告白 (中公文庫 ま 35-2)

著者 :
  • 中央公論新社
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  • Amazon.co.jp ・本 (850ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784122049697

作品紹介・あらすじ

人はなぜ人を殺すのか-。河内音頭のスタンダードナンバーにうたいつがれる、実際に起きた大量殺人事件「河内十人斬り」をモチーフに、永遠のテーマに迫る著者渾身の長編小説。第四十一回谷崎潤一郎賞受賞作。

感想・レビュー・書評

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  • 歴史に残る大犯罪者を、読んでいるうちに応援したり、愛おしくなっていました。
    彼を大犯罪者にしたのは周囲の人たち、強いて言うならばあの一族ではないか。あかんではないか。
    分厚い小説ですが、サラサラ読めて、アホで面白く、終盤は切ない、大傑作です。

  • 明治26年に実際に起こった大量殺人事件「河内十人斬り」をモチーフにした大作。作者得意の関西弁を駆使して、実際の事件をモチーフにしつつもあくまで町田節。たまに入る作者からの「あかんではないか」というツッコミや、ロックバンドを引き合いに出しての例えなど、本来重くシリアスになりがちなテーマを軽妙にしていて大好きです。

    根っからの残虐非道な悪人というわけではない主人公・熊太郎が様々な紆余曲折を経てついに大量の殺人を犯すまでにいたる経緯を丹念に拾ってゆく作者の目線は、弱いもの、はぐれてゆくもの、滑稽で哀れなものへの深い愛情と共感があって、赤ん坊まで殺した残酷な殺人者でありながらどこか憎めない熊太郎という人間の一生を描き出します。どんな理由があっても、人を殺していいということはないですが、それでもこの熊太郎には共感せずにいられません。

    熊太郎の弟分で、一緒に大量殺人を行う弥五郎も、まあ言ってしまえばただのゴロツキでチンピラなわけですが、直情的で単純な性格、少年の頃に一度だけ助けてくれた熊太郎を死ぬまでアニキと慕う一途さなんか、いっそ愛おしいくらい。どこかで少しづつ少しづつ歯車が狂っていって、取り返しのつかないところまでいってしまう、その残酷な悲しさ。この分厚さを読みきるだけの価値ある傑作だったと思います。

  • 実話とは知らずに読み、終盤になるころやっと実話をモチーフ?と気づく。
    松永熊次郎が出てくる度にまた同じ事の繰り返しか、と気分が滅入ってしまう。
    救いようのない話は今の私には合わなかったようだ。面白いか面白くないかと言われれば、面白いのかな、いや、悲しく苦しく読むのが辛かった。

  • この小説を読むために数々の小説を読んできたんとちゃうか、ワレ、と思うほど、最高傑作に出会えたがな!(塩狩峠超えたな)この先読む小説、もうおもんないんちゃうやろか。河内弁のグルーブにのせて、熊太郎はあかんほうへあかんほうへ。思弁的な熊太郎の心のぐだぐだに共感し、わしもやと同化してしもて、わなないた。思弁的すぎて、うらはらな心が乱れ打ち、よくあるよなー。思いもよらん、けったいなことしでかすことあるよなー。アホと天才は紙一重。いわんや善人と悪人においてをや。人は人をなぜ殺すのか、というよりも、人はなぜ自分を殺すのかしらん。ありのままでなんて言葉がチープに感じる、一撃必殺の小説でした。

  • ブクログでもアマゾンでも星5が多く、軒並み高評価だったので期待して手に取った。

    一言で言うと大作だ。文庫で800Pくらいあり読み進めるのになかなか手間取った。
    それでも面白いので小説の中にすんなり入り込めた。町田さんの集大成と言われる理由もわかる。

    明治時代を舞台に、熊太郎という河内の無頼者を主人公として、実際にあった事件河内十人斬りと彼の一生を描いている。博打、酒、女、喧嘩のやくざ者。こう言うと主人公はとても強い人間のように聞こえるが、実際は思弁がちで意気地のない、ええ恰好しいだ。いつだって、悩みに悩んだすえに彼は行動を起こす。

    思弁がうまく言葉にならず他人に伝わらない、その主人公の悩みと葛藤を描こうとしている珍しい作品だ。

    河内弁というこてこての関西弁を駆使し、町田康ならではのくほほ、おほほといった笑い方や、ぬらぬらといったわけのわからない表現も健在だ。なぜかそれら独特の表現が本作の明治時代と絶妙にマッチしている。自堕落な主人公という点ではこれまで読んできた町田さんの主人公と一緒だが、その一生を描いているという点で、これは突き抜けている。人はなぜ人を殺すのか。その問いに対してのひとつの答えがここにある。

    星5でないのは、主人公の他人に理解されないという悩み、この悩みと主人公が終盤にとる行動との間にあまり直接的な繋がりがないように自分には思えたからだ。この行動は主人公という人物を体現している。確かに主人公自身の悩みや葛藤から生じた諍いと、そのためにとった行動ではあるが、動機の一番大きなものはただむかついたからだという点で、少しうーんとなってしまった。熊太郎よりも私のほうが思ったことをうまく言葉にできていない気がする。うーん、難しい。

    だが読む人にとってはうまく繋がっているように見えると思う。長さに億劫になるかもしれないが、一度手に取って読んでみてほしい。傑作だと思う。
    なお本作で町田さんは2005年に谷崎潤一郎賞を授賞している。

  • 一言一句飛ばすのが惜しい。引き込まれる饒舌な河内弁の騙り口。感想が難しい…小説って意図せずとも著者の価値基準や傾倒が文章にどうしても表れると思っていたが本作には全くそれがない。850Pもあるが熊太郎の一生に他ならぬ読み物で、そこが何より凄いと思った。
    全epがあまりに巧妙。頭に熊太郎らが浮かぶ。例:駒、笛、耕らなかった田、盆踊り、熊次郎の声、縫の神格化、P709正義等ないと知る。
    前半熊太郎の性質に自分も思い当たる節が多かった。普通を成せぬが人を陥れる悪人ではない、損し行き詰まる熊太郎を私は許したい。弥五郎も魅力的。

    思弁的な熊太郎が、終盤、自分の中にある自分の本当の思いを吐露しようとするのに何も出てこなかったシーンが悲しくて印象的。

  • この本を買うまで、町田康のことを、まちだやすし、と頭の中で読んでいたので、訂正する機会になった。

    昔実際にあった、河内十人斬りという大量殺人事件の話というあらすじをみて、「一体犯人はどんなサイコパス野郎なんだ?なんとも血みどろそうで、ゾワゾワしながら読めそう!」と気楽な思いで手に取り、中をパラパラ捲って、異様に口の悪い関西弁の羅列を見て、益々楽しそう、とるんるんで買って帰って、読み始めたはいいものの、すぐ胸がジクジクと痛み始めた。
    主人公の、熊太郎が、あまりに自分と重なりすぎたからだ。この熊太郎が、後に十人斬りの犯人になることは、読む前にカバーを読んで知っている。サイコパス犯人を高見の見物と思って読み始めたときのハイテンションはすぐに萎み、自分と熊太郎の行く末を案じながら読むことになってしまった。またこの熊太郎が本当にひどい目にばかり遭うので、その度に自分ごとのように苦悶していた。
    ただでさえ、常日頃から、犯罪のニュースを見るたび、被害者になったらどうしようよりも、加害者になったらどうしよう、と考えてしまう癖がある程度には、自分が世間を踏み外しかねない、ギリギリの淵を歩いている自覚があるので、やっぱり私は…などと思わずにはいられない。それほど熊太郎の気持ちが手に取るようにというよりむしろ、心と心が直接に繋がっており、熊太郎の気持ちがそのまま自分になだれ込んできて、今自分と熊太郎の区別があんまりつかないぐらいに、同化してしまった。
    熊太郎の苦悩の種である思弁癖は、この「思弁癖」という文字を見て、長年自分が苦しんでいた症状はこれだったのか!!と晴れ晴れとした気持ちになるぐらい、自分にも覚えがあった。
    そして、私も熊太郎と同じく、この思弁癖に負けて負けて、仕事も生活もままならない人間なのである。
    頭の中で常に思弁しているので、勉強も仕事に集中できたためしがない。外を歩いていても、全くの赤の他人の小さな仕草、言葉一つや、鳴る音の一つに意味を見出しては頭の中で妄想(大抵は被害妄想)を繰り広げてしまい、ただ外を歩くのにも怖くなる。しまいには自分の生活するための動作中にも余計な事を考えてしまい、つい変な動きをしてしまう。そしてそれを見られて、変な動きをしたな、と思われたのではと勘繰って平然を装おうとして、また更に変な動きを重ねてしまい、常に動作がぎこちなくなり、終いには、本当の狂人と思われて仕方のないほどおかしな挙動となる。
    側からみれば、私は仕事のできない、生活能力の無い、挙動不審の人間で、実際そうなのだが、「でも、違うんだ、自分の思考が、自分を邪魔して、本当なら簡単に出来るはずのことを、出来なくしているんだ」という気持ちを人生のこれまでずっと抱えて生きてきた。と、この小説を読んでやっとハッキリ悟った。
    私は熊太郎より、突き詰めて考えられないお陰で、自分がなんとなく他者と比べて不器用な人間だな、というぼんやりとした思いを持って生きてきた。
    他者が自分よりも出来が良いのが、「思考と行動が真っ直ぐ一致してる」に由来しているというこれほどピッタリと納得できる言葉には自力では辿り着けていなかった。
    だからこそ、ぼんやりした劣等感で済んでいたんだとも思う。

    ここまで同じ同じ!とはしゃいできたが、決定的に熊太郎と私が違う部分もある。
    それは、熊太郎がそれでも、世間と関わって生きざるを得なかったことである。
    私は自分がどうやら世間の大半とは異なり、イケてるグループには一生入ることはできないと悟るやいなや、なるべくなるべく世の中のあらゆる人と関わらずに生きようと半ばひきこもりのようになりつつ、それでも世間と関わらなければいけない際は、できうる限り自分を無にして、正常な人に擬態させることを試みた。
    結果親に迷惑をかけている点では熊太郎と同じだが、どうにかこうにか細々とパートタイムの仕事を続けている。
    (と、書いている今にもクビにされるのではという恐怖を感じている。何せ仕事が下手くそなので。)
    そして、決定的な孤立もどうにかこうにか免れている。(と思っている。)
    それに対して、熊太郎は、自分が村人全員にうっすら馬鹿にされていると知りながら、それでも小さい村の中で隠れることもできず、そして、自身の異様さを隠しきることもできないまま、生活せざるを得ない。
    しかも、熊太郎は私より遥かに頭がいいので、幼い頃にはもう自分と他者の違いを苦しいほど自覚してしまう。
    そして、そのせいでどんどん生きづらくなる。
    本当は熊太郎は頭がいいのに、誰にもそのことは理解できない。正直に言っても逆に狂人と思われる。
    それでも幼少の頃はまだなんとか自己を押し隠し器用に生きてきたのに、押し隠すことで溜まった圧力のせいで、ブッ壊れて溢れた自我が、不思議でグロテスクな幻となり、自分に一生ものの責め苦を背負わせる。
    大人になってからは、次から次へと問題に巻き込まれ、自分の良心に従うほどに悪い結果を招く。
    悪い心に従っても悪い結果を招く。
    それでも、この世に義があると信じていた熊太郎は松永家にとうとう完全に、この世に義なんてものは無いと完膚なきほど徹底的に知らしめられる。
    こうして熊太郎は凶行を決意する。

    私はこの世に全体に義がないことをなんとなく察知している。
    それでも世間との間に壁を作っているので、顔面に押し付けられるほどその事実に直面してはいない。
    だから、熊太郎ほどの痛みを受けずに済んでいる。
    熊太郎と、こんなに同期していても、所詮私は温室におり、世間ともろにぶつかる熊太郎をただ見ているにすぎない。
    でも、熊太郎が生きる姿を読む間中、私はずっと、熊太郎が私の代わりに世間と戦ってくれている気がしてならなかった。
    この世界は根本的に間違っていて、だから自分はそこに添い遂げることができず、浮足だった生活しか送れないでいる。他の皆は何の葛藤も無しに、苦痛も無しに生きているのに。
    そんな世界に対してまともに対峙して、自分に合うように変えようとしたら、狂人となり、破壊するしかない。
    自分では正しいと思っても、側から見れば、自分達の生活を破壊する狂人としか見てもらえない。
    それが怖いから私は閉じ籠っているけど、熊太郎は閉じこもることもできず、向かって行ってそしてたくさんの人を殺して死んでしまった。
    10人も殺した、しかも子供も殺した人間を英雄視するのは間違っている。完全に間違っている。
    だが、とにかくこの小説の中の熊太郎を私は必死に心の底から応援した。
    背中をさすり、わかるわかると相槌を打ち、一緒に啖呵を切り、苦悶した。
    そうすることで自分自身が大いに慰められた。
    生きづらいのは自分だけじゃないということにこんなにも実感を持ったのは初めての経験だった。

    熊太郎が最期、自分が他者の身の上を考えたことが無かったと悔悟する場面があるが、私もそうなりかけていた。
    自分の劣っていることばかりを気にして、他人を遍く「器用に生きれる考え無しの奴ら」などと、一括りにして、余計に自分の孤立を深めていると、他人に対して負の感情が募るばかりである。しかし、人間は個々人に身上があり、感情があり、それぞれに不恰好や、器用などと言った言葉で語り尽くすことは到底できない情報量でとにかく生きているのだ。
    熊太郎の頭の中に鳴り響く800ページを超える思弁でも語り尽くせないほどの人生を、現実の人たちは生きている。
    そのことだけは絶対に忘れてはならないと思った。
    自分の劣等感を先鋭化し、武器のように尖らせたいがために他者を平均化して考えることが、わかっちゃいるけどやめられない類のことであったとしても、何度でも、頭の中に繰り返し言い聞かせていかねばならない。

    小説の中に出てくる、財宝と、腐乱死体を覆い隠す墳墓が、熊太郎という人そのものを表しているようである。
    正義に生きて村人に尊敬されたいという気持ちを持ち、人生において何度かそう生きようとするものの、自分を見つめる自分が、そんな良い人間のはずがない、と目の前に悪臭のする醜い死体を掲げてきて、そのたびにおかしな方向へと進んでいってしまう。自分の舵が曲がる原因は、自分なのだが、そのことに自覚していてなお、どうすることもできない。
    いつしか財宝は全て売り飛ばしてしまって、腐乱死体の影だけがこびりつく墳墓は正しく熊太郎の行く末に重なる。

    こんなふうに長々書き連ねてしまうほど、没入させられる文章だった。
    頭に軽妙な河内弁が鳴り響き、農村の風景が眼前に土煙を上げて立ち現れ、熊太郎は挙動不審にそこを歩いていた。
    町田康が作り上げた河内十人斬りの熊太郎は、しょうもない、ろくでもない、どうしようもない人生を苛烈に生きて死んでいったが、私はこの小説のおかげで、なんか明日からも生きていけるかも。と思えた。

  • 幾億語を費やしたって告白できない事柄についての告白。
    自他を焼き滅ぼす業火を点じ、煎じ詰めて見える景色は。

    胸に世界の果をもつものは世界の果に行かなきゃならぬ。
    ——安部公房『壁』

  • すごいものを読んでしまった。
    久しぶりに夢中になって読んだ作品。
    これぞ文学!と言いたくなる。
    800ページ以上あって長いんだけど一気に読んでしまった。読後は茫然自失。


    これは大阪の河内・水分村で実際に起きた‘河内十人斬り’という大量殺人事件をもとにした物語。全く救いのない話。
    でも、不思議と薄気味悪さや底暗さがない。河内というお国言葉のおかげだろうか。河内弁というものを生で聞いたことはないのだけれど、小説のなかで主人公・城戸熊太郎と周りの人間との機知に富んだ会話が絶妙で所々笑える。実際笑った。

    なにより擬音語を効果的に織り交ぜた口語による文体が読んでいて心地いい。すごい。


    思弁性が強く周りとの距離が掴めない、どこまでも不器用な熊太郎に読み進むうちに心酔してしまう。真面目に生きられない、かと言って極道者にもなれない。人生の敗残者。その生き様を徹底的に描き切った町田さんはすごい作家です。

  • 一番好きな小説と聞かれたら、これを出そうかな。

    私の出身地が舞台。せやから、出てくる地名がまずいちいち知ってる。あそこね、あそこね、、とイメージがふくらむ。言葉が、テンポが、めっさ心地よい。大阪弁、河内弁のわからん人は、読めるんやろか?ちうか、めっさ読みにくいんとちがん。もう、めっさめさ読みやすい!うれしい!標準語ベースの本、読んでる時とはあきらかに異なる、心の喜び!町田康や川上未映子読んだら、鉤括弧以外もすべてが大阪弁ちゅのは、ストーリーとはまた別のところで、読むだけで、喜びが湧いてくると気づく。
    ちなみに、大阪離れて20年近くたった今、こうやって河内弁に再会してみて、河内弁はきたないやら柄悪いやら言われてきた意味がようやく飲み込めた私。どっぷり浸かってよそを知らなかった頃は、なぜそう言われるのか、どこが汚いのかと疑問やったけど。こらまーきたないと言われますわ!

    、、っと、ストーリーについては。。
    主人公のアホさ、なんでそうなんね!とどつきたくなる薄鈍かげん、そんなアホに忠実に支えるスマートな舎弟と、そんな2人の正直者が馬鹿を見るというチョー現実的なストーリー(ま、現実にあった事件が下敷きなわけやけど)に、ラストはもう涙なしには読むことができない。
    そんな泣かせるストーリーやのに、合間合間に町田さまのアホふざけがちょいちょい入って、終盤になるまで、まさかそんな悲劇が待ってるとは思わないくらいのアホ話やから、最後にあんな息をのむような逃亡劇があり、涙と洟水も止まらない2人の最期に行き着くなんて。そこまでのおふざけとのコントラストが、そしてその生温〜いおふざけに慣れきってグダグダ読んでたら、ショック大きすぎる‼️

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著者プロフィール

町田 康(まちだ・こう)
一九六二年大阪府生まれ。作家。九六年、初小説「くっすん大黒」でドゥマゴ文学賞・野間文芸新人賞を受賞。二〇〇〇年「きれぎれ」で芥川賞、〇五年『告白』で谷崎潤一郎賞など受賞多数。

「2022年 『男の愛 たびだちの詩』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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