- Amazon.co.jp ・本 (292ページ)
- / ISBN・EAN: 9784122040953
作品紹介・あらすじ
万葉集の「見る」という語は、自然に対して交渉し、霊的な機能を呼び起こす語であった。人麻呂の解析を中心に、呪歌としての万葉歌、秘儀の方法としての歌の位置づけを明らかにする。
感想・レビュー・書評
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漢字や古代中国文学の研究家というイメージの白川静であるが、万葉について考説を試みることは、素願の一つであるということ。万葉を理解するために、万葉仮名、それを理解するために漢字のなりたちみたいなルートで遡っていった。
その成果を万葉に当てはめた、とくに詩経との比較文学的な方法論をとったということのようで、この取り組みのあまりの壮大さに愕然としてしまう。
内容は、難しくて、というか、そもそも万葉集を読んでいないので、なにが議論されているかもよくわからない。
それでも、古代においては、まだ作者という概念はなく、自然を純粋に描写するような概念もない。とても呪歌、言葉の魔力によって、神、魂、死者に働きかけようとする試みだとする。
それを具体的な歌の分析で示していくところが鬼気迫るものがある。
さて、こうした歌の性格は、古代が残る初期万葉で、後期には急速に変化していくとのこと。それは、ある意味、律令国家という、ある種の法治国家の整理によって、呪術的なものが失われていくこととつながっていく。
そういう古代性の衰退が、個人という意識を生み出し、それが歌として表現されるようになったということかな?詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
「東の 野に炎の 立つ見えて かへり見すれば月傾きぬ」における天皇霊の継承受霊が、中心だろう。雄略天皇歌における草摘みを魂振りのための予祝と述べるなど、基本的に、万葉集を呪術として読んでいく。そしてその術の裏には、貴族の宴会で作られたとかではなく、巡遊者たちがいたことが結論づけられている。それというのも、人麻呂の属する柿本氏人が、春日の和珥の分支であり、かれらは巡遊神人であったといわれ、額田王も小野神信仰に連なるものであり、前期万葉の歌は、巡遊者集団と深い関係にある。
呪術と巡遊者集団と国家プロジェクトが結びついたのが万葉集であったことを述べている。 -
私にはこの本を読むための前提となる知識が欠けているようだ。それでもともかく読んでみた。著者の漢字論と同じく人麻呂のころの呪術的な世界観を説いていく。大化の改新前後、天智・天武や壬申の乱ところの歴史の知識を仕入れたくなった。
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白川氏らしい洞察もありながら、独断的に感じる部分や、あまり興味をそそられない部分もあり。評価が難しい一冊。
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白川静さんは、万葉集を考えるために中国古代文学をはじめた、というのがまず驚きです。
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比較文学的和歌論