日本の歴史〈2〉古代国家の成立 (中公文庫)

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  • 中央公論新社
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本棚登録 : 98
レビュー : 8
  • Amazon.co.jp ・本 (503ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784122043879

感想・レビュー・書評

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  • 1巻に比べると本格的な研究の香りは少な目だけど,よりスタンダードで読みやすい入門書。肩肘を張らずに読める。文体もどことなくユーモラスで笑いを誘う。個人的には中大兄皇子が想像以上に「ワルい」人間で面白かった。

    (使えそうなところ)
    【飛鳥の地と飛鳥時代】
    ◆ふつうには奈良の時代が日本古代文化の華とうたわれるが,文化の質と高さでは,7世紀を中心とする飛鳥時代もこれにおとらないものをもっているし,政治的にも一種の停滞が見られる奈良の朝廷に対し,飛鳥期の調停には上昇期の波乱と緊張があるという。万葉集の中にも,政治の中心からはなれ,荒廃していく飛鳥の地をいとおしむ歌が数多くのこされている。大和朝廷が初めて飛鳥に都をおいたのは允恭天皇(倭の五王)の時代である。継体以降では次の天皇が飛鳥に宮をおいている(括弧つきの天皇はおいていない)。継体,(安閑),宣化,(欽明),(敏達),用明,(崇峻),推古,舒明,皇極,(孝徳),斉明【重祚】,(天智),(弘文),天武,持統,文武。このうち,安閑や欽明のころの都は飛鳥からそれほど離れていないし,飛鳥から遠方に都がおかれた(孝徳時代の難波,天智時代の大津)としても,すぐに次の代には飛鳥に都が戻されている。このように飛鳥が重視される理由としては,①朝廷を構成する貴族の本拠地が飛鳥の周辺にあったから,②北方をのぞいて三方が山に囲まれ,河や池,丘など地形が起伏に富んでおり(有名な天の香久山・耳成山・畝傍山もこのあたり),権力闘争の絶えない時代において防衛に適した地であったから。(~p21)

    【蘇我氏の台頭】
    ◆おそらく中央からの渡来人系の技術拡散や朝鮮経営の失敗・中国王朝からの庇護の喪失などが原因となって,6世紀初めより地方勢力が台頭してきた。これは日本の経済力拡大という面がある一方,越前出身の継体天皇の登場や磐井の乱の発生といった動乱を呼び起こし,中央政権は体制変革の必要性に迫られた。朝鮮経営の失敗を契機として没落した大伴氏に代わり,蘇我氏は継体-欽明朝のころから天皇家と婚姻関係を結び,一族の繁栄をはかると共に,地方台頭の時代を乗り切ろうとした。しかし,専制君主をめざす天皇家と,天皇を上にいただきつつも豪族連合政権の性格を打ち出し,自ら指導者になろうとする蘇我氏の間には必然的に対立が生じることになる。
    ◆蘇我氏は連合政権を固めるために,平郡や葛城といった主要豪族の多くを自らと同族として取り込み,最終的には天皇のたなあげに成功することになるが,その過程において保守派物部氏を打倒しなければならなかった。物部氏は大臣の蘇我氏と違って大連の家柄であった。臣姓の豪族はおおざっぱにいうと,元来土地に根をはった豪族で,古くさかのぼれば天皇家の祖先と質的にそれほどの差はなく,天皇家と婚姻関係をむすぶものもあった。これに対し連姓の豪族は朝廷に付属して何らかの職務を担当することで力を伸ばした一族であり,天皇に対する隷属性は臣姓の豪族より強かった。このような性質の違いは両者の関係を微妙なものにした。欽明朝のはじめには,大連の家柄は物部氏に限られていた。物部氏は失脚した大伴氏と同じように軍事を担当する氏族であったが,さまざまな伝承に見られるように目先のよさがあり,また大伴氏とは違って警察的業務を兼ねていたため,天皇中心の専制国家を目指すうえで彼らのような存在は便利であったのだろう。このような性質の物部氏は,豪族連合をめざす蘇我氏と必然的に対立に陥った。また蘇我氏は帰化系氏族とむすぶ進歩系経済官僚の元締めであり,開明的崇仏派の中心,一方物部氏は軍事力にたよる保守的氏族の代表,頑迷な廃仏派の急先鋒であったことも,争いに拍車をかけた。蘇我稲目と物部尾輿は仏教受容の可否をめぐって争ったがそれは小競り合いであった。本格的な対決は敏達天皇の死後,ふたりの子である馬子と守屋の時代に訪れた。次のような伝承が知られる。敏達天皇の死をいたむ式典の中で,馬子が刀をつけたまま誄(弔詞)を奏上すると,守屋はこれを見て「矢のつきたった雀のようだ」と言って嘲笑った。次に守屋の番が来ると,彼の手足がふるえたので,馬子は「鈴をつけたらチャラチャラ鳴ってよかろう」と笑った。さて,敏達天皇のあとの皇位は,彼の腹違いの弟のいずれかに継承されることになった。敏達の子の押坂彦人大兄皇子は母の身分も高く年長であったが病弱であったし,古代において皇位は兄弟相続で継承されることが多かったのである。そこで蘇我氏の強力なバックアップを受けた用明天皇の即位が決まった。しかし,用明とは異なる家系に属する穴穂部皇子がこれに不満を抱いた。彼は以前用明天皇の姉にあたり発言権の強い炊屋姫に乱暴しようとしたことがあり,皇位継承権を外されて孤立していたのかもしれない。そこで守屋は彼に近づき,権力掌握をはかった。用明天皇は即位二年目の夏に病気にかかり,ほどなくして逝去した。このような情勢に対し,馬子は穴穂部皇子と同系の弟にあたる泊瀬部皇子をつぎの天皇にかつぎだし,兄弟相続の慣習を生かして同族間で勢力を分裂させるという奇策に打って出た。穴穂部皇子と関係の悪い炊屋姫の協力で詔を出してもらい,たちまち穴穂部皇子を殺してしまった(もしかすると,炊屋姫と馬子の間には孝謙天皇と道鏡のような特殊な関係があったのかもしれない?)。これにより完全に守屋は孤立してしまった。一方,馬子の側には泊瀬部皇子はもちろん,敏達と炊屋姫の間の子の竹田皇子や,厩戸皇子など若手の有力な皇子たちがついた。馬子は外来文化の先端である仏教の信奉者であったから,進歩的文化人として若い皇子たちに人気があったのかもしれない(押坂彦人大兄皇子はこのころ病弱であり,まもなく死去)。また馬子は広く豪族の支持を集め,天皇の専制的権力に頼っていた物部氏に戦力の点で大きな差をつけた。こうして物部と蘇我の合戦は,物部側も軍事をこととする家名に恥じない戦いぶりを見せたとも伝えられているが,守屋が乱戦のあいだに矢にあたって戦死し,蘇我側の勝利に終わった(587)。なお,このとき『日本書紀』によれば馬子側が苦戦に陥ったとき,厩戸皇子が勝利の暁には四天王のために寺を建てようと請願し,馬子も同様の誓いを行ったという。この結果,厩戸皇子は四天王寺を,馬子は飛鳥時代の仏教の中心となる法興寺(飛鳥寺)を建立したと言われている。関連性が本当にあるかは疑わしい部分もあるが,物部氏が滅んだことで崇仏派の活動が活発になったことは間違いない。
    ◆こうして蘇我氏の全盛期がはじまり,天皇専制の方向はいったん頓挫した。だから泊瀬部皇子は崇峻天皇として即位したが,彼は兄穴穂部を見殺しにして馬子の側に走った軽率を後悔したかもしれない。彼は棚上げされ,馬子の采配で政治が進行していくのを傍観するほかなかったであろう。たとえば,馬子の主導によって行われた東国経略は,皇族のためにおかれた屯倉や名代・子代の部を縮小する可能性をはらむものであった。592年の冬,イノシシを天皇に献上する者があった。崇峻天皇は「いつになったら,このイノシシの頭を切るように,いやな男の首をはねることができるだろう」と言い,身辺の兵をふやして事をおこすけはいが見られた。これを察知した馬子は,東漢氏の駒に命じて天皇を殺害させ,その罪は駒にかぶせることにした。皇位継承権は,厩戸皇子と竹田皇子の二皇子にあったが,いずれとも決めかねた馬子と炊屋姫は,炊屋姫自身の即位,日本最初の女帝の出現という異例の選択により決着させた(推古天皇は約18歳の皇子が育つまでの中継ぎであったが,おそらく竹田と厩戸の間の調整がつかず,二皇子よりも長生きしてしまったので36年間も位にあった)。馬子との関係も深い推古天皇の即位により,蘇我氏の権勢はここに極まったのである。(~p75)

    【聖徳太子】
    ◆天皇家と蘇我氏の両方の血をひいており,かつかつて衝突のあった穴穂部皇子側の血筋と推古天皇側の両方の血統をうけていた厩戸皇子(聖徳太子)は,当時の政界のいりくんだ関係のむすびめに位置していた。聖徳太子は,おそくとも600年(27歳のころ)には推古天皇の補佐役として正式に参与することになったと考えられる。日本側には記録がないが,『隋書』には600年に遣隋使が送られた形跡があり,そこに聖徳太子と考えられる「タラリシヒコ」の名があるためである。しかし,このころ馬子もおそらく50歳前後に達しており,円熟・老練の政治家として健全であったから,両者は互いの思惑を持ちながら一応の協力関係を維持して政治にあたっていたと思われる。聖徳太子が携わった政策は次のとおりである。①先代からの課題であった朝鮮経営の再生と新羅の討伐。ただし,結果として太子は一時朝鮮問題に積極的に発言して遠征軍の組織を指導したこともあったが,外交上の成果はあまりなく(内省的には皇室主導の遠征軍立ち上げが可能となるなどデモンストレーション的な効果はあったかもしれない),対朝鮮外交は馬子を中心として運営されていた(新羅を警戒した高句麗・百済との協力関係樹立など。602年に百済の僧観勒が日本に来て暦の本などを,610年に高句麗の僧曇徴が墨や製紙法などを伝えたことなどに示唆される)。②冠位十二階。ただし,この制度は氏姓制度の伝統にとらわれない人材登用を目指すものとして言われるが,すでに新しい官人群の登場によって氏姓制度は権威を失いつつあったから,どちらかといえば当時の実情に合わせた制度を創始したという面が強く,そこまで革新的なものではなかったという。冠位十二階の限界は蘇我馬子自身が冠位を持たなかったことにも表れている。また,『日本書紀』には特に聖徳太子が制定したとも書いていないので,『上宮聖徳法王定説』に太子と馬子とが制定したように記されているのが実情と思われる。百済と高句麗の制に似通っていることを考えると,馬子のほうがむしろ主導的に制定したのかもしれない。③十七条憲法。②以上に太子の作かどうかが疑われており,後世の創作ではないかと言われている。この文章が儒教・仏教・法家などの説をもりこみ,用語の出典は詩経・尚書・論語・礼記・孟子・墨子・荘子・韓非子・史記・漢書・文選などにおよぶ高遠な思想を述べていることは間違いないが,これを太子の天才をもってはじめて可能であるとするか,7世紀初頭の日本でそこまで進んだ文章は書けるだろうかという津田流の疑いとなるかは,現在でも争点となっている。④遣隋使。太子が摂政の地位にあった15年間に計4回実施している(太子が死没した622年以後は645年まで1回しか実施していない)。朝鮮経営に目をうばわれている蘇我氏よりも広い視野と国際感覚を持っていたことを示している。太子が斑鳩の地に宮をつくって拠点としたのも,飛鳥(約20キロ)と当時海外への門戸であった難波(約1日)の両方にアクセスがしやすかったからであろうと考えられる。⑤日本最古の歴史編纂事業立ち上げ。ただし完成はしていない。観勒がもたらした暦の影響があった。おそらく皇室の力を歴史から裏付けしようとしたものと考えられる。⑥法隆寺や中宮寺建立などに代表される仏教信仰。なお法隆寺は若草伽藍の発掘により再建されたことが確定的であるが,それでも世界最古の木造建築である。中宮寺も江戸時代に再建されたものだが,天寿国曼荼羅繍帳や半跏思惟像などで有名。「世間虚仮,唯仏是真」の言葉があるとおり,聖徳太子は当時の一般的な水準よりはるかに高いレベルで仏教を信仰していた。以上のように,聖徳太子は広く信じられているほどではないが,やはり飛鳥時代を代表する政治家のひとりであったと言えるだろう。次代の天皇としての資格もじゅうぶんに備えていた。ただ,天皇になる以前に太子は亡くなった(622)。49歳だった。死因は不明であるが,きさきも同時期になくなっていることから,悪性の伝染病ではないかと言われている。墓は同定されているが,内部の実検記によればすでに棺は朽ちており,断片を残すのみであるという。
    ◆607年に送られた有名な小野妹子の遣隋使は,渡来人の通訳を連れて無事中国へたどり着き,有名な「日出処の天子云々」の国書を届けた。この国書は,国内における皇室の権威拡大や,朝鮮に対する影響力上昇をねらって,聖徳太子があえて冒険を試みたものと思われる。煬帝は果たして怒ったが,当時は高句麗と対決していた時期だったので,日本を手なづけたほうが有利と考えたのか,返礼として裴世清ら隋使を送ることとした。さて,当時の船は丸木船などではなく構造船ではあったものの,一度に乗れる人数は50人程度しかなく,造りが頑丈とは言えず,木綿もなかったので帆も弱かった。航海には大きな危険がともない,長期にわたった(例:695年の遣唐使の場合,渡航日程は次のようになっている。7月3日難波発→8月11日博多出航→9月13日百済到着→9月16日長江河口付近到達→10月15日洛陽着。一般的に7世紀半ばまでは北路,以降は南路が用いられたが,このルートは両方に当てはまらない)。小野妹子も607年の7月に遣わされ,半年経っても帰ることができなかった。一行の安否を気づかい聖徳太子も心を痛めたことと思われるが,翌年4月に斑鳩宮の太子のもとに妹子の筑紫到着,しかも強国隋の使いを伴っているというニュースが舞い込んだ。遣使は大成功であった。ただ,小野妹子は隋から送られた国書を百済人にかすめとられていた。厳罰論も出されたが,大事にするとかえって隋の使いに知れてよくないという天皇の詔により妹子の罪は許された。一方,隋の使いは難波で一か月半も待たされたのち,8月20日にようやく飛鳥の朝廷に入った。『隋書』には,日本としてせいいっぱいの歓待を行った記録が残っている。天皇は隋使の前に姿をみせていないが,おそらく妹子も洛陽では直接煬帝にあうことができなかったのだろう。日本の天皇は煬帝と同格を建前とするから,裴世清に会わないような演出を考えたのかもしれない。ただ,ここで裴世清がどう思うかよりも,実際のところ重要は彼を迎えて盛大な儀式をもよおし,なみいる諸豪族の前で彼が天皇に敬意を示したという事実のほうが大切であった。これによって天皇の地位が高まり,諸豪族の天皇にたいする尊敬がますことはうけあいである。一方,隋遣送迎の儀礼に蘇我氏がひとりも姿をみせないのは,かれらが対隋外交の進展をよく思っていなかったことを示すものであろう。二年後に来朝した新羅使をむかえる儀式には,馬子・蝦夷の親子がともに姿を見せているから,よい対照である。小野妹子厳罰論が出されたということも,宮廷のなかには蘇我氏をはじめとして遣隋使に反感をもつものが少なくなかったことを暗示している。608年にはすぐに第三回遣隋使が企画され,小野妹子は再び海を渡った。このときには学生・学問僧が多数同行しており,高向玄里や旻などは,数十年におよぶ留学ののちに日本に帰って文化や政治の発展に貢献した。最後の第四回遣隋使(614)となった犬上御田鍬は,630年の遣唐使としても中国へ赴いている。以上のように,遣隋使の影響としては,優れた中国の文化や社会制度を導入できたことがよくあげられるが,隋の権威と結びついて天皇の影響力が上昇したことも重要であった。隋遣に対する儀礼演出の総指揮をとったのが聖徳太子であれば,その苦心は察するにあまりあるが,その成果はじゅうぶんに上がったことであろう。そもそも「天皇」という称号も,(天武天皇のころに成立したとする説もあるが)「中宮寺天寿国曼荼羅繍帳」の銘文に見られることから(欠損は多いが全文は最古の聖徳太子の伝記『上宮聖徳法王帝説』で確認できる),聖徳太子が定めた可能性があると言われている。「君・公(キミ)のすぐれたもの」という意味しかもたない「大王」に代わって絶対的な権力を意味する称号が制定された意味は大きい。(なお,日本という国号はこれより少し後,おそらく大化改新以降に大化の年号とともに採用された)(~p164)

    【乙巳の変と蘇我氏の滅亡】
    太子が死んでホッと一息ついたのは,やはり蘇我馬子であろう。太子の在世中に馬子の勢力が衰えたわけではなく,依然として官僚制・官司制の統率者であった。しかし,筆者は次のように馬子の思考を想像する。「この二十年ほどの間になにかが違ってきた。太子は対隋外交を成功させることで,隋から天皇に使いを足させるという,雄略依頼の大仕事をやってのけた。しかも天皇から隋の皇帝にあてた国書は対等の文面であるという。官吏どもはさすが太子さまだ,天皇さまだとありがたがっている。その天皇のありがたさを見せつけるように,太子は天皇の歴史や国の歴史,さらには臣・連以下の諸氏族の歴史の編纂にまで手をつけた。この仕事にはおれも加わったが,歴史の古さとなると,おれの一族も天皇一家にはかなわない。そこへもってきて太子の仏教信心だ。そもそも苦心に苦心をかさねて仏教を日本にひろめたのはおれの一族ではないか。おれの父の稲目とおれの二人の力だ。ところがいまでは,太子が仏教興隆の守り本尊のようにもてはやされている。…」現実的には朝廷内における蘇我氏の優位は動かないが,精神面では天皇の権威は高まり,馬子は一種の心理的圧迫を感じていたのではないだろうか。実際に,炊屋姫の発言権に象徴されるような皇后の勢力上昇は,皇室内部の組織の整備が進んでいたことを示唆しており,6世紀は皇室の勢力がおとろえたといわれるが,発展している面も少なくなかった。また,隋書には日本の地方制度について「軍尼」「伊尼冀」などと記述があり,推古朝の時点で部分的には郡里制の初期形態が成立し始めていたことが分かっている。さて,馬子の死没後,彼の後を継いで大臣となったのは子の蝦夷であった。聖徳太子や馬子など名だたる政治家に先立たれた推古天皇もついに死期を迎え,後継者として太子の子の山背大兄王と田村皇子の二人の名があがった。またしても推古天皇は同じ悩みを繰り返すことになるが,最終的には蝦夷の支持を受けた田村の側が皇位につき,舒明天皇となった。蝦夷が山背大兄王を避けたのは,やはり聖徳太子が蘇我氏にとってけむたい存在であったからであろう。
    ◆舒明天皇の時代は,推古朝の達成の上に立ってつぎの時代を準備する歴史的意義があったといえる。たとえば最後の遣隋使であった犬上御田鍬はこのとき初の遣唐使として出発しているし,632年の帰国時には旻らが24年の留学を終えて帰ってきた。旻と共に国博士に任じられる高向玄里が30年をこえる留学から帰ってくるのも,また中大兄や中臣鎌足の学問の師となった南淵請安が帰国したのも,舒明の時代であった。百済寺は,天皇自身によって建立された初の寺院となった。しかし,舒明天皇の治世はじゅうぶんの長さがなかった。またしても後継者未定のまま舒明が死没すると,中大兄・古人・山背大兄王の三すくみに陥ったため,その皇后である皇極天皇の即位となった。このころ,天皇の側近には大臣の蘇我蝦夷とその子入鹿がいて政治をたすけた。蝦夷は悪くいえば決断力にかけるが,比較的公平・身長な性格であったようだ。蝦夷がもっぱら補佐していた舒明朝の内政が平穏であったことがそれを示している。ところが皇極天皇の時代には,若い入鹿が温厚な父をおしのけて国政にタッチしてきた。かれは少年のころ,旻のもとにかよって周易の講義をきいたことがあったが,旻は中臣鎌足にむかって「わたくしの家にくる者のうち,あなたを除くと蘇我の太郎(入鹿)以上の者はいない」と語ったというエピソードがある。入鹿はそのすぐれた才能と家柄をたのんで傲慢・勝気で人にゆずるという協調の心がけに欠けたといわれている。かれには豪族連合を基礎とし,その上に地位を築いた馬子や蝦夷の苦労はわからない。その苦心のすえに蓄積された権力だけが目に入ったのだろう。天皇だけが実施できるはずの雨ごいの儀式(寺で経を読む,香をたいて仏に願をかけるなど)を蝦夷と共に行うなど,入鹿は天皇家への挑戦を繰り返した。さらに643年11月,入鹿は軍を斑鳩にさしむけて山背大兄王の宮を襲撃させた。蘇我氏の血をひきより操縦のしやすい古人皇子を太子にするためには,年長の山背大兄王を打倒しておくことが必要と考えたためである。はたして山背大兄王は自殺に追い込まれたが,蝦夷は入鹿の軽挙をいかり,「自分の身を危うくするぞ」といったという。さて,このような情勢の中で当然中大兄皇子は警戒心を強めた。山背大兄王が亡くなった後,次に古人皇子の即位の邪魔になるとすればそれは自分だからである。独裁的なふるまいをする入鹿に対する反発は豪族間で少なくなかったから,そうした情勢に目をつけて蘇我氏打倒の組織づくりに立ち上がったのは中臣鎌足であった。彼は周易を旻に学び,儒学を南淵請安に習うなど,新しい知識の吸収につとめる進歩的文化人であった。若いころから仏教も信仰していたようである。時勢の動きに敏感な秀才型人物であったと推測され,このような行動に出たのも,勤王の志によるものというより蘇我氏の没落を見通したからであろう。中臣鎌足は法興寺の近くで打毬(ホッケーのような遊び)をしているとき,中大兄に声をかけ,接近したと言われている。このとき鎌足は31歳,中大兄は19歳であった。さらに鎌足は味方をもとめ,蘇我倉山田石川麻呂を仲間にひきいれるのに成功した。石川麻呂は蘇我氏の分家に属し,おそらく蘇我氏の直系相続に対する不満を抱いていたものと思われる。蘇我入鹿もクーデタ計画を察知していたはずであり,実際に家の警備を強化するなどしていたが,おそらく慢心する彼の想像以上の規模とスピードで反入鹿包囲網は形成されていった。
    ◆暗殺計画は,鎌足と中大兄を中心として隠密裏にすすめられており,石川麻呂に細目をうちあけたのも決行4日前のことであった。計画は次のようなものであった。ちょうどこのころ,高句麗・百済・新羅三国の使者の入朝の期が迫っていたのを利用して,三国の調をすすめる儀式を朝廷でおこなう。そうすれば入鹿は大臣の職責上かならず出席するし,上表文を読み上げるのは石川麻呂の役であるから,それを合図に入鹿を斬る。朝廷の防衛を任務とする氏族の人物の協力も得た上で,決行の日である645年6月12日がやってきた。『日本書紀』の記録によれば,おそらく話をおもしろくするために脚色されているだろうが,次のようなやり取りがあったらしい。「入鹿の入場をみすまして,中大兄皇子は宮中の警護係に命じて,宮の門をすべて閉ざさせた。じゃまがはいるのを防ぐためである。そして自分は長槍をとり,鎌足は弓矢をもち,他協力者2名には剣を与え,殿のかげに身をひそめて合図をまつ。緊迫の気が殿中にみなぎる。そのなかを石川麻呂が進み出て表文をよみあげる。なぜか刺客は姿をあらわさない。表文は終わりに近づく。何事もおこらない。計画は露顕したのか,中大兄や鎌足はどうしたのか。不安と緊張のため石川麻呂は汗にまみれ,声乱れて上表文をもつ手がふるえる。入鹿が怪しんで,『なぜそんなにふるえるのか』と問うと,『天皇の御前などで汗がでるのです』としどろもどろの答えだ。あわやクーデタは失敗と思われた瞬間,中大兄が先に立って刺客たちが斬りこんできた。協力者が入鹿の威をおそれてためらっていたのだ。入鹿はたちまち頭と肩を斬られ,足を刺され,天皇の前にたおれた。「いったい何事か」と皇極天皇は中大兄に問う。中大兄は,「入鹿は皇統の皇子をほろぼし,皇位を傾けようとしております。皇統に入鹿が替わってもよいものでしょうか」と奏上した」。その後中大兄はただちに法興寺に入ってこれを城として戦闘準備をととのえたというが,法興寺は馬子の力で創立されたものだから,蘇我氏の勢力下にあるはずの寺が迅速に占拠されたということは,クーデタ計画が綿密に立てられていたことを物語っている。「諸皇子,諸王,諸卿大夫,臣・連・伴造・国造,悉く皆随い侍る」と『書記』にあるから,ほとんどすべての皇族・氏族が反蘇我の旗幟をあきらかにしたのだろう。翌日,馬子も自宅に火を放って自殺した。こうして蘇我氏は隆盛の頂上でほろんだ。大臣の役割は皇太子に譲られた。ここに新しい時代の幕があがる。舞台の主役は中大兄皇子,演出は中野鎌足であった。(~p197)

    【中大兄皇子】
    ◆乙巳の変を受けて皇極天皇は位を中大兄皇子に譲ろうとした。当然である。しかし中大兄は鎌足とはかってこれを辞退した。後援者の蘇我親子を失った古人皇子は法興寺で髪をおろし,僧となって吉野山に身をかくしている。かくして軽皇子が即位し,孝徳天皇となった。新天皇即位は蝦夷が自殺した翌日であったから,あらかじめ鎌足の采配でお膳立てができていたのだと思われる。中大兄が皇位につかなかったことについては,ふつう,皇太子のほうが自由に腕がふるえること,蘇我氏打倒が皇位をのぞむ陰謀と思われて人望が失われるのを恐れたことなどの理由があげられる。たしかにそれもあるだろうが,軽皇子が当時の皇族仲の長老の一人であったこと(当時中大兄は20歳,孝徳は52歳)や,山背大兄王の攻撃に加わって上宮系に皇位を譲渡さなかった功績(皇極天皇も山背大兄王の暗殺を見過ごしている)などが考慮された結果であった。新政府は次のような人事配置となった。まず中大兄皇子が皇太子となり,従来の大王・大連にかわって設置された左大臣・右大臣には,それぞれ阿部内麻呂と蘇我倉山田石川麻呂とが任命された。内麻呂が蘇我氏と関係のない諸氏族を代表し,石川麻呂が蘇我系諸氏族を代表するといった勢力の均衡が考慮されたものと考えられる。彼らが皇太子の下に位置付けられたことも大きな変化である。中臣鎌足は内臣となり,表面に出ず天皇や皇太子の補佐を役割とした。政治顧問である国博士には旻と高向玄里が就任した。即位式から5日目の6月19日,孝徳・皇極・中大兄は大槻の木のもとに群臣を集めて神々に「帝道唯一」を盟ったとされる。大化という年号が定められたのもこのときが初めてであった。
    ◆新政府の基本方針は,豪族勢力の抑圧と天皇権力の拡大,言い換えれば豪族の人民所有を制限して日本全体を天皇の直属とする公地・公民制をしくというものであった。乙巳の変からすぐ,8月から秋にかけてに出された政策は次のとおり。①東国の国司を任じ,全人民の戸籍の制作と田の面積の調査をスタートさせる。東国が選ばれたのは前述のとおり天皇への隷属性が強いので,モデル地区として適していると考えられたためであろう。国司には中央の有力豪族が任命された。このように多数の中央豪族が地方官となっていっせいに地方へ下るということは前例がなかった。大和でも戸籍作成や田畑の検分調査を行っている。②鐘櫃の制。一種の人気とり政策であるが,変革期の政府としては民意を知るためにも必要な措置であった。実際に定められた期間以上に雑徭を課せられたとする不満が寄せられ,対処したこともあった。③男女の法。男女間に子どもがうまれたとき,子を父母のどちらの所属にするかを決めた法である。良民間の子は父につくと定められたことから,父権を尊重する中国の制度にならったものと思われるが,日本でもこのころは父系制家族が一般化していたのだろう。このような法は戸籍の作成や有力者の奴婢所有の確認のために必要であった。④仏教統制策。
    ◆さらに645年の暮れに都は飛鳥から難波に移され,翌年の正月に新政大綱が4つの項目に分けて示された(大化改新の詔)。要約すると,①屯倉・田荘の廃止,②京および地方の行政組織と交通・軍事の制の整備,③戸籍・計帳・班田収授法の整備,④新税制の実施。ただし,津田左右吉以後この詔は批判的にみられており,一部は後世の令を元にして形式をととのえられ,りっぱなものにしあげられたのではないかとも言われている。この段階では,個々の農民の実生活にもほとんど変化はなかっただろう。おそらく従来から朝廷権力の強くおよんでいた地方で,国司を迎えるための臨時の労役をかせられたり,調査がおこなわれたりしたことくらいであろう。あるいは,臨時労役にでかけた農民のなかには,いつもは威張ってばかりいる国造が都からくる役人にお世辞をふりまいてペコペコしているさまを見かけ,首をかしげた者があったかもしれない。しかし,それ以上のことはわからなかったにちがいない。租税の制度が変わったのは一,二年後のことだっただろう。その結果,いままで負担が重くなったか軽くなったかということも不明である。ただ,都へ庸・調の品物をもってのぼったり(運脚の義務),地方の労役(雑徭)に駆り出されたりすることはいままでよりふえ,税の未納・滞納はよりきびしく催促されただろう。そのかわり口分田を得て自分で自由に耕作できる田は広くなっただろうから,いままでよりは高い借り賃をはらって他人の田を小作しなくても暮らしていけるようになったのではないか。生活は楽になったとはいえないが,自分の田にみのる稲穂を眺めた時の農民は,やはりいくらかましになった,と思うこともあっただろうか。なお,木簡などの史料から全国的に「評」がおかれたことなどが判明しており,慎重な検討が求められるが,大化改新は確かに大きな政治変革であったと言える。地方豪族はもちろんこうした改革に不満を抱かなかったはずはないが,おそらく6世紀以来の生産力の発展が,農民に地方豪族をおびやかす力を与えたのであろう,国造は中央権力に抵抗できず,独立君主としての実質は大幅にうしなわれた。国造の名称も評造となり,やがて郡司となっていく。ただ,政府も問答無用で一気に地方豪族の力を殺いだわけではない。彼らの田荘や部曲を無償で収公するというのではなく,レベルに応じて何らかの収入源を与えられているし,官と位をさずけることで遠い未来にわたるまで特権的地位を保証されることになった。これにより豪族も新政に満足し,すすんで協力したことと思われる。新たな冠位制の下では,かつて十二階に属さない大臣のみが身に着けられるとされた特別な紫の冠が吸収されており,位階を超越する権力を保持するのは皇族のみであることが明示された。また,薄葬令もこのころ出されている。
    ◆大化改新は順調に進み,649年の冠位改正でひと段落ついたかと見えたが,この時期から再び中央の人間関係がこじれてきた。①これは難波遷都以前の出来事だが,古人皇子が再起をかけて反動クーデタを計画しているとされて処刑された。中大兄皇子による陰謀説がある。②3月に左大臣の阿部内麻呂が死んだ。右大臣の蘇我倉山田石川麻呂は,内麻呂と辛苦をわけあった五年の歳月を回想して悲嘆の思いを深くしたことであろう,まさか十日をへずして自分もそのあとを追うことになろうとは思いもかけなかったにちがいない。新政開始期には必要とされた石川麻呂の存在も,彼が蘇我氏の一員である以上,天皇専制をめざす中大兄にとって障害になりかねない。石川麻呂はそのプライドのためか,大化後に新しく定められた冠を拒否し,それと無関係の古い冠を着用し続けていたという。その頑固さが中大兄にとっては保守反動と解された。クーデタ計画をくわだてているとして密告され,逃亡の末に一家心中し,関係者が多数処刑された。ただ,のちに石川麻呂の所有物が検査された結果,クーデタ計画は実際には存在しなかったことが判明した。③653年から孝徳天皇と中大兄皇子の不和が表面化した。中大兄皇子が都を大和に移したいと申し出たのを天皇が許さなかったのである。おそらく旻が両者の間を取り持っていたのに,病死したことも関係悪化の原因のひとつであった。孝徳と中大兄の不和の原因は,おそらく初めから実権は中大兄にあったのだろうが,新体制が安定してくると,中大兄が露骨に天皇を無視して独断で政治をとることが多くなったことだと思われる。また,孝徳の妃である間人皇后が中大兄にしたがい大和に移ったことから,略奪愛の可能性が示唆されている。じっさいに孝徳が去りゆく間人皇后に次のような歌をおくっている。「金木つけ わが飼ふ駒は 引き出せず わが飼ふ駒を 人見つらむか」。中大兄が皇位についたのも間人皇后の死後である。翌年,天皇は病に倒れ,恨みを抱いたまま死んでいった。④孝徳のただひとりの男子である有間皇子は,難波宮にもどり死の床に侍する中大兄皇子をどのような目で見つめていただろうか。孝徳が中大兄皇子らに擁立された事情や,中大兄との対立を考えると,有間皇子が天皇に即位することはほとんど望みがなかった。彼はもともと病弱な性質であった(湯治も行っていたとされ,有馬温泉と何らかの関係があるかもしれないと言われている)。この時点ですでに有間皇子は皇位継承の野望は捨てていたと思われる。しかし,意外にも中大兄は皇太子の地位にとどまり,天皇の位には皇極がふたたびついて斉明天皇となった(日本史上初の重祚)。これにより有間に中大兄と継母間人皇后への復讐の念が芽生えたのではないか。斉明はどういうわけか治世の最初から土木事業を好んだ。あるいは中大兄が醜聞を払拭するために企画したのかもしれないが,日本最初の瓦葺きの宮殿をつくろうとしたり(資材が足りず失敗),長い運河をつくろうとして「狂人渠」などと言われたり(これも未完成)して,民衆や豪族の反感を招いた。有間皇子の耳にこうした不満の声が入る時があったかもしれない。有間にクーデタ計画が持ちかけられ,彼はこれに賛同した。しかしそれは中大兄がしかけた古人皇子と同じ種類の罠であった。有間は検挙され,絞首刑に処された。
    ◆651年,新羅の使いが筑紫についた。彼らは唐風の服を着ていた。これを聞いた朝廷は,新羅が日本にことわりもなしに唐の風俗に染まっていることを怒り,使いを追い返した。あくまでも新羅に対する日本の指導的立場を守ろうというわけである。しかし新羅は唐との連絡をやめなかった。日本を怒らせても唐に気に入られたほうが得だと判断していたのである。朝鮮の勢力関係は唐の強力な介入により一変した。660年に百済は滅んだ。このころ新政の安定に力を得た政府は阿倍比羅夫を派遣するなど蝦夷討伐に力を入れていたが,西方での急激な展開に愕然とした。こんなに早く新羅と唐の共同作戦が実現し,百済がその犠牲になるとは考えていなかったのであろう。百済を助けることは強大な唐を敵にまわすことにほかならない。といって,このまま百済をみすてるならば,4世紀後半から長年日本が勢力を伸ばそうとしてきた朝鮮半島をまったく失うことになり,そればかりか次の危険が日本におよびかねない。かくして年末,斉明天皇は難波に赴き,みずから筑紫にでむいて救援軍を派遣する覚悟を表明した。外征のために天皇自身が畿内を離れるのは仲哀天皇・神功皇后の伝説をのぞくと例をみない非常の措置であった。国運をかけて空前の軍事行動に日本は乗り出した。半年後の夏,おそらく旅の疲れと夏の暑さが老齢の天皇の命を縮めたのだろう,斉明天皇が死んだ。まるで仲哀天皇が神の怒りにふれて急死したことを思い出させるような死に方であった。中大兄は母の死をとむらう暇もなく軍隊の終結,兵糧の確保,艦船の艤装,水夫の訓練,武器の修造,百済との連絡など未曽有の大出兵のために山ほどの仕事を処理した。そのためもあってか,中大兄は即位せず,皇太子のまま政治をとった(称制)。巨大な船団が次々と博多湾にうかび,朝鮮めざして出発した。軍勢は総計3万2千,国運をかけた大出兵だった。動員範囲はのちの北陸道から西海道にまで及んだ。中大兄は船にのらず本営にとどまって全軍指揮にあたった。かくして663年7月,白村江の戦いがおこり,日本は惨敗した。百済はほろび,亡命を希望する百済人をともなって日本軍は帰還した。300年におよぶ日本の朝鮮半島経略は終わった。
    ◆この時期が中大兄皇子の最大の危機であった。外征の失敗が内部分裂を誘発しかねない状態であった。しかし,彼にとって幸いなことに,中大兄と皇位をあらそう資格のある皇族は,このころ弟の大海人皇子の他にいなかった。入鹿と中大兄の手によって有力な皇子がほとんど全滅していたためである。大海人皇子はのちの太政大臣に匹敵する地位に抜擢され,また中大兄の後に確実に皇位が回ってくると考えていたから,中大兄との関係は良好であった。歌人の額田女王をめぐる三角関係(額田は大海人皇子から中大兄皇子に愛情をうつした)もそれほど深刻なものではなかったと思われる。こうして朝廷の内部分裂は回避されたが,それ以上に急を要したのは外敵の侵入に対する防備であった。中大兄皇子がとった第一弾の防衛策は,対馬・壱岐・筑紫に防人や烽火をおくことであった。武勇にすぐれているとされた東国の農民を配置したとされるが,朝鮮にわたった遠征軍が海になれた西国兵を主とし,残った東国人が防人に転化されたのかもしれない。第二弾の防衛策として,西海道を支配する政治的中心であった大宰府周辺の防衛が強化された。水城や大野城などの建設である。水城は,変事において川をせきとめ,水をたたえて敵の進撃を防衛する目的で設置されたともいわれている。また,大野城は日本式の城とちがい,谷や盆地をとりこんだ広大な規模をもつ朝鮮式の山城であった。このように日本は大規模な防衛政策をとったが,おそらく残った高句麗攻略のために力を入れた結果であろう,新羅や唐が日本を攻撃してくることはなかった。高句麗が数年のあいだ頑張ってくれたおかげで日本は立ち直ることができたといえる。
    ◆665年,中大兄皇子が国防強化に全力を挙げている最中,間人皇女が死んだ。翌月,おそらく国防上の理由から,中大兄は都を大津へ移した。大津は琵琶湖を通じて東国・北陸への交通にも便利である。668年,ついに中大兄皇子は即位し,天智天皇となった。翌年,中臣鎌足が死んだ。死にさきだって天皇はみずから鎌足をみまい,藤原の氏を賜るなど,手厚い待遇をあたえてその功績に報いたと伝えられる(ただし不比等の造作の可能性あり)。天武天皇の政策はおそらく鎌足の死によって痛手を受け,またのちの壬申の乱で大津京が焼き払われたせいもあって史料が少なく,はっきりとしない部分も多いが,この時期に中央集権体制が強化されたことは疑いえない。庚午年籍の成立はその最たるものであろう。実物は残っていないが,西は九州から東は上野まで,当時の支配領域のすべてにわたって制作されていたという。若いころから中国文化を尊重していた天智天皇は,おそらく大津京を中国風に華麗にかざることを好んだであろう。百済からの亡命者がその計画を助けたことも確実であろう。おそらく漢文学流行の影響から,文学的な興味によって歌をつくる風潮がはじまり,飛鳥時代まで安定しなかった各句の音数も白鳳期には五音・七音の繰り返しが定着した。
    ◆天智天皇が正式に即位した668年のころから天智と大海人の間に不和が生じるようになった。この年,天皇は群臣を召して琵琶湖にのぞむ高殿でさかもりをもよおした。宴たけなわにして興のもりあがったとき,どうしたのか,不意に大海人皇子が長槍をとって広間の敷板を刺しつらぬいた。天皇は皇子の無礼に驚きいかり,捕らえてまさに殺そうとした。そのころはまだ生きていた中臣鎌足が天皇を固くいさめたので,天皇は思いとどまり,ことはぶじにおさまったという。このような対立の原因はおそらく皇位継承をめぐる問題にあった。天智の息子大友皇子に対する天智の愛情は日増しに強くなっていた。大友皇子の母は采女であって,宮廷での身分は高くない。しかし,大友皇子はひとかどの才能ある人物であったようで,また皇位安定のためには中国風の長子相続制をとるべきではないかという天智の考えもあって,日常の現行のはしばしに大海人の代わりに大友を立てたいという気持ちが表れていたのではないだろうか。671年,史上初めて太政大臣が正式に任命され,大友皇子が位についた。はっきり言えば大海人皇子はここでのけものにされた。天智天皇は婉曲にというよりも,かなり露骨に大友皇子を自分の後継者とする意志をしめし,大海人の引退を求めたのであった。大海人皇子の心は不満にもえ,いらだちゆれたであろうが,強大な兄天智の権力に正面から立ち向かうことの困難を見定めるだけの冷静さを,失ってはいなかった。うわべはいままでどおり天智の忠実な弟の役割をつとめていたことと思われる。しかし,破局はあんがいに早くきた。671年,天智は病床についた。元来仏教よりも儒教に関心を寄せていた合理的・理性的な性格の天智であったが,このころには寺を建立するなどしているから,後生を仏にすがる心をおこしたのかもしれない。病床についてから二か月後,天智は意を決して大海人皇子を身元に招いた。天智は言った。「わたくしの病気は重い。おまえに後をゆずろう」。意外な兄のことばに,さすがの大海人も一瞬真意をはかりかねたが,きっぱりと答えた。「いや,けっこうです。皇位は皇后にお譲りください。政治のことは大友皇子にまかせるのがよろしい。わたくしは天皇のおんために出家して修行してまいります」。天智の真意ははかりかねるが,大海人皇子は天智の言葉を信用しなかった。有間皇子や古人皇子のようにクーデタの罪名をきせられて逮捕・処刑されることを恐れたのである。大海人皇子は即日僧侶となり,自家の武器のたぐいをことごとく官におさめ,翌々日にわずかの従者をつれて吉野(大和南部)へ向かった。(~p350)

    【壬申の乱】
    ◆大友皇子は大津京に君臨した。しかし大海人皇子に同情する声は多く,吉野に対して警戒態勢をしくことになる。それが大海人皇子側の警戒心を刺激した。特に天智天皇の墓を山科につくるために多くの人員を動員しているというニュースが5月に入り,吉野討伐の軍隊に転用されることを彼は恐れた。一か月の準備を経て翌月24日,大海人皇子は妻や子を連れて吉野から柘植,さらに伊勢へと一日で脱出し,東国での戦力集めを本格化させた。一方,近江側はこの知らせに大きく動揺した。大友が群臣を集めて策を議論した際,即時追撃案が出されたが,これがこのとき大友にのこされた最良の案であったと思われるが採用されず,大兵力を結集した後に対決するという正攻法をとることになった。募兵は大海人皇子のほうが一足早くはじめているし,地方豪族には大海人皇子に心を寄せる者が多かったから,朝廷の手で集められる兵力が大海人の郡を圧倒できるかは疑わしかった。さらに大海人側は大和一国を奪い,近江朝廷としては足元に火のついた状態に陥った。大局的な視点に立てば,中央政府に対する地方の反発のエネルギーを,大海人皇子はうまく転換して味方につけたのだとも考えられる。交戦の結果,挙兵から一か月後,大津京は陥落して焼け落ちた。大友皇子は首をくくって死んだ。(~p369)

    【天武天皇】
    ◆大海人皇子は飛鳥の古京にかえり,壬申の年(672)のうちに飛鳥浄御原宮を建設して天武天皇となった。「大君は 神にしませば 真木の立つ 荒山中に 海をなすかも」の歌に象徴されるように,壬申の乱以後の天皇は従来の常識をやぶる強大な権力を保持することになった。壬申の乱はイギリスにおけるばら戦争と同種の役割を果たし,蘇我など最有力豪族の没落を招いたからである。天武時代の政策は以下のとおり。①大化改新以来の課題であった部曲の完全廃止。公民制が全国にゆきわたることになった。②中央軍事の強化。反乱により即位した天武天皇にとっては当然の措置である。国司に兵力動員権を集中させ,豪族の権利を殺いだ。③伊勢神宮の地位確定。式年遷宮の儀式も天武に始まるといわれる。もともと東国支配の拠点として重視されていた地域ではあったが,天武が伊勢に入ったとき,天照大神を拝み,壬申の乱に勝利したことでその地位は決定的となった。おそらく壬申の乱のときに民衆の間に身をおいた経験から来るのであろう,天武は民衆の信仰に配慮し,神々を重んじた。④仏教の尊重。一方で自ら僧侶になったことからも明らかなように仏教への関心も高かった。薬師寺も天武の建立であった(皇后の健康を祈念して建造が始まったが,妻の回復と同時期に天武が病に倒れてこの世を去った。完成は持統天皇のとき。東塔や薬師三尊像は白鳳文化の代表格)。⑤八色の姓の制。大化改新や壬申の乱を経て古い伝統をもつ氏族でもおとろえ,新興氏族でも有力なものがあるというように,昔からある姓が実情にそぐわなくなっていたため,新たな姓を設定した。ただ新しい姓といっても古い姓を無視したわけではなく,朝臣は旧臣姓,宿祢は旧連姓にほぼ対応している。また,真人は準皇族といってよい血筋の一族にのみあてられたから,さらに皇親権力を強化する措置にもなっている。⑥富本銭の鋳造。日本最古の貨幣であったとされるが,枚数が少ないので本格的に流通していたかどうかは疑わしい。また,在位中に未完成の事業としては次のようなものがある。❶国史編纂事業の立ち上げ。稗田阿礼に「帝紀」「旧辞」をよみ習わせる。のちに『古事記』『日本書紀』の完成に至った。❷飛鳥浄御原令の制定。部分的実施にとどまる。完全な施行は次の持統天皇のとき。(~p398)

    【持統天皇】
    ◆壬申の乱の際に大海人皇子と行動を共にしたくらいだから,皇后鵜野賛良皇女の発言力は大きかったものと思われ,実際に天武天皇の仕事を長年にわたって助けていた。天武の死後,自らの子草壁皇子を天皇とすべく大津皇子を死においやり,草壁が期待を裏切って急逝した後も,持統天皇として君臨した。彼女の政策は次のとおり。①「飛鳥浄御原令」の完成と施行。天武時代の「近江令」の存在が疑わしいとすれば,これが日本における初の総合的法典。現存していないが,おそらく内容の多くは「大宝律令」に似ていたと考えられる。②庚寅年籍の作成。家族までをカウントし支配した庚午年籍と違い,家族のなかの個人をも数え,調や雑徭を個人に当てていくことが可能となった。③国・郡・里の地方制度の完成。50戸を一里とする里制の実施や,評が郡に切り替わるのもこのころであるという。これにより完全に国造が国司の支配下の一地方官にすぎない郡司に下落していくことが決定的となった。④藤原京の造営。中央集権体制の確立によりもはや手狭となった飛鳥浄御原宮に代わる新たな都を完成させた。⑤白鳳文化は和歌の黄金時代といわれる。これも天武時代に準備されたものが持統時代に花開いた一例である。持統自身,「春すぎて 夏きたるらし 白妙の 衣ほしたり 雨の香久山」の句で有名。この時期を代表する歌人は柿本人麻呂。以上のように,持統の政策は総じて天武との共治時代を踏まえており,聖徳太子以来試みられてきた政策の集大成といえる。こうして律令体制がほぼ完成し,天皇の地位は組織によって拘束されつつもその絶対的な地位が守られるに至った。日本独自の太政官制,すなわち重要政務は高級官僚によって構成される太政官の会議で議定される体制が確立し,今後は天皇および皇親勢力が太政官会議をどこまでコントロールできるかが課題となる。697年,53歳の持統天皇は譲位を行うことになった。後継と見なされていた天武の子の高市皇子(長屋王の父)が急死したため,彼女は愛する故草壁の残した孫が皇位につき,文武天皇となった。もちろん天武の兄弟はこれに反発していたが,大友皇子の遺児である葛野王が「兄弟間の相続は乱のおこるもととなる。…これを考えたら誰が皇太子に適任かはきまっている」と意見し,これが通っていた。かくしてこれより後の皇室では,7世紀に匹敵する内部分裂は比較的生じにくくなり,安定の時代を迎えることになるのである。『日本書紀』も持統の譲位をもって叙述を終えている。

  • 第2巻では、蘇我・物部の対立から、持統天皇の治世までを扱っています。

    著者は、シリーズ第1巻を執筆している井上光貞と並ぶ日本古代史研究の泰斗ですが、第1巻が戦後の諸学説の批判的検討を読者にはっきりと示そうとしているのに対して、この巻では、著者自身の歴史の見方が一つのストーリーとして示されており、専門的な学説の批判・検討は、あまり読者に見えないような叙述になっています。

    第1巻に続けて読むと、ちょっと残念な気もしますが、入門書としてはオーソドックスな構成と言えるように思います。

  • 飛鳥に根拠をおいた天皇家は、豪族から一段優位な地位を確保しつつ統一国家を組織してゆく。大化改新、壬申の乱など緊張したドラマ豊かな上昇期を、微妙な一瞬にいたるまで再現し、聖徳太子、蘇我馬子、天智天皇、持統女帝など卓越した人物たつの立場を明らかにしてゆく。

  • 538年頃欽明天皇、敏達天皇の頃から、697年、持統天皇が位をゆずり文武天皇が即位するまでの歴史。聖徳太子の政治改革や、大化の改新、壬申の乱を経て、持統天皇による藤原宮の栄えを描く。
    文武共に優れた評判を得ていた大友皇子より、大海人皇子(天武天皇)が最終的に地位を得たり、才能・人望共に草壁皇子を超えていた大津皇子が、優れていたが故に排斥され殺害されたりと、権力闘争の無情さからしみじみと世の儚さを感じ寂しくなる。

  • 最近、古代日本に興味がありちびちび読んで
    終了。

    大化の改新って相当、革命的な出来事だから
    神代から蘇我・物部時代/聖徳太子/大化の改新
    /壬申の乱/天武天皇/記紀の成立
    までの紆余曲折とかがちょー興味深い。

    はっきりいって戦国時代や幕末よりおもしろい。
    戦後史並みだね。

  • 大和朝廷の基盤がある程度つくられたあと、中央集権国家の基盤が一通り完成する持統朝までを概観している。その前の、大和朝廷成立までの歴史は今後も明らかになる事はないと思う。
    本書の取り扱う範囲では、日本書紀を主な拠り所とはするものの、その限界性も明記しており、補完的に発掘調査結果などを交えつつ、常識的な歴史が描かれている。また巻末には最近の知見を加えており、up-to-dateも図られている。
    天智天皇が即位するまでの、妙に長い混迷など、そうあっさり流していいのかと思うところもあるが、いい意味で中庸であり、教科書的に使うと良い。

  • 本日購入分。当時の時代背景やら歴史の詳細を知ってないと辛い本です。いや、面白いですけどね。

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