、農業それ自体は、工業の時代にはいってから飛躍的にその生産量を拡大したのである
・情報産業の時代にあって、工業は消滅するどころか、ますます発展する
しかし、価値の基準は、すでに工業の時代のものとはおなじではない
・人間ー自然系、でつくりだしたシステムを生態系と名付け、それに対して、その後の人類がつくりだした
人間ー装置系、のことを文明系とよぶことはゆるされるであろう
そして人間の歴史は、生態系から文明系への進化の歴史であった
・書店の店頭では、立ち読みお断り、が原則である
店頭でよんでしまえば、本は買わなくて済む、それでは本屋はこまる
情報には、しってしまえばそれまで、という性質がある
情報を手にいれるためには、さきに金を払わなかければならない
・古典というものがある
それは数百年まえ、場合によると千年、二千年まえにつくられた情報である
情報はあたらしいものでなければならないといったが、そうなら、なぜ古典というものが存在するのか
人々はなぜ、ふるい情報をよもうとするのか。
ここに情報というものが持つ、奇妙な性質のひとつがある
・古典だけではない。現代におけるおびただしい情報は、すべて人間の歴史はじまって以来の累積物である
目次
まえがき
Ⅰ
放送人の誕生と成長
情報産業論
精神産業時代への予察
情報産業論への補論
四半世紀のながれのなかで
Ⅱ
情報産業論再説
人類の文明史的展望にたって
感覚情報の開発
『放送朝日』は死んだ
実践的情報産業論
情報経済学のすすめ
Ⅲ
情報の文明学
情報の考現学
『情報の文明学』への追記
解説
ISBN:9784122033986
出版社:中央公論新社
判型:文庫
ページ数:320ページ
定価:686円(本体)
1999年04月18日詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
梅棹忠夫氏が「情報産業論」を最初に論じられたのは1962年ですが、その後の時代の流れを正確に見通していることに驚きました。生物の発生学にもとづいて情報産業を外胚葉産業と例えた着眼点もさることながら、情報の意味と価値に関する認識を改め、情報経済学までも打ち立てようとされています。
特に情報産業時代の価格決定システムとして提案されている「お布施原理」には目からうろこが落ちる思いでした。一般にモノの価格は需要と供給で決まりますが、情報の価格は売り手の格と買い手の格で決まるという洞察されてます。実際に現代社会ではソフトやコンテンツに対して正規料金を支払う人もいれば、で無料でダウンロードする人もいます。このお布施理論は来るべき「評価経済社会」にも通じるものを感じます。
また、梅棹氏はマーケティングについても先見性があったようです。梅棹氏が80年代以前から指摘していた体験情報の重要性や顧客ニーズの個別化の動きは、その後「経験価値マーケティング」や「1to1マーケティング」としてMBAコースでも教えられています。
コンテンツビジネスについても、80年代当時に民放が情報の価値を理解せずに古いフィルムを廃棄していた一方で、梅棹氏はビデオオンデマンドの構想を先駆けて打ち出し、ライブラリの構築を進めていました。
現代では当然と考えられていることを40年以上前に予見した梅棹氏の思考の根底を理解することは、この先に起きる変化に対応する際に必須かもしれません。 -
授業にお呼びしたゲストが今読むべき本として挙げていたので購読。情報産業の勃興からの変遷、その意義や将来予測を行なった論文や対談、講演等をまとめたもの。農業社会から工業社会となり、情報化社会となることをいち早く見抜いていた先見性は驚くばかり。ビックデータ解析やAI判断など、当時はピンとこなかっただろう。面白いのは、情報とはビットで表されるものだけではなく、芸術や音楽、動物の行動なども全て情報であるという考え方。これは、SFCの環境情報学にも通ずるものがある。本書の予言でまだ実現していないものがあるとすれば、こういった「情報」の取り扱いかなあと思うが、何が来るのか引き続き考えてみたい。
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半世紀も前に今日の情報化社会を見事に予見していた著者。
【農業】→【工業】→【情報産業】
元の論文「情報産業論」は新聞以外のマスコミ創成期である1962年に発表され、当時の時代背景は良くわからないが、ラジオからテレビの時代に入り、直接口に入るもの、もしくは、工場で生産された工業製品でもない、情報というものの価値について語る。
コンニャク情報論…コンニャクは食べてもほとんど消化されず栄養物として価値の無い食品であるが、われわれはこれを食品として常用し、そのために大規模なコンニャク栽培もおこなわれている。これはいったいどういうことか。
→栄養価がないからといって、食品として無価値であるとはいえない。
→情報というものには、かなりの程度にこのコンニャクに似た点がある。 -
この書籍の中核を成している「情報産業論」の論文が発表されたのは1963年、なんと50年以上前だという驚きの事実。
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糸井重里さんのご紹介から、読みました。情報産業論のお話には、圧倒され、現代社会が、梅棹先生のお話の世界になっている状況に、ただただ、言葉がありません。オススメしたい一冊です。
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なんでも情報産業に結びつけてる。薬だってそうだそうな。
こんな昔に現代を予見していてすごいみたいな書評を見た気がするが、全然予見してない。たまたま情報産業という名前を使ってることと、かの時代に起こりはじめたソフト的な産業について話しているだけじゃないのか。
それが重要だと言ったくらいなもので、重要とかってよりも、これもそう、あれもそう、あっちもそうじゃん!情報じゃん!ってことを書いたにすぎず、昔に特に注目を集めた時期もあるようだけどイマイチよくわからん。
僕の理解が少ないのでしたらすみません。そのうちまた読み返します。 -
初めて梅棹先生の本を読みました。
読めば「1960年代に、この現代を見抜いていた」という慧眼に感服することは間違いないと思います。過去・歴史の分析と、現在に起こっている事象との相違・繋がりを、絶妙な「言い換え」によって表現し、そこから未来を読む。この「言い換え」が梅棹先生の慧眼に結びついているのではないか?と感じました。
分かりやすい例えもあれば、一読では理解しがたい表現もあり…だからこそ余計に、好奇心を掻き立てられるのかも。読むのに難儀して、一旦置くんだけど、時間をあけるとまた読みたくなり…を、読み切った後もしばらく繰り返しそうです。 -
昔とった杵柄・・とはこのこと。しかし内容はむしろ今こそ読み返されるべきものだと思いました。情報=コンピュータと思い込んでしまう世代にはとくに情報の本質を感じさせる本です。