日本の歴史〈3〉奈良の都 (中公文庫)

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  • 中央公論新社
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レビュー : 4
  • Amazon.co.jp ・本 (585ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784122044012

作品紹介・あらすじ

日本古代の展望台に到達し、国号を日本と定めた朝廷は、律令制度を完成し、国富を集中して華麗な奈良の都を造る。貴族は惜しみなく富を七堂伽藍にそそぎ、民衆は悲喜交々の歌を万葉に託す。貴族と民衆の織りなす史劇を、古代人の心にわけ入って構成しながら、奈良時代の実像に迫る。

感想・レビュー・書評

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  • 律令制度、聖武天皇、孝謙女帝、正倉院

  • ‪名作の誉れ高い3巻ですが,個人的には時系列がしばしば前後するのがいやで,前2巻に比べるとほんの少し落ちるような気がしました。ただこの時代に書かれた歴史書にしてはかなり生活史への目配りがあって,奈良の街を知る,という目的があるならかなり有意義な本だと思います。‬文体は若干固めですが風情とユーモアのバランスが取れています。

    (使えそうなところ)
    【奈良時代の記録と人口】
    ◆記紀万葉のみならず日本古代の文献は8世紀になると急増する。『続日本紀』はこの時代における最も重要な史料であるが,他にも日本最古の詩集である『懐風藻』や,『藤氏家伝』『唐大和上東征伝』などの伝記,および『律』や『令』とこれに関連する書物など,枚挙にいとまがない。その数は約1万2千点に達するという。その99%近くは,奈良の正倉院から見つかっている。なお,7世紀全のそれが20点あまり,9世紀前後からの平安時代400年の文章は合計しても1万点に達しないだろうと言われている。といっても,この時代において私的な記録はほとんど残されていない。独立した個人というものがまだ成熟していない時代であり,私的なものは公的なものにおおわれ,個人も肩書や身分でのみ判断されていた。肖像画や肖像彫刻のほとんどないことからもそれはうかがえる(鑑真像などは例外だが,これも大陸の影響というべきである)。だから,この時代には国民を「百姓(ひゃくせい)」と呼んでいた。
    ◆当時の日本の百姓はさまざまな史料から数学理論を用いてはじき出すと約600万人となるらしい(唐の約1/7~1/8)。今から1200年前の政府には,時の全人口が分かっていた。7世紀末の持統朝以来,全国の戸籍は6年ごとに作成されていたし,さらにその戸籍を簡潔にした租税のための計帳は毎年8月までに都に送られ,9月にはこれに基づいて予算を編纂していた。租税のかからない人まで含めて全人口を定期的に調査した政府は,のちの明治政府まで,日本には存在しなかった。9世紀以後も政府は戸籍制度を続けたが,6年ごとは12年ごと,やがて数十年に一度となり,10世紀にはもうできなかった。徳川幕府も人口調査を行ったが,それも相手は百姓・町人で,自分たち武士の仲間うちは除外していた。
    ◆人口密度を考えると,無数の先祖によってくまなく開拓された現在の日本とは違い,住める場所も限定されていたので,北九州・中国東部・近畿・東海沿岸にかえって人口が集中していた。とはいえ,20世紀前半と比較すれば,それら先進地帯でさえ,日本の岐阜県北部や兵庫県北部などと同じくらいの人口密度であった。逆に人気のない地域は,陸奥・出羽・飛騨・日向・薩摩・大隅である。これらの地域には律令国家の力が完全には行き届いていなかった(飛騨は調や庸の代わりに飛騨匠という大工を毎年50人ばかり都へ送ればよいという特殊な課税区域であった)。都の人口は,20万人程度であった。そのうち官人は1万人余り,さらに蔭位の制に守られた上位の者は百十数人,そして政府中枢にあたる公卿は十数人であり,これが8世紀初頭,大宝律令を公布したころの日本の藤原京,さらに平城京に築かれていた役人のピラミッドであった。

    【律令国家】
    ◆701年の3月,藤原宮では即位や新年の拝賀におとらない盛大な式典が挙行された。大宝律令の公布式である。式典は黄金献上の儀から始まった。それまで日本にはないと思われていた金山が対馬で発見されたのだという(実際は嘘だったが)。これを瑞祥として年号を大宝に改めることになり,これ以後年号は現代にいたるまで絶えず継続することになる(初の年号は大化であったが途絶えがちだった)。このとき制定された官名は明治維新まで,位階も戦前まで存続し,勲等は勲章というかたちで現代にも残っている。この式典から約2か月後,大宝律令に随う勅をたずさえた役人たちが七道へ散り,各地の国司・郡司たちがこれを受け取った。大宝律令の完成は若い文武天皇のときだが,筆者はこれをつくらせたのは祖母の持統上皇であったのではないかと推測している。天武の妻・女丈夫として政治を補佐した実績のある彼女が指揮したからこそ,およそ一年あまりで律令を完成させるという突貫工事も可能だったのではないか。以前彼女自身,飛鳥浄御原令の制定・施行に携わっていた。さらに浄御原令はいわば巨大なオートメーションの機械のように,一つのボタンを押せば全機構が運転を開始するというものにはなっておらず,部分的に国産品もあれば輸入品もあるという継ぎはぎの代物であったから,日本の実情にあっていない部分もあったし,何より律をともなっていなかった,だから天皇位を退いてから,問題意識を持った持統は新たな律令完成に着手したのではないか。編纂担当者としては刑部親王や藤原不比等が著名であるが,もちろん他にも多くの人が参加し,「刀筆を執持して,科条を刪定」した。特に渡来人系の人の参加が目立っていた。律令完成後も問い合わせなどに対応するために策定本部は閉鎖されなかった。編纂業務は厳しかったようで,残された書類の中には激しく議論する人のようすを描いた落書きなども残っている。疲労のためか刑部親王など担当者は完成前後にあいついで没した。おおまかにいえば,君主の命令である令は1000条程度から,さらに令にそむいたとき発動される律は500条程度からなる巨大な法典であった。ただし,大宝律令がどのくらい厳格に適応されたかといえば,条文どおり行いやすいところもあれば,じっさいにはほとんど不可能な部分もあったから,部分的な実施にとどまったと言わざるを得ないだろう。たとえば自分たちの生活のために漆を盗んだ罪で流罪判決を受けた父の身代わりとして奴婢の身分に落としてほしいと死を覚悟して申し出た3人の子ども(12歳,9歳,7歳)に関するエピソードが『続日本紀』にはある。流罪のレベルになると天皇にまで連絡が行き届くため,時の元正天皇は子どもたちの要求を認めることとし,さらに1か月後には3人の子どもも免すことにしたのである。なお,大宝律令は施行後50年あまりで養老律令と交代しているが,大きな変更はなく,また40年以上作成者の不比等の家に眠っていたという。これは孫の仲麻呂によって,おそらく藤原氏の権力の正当性を内外にアピールする意図から,突然日の目を見ることになった。だから養老律令は脚光を浴びる必然性があったものではなかった。

    【平城京への遷都】
    ◆文武天皇時代の末期から行われていた遷都に関する議論は,元明天皇の時代に本格化した。遷都の理由は,おそらく他の遷都と同様に,全国的な飢饉疫病への対策だったろうと言われている。平城京とは,奈良の都に対する正式の名称であって,おそらくナラという日本語に当てはまる漢字はさまざまであったから,その一つが平城であったのだろう。平城京の東西は約4.3km,南北は約4.8kmの長方形で,唐の長安は9.7×8.2kmで大きさは遠く及ばないが,大和盆地ではこれがせいいっぱいであり,それでも西部は山にかかってしまうので最後まで完成しなかったという。メインストリートの朱雀大路は,北の朱雀門から南の羅城門まで幅約85m(現代なら24車線!)もあったが,これは西欧の都市のように市民生活の場として広場をつくるという伝統がないから,儀式や祭りの際に皇居の前に大道が必要となるためであった。平城京は藤原京と同じく中国の長安をモデルとした条坊制の街であった。朱雀大路と平行(ストリート)あるいは直交(アヴェニュー)する幅約24mの大路を等間隔で建設し,さらにこれを3本ずつの小路で分けていった。大路により区分される区画は坊といい,小路による区画は坪(町)といった。このように平城京は番地の呼び方からしてきわめて合理的につくられた人工都市であったが,田園では班田収授のために同じような地割はすでに行われていた。条里制といわれる制度がそれである。里は坊よりも大きかったが,区画をナンバーで呼ぶ点においては条坊制と同じであった。
    ◆都の建設は,橋梁を含む道路の建設,河川の改修,羅城の築造など,言うまでもなく多岐にわたる大事業である。建設には上流貴族や武人たちも携わった。奈良時代の貴族はまだみずから実務を担当していた。たとえば中国経由ですぐれた算術の知識を身につけている貴族は,戸者の量や運搬に必要な労働力を計算する上で欠かすことができなかった。武人が必要であったのは,労働力が逃亡しないように監視するためであった。たびたび墓を暴いてしまうので,埋めなおしては酒を注いで霊魂をしずめていたという。平城京の建設のために何人の民衆が動員されたかはわからない。ただ,役夫の動員や作業に関する規則は令に決められているし,実施の結果がどの程度にみじめなものだったかは数々の史料からおおよそのことがうかがえる。中央政府の指令は国司へ,ついで郡司から里長へととどき,ふつう50戸からなる里のなかを,ときにはムチを手にした里長が巡回して,いきなり不幸な正丁をよびだす。彼は乾燥米のような携帯食を都までの旅の日数だけ用意して集合する。それから都まで,兵士たちの護衛つきで歩いていく。さすがに都についてからの食糧は官給であった。労働は全くの無報酬ではなかったようである。大宝律令以後は,庸として集めた布や米を民部省や大蔵省の倉庫に分納するが,そこから彼らの食糧および賃金を支払っていた。ただ労働環境は悪かったに違いないし,国もとを遠く離れているために,東国者と西国者とではろくにことばも通じなかったから,心細さと不信感は募り,逃亡者が絶えなかった。役夫だけでなくそれを監視する役目の衛士も心情としては同じだったから逃げた。逃げ出した後つかまれば,ムチ打ちなどの罰が与えられた後で現場に引き戻されるのはもちろんだが,逃げ出せたとしても途中の食糧がない。親切そうな人に調理用具を貸してもらえたとしても,他国者が路を汚した,ものを壊したなどといって,物品を強要することがざらにあった。和同開珎を給料としてもらえていたとしても,逃亡中の田舎では使い道などなかった。何十日かの労役が無事終われば,都へのぼったときと同じように隊をつくり地元へ帰る。しかし労役はその帰途が最も悲惨であった。途中の食糧はもう誰も用意してくれなかったから,都で働かされていた間手に入れる要領がなかったものは,次々に飢え死にしていった。さすがに見かねた政府は,沿道の国司や郡司に和同開珎と引き換えに役夫へ米を売ることを命じている。
    ◆多くの犠牲をともないながらもなんとか街づくりの基礎ができあがると,宮仕えの貴族や官人たち,また彼らに寄生していた市井の人びとは次々に藤原から平城へと引っ越していった。人間だけでなく建物も引っ越した。当時は寺院にかぎらず,もとの建物を解体して筏で材木を運び,移建するのが常識であった。有名な寺院は,おそらく政治に疲れた元明天皇から娘の元正天皇への譲位が行われ,都がすこし落ち着いてから移転したらしい。薬師寺・飛鳥寺(このときは元興寺と改名)・大安寺は移転したが,弘福寺は移転しなかった。そこで藤原氏の興福寺がこれに代わって平城の都で一画を占めて発展し,これに東大寺を加えた五大寺が奈良の寺院として有名になった。犠牲をはらいながら次第に都らしくなってくる平城京には二種類の建物が混在した。一方では柱が掘立,床が板敷の高床,壁も板,屋根には檜皮や草を葺く古来の様式。もう一方には,礎石をすえて柱をたて,柱は朱にぬり,床にはタイルをしきつめ,屋根も瓦で葺く大陸の様式。皇居の建物でも,外国や蝦夷・南の島々などの人びとを迎えるには大陸風の建物のほうがよいと,大化改新のころから考えられるようになっていた。斉明天皇の時代に挑戦して失敗していたが,藤原宮のときにはすでに瓦葺きの建物は存在していた。ただ,だからといって平城京の建物がすべて瓦葺きになったかといえばそうではない。のちの平安京でも大陸風の様式をとっている建物は,官庁関係の建物にすぎず,おそらく平城でも大陸から学び取った政務や儀式の場に限られていた。よく「あをによし奈良」といわれるときの「青丹」は,緑の柳や緑釉の瓦に柱の朱(丹)のはえる大陸風の建物が並ぶ美しい街並みをさしているのだろう。(~p102)

    【平城京のくらし】
    ◆平城京の朝は早かった。当時から京内の寺は鐘を鳴らしていたが,宮城では,中務省の水時計を使って鼓を打って時間を知らせていた。時間は季節によって違う。都会の雑音などは存在しない時代である。夜どおしかかり火をたいて宮城の十二門を守っていた警備兵たちはいっせいに門をひらく。京内の各条坊に住む官人たちはそれぞれの勤め先の官庁に,門が開いたら制服を着てすぐに出勤していないと,年度末の勤務評価にひびく。だから歩いてくるものがある一方には,馬でかけつけるものもいる。かくて夜が明けてからまもなく,宮城周辺の大路・小路は何千という官人で雑踏する。通勤する官人以外に,季節によっては諸国から国司などが随員をしたがえてやってくる。近国が10月末,中国が11月末,遠国が12月末と決められている調・庸の納期になると,宮城のなかの大蔵省や民部省の倉庫のあたりは,調・庸をのせてきた牛馬やかついできた担夫で混雑する。昼になると退勤時刻を知らせる鼓が響き渡る。格別に仕事がなければ官人たちは退庁する。早いようであるが,朝も早いのである。天皇の政務もいちおう午前中にすませるのが古くからのしきたりであった。午後からのにぎわいの中心は左京・右京にそれぞれ一画ずつあった二つの官営市場であった。ちょうど正午に,市司の役人が市の門を開く。なかには食料・衣類・家具などさまざまの生活必需品を収めた倉もあったようだが,車をひいたり,頭にのせたりして売り物を運ぶおおぜいの売り手や,買い出し人がどっと流れ込む。そのような昼のにぎわいも,夜になると用事のないものは通行禁止だったから,街々には犬の遠吠えのほか,パトロール兵の足音くらいしか聞こえなくなる。さて,三世代近くにわたって何十万という人々の生活が展開していた平城京も,長岡京への遷都(784)以降はにわかに荒れ始めた。「都城・道路,転じて田畝となる」との国司の報告が残っている。もっとも,それは右京・左京のことで,左京の北方にあった外京の部分は平安遷都に随行できなかった東大寺や興福寺と,それら大寺に寄生する人びとの街に変貌して,ある程度の規模を維持した。現在の奈良駅は,この地域に位置している。まがりなりにも街跡を残している京都と違い,古図のない奈良の生活の再現は難しいが,江戸時代からの研究の成果でそれも徐々に実現していっている。(~p118)

    【貴族のくらし】
    ◆官人に対する給与は官人のもつ位階と官職とに応じて規定されていた。大まかな違いを述べるなら,3位以上であれば位封(国司が多額の年俸をもってくる),4~5位であれば位禄(召使が大蔵省などに赴いて回収する年俸,もちろん位封よりも少ない)が季禄(仕事に対する報酬)に加えて与えられ,6位以下であれば季禄のみが与えられる。課税制度についても,3位以上は一族全員が免税となるのに対し,4~5位は親子のみ,6位以下は本人のみと範囲が狭まっていく。裁判に関しても上位の位階であればあるほど減刑などの優遇措置がとられた。このような区別が生まれるのは,官人への給与が公地公民制の導入にともなって名目上廃止された有力者の私有地を起源としているからである。そのため,公地公民制の建前にも関わらず,5位までの人物であれば,その子(3位以上は孫も)は勤務態度等に関わらず高い位階から始められるという蔭位の制がとられていた。
    ◆奈良時代の貴族の食事。食事は天皇以下庶民にいたるまで当時は2回がふつうだった。さらに朝は朝廷への出勤が早いから簡単だったらしい。平安時代の天皇でさえ,朝はあらかじめたいた飯を湯でふやかしてかきこんでいたといわれるくらいである。しかし正式な食事になると,資料集にあるようなかなり多くのご馳走が出たらしい。魚介類は,都が海から遠いので,ほとんど干物や塩辛の類でしか食べられなかったという。奈良時代にも仏教の殺傷禁止が取り入れられたりするけれども,貴族などは禁令が出たと庶民に知らせるだけで,自分では平気で肉食していたようである。調味料には塩や酢のほかにも今日のしょうゆやみその原型といえるものがそろっていたらしいが,調味よりも保存食品の製造につかわれることが多かったらしい。蘇という食べ物はチーズに似た乳製品である。宴会はことあるごとに開かれた。当時の記録を見ると,きわめて下品な意味の歌などが残されているが,当時は紳士淑女などいなかったから,貴族も酒を飲んでは自作の楽器を演奏したりしながら大声で合唱していた。
    ◆貴族の家には奴婢のほか僧侶など血縁関係のない者がおおぜい住んでいた。一般にこの時代の政治史を研究する際には,同じ氏をなのる貴族相互の団結をなんとなく前提にして考えがちであるが,実際には同じ姓を持つ分,地位が同等になるのでかえって競争相手となることが多かった。不比等と四兄弟のような親子関係を除けば,同族間の団結意識よりも,むしろ同じ家に住んでいる貴族とそれに仕える者の間にある親分-子分関係のほうが重要かもしれない。
    ◆貴族の家族。当時は「魏志倭人伝」以来の伝統にもとづく一夫多妻制であった(中国人はきっと倭国には女性が多いのだろうとうらやましがっていたらしい)。血縁を大切にした時代だったから,やはり政略結婚がほとんどであった。ただ相続法などにおいて女性は差別されていなかった。結婚しても女性の氏族が変わることはなかった。
    ◆貴族の生活は都にだけあったのではない。一生に何度か国司として地方に赴任しなかった貴族はほとんどなかった。期間は制度上6年など定められていたが,平均すると2,3年であった。大伴旅人のように,その名のごとく60歳を超えても繰り返し九州に赴任させられたりすることもあった。地方では立派な国司として農民の生活を改善する者も一部にはおり,担当した地域の状態が査定される制度もあった。田植えや刈り入れの時期には休暇が定められていたから,当時の貴族はある意味で土臭い貴族であったと想像される。(p155~182)
    ◆家計を助けるために文字を書くアルバイトをしていた者もいた。奈良時代は代筆業がさかんであったようである。

    【地方のくらし】
    ◆律令国家の基礎は地方行政にある。まず大宝律令では国・郡・里(さと)の三段階で構成されていた地方行政区分が,国・郡・郷(さと)・里(り)の4段階に改められた。地方行政の強化というと,租税の増徴が予想されるが,山上憶良が貧窮問答歌で歌っているように,もともと取れるだけ取っていたところに一人あたりの負担を強化しても租税増収に成功することはない。そこで当時の朝廷は,ごくごく一部の有能な国司の例に見られるように,農業指導に力を注いだ。蕎麦や麦など新しい作物の作付や凶作に備えての貯蔵などを国家の指令にもとづいて推進しようとしたのである。もちろんいままで作っていなかった作物の栽培は教わらなければ無理だから,国司たち地方間はこうした作物のつくり方まで指導させられたわけである。農業や手工業の諸技術の普及に関連して,交通網の整備も進んだ。土地・人民をふやしたいという朝廷の欲求は,東北地方の蝦夷や九州南部の隼人にまで及んだ。出雲のみが完全なかたちで現存する『風土記』も,全国の国府から提出された一種の報告書なのである。(p143~154)
    ◆郡司はその多くが土着の豪族勢力を起源としているため終身である。彼には大勢の手下がいる。取り立ての際にはちょっとした大名行列ができるし,郡家では料理人,器や紙や松明の職人,雑用係などたくさんの人が通勤で働いていた。これらの人びとのほとんどはただで働いている。雑徭の代わりの労働なのである。それでも郡司の身内になるほうがよかったのかもしれない。(p183~206)
    ◆村人のくらし。公地公民制が最も機能していた時期であってもやはり一種の小作(賃租)は存在した。純粋に口分田だけを耕作して生活する農民だけで構成されるような地域はまずなかったといってよい。第一に配給される口分田が実際には遠すぎたり分散されていたりして自分では耕せない場合,他の家に貸し出すようなことがあった。あるいは国家や国家に準ずる支配者階級の土地を耕す場合もあった。
    ◆律令国家の下で民衆を最も苦しめたのは,なんといっても各種の徭役(強制労働)であった。雑徭や兵役,あるいは都にまで持っていく必要がある庸や調(そもそも布づくりも木の皮を剥いで糸をつくるところからはじめないといけないので大変)も一種の徭役といってよかった。特に東国の人たちは,遠い北九州の防備に使われることが多かった。これは東人の勇敢さという面が強調されているけれども,実際には被征服者のなかの支配層から人質をとる隔離政策的な意味合いもあったのではないだろうかと言われている。蝦夷を俘囚として西部に移住させたのと同じである。万葉集には妻が夫を思う歌が多く収録されている。
    ◆奴婢。奴隷市場はなかったが日本にも奴隷はいた。馬よりも少し高いくらいの価格で取引されていたから,一般農民にはとても手に入らず,もっぱら支配者層の財産であった。(p226~260)

    【和同開珎】
    ◆すべて政治的な大事業は国民的な興奮なしには遂行できないものである。奈良時代には,金や銅の出現というような瑞祥が絶対に必要であった。和同開珎の発行や平城京の造営は,自然銅の出現なしでは始まらなかったであろう。朝鮮半島で百済・高句麗があいついで滅び,朝鮮経営が完全に崩壊して渡来人が大勢やってきてから,日本政府は国内の鉱物資源(石油なども含む)に特別な関心を持つようになっていた。和同開珎は日本全国から発掘されており,遠く渤海の地からも見つかっている。これ以前には富本銭が,また後世にも本朝十二銭とよばれる各種銅銭が発行されているが,通用期間や鋳造量は比較にならない。富本銭などはおそらく呪いの類に使われていたようで,金でものを買うというよりもので金を買っていたような状態であったろうと推測される。ただ和同開珎の発行後,初めて銭調が行われたとき送ってきた国は畿内周辺の8カ国だけだったから,奈良時代に貨幣の流通した地域はけっきょくこの程度だった。銀貨も発行していたが,記念通貨のような扱いを受けて貯めこまれ,ほとんど流通しなかったようである。政府は蓄銭叙位令を公布するなどして貨幣制度の普及に努めたが,効果のほどは知れていた。銭を政府におさめることで新たに叙位にあずかれるような富豪はかぎられた数しかいないからである。こうして銭を発行するばかりで回収することができなかったから,必然的に貨幣価値は下落していき,インフレーションに陥っていった。また,この時代からすでに贋金づくりはさかんであったようである。いくら取り締まっても犯罪者が絶えなかった。(p261~284)

    【奈良時代における藤原氏の台頭】
    ◆若くして死んだ文武に代わって即位した元明天皇であったが,彼女もまた重責に疲れ,娘に皇位を譲った。これが元正天皇である。この期間に台頭したのが藤原氏である。藤原不比等は文武の時代に完成した大宝律令の編纂に携わり,また皇室とも深い血縁関係があったから(当時は親近結婚の危険性は認識されていなかったが,本能的にこれを察知した皇室か不比等かが結びつきを深めていった可能性はある),実質的な政権担当者として力をふるった。そして元正女帝の時代,彼の次男房前が参議となり,大和朝廷以来の大豪族からひとりという慣習法が破られたとき,朝廷における藤原氏の公然たる特権は鮮明な第一歩を踏み下ろしたのである。天武の時代から始められた『古事記』『日本書紀』の編纂事業もこの元明・元正期に完成したが,不比等の関与をかなり受けているのではないかと考える説もある。(p119~143)
    (途中)

  • 日本古代の展望台に到達し、国号を日本と定めた朝廷は、律令制度を完成し、国富を集中して華麗な奈良の都を造る。貴族は惜しみなく富を七堂伽藍にそそぎ、民衆は悲喜交々の歌を万葉に託す。貴族と民衆の織り成す史劇を、古代人の心に分け入って構成しながら、奈良時代の実像に迫る。

  • そう言えば通史というものは、高校の教科書以来読んだことがなかった。まあ、それも記憶に残っていないし、いまさら教科書でもあるまい。何か適当な本はないかと、『日本書紀』の現代語訳を買ってみたのだが、10分で眠くなった。

    日本の通史を死ぬまでには読んでおこうと思い立った以上、最新の岩波に投資してもよいのだが、いかんせん敷居が高い。その点で原本が1965年から1967年とちょっと古くなったけど、中公文庫の日本の歴史は著者も名前くらいは知っているので、トライすることにした。

    まずは、好きな奈良ということで、『日本の歴史3 奈良の都』を選ぶ。井上光貞氏からスタートしてもよかったのだが、パラパラめくった感じで文体が平易な青木和夫氏を選んでみた。

    とにかく数字がよく出てくる。規模感が分かると、今と違った政治都市である平城京が見えてくる。

    但し、解説で丸山裕美子氏が指摘しているように、その後の研究成果により推定数字は問題がないとは言えなくなっている。例えば「都の人口二十万」という説は、もっと少なく十万と見る見解が有力なのだそうだ。半世紀前の研究水準であることには注意することが必要だ。

    谷沢永一先生が言っているように、どんな著者の話でも鵜呑みにしてはならない(『本はこうして選ぶ買う』)。

    索引まで入れて585頁あるので、電車の中で読んだらいつ読み終わるかわからないけど、しばらくはバックに入れておきたい。

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