ニセ札つかいの手記 - 武田泰淳異色短篇集 (中公文庫 た 13-6)

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  • 中央公論新社
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  • Amazon.co.jp ・本 (292ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784122056831

作品紹介・あらすじ

一日おきに三枚ずつ渡されるニセ札をつかうことで「源さん」との関係を保とうとする私。しかし、その「ニセ札」が「ニセ」でなかったとしたら…。ニセ物と本物の転換を鮮やかに描く表題作ほか、視覚というテーマをめぐる不気味な幻想譚「めがね」など、戦後文学の旗手、再発見につながる七作を収める。

感想・レビュー・書評

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  • 本屋さんで「武田泰淳の新刊出たんだ、でもなぜ?」と思って手にとった1冊。聞けば、今年は生誕100周年だという。奥さま・百合子さんの『富士日記』は今でも読まれることが多いように思うけれど、静かで非常に格調高く、しかも苦くて重苦しいものがずーんと心の奥底に残るような、武田泰淳の一連の作品が進まれる機会はとても少なくなっているのではないかと思う。私も、結構好きな作家さんながら、読まなくなって久しいので、いい機会だからと読んでみた。

    「異色短篇集」と銘打っているとおり、バラエティに富んだ作品が収録されている。最初の『めがね』の書き出しにはやられた。すごくさりげなくもインパクトがあり、すっと小説に入りこんでいける。ひどい近視で眼鏡が手放せない男と、こちらもまたひどい近視なのに、眼鏡をかけようとしない女。女の眼鏡を男がうっかり割ってしまうところから、二人の世界のとらえかたのずれが描かれる。波風が立ちそうで立たないものの、不器用な恋愛(でも決して恋愛ドラマではない)と二人の価値観の開きがドラマチック。向田邦子ドラマに似た空気を感じた。『「ゴジラ」の来る夜』で描かれる、来襲するゴジラを迎え撃つ特攻チームの、密室殺人をめぐる大騒ぎには、筒井康隆作品のスラップスティックさを感じながら半笑いで読んだが、落としかたには苦さと絶望感をしのばせており、ちょっとぞくっとする。やるな、武田SF!

    表題作『ニセ札つかいの手記』や『白昼の通り魔』も、じわじわと重くビターで鮮やかな面白さなんだけど、個人的に好きなのは、『空間の犯罪』。不具の男が、極道にののしられた一言をきっかけにあることに挑むさまと、そのはざまで心ならずも犯してしまう罪の顛末。不具が理由で戦時の徴兵を免れたこの男が、「自分よりもはるかにまっとうな人間が戦争で死んでいるのに、生きていてもしょうがない自分が、なぜここに生きているのか」という引けめを感じ、ガスタンクのてっぺんに上りながら憔悴していくさまが重苦しく、克明な苦い描写でくらくらくる。「どんな結末でもいいから、早く終わらせてやってくれえ!」と読んでる途中に何度か吐き出してしまいそうになった。ザ・武田泰淳な面白さと苦さの密度が高い短編だと思う。

    どの作品も、武田泰淳ならではの苦さに満ちたイヤ感が漂いながらも、スットコSFからノワールに映画エッセイと、エンタテインメントにあふれた多芸さを楽しめる、ディープインパクトな短編集でした。以前読んだ、ラノベ設定仰天中華活劇『十三妹』といい、しかめっ面の純文学おっさんじゃなくて、トンデモな面白小説おじさんなんですな、武田泰淳は。しかも猫好きの。

    • 花鳥風月さん
      生誕100周年だったんですね。本屋で見かけて「なんで今頃武田泰淳なんだろう」と思っていました。

      『十三妹』私も昔読みましたよ(あの表紙で「...
      生誕100周年だったんですね。本屋で見かけて「なんで今頃武田泰淳なんだろう」と思っていました。

      『十三妹』私も昔読みましたよ(あの表紙で「? これは?」と思ったもので)
      Pipoさんの『十三妹』レビューも楽しいです。おっさんテイスト(笑)
      2012/11/04
    • Pipo@ひねもす縁側さん
      「武田泰淳まつり!」と『ひかりごけ』やら何やらを並べて、すごく地味なブックフェアをやっている本屋さん、なかったですよね…やっぱり(笑)。

      ...
      「武田泰淳まつり!」と『ひかりごけ』やら何やらを並べて、すごく地味なブックフェアをやっている本屋さん、なかったですよね…やっぱり(笑)。

      『十三妹』は、アニメ化されても楽しそうな作品だと思いますが、あのおっさん講釈テイストがなくなるとただの萌えアニメかも…と想像したりしています。
      2012/11/04
  • ★生きて行くことは案外むずかしくないのかも知れない

    ★ 我々は人間の美しさ強さもだが醜さや弱さもありがたがっていい



    そういえば内田吐夢との白熱した対話も収録された『タデ食う虫と作家の眼 武田泰淳の映画バラエティ・ブック』(清流出版2009年)で彼が映画をいかに貪欲に見ていたかを知って喜んだものでした。

    本書はあの『司馬遷』『ひかりごけ』『森と湖のまつり』『富士』『快楽』など重厚な作風の武田泰淳が1963年に上梓した奇妙な味わいの小説集『ニセ札つかいの手記』で、元本には表題作の他「ピラミッド付近の行方不明者」「白昼の通り魔」の三編が収められていましたが、本文庫には表題作の他に「めがね」「『ゴジラ』の来る夜」「空間の犯罪」「女の部屋」「白昼の通り魔」「誰を方舟に残すか」の七編が収録。

    ところで、大島渚の映画『白昼の通り魔』(1966年)が武田泰淳の原作だったことをご存知でしたか? 私はたしかに映像でクレジットを見てシナリオも読んでいたはずなのに、まったく記憶になくて、ええっと驚くことしきりでした。

    表題作は、主人公の独身でギター弾きの私が源さんという謎の男から渡された偽札を使う任務(?)を与えられ、その偽札の半分を現金で戻すという、つまり渡された三千円のうち千五百円を使い半分の千五百円を返す。二千五百円だと不足分の千円を自分の懐から捻出しなければならない。私はお金には困っていなくて自活できる暮らしをしている。ではどうしてそんなことをするのかといえば、私は源さんに相方として認められたことを快く思っていて、否、どちらかというと光栄だくらいに考えている節がある。某日、源さんから絶縁という言葉を聞き耳を疑う。手持ちのニセ札が切れて、彼の家族が引っ越すという理由だった。これが最後だといって手にした1枚を、私は警察に手渡してしまう。源さんとの結びつきを確認しようと。

    いわくいいがたい心理情景、不可思議な人間関係、つまらないともおもしろいとも断言できない、いいようのない人間の真理。

    武田泰淳は全集まで手を伸ばしていなくて、冒頭の五作品以外は竹内好関連で中国思想・文学のエッセイや評論や対談しか読んでいませんから、本書で新たな武田泰淳像が加わってとても新鮮に感じました。

    「きまってるよ、そんなこと。ニセ札は数が少くて、めったに見つからない貴重品だからニセモノなんだろ。だから必死になってみんな探してるじゃねえか。本物を探すバカありゃしないよ。本物のお札は、ありきたりの平凡なお札さ」

  • 背ラベル:913.6-タ

  • 『ニセ札つかいの手記 武田泰淳異色短篇集』 武田泰淳 (中公文庫)


    “異色”とある。
    武田泰淳は「ひかりごけ」ぐらいしか知らず、しかもちゃんと読んでもいないので、これがどう異色なのかは正直よく分からないのだが、分からなくても十分異色と思えるぐらい、奇妙で奇怪な短編集だった。

    面白いかと聞かれると何とも言えないが、読後じわじわと妙にあとを引く何かがある。

    私は普段、本を読むのがすごく遅いのだが、それはなぜかというと、とても丁寧に文章を味わってしまうからで、今回もいつものように文章に寄り添って熟読してしまった結果、あまりに自由奔放すぎる筆運びに常識がついていけず、頭の中が、!や、!? や、?でいっぱいになってしまったのだった。
    どうやら、この小説の持つ目に見えない瘴気にあてられてしまったようだ。


    少し斜に構えてやや俯瞰気味に読むと、色々と見えてくるものがある。
    人間の心理の最奥、誰も気づかないような、もしかして当事者すら分かっていないかもしれない意識の淵の小さな心の動きが、とても緻密に描かれている。


    近視同士のカップルの話「めがね」。

    “視覚”に焦点が当たっているため、空間の伸び縮みや色の濃淡の描写が映像的で、視覚の曖昧さが相対的に心の中身を浮かび上がらせているのがよかった。

    主人公がめがねをはずして外の世界を歩くシーンは、“見えること”と“見えないこと”の間にある何かを感じさせて、不思議な余韻が残った。


    ゴジラに対抗するために特攻隊を結成する話「『ゴジラ』の来る夜」。

    何なんだこれは……(笑)
    SFとミステリーと乱痴気騒ぎのミックス。
    外連味たっぷり。
    結局どういうことなのかさっぱり分からない。
    そのわけの分からなさが逆に気になる、変な話だった。


    不具者の主人公が、自分を侮辱したヤクザに見せるためにガスタンクに登る話「空間の犯罪」。

    うーん……
    ものすごく煮詰まっている……
    これは一種の復讐譚だが、それが本人だけで完結してしまっているところが悲しい。
    ガスタンクの頂上での主人公の切迫した心理状態がひしひしと伝わってきて怖くなる。

    落ちていく場面の無音の美しさに、思わず身震いした。


    教会堂の鐘の音がきこえる狭く汚い部屋に住む女の日常を描いた「女の部屋」。

    不穏な世情、退廃的な空気、戦争や暴力。
    そんな中、主人公の花子が飄々としたたかに生きているところがいい。


    大島渚監督で映画化された「白昼の通り魔」。

    二度の心中の生き残りである「篠崎シノ」という女性の手記という形をとっており、方言で語られているがゆえに生々しく、どす黒いものが胸にたまり気分が悪くなる。

    “追記”の中の、「篠崎シノさんの生存の意味」という一文が心に残った。


    方舟に乗るべき人間の選定についての考察が面白い「誰を方舟に残すか」。

    が、なぜか途中から突然、「旧約」創世記の話になり、ノアと三人の息子ヤム、ハム、セペテが登場する戯曲になってしまうのだ。

    父上(ノア)の“かくし所”をたまたま見てしまった次男のハムが、子の代まで呪われるという……
    いや。
    なんで?(笑)
    ゴジラの次にわけの分からない変な話だった。


    最後は、表題作「ニセ札つかいの手記」。

    これはよかったな。
    ギター弾きの「私」は、「源さん」から渡されたニセ札を使う役目を与えられている。
    渡された額面の半分の本物のお札を源さんに返さなくてはならないが、それ以外のきまりはない。

    「私」と「源さん」の関係性が面白い。
    「私」は、自分の真価を認めてくれた源さんがとにかく大好きで、源さんのお札を使うことを誇りに思っているのだ。

    源さんとの別れの日、最後の一枚だと言って渡されたお札は、本物かニセ物か……

    源さんはニセ札を渡す人なのだから、本物のニセ札かニセ物のニセ札かということになるのだが(あーややこしい)、ニセ物のニセ札というのは本物なのに、本物のニセ札、つまり“源さんのお札”のほうが「私」にとっては価値があるわけで、お金というある意味もっとも分かりやすい価値観が、簡単にひっくり返ってしまう錯覚に陥ってしまう。


    「“戦後文学の巨人・武田泰淳”という旧態依然のイメージを良い意味で覆すような、読むことの愉悦をたっぷりと味わわせてくれる逸品ぞろい」

    と解説にある。

    もう一回読みたくなる何かがある。

    作者本人の言葉を借りれば「グロテスクにしてロマンティック」。

    やっぱり妙にあとを引く一冊なのだった。

  • 深沢七郎的隔靴掻痒文体

  • 正直言ってよくわからない短編の連続です。もう一度読みたいとは思えません。

  • 自分にはまだまだ早すぎた。もっと歳を重ねてから読みたい本。

  • 「めがね」
    肺病病みで近眼の女が眼鏡をかけようとしないのはなぜだろう
    メロドラマである

    「『ゴジラ』の来る夜」
    冷戦時代に誰もが抱えていた「ある恐怖」を象徴するのがゴジラだ
    それは、誰もが平等に受けるべき恩寵でもあった

    「空間の犯罪」
    昭和24年に発表されたアプレ犯罪小説
    足が不自由で徴兵を免れ、戦争を生き延びた青年が
    やくざ者にバカにされたことから少しずつ道を踏み外してゆく

    「女の部屋」
    朝鮮人の経営するカフェで働きはじめる女
    朝鮮戦争の開幕から、北派と南派にわかれて険悪になっていく人々に
    ついていけない感じ

    「白昼の通り魔」
    田舎の山出しのファム・ファタール
    2度の心中につきあって2度とも生き延びる
    罪はなくとも、その天然ぶりで知らず知らず恋人たちを傷つけるのだろう

    「誰を方舟に残すか」
    旧約聖書を独自解釈したもので、タイトルが内容をほぼ示している
    たとえばそれを、ナチスの蛮行に比較することもできなくはない

    「ニセ札つかいの手記」
    1000円札はただの紙、的な主義の理想にもとづいて
    ニセ札をばらまいているらしい
    よくわからないがそこにおそらくジレンマを抱えた男がいて
    語り手(これも男)を引きつける
    東京オリンピックの工事が開始された頃の話で
    なぜか急に三島由紀夫の「月」が引き合いに出されたりする

  • 生誕百年、埋もれていた泰淳さんの異色短篇7作が文庫となり甦りました。レコードで例えればB面ベスト集、ザ・アウトサイド泰淳といった具合でしょうか。ユーモアとエスプリに富んだ7作全部が素敵、B級ドタバタ喜劇といった趣きの作品もあります。いちばんのお気に入りは「空間の犯罪」、ガスタンクと戯れるクライマックスの視覚的高揚と幻想感にドキドキ緊張しました。そして「女の部屋」の最後のあっけらかんとのびのびした女性の描写に、百合子さんへの愛情の切れ端を感じずにいられないのでした。

  •  武田泰淳も、私がかつて「はまり」、読みあさったお気に入りの小説家である。これは、彼の異色の短編を集めた本だ。
     武田泰淳は「戦後派」の「代表」の一人と見なされているが、私の感覚では彼は特異なアウトサイダーで、「文学史」からはこぼれおちるに違いない「変な作家」である。『富士』を読んでも『快楽』を読んでも、彼の書く小説にはあまりリアリティが無いし、逸脱も多く、何よりも「未完の作品」が多いことから、彼が「きっちりと書く構成家」ではないことを証している。
     奔放に物語をつづりながらも、独特の「重さ」を失わないのは、ちょっとした描写に「人間」についての確かな観察眼が感じられ、これは一級の文学者である証拠であって、三流の小説には決して存在しない物だ。
     私は武田泰淳は、その「得体の知れない不気味さ」において、どことなく深沢七郎と通じるものがあると思っているのだが、この親近性を探っていけば一冊の本になるだろう。
     武田泰淳の世界は、意志や精神性よりも「運命」、生と死とが違和なく結びつくような「無」の境地、善悪や倫理を超えたどう猛な生、などといった要素に満ちあふれており、それらの点が、たぶん、深沢七郎的世界とつながっている。
     ただし、武田泰淳の方はもっとえげつない。まるで「溜まってる童貞の白昼夢」のように、突如ポルノグラフィの場面が出現したりもする。
     この短編集で言うと、「「ゴジラ」の来る夜」(S34)にそんな場面がある。何の必然性もなく美女2人が宴会でストリップショーを始めるのだから、わけがわからない。このらんちき騒ぎは『富士』のクライマックスシーンに似ている。泰淳のえがきだす「物語」にはこのように意味がない。あるのはどう猛きわまりない、盲目的な生のうごめきだけだ。「透明なゴジラ」=核兵器=無差別で無意味な殺戮。この短編の主題は泰淳の暴力的な側面を象徴的に表しているのではないか。
     武田泰淳は女性というものを「精神」をもった存在として認めていなかったのではないか、と私はいぶかしんでいたが、「白昼の通り魔」(S35)では女性の独白調を採り、なかなか印象深い物語をえがくことに成功している。これはこの短編集の白眉だ。
    「ニセ札つかいの手記」「誰を方舟に残すか」には武田泰淳の不気味な倫理観がよく出ている。それの感触は深沢七郎のとは微妙に違って、黒々と粘着的である。

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著者プロフィール

武田泰淳
一九一二(明治四十五)年、東京・本郷の潮泉寺住職大島泰信の息子として生まれる。旧制浦和高校を経て東大支那文学科を中退。僧侶としての体験、左翼運動、戦時下における中国体験が、思想的重量感を持つ作品群の起動点となった。四三(昭和十八)年『司馬遷』を刊行、四六年以後、戦後文学の代表的旗手としてかずかずの創作を発表し、不滅の足跡を残した。七六(昭和五十一)年十月没。七三年『快楽』により日本文学大賞、七六年『目まいのする散歩』により野間文芸賞を受賞。『武田泰淳全集』全十八巻、別巻三巻の他、絶筆『上海の蛍』がある。

「2022年 『貴族の階段』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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