- Amazon.co.jp ・本 (409ページ)
- / ISBN・EAN: 9784122053670
作品紹介・あらすじ
捕らわれた孫丙に極刑を下すのは、西太后の覚えもめでたい清朝の首席処刑人・趙甲。生涯の誇りをかけて、一代の英雄にふさわしい未曾有の極刑を準備する。処刑場には白檀の香りが-。罪人の実父と処刑人の義父、愛人の県知事の狭間で孫丙の娘・眉娘が狂奔する。生は血の叫喚にむせぶ、怒涛の大団円。
感想・レビュー・書評
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読みづらいかと思っておそるおそる読み始めてみたら、ものすごくおもしろくて、楽しく読み切りました。まあ、この本を楽しく読んだといったら、それはそれで変な目で見られるかもしれませんが…
登場人物としてはそんなに多くはないんですけど、その登場人物たちのそれぞれの思惑が絡み合いながら、実に豊かに深く物語が進んでいきます。愛と欲と権力とプライドと。人間が、カリカチュアされまくっているのに、本質的なところでは深くしっかり描かれているように感じましたし、作品全体からあふれまくるエネルギーがすごかったです。(2015年5月29日読了)詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
すごい作品。
星4つなのは、スプラッタすぎて「大好き」とは言いがたいから。クオリティとしては星5個以上。
入れ込みすぎて夢にまで出てきた。二度と読み返さないけど一生忘れられないだろうな。 -
前巻から引き続き、読みながら興奮覚めやらず。
読み終えたあとは、良い意味で脱力感。これぞ文学! と思い知らされた感じで、しばらくの間は何も読む気になれなかった。
原語で読めたら、とどれ程思ったことか。 -
死生観というか、最期をどう迎えるか?
日本の切腹も同様と思うが、それが処刑であったとしても、民衆の面前でどう態度に表していくか? 耳目を集めること自体が大きな価値を生んでいる。
処刑をする方も受ける方も、その美学が際立っていました。
この作品を読んで映画「赤いコウリャン」(莫言原作)で、日本兵が中国人兵士を農民の見守る中、処刑を行う残虐なシーンも分かったような気がしました。
自分に中国古典の素養があれば、もう少し深く楽しめたのではないかと・・・
余談になりますが、あとがきに三毛子(サンマオズ)という言葉の解説がありました。1900年頃、外国人の人の下で働く人を二毛子と呼び、その下で働く人を三毛子という、と。
一昔前の台湾の人気漫画「三毛子」の語源が分かりました。 -
素晴らしかった。初めて読む現代中国文学。何度も度肝を抜かれました。清朝末期の史実を背景にそれぞれ個性的な5人の語り手による物語に心は囚われ息つく間もないほど。。身がすくむような処刑場面のおぞましさ、地方芝居猫腔の哀切な調べが絡み合いながら大団円となり悲劇として幕は下り。極悪極上のエンターテインメント。吐き気をもよおすほど食傷気味に大満腹でございます。
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最後はこうきましたか。趙甲も孫丙も銭丁も眉娘も主役級の役どころが一同に会し大団円。白檀の刑で声も漏らさず孫丙。鉄道の開会式まで生かせておけと袁世凱。さてはて、刑の結末はほとんどの者の退場となりましたが、そのあとのひと波乱が想像できる。ノーベル文学賞受賞ということで莫言、初読みですが、これは面白かった。ニャオ。猫腔って実際にあるのか、創作なのか。虚実入り乱れて摩訶不思議。小甲が虎の毛で人の本性を覗くのは、日本の昔話に狐の眉毛で同じ話がありましたね。
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土着の幻想的な劇である猫腔が徐々に物語の語り手全員を侵食して最終的にはまるで悲劇を観ているかのような終わり方に導くのは、成る程、マジックリアリズムを手法としたフォークナーの響きと怒りを思わせる内容だった。
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時は清朝末期、日本を含む列強が利権をむさぼり、近代化改革をめざした六君子は西大后の命により処刑されたばかり。山東省高密県東北郷では、袁世凱と組んだドイツ軍が圧倒的軍事力をもって農地を寸断、先祖の墓を掘り起こして鉄道の敷設を強行する。そこに現れたるは義賊・孫丙。妻子を殺した残虐なるドイツ軍に、農民たちの反乱軍を率いて報復を企てる――。
まさに芝居が演じられるがごとくに展開するこの長編小説は、実際に、作中に登場する民衆芸能「猫腔(マオチャン)」の形式によって語られる。小説が創り出す架空の劇が、史実に基づく小説を駆動させる仕掛けとなっているのだ。
主要な登場人物は5人。高密県で一番の犬肉を売る、美しくタフな眉娘(びじょう)。彼女の恋人で県知事の銭丁(せんてい)。眉娘の父親であり猫腔の名手、そして反乱を率いることになる孫丙。眉娘の間抜けな夫、屠殺屋の小甲。そして小甲の父親で、西大后の忠実な処刑人、趙甲。銭丁は眉娘と義理の父の契りを結んでもいるため、これはひとつの家族をめぐるドラマともなっている。
間抜けな夫を出し抜く眉娘と怜悧な夫人をもつ銭丁との逢引に、銭丁と孫丙の髭比べ、妻子を殺され農民たちを扇動する孫丙の活躍など、芝居を盛り上げる悲喜こもごものエピソードは、しかし、芝居全体にまとわりつく猫腔の哀切な響きと血生臭い残酷さの添え物でしかない。清朝の処刑人たちが皇帝のために演じる手の込んだ刑罰と、そうした処刑の美学を一顧だにせぬドイツ軍の近代的な残虐さとが、舞台に死体を積み上げて血の色で染めてゆく。そのクライマックスを飾るのは、もはや冗談のように精緻で芳しく、残虐極まりない白檀の刑だ。
ここに至って、支配者のために供される残虐さの極みは、敗北した反逆者を伝説の英雄へと変え、民衆の力が暴発する祝祭へと転じることになる。処刑場に響き渡る猫腔とドイツ軍の銃撃と――。
そしてこのクライマックスが示すのは、現実とフィクションの間の壮絶な闘いでもある。圧倒的な暴力という現実を前に、なすすべもなく押し潰されていくしかなかった中国の農民たちの生を、自分たちの歌により、自分たちの世界観の中で語りなおすこと。それだけが最後に残された想像力の闘いなのだ。だからこそ、芝居の幕引きを決定するのは、殺されていく者でなくてはならぬ。現実には誰も語る者のない猫腔劇「白檀の刑」。この壮大な絵空事は、歴史の中で消された者たちが残した声の残響のように響くのである。