敗戦日記 (中公文庫BIBLIO)

著者 :
  • 中央公論新社
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  • Amazon.co.jp ・本 (472ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784122045606

作品紹介・あらすじ

「書け、病のごとく書け」と、自らを追いつめるほどに創作の意味を問い続けた"最後の文士"高見順が遺した戦中日記。そこには貸本屋「鎌倉文庫」設立の経緯、文学報国会の活動などが詳細に記録されており、戦時下に成し得ることを模索し、文学と格闘した作家の姿がうかがえる。膨大な量の日記から昭和二十年の一年間を抜粋収録。

感想・レビュー・書評

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  • 現在、戦中日記を読めば、100人が100人とも同じ感慨を抱くのではないか?すなわち「まるで、今のウクライナのようだ」。

    いつも空襲警報は鳴り放し、昨日まであった飲み屋が、学校が、思い出深い建物が、今朝見れば瓦礫と化している。それでも、驚くほど人々は暮らしている。もちろんおそらく「明日は死ぬかもしれない」という気持ちも持っていたとは思うが、日記の中はみんな一様に「淡々と」綴られ生活している。

    「図書7月号」で斎藤真理子さんが、有名人の戦中日記の読み比べをしていた。きっと面白いに違いないと思い、私も真似てみる。用意したのは、高見順「敗戦日記」、「大佛次郎敗戦日記」、「吉沢久子27歳の空襲日記」、「田辺聖子18歳の日の記録」、ケストナー「終戦日記」である。読み始めると、予想通り面白く、なかなか終わらない。書けば長文になることが決定しているし、そもそも各自の日記を並列しないと意味ない。よって5冊の本の感想を1945年に限り書いて、五分割して順番に載せることにした。読者諸氏は是非とも順番に読んで頂きたい。

    1番バッターは高見順である。ある意味戦中日記の代表選手。

    高見順(37)。鎌倉の大船在住。文学報国会の委員をしていて、東京へは月に10-5回の頻度で来京していた。19年は6月〜12月陸軍報道班として「支那」に行っていた。

    文学報告会という、文学者の戦争協力組織と文学者の関係を「ケストナー終戦日記」翻訳者の酒寄進一氏のように、一刀両断で非難する気持ちは私にはない。しかし、今はキチンと準備できていないので、このシリーズの最終回に書きたいと思う。

    1月2日
    高見順 雑煮を食い、母と共に鶴岡八幡宮に参拝。

    1月9日 
    高見順 亀谷の小林秀雄に会いに行き、いなくて、途中空襲警報、極楽寺の中山義秀へ。

    大佛次郎  大佛次郎の方が高見順よりも遥かに空襲事情は詳しい。この日の空襲は大船の(撮影所含む)被害を詳細に記している。

    1月11日
    高見順  小林秀雄宅で美について考える。考えるな、美は目の前にある。

    吉沢久子 新しく会社に入ったSさん、物資を集めることが仕事になってしまったようだ。今日はウイスキーが手に入るとか。アイデアルウイスキーというので、一本150円だそうだ。えっ、私の月給は120円なのに、とゆううつになる。でも妹からたのまれていたので一本購入とたのんでおいた。 帰りに妹の家に寄り、ウイスキーのことを伝えたらもっと買うという。豚なべ、ごちそうになって帰る。

    ←妹のところは夫が事業かうまくいっているようで、お金持ちらしい。月給分のウイスキーでも欲しいという階層が一定数いたのだということもよくわかる。吉沢久子は当時田舎の阿佐ヶ谷に住んでいた。

    1月12日
    高見順  赤裸々な私小説のような藤村の「家」について、あれこれ感想を書く。

    1月14日
    高見順 日比谷、銀座を歩く。日比谷映画劇場に長い列。銀座の国民酒場になった「天国」「ブラジル」で「無糖珈琲九銭」を飲む。「スリーシスターズ」でこっそり酒を飲む。日本酒五本とウィスキー二杯づつ、それで二百円あまり。大変な高さらしい。「名古屋に再び大地震があったらしい。気の毒なことだ。フィリピンの戦いはいよいよひどくなった」

    1月27日
    高見順  朝空襲警報、(のちにラジオで70機の来襲と報じられる。「詳しいことはわからぬが、不幸は察せられる」)終日家にいて、ゆうこく運動のために鎌倉に出る。 翌日、新聞には何も書いていないが、人々の話でことのほか酷かったと知る「最初の市街盲爆である」。義兄の話で、被害家屋千余。被害人数数千。

    吉沢久子 神田須田町のビルの勤め先で空襲に遭う。遠く(王子、池袋、日暮里、千住)で黒煙を見ていると、直ぐ近くで高射砲のパチパチという音、何かがはじける音、ビルなので遠くを見渡せる。今度は銀座、丸の内で黒煙。←ビルなので燃えないという安心感か、死ぬかもしれない、という危機感はない。いやに冷静な描写。もしかしたら、わざと感情を入れるのを抑制しているのかもしれない。というのは、3月の東京大空襲には感情を爆発させているからである。

    大佛次郎  翌日に東京の被災の詳しい話を聞いている。新聞ではなく、人伝に聞く方が正確な由。

    1月30日
    高見順 義兄と国家傍聴をしに都内へ。その前に爆撃地見物。地下鉄は銀座には行かず、しんばしまで。新橋三壺堂で「梅原龍三郎北京画集」(79円)「森寛斎画集」(22円)を買う。帝国ホテルへ。山水楼隣の骨董屋に爆弾が落ちたとのこと。そこまで行けず日比谷へ。朝日新聞社のガラスはみな破壊。10時、人ひとり通らない街。「寝れるときに寝ておこうと、みんな早く寝てしまう」から「何か気味の悪い、不吉な感じさえする静けさ」。

    吉沢久子 今日一日は空襲もなく平和であった。一日生き延びた。希望がなくなった。

    大佛次郎  米軍司令官が絨毯爆撃をドイツでやった奴だから、日本でも始めた。ある種非常に正確な推察を聞いている。工場を狙うものだと思っていた期待が覆ったことを嘆く。「戦争は彼我の人間の素質がものをいう段階に入っている」「戦争指導者ならいざ知らず、文士がこうもく安っぽく嘘をつけることだ(←林房雄「剣と詩」)と感心するばかりである」
    ←すみません。全部日記のストレートな引用ではなくて、時々日記の要約もしますし、私の感想的要約もします。ここでは地文が要約。「」内はストレート引用。

    ケストナーの日記は2月から、田辺聖子の日記は5月から入ってくる。
    ともかく、この3人の日記を読み比べて、東京の周辺に住んでいた文学者や、田んぼばかりの田舎に住んでいたOLたる吉沢久子は、比較的「安全だ」と思っていたようだ。
    けれども、東京の状況は、ほとんど現代のウクライナ・キーウの姿である。

    • kuma0504さん
      淳水堂さん、
      こんにちは。
      コメントありがとうございます♪

      ホントは住所などや、年齢、立ち位置などを厳密に考慮して選べばよかったのですが、...
      淳水堂さん、
      こんにちは。
      コメントありがとうございます♪

      ホントは住所などや、年齢、立ち位置などを厳密に考慮して選べばよかったのですが、適当に選んでしまって、大佛次郎と高見順の立ち位置が似通っていることに後で戸惑いました。しかも、高見順が北鎌倉にいたとしたら、大佛次郎は正に鎌倉市内にいました。

      まぁ少しは違いはあるので、明日はその辺りを明らかにするのですが、どうも読書とレビューが追いつきません。5人を連続してアップするのは難しい。3週間近く読んでいるのですが我慢できずアップ。羊頭狗肉に終わるかもしれません。
      2022/07/31
    • 地球っこさん
      kumaさん、おはようございます♪

      おお、日記読み比べレビューだ!
      わたしもウズウズしてきました。

      空襲警報のなかで、仕事にウィスキーに...
      kumaさん、おはようございます♪

      おお、日記読み比べレビューだ!
      わたしもウズウズしてきました。

      空襲警報のなかで、仕事にウィスキーに日常は続いているんですね。
      kumaさんもレビューをアップされてる『少女たちの戦争』読んでみたくなりました。
      2022/08/01
    • kuma0504さん
      地球っこさん、おはようございます♪
      ただ今、あさのあつこさんの居住地でまったりしております(←のちのち明らかにします)

      日記併読始めたので...
      地球っこさん、おはようございます♪
      ただ今、あさのあつこさんの居住地でまったりしております(←のちのち明らかにします)

      日記併読始めたのですが、流石に5冊同時に読んでいくのはしんどくて、進まないし、まだまた見落としているところもたくさんあるだろし、
      とりあえず今日でお休み、まったり読書して、仕切り直しです。
      2022/08/01
  • 『書け、病のごとく書け、業のごとくに書け、痴のごとくに書け。』

    文筆家の高見順は学生の頃から日記をつけていた。
    その膨大な日記から、終戦の年である昭和二十年の一年間の日記を「敗戦日記」として出版したもの。
    高見順自身が潔癖症に近い性質を持っているようで、思考の方向は決して明るくはないのですが、当時の一般市民の様子、文化人たちの様子が見られて非常に興味深い。

    まずは終戦前後の一般市民の生活の様子を窺い知ることができる。
    空爆のニュースが流れるが疎開して生活するには金がないので空爆されたら死ぬしかないのだろうという日々。日本の報道は勇ましいことばかり言うが劣勢は明らかなのだからむしろそれを認めたうえで覚悟を謳いかけて欲しいという思い。
    しかしいざ望んでいた終戦を迎えても静かに他人事のように受け止める日本人の様子。
    アメリカの統治によりアメリカによってもたらされた自由、マッカーサーに「四等国民」と言われたが言い返すことのできないような醜態を晒す日本人の様子。
    それらを日本を愛する者として、日本を憂う者として、恥ずかしくも思い、新たな日本人の道徳を望んでもいる。

    そして終戦前後で出版の自由が妨げられた状況での文学者たちの日常や交流。
    鎌倉を住居としていた高見順は、「鎌倉文士」の川端康成や小林秀雄や里見惇たち他の文学者たちと貸本屋の「鎌倉文庫」を開いたら思いのほか大盛況だったという様相、文化人たちが政治思想による表現の抑制に対して抵抗しようとした様子としかし全く力が及ばないことへの嘆きなど。

    さらには高見順が「このような状況でも自分は文士でいたい」という想い。
    日記の最中に小品や詩のメモを記録し、しかしこの膨大な資料は戦火に失われるのかという思い、そもそも文学というものはどこまで残るのか…などという心の動き。

    実際の地名や企業名で「○○社が空襲で焼け落ちた」「どこからどこまで焼け野原になった」と記録されているので、現在に当てはめて考えてみた。


    以下書き出し
    **********

    高射砲の音が爆弾のように聞こえる。前線ではキュンキュンと言った鋭い甲高い音に聞こえるのだが、東京ではズンズンという鈍い音。(一月五日 P9)

    その暗さとは、どこの人間のでもない、日本人の暗さだ。そうしみじみ思った。そうしてその暗さに切ないいとうしさを覚えた。
    こんないとしい日本人が、日本が、戦いに負けようとしている。(一月十二日 P24)

    芸とはかのごときものなのだ。空しいところに芸はある。
    (…)
    なまじ、あとに残る文学芸術などに従っているものの、空しさにきびしく直面できぬ不幸、空しいきびしさに鍛えられぬ不幸。
    後世に結局残りもしないのに、残るかもしれぬとうぬぼれて何か書いているものの不幸。その醜さが後に残るのに、何か書きちらしている者の不幸。
    だが、
    書け、
    病のごとく書け。
    菊五郎の踊りを見て、心に誓ったことは、
    かくのごとく、業のごとくに書け。(一月十六日 P35)

    病いのごとく書け
    痴のごとくに書け
    日記においても然り、
    自己反省のため、自己鍛錬のため(否、実際は、自己慰楽か)の日記、―かように考えていたが、目的などいらぬ。作用を考えるに及ばぬ。病のごとくに書け。(一月十八日 P36)

    ○もっと、どしどし、敵を作ること。
    自分を育てるために、敵を作ること。
    (…)
    自分の方では敵意を持たず、愛を示しつつ、しかも向こうからは敵意を持たれる。その敵意によって自分が育てられる。(二月十二日 P67)

    庶民とともにあった芸人は、庶民とともに死んだのである。
    文士は今のところまだ死んでいない。だがそのうち、犠牲者はきっと出てくる。
    そうして上層の政治家、富豪などは最後まで死なない。(四月五日 P151)

    小説と同じだ。事実だけ書くのが、小説の究極の姿だろうと考えられるが、若いうちはなかなかそれができない、そのきびしさにたえられない。そこで「こう思ったとか、ああ思ったということ」が入ってくる。そそこに小説を書く面白味、小説の面白味を求める。ところが、その「面白味」が小説の弱点になってくるのだ。一番腐りやすい部分になってくる。(…)
    鴎外などの日記は、事実だけなので腐らない。
    私の日記は、―腐ってもいい。いや、腐っていい。(四月七日 P153)

    ○焼け出された当座は、さっぱりしたなどと言っていても、やがて気持ちがひねくれ荒んでくる人が多いという。なかには、国のために焼かれて、無一文になったのだと言って知らない人の家でもどんどん入って行って、国のための偽性者、罹災者なんだから泊めてくれとういのもあるとか。ひどいのになると、焼け残った家からいろんな物を堂々と持ち出していく。
    「焼かれるより、焼け残される方が、こわくなりそうだ」
    と某君は言っていた。(四月二十四日 P181)

    人はなぜ小説を読むのか。
    人間の運命を、人間の生き方を、―人間を知ろうという気持ちが、人間をして小説を読ませるのだ。(四月二十九日 P184)

    (※新聞の日本優位の戦況報道を見て)
    なんともいえない口惜しさ、腹立たしさ、いら立たしさを覚えさせられた。
    敵に明らかに押されているのだ。敗けているのだ。なぜそれが率直に書けないのだ。なぜ、率直に書いて、国民に訴えることができないのだ。
    (…)国民は、こういう気休めの、ごまかしの記事に騙されはしない。裏を読むことに慣れさせられた。すると、何の必要があって、こういう記事でなければならないのだ。
    (…)
    こんなことで、この苛烈な戦争が切り抜けられるだろうか。(五月十一日 P192)

    ああ、己を吐露した仕事がしたい。否、せねばならぬ。(五月十八日 P198)

    (※日本を鼓舞する新聞に対するの読者の投書欄)
    報道陣や指導者にお願ひがある。「神機来る」「鉄壁の要塞」(…)かかる負け惜しみは止めてもらいひたい。(…)俺達はどんな最悪の場面でも動ぜぬ決意を持って日々やつている。もはや俺たちを安心させるやうな言葉は止めてくれ。
    敵に押されてきたら素直にそれをそれとして表現してもらいひたい。その方が日本国民をどんなに奮起さすかわからない。狭い日本のことだ、老若男女多少の差はあつてもみんなとことんまでぶつかる覚悟だから、見えすいた歯の浮くやうないひかたはやめた方がいい。(…)(七月二十二日 P249~)

    折口信夫氏がこれまた国学者らしい静かな声で「安心して死ねるようにしてほしい」と言った。すると上村氏が「安心とは何事だ、かかる精神で…」とやりはじめた。折口氏は低いが強い声で「おのれを正しゅうせんがために人を陥れるようなことをいうのはいけません」と言った。立派な言葉だった。こういう静かな声、意見が通らないで、気違いじみた大声、自分だけ愛国者で、他人はみな売国奴だといわんばかりの馬鹿な意見が天下に横行したので、日本はいまこの状態になったのだ。似而非(※えせ)愛国者のために真の愛国者が殴打追放され沈黙無為を強いられた。今となってもまだそのことに対する反省が行われない。(七月二十六日 P259)

    (※広島に“新型爆弾”が落とされたという噂と報道を接した東京の様子)
    街の様子、人の様子は、いつもと少しも変わっていない。オソロシイ原子爆弾が東京の私たちの頭上にもいつ炸裂するかわかないというのに、(…)人々は、のんびりした、ぼんやりした顔をしている。(八月八日 P278)

    毎日に、アメリカの戦時情報局の組織が出ている。長官をはじめ、海外部長、政策部長いずれも文芸家だ。文化人を戦争から締め出している日本とは、まるで違う。すべて、まるで違うの感が深い。(八月八日 P282)

    避難の話になった。もうこうなったら避難すべき時だということは分かっているのだが、誰もしかし逃げる気がしない。億劫でありまた破れかぶれだ。
    「仕方がない。死ぬんだな」(八月九日 P287)

    「休戦、ふーん。戦争はおしまいですか」
    「おしまいですね」
    と川端さんはいう。
    あんなに戦争終結を望んでいたのに、いざとなると、なんだかポカンとした気分だった。どんなに嬉しいだろとかねて思っていたのに、別に湧き立つ感情はなかった。(八月十日 P290)

    なるほど言論の銃のために死んだ文化人は一人もないことを恥じねばならぬ。
    「執筆禁止」におびやかされながらしかし私は執筆を禁止されなかった。妥協的なものを書いてべんべんとして今日に至ったのである。恥じねばならぬ。他を咎める資格はないのであった。しかし…。(八月十二日 P298)

    監視飛行の敵機が低空で頭上を通り過ぎた。口惜しさが胸にこみ上げた。わが日本の空に、わが日本の飛行機はもう飛んでいないのである。もう見られないのである。(八月二十五日 P331)

    (※トルーマンが演説でアメリカを「原子爆弾を発明し得る自由な民衆」に対して)
    「原子爆弾を発明し得る自由な民衆…」これは我々の心を打つ。まことに私達には左様な「自由」が奪われていた。自由の精神が剥奪されていた。(九月四日 P346)

    (※アメリカの、日本占領人事発令に対して)
    日本でのことながら、こういう正式発表は日本に対してなされない。外電によって知らされる。特記しておかねばならぬ。敗戦の現実の一つである。(九月十日 P350)

    (※マッカーサーが新聞並びに言論の自由を発令したことに)
    自国の政府により当然国民に与えられるべきであった自由が与えられずに、自国を占拠した他国の軍隊によって初めて自由が与えられるとは。
    (…)
    日本を愛する者として、日本のために恥ずかしい。戦に負け、占領軍が入ってきたので自由が束縛されたというのならわかるが、逆に自由を保障されたのである。なんという恥ずかしいことだろう。(九月三十日 P366)

    (※高見順は、ビルマや中国に報道班として赴いていた)
    日本人はある点、去勢されているのだ。恐怖政治ですっかり小羊の如く大人しい。怒りを言葉や行動に積極的に表しえない、無気力、無力の人間にさせられているところもあるのだ。
    (…)
    日本人だって残虐だ。だって、というより日本人こそといった方が正しいくらい、支那の戦線で日本の兵隊は残虐行為をほしいままにした。権力を持つと日本人は残虐になるのだ。権力を持たせられないと、小羊の如く従順、卑屈。ああなんという卑怯さだ。(十月五日 P371)

    女史選挙権が付与された。
    (十月十四日 P376)

  • 作家高見順が1945年の1月から12月の1年間に記した日記。

    私がこの本を読もうと思ったきっかけは、折しも2021年8月14日(土)の日経新聞夕刊の文化欄「文学周遊」に本書が紹介されていたからであった。

    記事は編集委員の宮川匡司氏によるものだが、本書を読んで改めてこの記事を読み返すと、さすが新聞記者、要点を素晴らしくまとめていることに敬服する。

    ところで、1945年といえば、言わずもがな、第二次世界大戦において日本が降伏し戦争が終結した年で、タイトルからも分かるとおり、戦争が大きなテーマになっているが、それと同時にマスコミがどのようにそれらを報じたかにこそ、著者の思いが込められている点には注意が必要だ。

    しかしながら、内容は「日記」というスタイルをとっているだけあって、政治論や政策論など小難しい話しではなく、市井の一市民としての著者の普段着の生活を淡々と綴っている点が特徴的である。

    あくまで日記であるため、文学的な趣向を凝らした表現はほとんどなく、シンプルでわかりやすい文章が中心で、そうであるがゆえに妙なリアリティを感じる。

    著者は当時、北鎌倉に居を構えていたが、仕事や戦争の罹災状況の確認のため、頻繁に上京していた。

    そして、3月10日の東京大空襲などの際に、友人の安否を案じて上京した著者は、変わり果てた東京の姿を目の当たりにした。

    このような状況を前に、著者の眼差しは罹災した、か弱き市民への慈しみと権力に対する反骨心に満ちている。

    「(早く移動しろという)役人の怒声に対して、民衆は黙々と、おとなしく忠実に動いていた。焼けた茶碗、ぼろ切れなどを入れたこれまた焼けた洗面器をかかえて。
    焼けた布団を背負い、左右に小さな子供の手を取って・・・。
    既に薄暗くなったなかに、命ぜられるままに、動いていた。力なくうごめいている、そんな風にも見えた。

    私の目にいつか涙がわいてきた。
    いとしさ、愛情でいっぱいだった。
    私はこうした人々とともに生き、ともに死にたいと思った。
    否、私もー私は今は罹災民ではないが、こうした人々のうちのひとりなのだ。
    怒声を発しうる権力を与えられていない。何の頼るべき権力も、そうして財力も持たない。黙々と我慢している。そして心から日本を愛している庶民の、私もひとりだった。」

    また、このような状況下で戦争の行方を著者はどうみていたか。
    著者はこの段階ではすでに日本が負けることの察しがついていた。

    にもかかわらず、当時の大本営やマスコミは、意気軒昂に虚勢を張り、情報発信機関としての責務を全うせず、実際の戦況をひたすらに美化した。

    ただ、当時(7月22日)の毎日新聞の読者投書欄に、驚くべき記事が載っていた。
    そのタイトルは、「歯の浮く文字」。

    ▽報道陣や指導者にお願ひがある。「神機来る」「待望の決戦」「鉄壁の要塞」「敵の補給線」等々、何たる我田引水の言であらうか。
    かかる負け惜しみは止めてもらひたい。
    もうこんな表現は見るのも聞くのも嫌だ。
    俺たちはどんな最悪の場合でも動ぜぬ決意をもって日々やってゐる。
    も早俺たちを安心させるやうな(その実反対の効果を生む)言葉は止めてくれ。

    ▽敵に押されてきたら素直にそれをそれとして表現してもらひたい。その方が日本国民をどんなに奮起さすかわからない。
    狭い日本のことだ、老若男女多少の差はあつても皆なとことんまでぶつかる覚悟だから、見えすいた歯の浮くやうないひ方はやめた方がいい。
    ある駅頭のビラに「神風を起せ」とあつたが、神風は人間が起こすものだらうか。神機神風の文字の乱用戒むべきだ。
    俺たちはもつと慎み深い日本人の筈である。」

    思想統制甚だしき当時にこのような投書をした人がいたこと、またこれを取り上げた毎日新聞の英断には驚いたと同時に、戦時下にあっても軍国主義一色でないことを改めて私に印象づけた。

    また、7月26日の日記にも似たような話が出てくる。

    情報局(当時の内務省の一機関)主催の「啓発宣伝事業に関する懇親会」で(この会合には著者のほか山田耕筰なども参加したようだ)、いたずらに愛国心を煽り、それが足りないから日本の戦況が芳しくないのだと言いつのる情報局総裁の上村氏。
    それに対し、「おのれを正しゅうせんがために人を陥れるようなことをいうのはいけません」と反論する国学者の折口信夫氏。

    そして、この状況を見ていた著者は、折口氏の言葉を「立派な言葉だった」と評したうえで、こう続けた。

    「こういう静かな声、意見が通らないで、気違いじみた大声、自分だけ愛国者で、他人はみな売国奴だと言わんばかりの馬鹿げた意見が天下に横行したので、日本はいまこの状態になったのだ。似而非(えせ)愛国者のために真の愛国者が殴打追放され沈黙無為を強いられた。今となってもまだそのことに対する反省が行われない。」

    これは、皮肉にも、今日の平時下の日本においても、ネット上などでよく見聞きする話しだ。

    「国を愛する」とはどういうことか、今一度今の日本人も熟慮すべきであろう。

    そして私の興味は必然的に日本が無条件降伏した8月15日を著者がどう生き、どう感じたかに向かった。

    いわゆる昭和天皇による玉音放送については、さらっと触れられているだけで、その内容などについては一切記されていない。

    また、この放送は正午になされたものだが、その日の午後の市井の人たちの様子も、「昂奮しているものは一人も見かけず、極めて穏やか」と表現されている。

    これは私には意外であった。

    国民全員が文字通り命を賭した戦いが敗戦のうちに終焉を迎えたのだ、皇国日本が敗れたのだ。
    それにも関わらず世の中の様子は穏やかというのが、あまりに違和感がある。

    でも、これこそが真実なのであろう。
    国民全員が命を賭した戦いということ自体が残念ながら、妄想に過ぎないなのだから・・・。

    そして、12月31日の日記、本書の締めくくりの言葉は、モンテーニュの『エッセイ』から、
    「物事ヲ従ヘヨ。物事二従フコト勿レ。(ホラシウス)」

    いかにも反権力者の言葉だ。

  • 山田風太郎の戦中日記を読んだときは、その旺盛な食い意地に笑ってしまった。
    何しろ若かったから、食べることだけが楽しみだというその文章に、実に説得力があったのだ。

    けれどこの日記を書いたとき、高見順は39歳。
    それなりの大人なのである。
    鎌倉に住みながら、仕事のためにしょっちゅう東京に出てきては、戦時下の東京を記録する。

    灯火管制の下、配給品以外(つまり闇)の酒を飲むために店を探し、伝手を手繰る。
    かと思えば、芝居小屋や映画館に並ぶ人々の様子が描かれる。
    死ぬか生きるかの瀬戸際でも、人は楽しみを求めるのだなあということがわかる。

    文学報国会に属し、従軍記者として記事を書いたこともある高見順は、しかし決して戦争を賛美してはいない。
    日本の主張をどうして他国は理解してくれようとしないのか?
    日本はもっとやれるはずじゃなかったのか?
    マスコミの煽りのひどさに国民はとっくに冷め切っているのだから、マスコミももっと正直な記事を書かねばならないのではないか。
    作家というよりは、一般の国民としての感想であろう。

    そもそもなぜ文学報国会なるものに参加しているのかというと、参加しないと『執筆禁止』とされてしまうかもしれないから。
    書くことの自由はそこにはない。
    だから活動が嫌で嫌で、毎回しぶしぶ会合に出ていくのである。

    作家としての自分に対するプライドが高く、例えば鎌倉在住の作家たちで貸本屋を設立した時、「番頭役」を受け持つのだけど、作家から番頭に成り下がったと愚痴る。
    奉仕作業の役に立てない非力な自分を自覚しつつ、決して自分はルンペンではない作家なのだと言い募る。

    東京が空襲で焼け野原になり、本土決戦が行われるとしたら鎌倉も危ないのではないかと心配する。
    しかしお金がないから疎開ができない。
    金持ちはいつもいい目を見て、庶民はいつも何もできないと愚痴る。

    身体は一人の国民としてそこにあるのに、意識はいつも一段上にいてイライラしているような、そんな文章。(中二病?)

    沖縄に出兵して亡くなった友人を偲ぶけれど、住んでいた場所が戦場になった沖縄の人について思いをいたすことはない。
    本土決戦に心配をするだけだ。

    敗戦にあたって、日本人が中国で現地の人たちにしたことを考えると、どれだけひどいことを進駐軍にされるかと怯えていたが、ふたを開けたら、日本政府が自国民から奪った数々の自由と権利を進駐軍が日本人に返してくれたことに感謝をしてる。

    ”南樺太、千島がソ連に取られる。それはいい。それは仕方ない”
    本州に住む人の、これは本音なんだろうなあと思う。
    樺太の、真岡郵便局の電話交換手の少女たちが、迫りくるソ連兵に怯えながらも職務を遂行し、最後まで任務を遂行した後自決した、なんて事実は現代どころか当時も全然ニュースになってはいなかったんだという衝撃。

    自分たちが行ってしまったことの大きな過ちを、被害を書きながら、反省の弁はほとんどない。
    あまりに正直に書かれた日記であるがゆえに、読んでいて非常にイライラした。

  • 作家高見順が昭和20年1月1日から12月31日まで書き綴った日記。鎌倉坂井市、小説家と東京を往復する日々が綴られる。
    銃後の生活の実態が垣間見られたり、空襲の焼け跡の悲惨さ。本土決戦への覚悟。一方で愛国精神を声高に叫ぶ者への冷ややかな目。真実を発表しない軍部や報道への怒り。敗戦後の日本人のみすぼらしさへの憤りとそれへの慣れ。アメリカ兵におもねる人々への怒りと諦観。自らの創作活動への焦燥と覚悟。
    急激な戦況の悪化と敗戦と占領という激動の1年を赤裸々に綴った文書で、非常に興味深く読める。川端や大佛といった作家たちも登場し、鎌倉を拠点とした文化人たちの行動も述べられる。

    著者:高見順(1907-1965、坂井市、小説家)

  • 作家の高見順が執拗に書き続けた日記のうち、1945年1月から12月までの一年間を編纂した日記集。

    居住地のある鎌倉での空襲警報に怯えながら、銀座や浅草など、空襲で焼けた都市部の様子や、そこでの生活の模様が余すことなく描かれ、敗戦直前・直後の東京がどのような状況下を把握する上で1級のドキュメント。

    自らも含む多数の作家の蔵書を貸文庫として提供した「鎌倉文庫」設立の背景やその模様、また、そうした事業と平行して自らの作品を書かなければいけないと思いながらも筆が進まない苦しさも伝わってくる。

  •      -2007.09.07記

    昭和20年の1月1日から終戦の詔勅を経て12月31日までの、中村真一郎に「書き魔」とまで言わしめた文人の戦時下の日々を執拗なまでに書き続けた日記。
    おもしろかった。敗戦間近の極限に追いつめられた日本とその国民の様子がきわめて克明に記述されている点、また敗戦後のマッカーサー進駐軍占領下の人々の様子においても然り、具体的な事実の積み重ねに文人としての自らの煩悶と焦慮が重ね合わされ、興味尽きないものがある。

    高見順は戦中転向派の一人である。
    明治40-1907年生れ、父は当時の福井県知事阪本釤之助だが、非嫡出子いわゆる私生児である。
    1歳で母と上京、実父とは一度も会わないまま東京麻生において育ったという。
    東大英文科の卒業だが、在学時より「左翼芸術」などに投稿、プロレタリア文学の一翼を担う作家として活動をしていたが、昭和7-1932年、治安維持法違反の嫌疑で検挙され投獄され、獄中「転向」を表明し、半年後に釈放されている。
    一旦、転向表明をしてしまった者に対し、軍部は呵責のない徴用を課する。
    昭和17-1942年のほぼ1年間、ビルマに陸軍報道班員として滞在、さらには昭和19-1944年6月からの半年、同じく報道班員として中国へ赴いている。
    ビルマの徴用を終え帰国してまもなく、東京の大森から鎌倉の大船へと居を移した。鎌倉には大正の頃から多くの文人たちが住まいした。芥川龍之介、有島生馬、里見弴、大佛次郎など。昭和に入ると、久米正雄をはじめ、小林秀雄、林房雄、川端康成、中山義秀などが続々と住みついていたから、遅ればせながら鎌倉文士たちへの仲間入りという格好である。

    この鎌倉文士たちが集って貸本屋開設の運びとなる。
    多くの蔵書が空襲で無為に帰しても意味がないし、原稿執筆の収入も逼迫してきた事情もあっての企図であった。
    高見は番頭格として準備から運営にと東奔西走、5月1日無事「鎌倉文庫」は開店した。
    この日100名余りの人々が保証金と借料を添え、思い思いの書を借り出していく盛況ぶりであったという。
    この鎌倉文庫は終戦後まもなく出版へと事業を拡張させ法人化され、文芸雑誌「人間」や「婦人文庫」「文藝往来」などを創刊していく。

    8月6日、広島に原爆投下。
    新聞やラジオはこの事実をまったく伝えない。だが人の口に戸は立てられぬ。翌7日、高見は文学報告会の所用で東京へ出向いたが、その帰りの新橋駅で偶々義兄に会い、原子爆弾による被災情報を得る。「広島の全人口の三分の一がやられた」と。
    それから15日の終戦詔勅まで、人々は決して公には原爆のことなど言挙げしない。貝のように閉ざしたまま黙して語らず。
    すでに人々の諦観は行きつくところまでいってしまっているのだろう。無表情の絶望がつづく。

  •  
    ── 高見 順《敗戦日記 1959‥‥ 文芸春秋新社 198108‥ 文春文庫 20050726 中公文庫》
    http://booklog.jp/users/awalibrary/archives/1/4122045606
     
    (20151017)
     

  • 090316 by 『戦争の世紀を超えて』
    終戦後早々の価値観のがらりと変容の様

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著者プロフィール

1907年、福井県に生まれ、1965年、千葉県に没する。小説家、詩人。
本名、高間芳雄。
高校時代にダダイズムの影響を受け、東京帝国大学文学部時代にはプロレタリア文学運動に加わる。
1935年、『故旧忘れ得べき』で第1回芥川賞候補。1941年、陸軍報道班員としてビルマに徴用。戦後も、小説、エッセイ、詩とジャンルを問わず活躍した。
主な作品に、『如何なる星の下に』(人民社、1936)、『昭和文学盛衰史』(文藝春秋新社、1958)、『激流』(第一部、岩波書店、1963)をはじめ多数。
ほかに『高見順日記』(正続17巻)、『高見順全集』(全20巻)がある。

「2019年 『いやな感じ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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