- Amazon.co.jp ・本 (259ページ)
- / ISBN・EAN: 9784122052833
作品紹介・あらすじ
英国式ローストビーフとアジの干物の共通点は?刺身もタコ酢もサラダである?アルジェリア式羊肉シチューからフランス料理を経て、豚肉のショウガ焼きに通ずる驚くべき調理法の秘密を解明する。火・水・空気・油の四要素から、全ての料理の基本を語り尽くした名著。オリジナル復刻版。
感想・レビュー・書評
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【感想】
アルジェリア式羊肉シチューとフィレンツェ風ビステッカ。もしくはヨークシャー・プディングとアジの干物。
一見共通点が無さそうなこれらの料理も、筆者に言わせれば、全て「同じ種類」の料理である。フランス料理だろうと、中華料理だろうと、イギリス料理だろうと日本料理だろうと、その土地で獲れる食材の種類が異なるだけで、その「調理法」は全く同じである。
そして、その「調理法」とは決して複雑なものではなく、火・空気・水・油のたった4つから構成される「四面体」の中に存在するのだ。
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筆者の玉村氏は旅と料理を愛するエッセイスト。世界をさまざまに歩いて口にした料理からインスピレーションを得て、グルメ本・料理本を数多く執筆している。本書に出てくる数々の料理は、筆者が世界を旅した中で口にしたものと、自宅でフライパン片手に創作したものでできている。
料理には無限のレパートリーがある、と普通は考えるだろう。
人間は太古の時代から料理をしてきたにも関わらず、毎年のように新しいレシピ本が発売されている。世界の国の数だけ「国民料理」が存在し、一国の中でも地方によってさまざまな「郷土料理」が作られている。
とすると、料理とはあたかも無限に変化する化学現象であり、ある食べ物を他の食べ物から類推してカテゴライズすることは不可能に思えるだろう。カレーとシチュー、うどんとそばのように、調理法も食べ方もほぼ同一な料理ならいざ知らず、サラダと刺身、目玉焼きと青椒肉絲、牛肉の赤ワイン煮込みとブフ・ブルギニョンのような食べ物は、到底「似ている」とは言えない。
しかし、これらの料理は「基本の部分で同じ」であり、「火、空気、水、油」の4種類からなる調理法と食材の組み合わせである、と論じたのが本書なのだ。
そんな馬鹿な、と思うかもしれないが、この結論に至るまでの過程が実に見事である。
例えば「ローストビーフ」の原理。牛肉を焼く際に、グリルを使って直火で焼けば「牛肉のステーキ」になり、オーブンを使って(少し火から離して)焼けば「ローストビーフ」になる。さらに火から遠ざかり、熱と煙で焼けば「スモークビーフ」になり、さらに火から遠ざかり、太陽と風で焼けば「ビーフジャーキー」になる。(本書ではもっと複雑な過程を辿るが、ここでは簡略している)
こう考えてみるとどうだろう、「ローストビーフ」と「アジの干物」が似た料理であるように思えてこないだろうか。一見共通点があるとは思えない他国の料理であっても、実は「調理法」という根っこの部分でつながっているのである。
しかし結局のところ、「調理法が似ている」とはどこまでのものを指すのだろうか。「ローストビーフ」と「アジの干物」は火熱によって食材の水分を飛ばす料理であるが、「肉まん」は逆に水分を使って食材に熱を加える料理だ。これが「ポトフ」であれば、周りは水だらけになり、到底似ているとは思えない。
そこで筆者は各国の料理を引き合いに出しながら、調理法を構成する4つの基本要素を導き出した。それが「火・空気・水・油」からなる四面体である。
四面体の頂点にあるのは「火」であり、底面の三角形はそれぞれ「油、空気、水」を頂点としている。火から各頂点に伸びる線は、それぞれ
「火に空気の働きが介在してできる料理」=焼き物ライン
「火に水の働きが介在してできる料理」=煮ものライン
「火に油の働きが介在してできる料理」=揚げものライン
である。
例えば、焼き物ラインで火の頂点に近いところは「直火焼き」となり、空気の頂点に近い所は「干物」になる。揚げものラインで火の頂点に近いところは「煎りもの」となり、油に近づくにつれて「炒めもの」「揚げもの」と変わっていく。そして、火の影響が全くなくなる底面上では「生もの」となる。油に近い生もの、空気に近い生ものとはなんぞやと思うかもしれないが、豆腐で考えればわかりやすい。前者が油豆腐で後者が発酵させた(空気で腐らせた)豆腐である。
このように、料理は千差万別と思われがちだが、実はみんな、はじめから四面体のどこかに隠れているのである。
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料理は科学(化学)だと言われている。
化学物質は基本単位である「元素」まで細かく分解でき、いくら複雑な化合物でも、それを構成するのは二百種類にも満たない微小の物質である。
筆者はなんと、この「元素」と同じものを「料理」で発見してしまったのだ。
各国の調理方法を比べながら共通点を見出し、料理の根底に潜む「最小単位」を「火、油、空気、水」の4種類まで落とし込んだ。無数に存在する「料理」を分解しきって、超シンプルな方程式に置き換えてしまった。
この方程式を使えば、羊肉シチューやフィレンツェ風ビステッカを食べたことが無くても、豚肉の生姜焼きのレシピを応用することで料理できる。しかも作り方の要点さえ押さえておけば、さらに新しい料理にジャンプできるのだ。
本当に凄い。まるで手品のようだ。
新しい世界をひらく可能性を秘めた、見事な一冊だった。
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【本書のまとめ】
1 どの国の料理も、根底は同じ
フランス料理の生命はソースである。ソースには何十種類も何百種類もバリエーションがあるが、全部覚える必要はない。
肉を炒めたあとのフライパンに汁を入れて油脂・肉汁をこそげ落とし混ぜ合わせる。これを仏語でデグラッセというが、デグラッセする汁はワインでも生クリームでとブイヨンでもなんでもいい。この汁を変えるだけで、さまざまな種類のソースができることになる。
また、汁をかけるものを牛肉、豚肉、鶏肉、魚、と変えていけば、倍々式にレパートリーが増えていくではないか。
ひどく複雑な調理法も、根幹はごく簡単ないくつかの要素から成り立っていて、それが順列組み合わせみたいな倍々ゲームになって無数の枝葉や末節を繁らせているのだとは考えられないだろうか。
料理の基本は一緒であり、あとは風土によって手に入る材料が違うだけなのだ。
バターやワインやシャンピニオン等が手に入るブルゴーニュ地方でなら「ブフ・ブルギニョン」ができるし、オリーブ油とニンニクとトマトが豊富に手に入るアルジェリアなら羊肉のトマトシチューができる。もちろん、日本で手に入る材料であれば日本風のオリジナル料理(豚肉と焼酎で薩摩名物とんこつ)ができてしまうのだ。
各国の料理の相違点ばかりを見つめていると、あくまでもそれらの料理は相互に関連のない全くの別物だということになるが、共通点を辿ってみれば、実はひとつの同じ料理であり、時と所に応じてさまざまに異なる姿を人に見せるだけのことなのである。
2 ローストビーフの原理
ローストもグリルも、直火にかざすという点では完全に一致している。
ローストは肉を遠くから炙る様に焼く。グリルは焼き網のことだが、広く、直接に火に近づけて焼く「直火焼き」の意味に使われる。つまりビーフ・ステーキは、牛肉のグリル(直火焼き)のことで、ローストとグリルの違いは「火からの距離の差」ということになる。
直火による料理法(途中に水や油を介在させない)には必然的に空気が働きかけてくる。
火と空気の度合いにより、
炎に触れるほど近づけて焼く→グリル
少し火から遠ざかる→ロースト
さらに火から遠ざかる→くんせい
太陽の日と風で干す→干物
になるのだ。
3 天ぷらの分類
空揚げと天ぷらの違いとはなにか。
空といいながら、粉をつけることは許される。しかし、衣――粉を液体に溶いて作った結果できるドロドロした流動体――をつければ天ぷらになる。天ぷらはほとんど全地球市民に共有の財産だ。
とは言っても、日本語の「天ぷら」と「カツ」と「フライ」はかなりいい加減な分類であるため、これを正しく構成し直そうとすれば、
①なにもつけずに揚げたもの
②粉をつけて揚げたもの
③粉を含む流動物質をつけて揚げたもの
④粉を含む流動物質にさらに別の固形物質をつけて揚げたもの
となり、それぞれ
①素揚げ
②粉揚げ
③衣揚げ
④変わり衣揚げ
という名前になる。
一方、英語では炒めるも揚げるも、両方ひっくるめて「フライする」という。
世界三大料理の一角であるフランス料理は、揚げもののレパートリーが少ない一方で、中国では、鍋を基本的万能調理器として料理のシステムを発達させたので、ロースト料理のレパートリーに乏しい。
中国には焼き魚などの直火焼き料理すらないのだ。これに対して、暖炉→オーブンを万能調理器として活用してきた西洋人は、ふつうの煮物までオーブンの中に鍋ごと入れてしまうようなクセがつき、火にかけた鍋で油を操るテクニックには習熟しなかったのかもしれない。
4 火を使うもの使わぬもの
フランスや中国には、火熱と手間を加えたものでなければ料理とはいえない、という伝統がある。事実、生野菜の盛り付けをコックではなくウエイターがやっているレストランがある。一方、日本はすし屋の板前のように、「切る」「飾り付ける」部分も「料理」の過程とみなしている。
火を通さない代表的な料理がサラダだ。ここで、酢のものに油を一滴加えれば「サラダ」になる、ということが正しいと同時に、油の入らない酢のものもまたサラダの一種である、と考えることにしよう。
西洋における油の使い方は、日本における醤油の使いかたと似ている。とにかくなんの料理にでもかけてしまうのだ。とすると、「マグロの刺身」もまた、ひとつの立派なサラダであると言えるのではないか。(信じられない人は、マグロとツマとミョウガとシソ葉を混合して、しょうゆをかけて混ぜ合わせてみるといい。見た目も中身も立派なシーフードサラダになる)
サラダは、つまるところ材料を調味料で混ぜ合わせた「和え物」なのだ。
火熱を加えて料理した後の材料を調味料で和えたものは、それも抵抗がなければサラダと呼んでも構わない。ステーキにワインソースをかけた一品でもサラダと呼べるだろう。
サラダという名称は、火熱を加えて材料を処理するという意味での「料理」の中心的工程の前後に接続する、調味料を和えるという作業の総合的な表現にかかわっているのだ。
5 煎る
油が十分に多量の場合には「揚げる」、それほど多くなくても物体と鍋のあいだに充分に油が介在していれば「炒める」、それがどんどん少なくなれば「煎る」、そこからさらに進んで物体の表面が黒くなり、煙を発し始めたら「焦がす」ことになる。同様に、「蒸す」と「煮る」も非常に近しい関係にあり、煮る工程において水のほかに空気が強く介在していれば「蒸す」になる。
6 料理の四面体
料理とは、
(1)火
という中心要素の営みを受けてそれに対応する、
(2)空気
(3)水
(4)油
の三要素が支えてできるものである。
一方で、「料理以前」に登場して、しかも火と同じく必要不可欠な、ナマものの世界がある。
火を一番上の頂点に置き、空気、水、油を底面の3頂点とした四面体を「料理の四面体」と呼ぶことにする。
空気、水、油の頂点と火を結ぶ稜線が、それぞれ
「火に空気の働きが介在してできる料理」=焼き物ライン
「火に水の働きが介在してできる料理」=煮ものライン
「火に油の働きが介在してできる料理」=揚げものライン
である。
それぞれのラインにおいて、火の頂点に近ければ近いほど、三要素の介在の度合いは少なくなり、逆に、それぞれのラインで、火の頂点から遠ざかって下に行くにつれ、それぞれの要素の介在度は増し、同時に火の直接的な影響はしだいに少なくなって、ついに底面に達すると同時に、火の影響は途絶え、「ナマもの」になる。
何か一つの材料を、この四面体のどこかの一点に置くと、ひとつの料理が出来上がる。そしてその点を移動させていくと、次々に新しい料理ができる。
実際の料理では、何種類もの食品を組み合わせて作ることが多いから、その成り立ちはなかなかに複雑である。しかし、手順のひとつひとつを見ていくと、結局は基本的プロセス――四面体の中に位置づけることを繰り返す――なのである。
世のなかの料理のすべては、四面体のどこかにあるのだ。
料理の本を読むときには、まずそこに書かれている作りかたの手順を、四面体の原理を頭に置きながら、ひとつひとつ基本的プロセスに分解してしまおう。そうしてその料理の根幹を掴んでおけば、好みに応じて不必要なプロセスを省略してみたり、自己流にアレンジしてみたり、主体的な料理ができるはずだ。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
「あーそういうことね完全に理解した」というのは、古来から人類が望んできた世界認識の極点であろうが、実際にその台詞を口にするのはペテン師か気違いなのが相場である。それでも、本書を読むとすくなくとも料理という極めて限定的な世界においてではあるものの、冒頭の台詞を口に出したくなってしまう。
本書は、世界各地の様々な文化によって多彩な様相を示す料理の世界は4つの要素で説明できる、と豪語する魅惑の書籍である。4つの要素とは、火、水、油、空気であり、全ての料理は火を頂点とした4面体で説明できるという。
表紙の帯で示されたそのコンセプトを読んだときには、「そんなわけがない」と思いつつ、本書ではまず世界の様々な料理の調理法が丁寧に説明される。煮込み料理、天ぷら、ローストビーフなどの調理法の解説を読みつつ、本書の最後でようやくこの4面体のコンセプトが説明されるのだが、そのときにはこのコンセプトが見事に現実の料理の世界を説明するのにふさわしいものだということを実感してしまう。その語り口は、イタロ・カルヴィーノの幻想小説を読むかのような魅惑に満ちており、一瞬たりとも飽きさせない。恐ろしい世界認識の書物である。 -
5年程前に読んだ名著。
目から鱗で、膝を打ちまくる。
物事を抽象化して、身の回りの世界を認識すると、
こんなにも楽しくなるものかと。
料理名を気にせず、適当な具材を組み合わせて、
「焼いたん」「蒸したん」「炒めたん」「炊いたん」くらいで呼んでることもしばしばあるけど、
世界共通の料理の本質だなーと考えさせられる。
料理が、楽しくなること、うけあい。
料理だけに止まらず、世界のあらゆる事象を見る目が変わる。 -
世界中の様々な料理法に共通点を見出し、料理の四面体という概念で説明している。四面体の理論は多少強引な気もするけど面白かった。文章は読みやすい。一度読み返したい。
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なるほどなと思った。
ふだんもてきとうにあるものをそれっぽく料理しているが、こういった考えのもと作れれば幅が広がりそうな気はする。 -
玉村さんのエッセイはどれも面白いですが、これが出会い。和えものもお刺身もカルパッチョもサラダだったんだ。それまで考えたこともなかったです。目から鱗が落ちます。
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前半はお腹を鳴らしながら楽しく読みつつも、「グルメおじさんが食べ物好きすぎて変なこと考えちゃってる」くらいのノリにしか感じられず。はて、この「論理的思考が学べる!」たる謳い文句はどこから…と首を傾げつつも、あまりにも出てくる料理が美味しそうで貪り読んでいると、気付いたらもはや最終章に。最後まで読んでなるほど、こういう風にまとめたかったのねと「ガッテン」しました。いやぁそれにしてもお腹空くわ。
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火、空気、水、油の構成要素で世界中の料理が実は語れること、四面体の考えを使って無数のレパートリーで料理が作れること(ただし美味しいかは各自の腕前と味覚による)が語られる。適当な料理でも四面体のあの辺に位置するな…とかなるのでハードルが下がりそう。料理面白い、となる良い本だった。心平粥は家でだらだらしてる日に作ってみたい(米、ごま油、水を1:1:15の割合で混ぜて2時間煮る)
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おいしさは、五感だけで感じるものじゃないかも。
このごろ「実用的でない料理本」というのが好きで。料理が自分のライフスタイルや思想に与える影響、原始から続く料理という運動が、どんな歴史をたどって、世界にどんな影響を与えたか等に興味があり、色々本を漁るうちに『料理の四面体』と出会いました。
この本を読んでも、包丁さばきがうまくなるわけでも、火加減の調整が適切になったり、盛り付けセンスが磨かれるわけでもありません。実用的な料理指南書やレシピ集ではないですが、「料理は単純な原理で成り立っていながら、無限の可能性がある」というメッセージを伝えてくれます。
他方で得た知見がまったく無関係の分野と結びついたりする、そんな瞬間こそが私の生きる喜びのひとつ。料理で得た経験がマラソンに活きることや、農業のノウハウが油絵に活きること、暗算がロッククライミングにいきることもあるかもしれないと思うだけで人生は楽しい。だから自分の生活に直接役に立ちそうにない本の方がワクワクします。
本書ではまず世界のあらゆる料理が紹介されます。フィレンツェのビステッカとか、コトゥレット・ド・ムトンとか、いかにも美食家が好みそう料理名が頻出する上にとても文学的な表現もあり、グルメ評論アレルギーがある人にとっては、著者がうっとり自己陶酔しつつ書いたように感じて鼻につくかもしれません。
最初こそ気取ったグルメエッセイのような印象でしたが、少しずつ確実に、私たちは著者が導き出したある一つの論理に一歩一歩と近づいていきます。高級フレンチも、アルジェリアの野外で野蛮に作られたシチューも並列に語り、目玉焼きもスクランブルエッグもオムレツも「卵の油いため」という点で同じ料理だとする大胆さをもって、紙上・世界グルメツアーは展開していきます。スープとシチュー、果てはサラダと刺身の境界線もぼやかせる力技にクラクラしながら読み進めていくと、最終章でついにモノリスにたどり着きます。
それがタイトルの「料理の四面体」です。
食材⇆媒介(水、空気、油)⇆火
という関係性を暴き出したのです。料理の工程を分解し、四面体(三角錐)の立体チャートにあらわす。頂点に火、底面の三点は空気、水、油。この世にある料理をその四面体チャート状の座標ですべてあらわすことで、調理の原理を解き明かしたものです。
逆に言えば火を使い、水、空気、油をどの程度か媒介させれば、それはもう「料理」と言いきれてしまうというコペルニクス的転回が起こるのです(生食は除く)。世界中に料理は数多あるけれど、調理の本質は基本的に変わらないということと同時に、そのチャート上にまだ誰も見つけてない一点の座標、つまりまったく新しいレシピが隠されているかもしれないといったロマンも感じます。
こういった本を読むたびに思うのは、おいしさというのは、五感からのみ感じるものではなくて、その調理の工程などに思いを馳せることからも感じるのかもしれないと思います。その食材の生産地の風土のことを想像したり、生産者の顔を思い浮かべたりすること(野菜コーナーに農家の名前と写真が添えられていますよね)、伝統を感じること、思い出と結びつけることなど、五感以外の「気持ちのおいしさ」があるのだろうと。