- Amazon.co.jp ・本 (291ページ)
- / ISBN・EAN: 9784122050105
感想・レビュー・書評
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コーヒーを飲み始めたのは、中学生の頃だ。自分の家のすぐそばに、喫茶店があり、そこに通った。父親のコーヒーチケットがあり、それを使っていいと言われて、飲んだ。真っ黒な飲み物を飲み干し、苦いママのブラックで飲むことが、大人になった気がした。そんな背伸びをコーヒーが教えてくれた。
コーヒーを極める 3人の男たち。カフェドランブル 関口一郎。南千住 カフェバッハ 田口護。吉祥寺 もか 標交紀。それぞれが、コーヒーを極める。日本のコーヒーの達人たち。
「絶対音感があれば、絶対味感もあるはずだ。」とコーヒーの味と香りを追求する。
計量化、数値化。勘を言葉に置き換える作業をする。
標交紀は、「それは 言葉や数字の裏に隠されている。努力次第でそれが徐々に明かされる。
その隠された部分も精確に言葉で表現しきってみたい。」という。コーヒーに憑かれ、呑み込まれ、狂うのである。道を極める変人たちによって、コーヒーが豊かになる。
田口護は言う➀よいコーヒーとは「欠点豆」がハンドピックによって取り除かれている。②煎りむらや芯残りのない 適正な焙煎がなされている。③焙煎したての新鮮なもの。とまずは、基本をおさえる。南千住のバッハに行き、田口護にあって、コーヒーについて話を伺った。実に、嬉しそうにコーヒーの話をするのである。私は、雲南で、コーヒーを作ろうとして、田口護の「コーヒー大全」をバイブルにしていた。コーヒー豆の種類と焙煎度について、実に詳しく書いてあり参考になった。
実際コーヒーを作りマーケティングすると、日本人は、酸味が好きだが、中国人は酸味を好まず、苦味を好む。それは、焙煎によって表現できる。
「コーヒーも最後の最後は 品格のあるなしで決まってしまう。」「必ず 匂い立つような気品が感じられる。」「コーヒーのうまいまずいの決め手は 焙煎。」「うまいまずいではなく、良い悪いコーヒーがある。」という。コーヒーを極めながら、人間を磨いていく。日本人である。
辻嘉一は「味覚三昧」で、 「コーヒーは濾すものであり、煮るものではなし。」という。
香りが豊か ボディのしっかりした ガツンと刺激のあるコーヒー。
豊かな香り 豊かな酸味 豊かなボディ。わびさびた風趣を感じさせる渋好みのコーヒー。甘みがほんのりと出てくる温度帯、すなわち人肌のものをなめるように味わい、言い知れぬ余情まで味わう。
香りの高い美味しいコーヒーを飲むことが、至福の時間を過ごすことができる。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
これは本当に「憑かれた」人たちの話だ。日本人は武士道精神なのか、茶道や華道の歴史があるためか、何事にも「XX道」を目指して徹底的にこだわる、そして極める文化がある。
これが日本の素晴らしさだと思う。
そしてコーヒーに人生を捧げ、そして極めた(ただし本人たちは道半ばと謙遜する)人たちの話だ。
その中でも特に興味深いのは生豆を自宅の一室を改造したエイジングルームで10年以上寝かせてから焙煎するランブルの店主。そしてアメリカのコーヒーチェーンの連中に「どうだ!」とばかり飲ませたら「腐っている」とバッサリ言われた逸話。
私はエイジングしたコーヒーは1回だけ飲んだかもしれない。今思えばあれだ、と思いつく。決して高温ではないお湯でゆっくりと淹れたコーヒーはどろりと香ばしさ甘く、煮詰めたほろにがさだった。
さて、そんなコーヒーはどうも日本だけの文化のようだ。
そして最後に登場する標氏。お湯の温度1度と豆の量1グラムにこだわる。「コーヒーの最後は”品格”のあるなしで決まってしまう」の一言。
日本に芽生えて根ざした特別のコーヒー文化は、スタバを代表とするアメリカのチェーン店が盛況な現在、どこまで絶やさずに残って行くのか注目だ。 -
日本人は、書でも花でもお茶でも何でも道を求めていく。
そして書道、華道、茶道などが生まれる。
本書で取り上げられている3人は、独自に珈琲道を求め生きていた人たちではないか。
豆の選び方、焙煎の仕方、ドリップの仕方などに一度、一秒、一グラムでの完璧を求めていく。
珈琲は焙煎だとは何度も聞いていた。しかし、そんなに違いは無いだろうと思っていた。
本書を読んで、今まで飲んでいた珈琲はなんだったのか疑問になった。
本当に美味しい珈琲を飲んでみたいと思う。