保科正之: 徳川将軍家を支えた会津藩主 (中公文庫 な 46-5)

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  • 中央公論新社
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  • Amazon.co.jp ・本 (233ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784122046856

作品紹介・あらすじ

徳川秀忠の庶子という境遇から、異腹の兄家光に見出され、将軍輔弼役として幕政に精励、武断政治から文治主義政治への切換えの立役者となった、会津松平家祖・保科正之。明治以降、闇に隠された"名君"の事績を掘り起こす。

感想・レビュー・書評

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  • 保科家と言えば会津藩のイメージが強く、正之が訳ありではあるが二代将軍秀忠の血を継ぐ方であったことは知らなかった。徳川宗家をひたすら盛り立てるスタンスと、優れた知的才能から文治政治を指向し、実際に民を深く思う施策を行ったことが理解できる。残念なのは明治政府による徳川治世の全否定の中で、正之の業績が現代の日本人に知悉されていないこと。著者のような歴史作家が正之という人物を伝えてくれたことに感謝。

  • ここ数年、会津に二度ほど旅行に行き、また、読んだ時代小説に保科正之が登場していたことから本書を読みました。保科正之の業績や私生活などもわかる本ですが、参考文献の文章を引用して現代語訳がないのはちょっと残念。まぁ内容はだいたいわかるんですが・・・。

  • 徳川将軍家の実子だが、事情により苦労を重ねた末に会津藩主となる。名君として、また将軍家を支えた。焼失した、かつての江戸城天守閣が再建されなかったのにも理由がある。今も福島県・会津若松市には、保科正之が過ごした高遠藩ゆかりとして「高遠そば」がある。

  • 保科正之は、八重の桜で会津松平家の精神的支柱として取り上げられている「一心大切に忠勤を存ずべく」から始まる15か条を制定した実質的初代会津藩主。徳川初期の幕府を支え、数々の善政で名君中の名君と言われていたが、明治維新後会津が滅藩となり、その名声も取り上げられなくなっていった。

    明暦の大火で焼け落ちた江戸城天守閣を再建しようとする多くの大名に対し「物見やぐらの役にしかたたない」と一喝し、その予算を市中再建に振り分けたり、江戸城防衛のため敢えて橋を架けていなかったため多くの市民が火災を逃れようとして川で水死したことを知って橋を架けるようにしたり、備蓄米の倉庫が延焼しそうなことを知って、市民に、「蔵の火を消せば米は取り放題」のおふれを出し、早期鎮火と米の配給を同時に実現したことなど、特に災害時の対応で抜群の対応を見せた。

    三代家光から四代家綱になるタイミング、武力統治から法治文徳による統治へ移行する時代を良く見抜き、何に重点を置いて判断すべきかを常に考えていたからこそ、後世の手本となる判断ができたのだと思う。現在のリーダーにも必要と痛感。

  • 保科正之の基本情報を知りたくて購入。地の文の間に文献から当時の記述のまま引用されていて、肝心な意図が読み切れないまま続きを読むことも。現代語訳すればもっと敷居が低くなると感じた。たまたまNHKのBS歴史館であらましを知っていたから理解できた部分もある。筆者の保科正之への愛はとても伝わってきた。

  • 『リーダーシップ』山内先生引用本
    江戸大火の混乱を庶民の反乱なくコントロールし、社会を治めた。
    卓越した先見性とリーダーシップ能力をもつ。

  • 家光の異母兄弟で江戸時代初期において水戸藩の光圀と並ぶ名君であり、第四代徳川将軍家綱を支えるとともに初代会津藩主となった人物である。明暦の大火後にとった政策に感銘を受けて、もう少しこの人物の経歴や実績を知ることを目的に本書を購入。
    本書により得られたテークノートしておきたいポイントは以下の通り
    ・幕政に将軍補佐役として関わり武断政治から文治主義へと切替
    ・明暦の大火(振袖火事)の被害者への救助金を迅速に拠出する一方江戸城天守の再建等は見送り
    ・幕末の会津藩の徳川幕府への忠誠に象徴される独特の文化を形成するに至る家訓を制定し、御三家に続くNO4の地位を得た会津藩の行動原則とした。

  • 徳川3代将軍家光~4代家綱の頃の話。
    松平容保でしめくくられる会津藩の家風を作った藩主。
    上杉鷹山などが藩政改革や藩主の鏡として語られることが多く,その著書も多いが,本書を読んで,もっと保科正之の伝記なり,歴史小説で,その生き方を伝えられるものがあってもよいと感じた。
    2代秀忠の4男に生まれながらも,秀忠の正室には浅井長政と信長の妹のお市の方の娘の於江与の方であり,これがすごく嫉妬深く,正之の母に子が出来たことも知られることをずいぶんと長い間ためらい,家光も異母弟がいることに当分気づかなかったようである。
    後に,武田信玄と三条の方の娘である見性院の働きかけで徳川秀忠に認められ,会津藩を継ぐ事となった。
    自分を顧みずして,一に民政を,二に徳川を思うというのが正之の精神の脊柱をなすものであり,無私という精神そのものであった。
    会津藩は正之が藩主となってから,天候不順で凶作の年でも餓死者が出ないよう,民のための蓄えに努めたり,養老米という年金制度のようなものも創設した。藩士の禄高も多くはなく,『知足』という”足る事を知る。自分のみの程をわきまえてむさぼらない”ということを実践した人で,松平の姓も,葵の紋も用いることを潔しとしなかったようである。
    まさに名君というにふさわしい人物だったようである。
    最後に付け加えておくが,本書は歴史小説ではなく,保科正之の人物像なりを説明した著書である。

  • なるほどお手ごろ、だが無表情のままサラリと読みきってしまった。

  • 将軍家光の弟でありながら、数奇な運命
    のもと、武田一族の武将に育てられた
    しかし、運命は彼を将軍輔弼の臣として
    活躍の場を与えられ、そして他に類を見
    ない私心のない高潔なその生き様が
    余すところ無く再生した中村彰彦先生!

    読むべきなり♪

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著者プロフィール

中村彰彦

1949年、栃木県栃木市生まれ。東北大学文学部卒業後、文藝春秋に勤務。87年に『明治新選組』で第10回エンタテインメント小説大賞を受賞。91年より執筆活動に専念し、93年に『五左衛門坂の敵討』で第1回中山義秀文学賞、94年に『二つの山河』で第111回直木賞、2005年に『落花は枝に還らずとも』で第24回新田次郎文学賞を受賞。また2015年には第4回歴史時代作家クラブ賞実績功労賞を受賞。小説に『鬼官兵衛烈風録』『名君の碑』『戦国はるかなれど』『疾風に折れぬ花あり』、評伝・歴史エッセイに『保科正之』『なぜ会津は希代の雄藩になったか』など多数。

「2020年 『その日なぜ信長は本能寺に泊まっていたのか』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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