- Amazon.co.jp ・本 (379ページ)
- / ISBN・EAN: 9784122057258
感想・レビュー・書評
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2017.5.3
うーん。すごく面白い、面白いんだけどもやっぱり、納得はいかないなぁという感じである。
まず前半の「蛇と縄」における、見間違いからの主客分化、そこから虚実無記(虚実以前)の現象があるという現象主義の説明がどうもしっくりこない。
我々は見間違う、つまり、「Aを見る→Bだと知る→Aだと思っていた時もBであった→自分が思っていること(A)の向こう側に真実(B)があるのではないか」、そして今見ているものは全てAであり、本当はBがあるのではないか、と思う。これが主客未分問題。私が見ているものの向こう側に本体を設定する。竹田さんでいうところの本体論。
野矢の現象学の説明は、このAとB以前の虚実無記Cがあって、Cがその時々によって構成されることでAやBになる、というものである。確かにこれはフッサールの、実的内在→構成的内在、ノエシス→ノエマという構造と一致はする。しかし実的内在は、虚実無記ではない。それはそれで一つの確実な妥当であり、つまり実ではないのか。野矢は現象学の批判として、虚実無記なんてものはなく、虚か実かしかない、つまり何かしらの意味づけ=アスペクトでしか我々は認識を行わないと述べるが、これは現象学への誤解から生じた批判でありながら結論としては双方ぶつからない形に落ちついたような形になっただけである。
他者の心の問題。心とは何か、それは異なる意味秩序、アスペクトのことである。私はこの結論にイマイチ賛同仕切ることはできなかった。論旨は面白い、説得力がある、しかし所々で、なんとも納得しがたいのである。それはおそらく私が現象学が好きで、対して野矢のこの作品はどこか合理主義的だからかもしれない。
アスペクト以外にも私と他者を決定的に分けるものもある。アスペクトを一つの価値観と考えるならば、例えば全く同じ家庭環境で育った双子はもしかしたら価値観は似ているのかもしれない。しかし、一つの状況において、どのような行動を取るかは全然違う。また私は私の身体を自由に動かすことができるが、私は他者を動かすことはできない。身体感覚が私というものの境界線を決定していると言ったのはメルロ=ポンティ?だろうか。自動車や自転車を考えればいい。私の身体を動かすかのごとくに動かすことができるもの/できないもの、それを私は、私/他と分ける。その上での他の中の他者、他者の心とは、という問題か。
私の行動原理、意志とは関係ない原理と原動力で動くならば、あらゆる有機物はそうである。その中で特に他者に心を認めるのはなぜか。ここあたりがどうもピンとこなかった。おそらくそもそもの話の持って行き方に納得していないのだろうか。
もうレジュメにまとめたのは二ヶ月前になる。二ヶ月も経てばこんなにも内容を忘れるもんなんだな。悲しい。読んでも忘れるならなんのための読書か。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
2016.12.30
2016年に読んだ本の中で一番面白かったと言える本。私の中でコペルニクス的転回が起きた。もう一度読みたいので詳細な感想は控えるが、要するに、私は他者とわかりあえるかではなく、分かり合えないから、私と他者との差異が、「私」を、そして「他者」を産んだ、その差異とはより正確に言えば、アスペクト=世界に対する意味づけの差異、である。だから分かり合えないのは当たり前である。それが理由で私は生まれたのだから。これはもう、革新的発想である。
この本を読んだ後だが、『レヴィナス入門』を読んで、どうやらそこから着想を得ているのではないだろうか。私を巡る前半の議論はフッサール現象学的であり、そこからレヴィナス的な世界との差異、他者との差異の問題に入り独我論を乗り越える。そしてその差異の具体的な分析にウィトゲンシュタインを使っている、というところだろうか。
もし差異というものがなければ、私は原初的な、動物的な、幼児的な、私=世界=他者の世界に生きただろう。すなわちそこには世界のみがある。私はいない。ちょっと想像はしにくいが、この俺という人間が生まれた時と、「私」が生まれた時は違い、「私」が生まれる以前のことを考えればなんとなくわかるだろう。差異が私と世界と他者を生む。そして我々はこの差異を埋めようと試みる。そこに思考としての私が生まれる。そこに哲学の動機が生まれる。思えば我々が考える時というのは、他者と意見が食い違った時や、集団での居心地の悪さとか、慣習やルールと自分とのズレとか、そういう時ではないだろうか。この本の発想を下敷きに、ここあたりを考えていけたらなーと。 -
・単行本 勁草書房、1995年1月
【軽い誤植】(初版。201805に確認。)
・11頁。
× 「3 自然と規範…………331」
○ 「3 自然と規範…………300」
・63頁、欄外、大森書き込みの末尾。
× 「…の様な「共通物の要請などとは無関係」
○ 「…の様な「共通物の要請」などとは無関係」
※括弧の閉じ忘れミス。
【抜き書き】
・「凡例」。
“本書の註には、もともとの単行本における註と、文庫化にあたって新たにつ
けた註がある。
(1) 単行本における註は巻末に示した。
(2) 文庫化にあたってつけた註は見開きページ左端に示した。そうした註のいくつかは、私が文庫化にあたって付した補足やコメントであり、残りは大森荘蔵による単行本版の本書への書き込みである。註の冒頭に[大森]とあるのは、それが大森による書き込みであることを表わしている。大森の書き込みにおいて「\」は改行を表わす。旧字体および傍線はそのまま写してある。「○○ページ」と言及されている書き込みについては、本書のページ数を併記した。なお、実際の書き込みは朱字と黒字が入り混じっており、異なる時に書き込んだことがうかがわれるが、書き込みにおいては文字の色の区別は示さなかった。メモでは、朱字はゴチックにしてある。残念ながら、大森の書き込み及びメモにおいて、読みとることのできなかった文字が若干ある。それらは「〓」を用いて表わした。また、大森の書き込みに対してときに私は応答を試みている。それは大森の書き込みに続いて[野矢]という形で記した。”
【目次】
文庫版のまえがき(二〇一二年 夏) [003-009]
目次 [010-011]
凡例 [012]
第一章 虚と実 015
1 意識の繭 015
虚実判定の困難 の立ち現われ 立ち現われと絵のディスアナロジー 立ち現われの陸地と孤島 触覚の優越性
2 枠組としての実在 033
〈連関性による虚実分類〉という考えの周辺 鵜呑みにされる実在 実践の枠組 実践の枠組としての実在
3 幻覚論法 049
知覚と幻覚 アスペクト変化 アスペクト中立的な何ものかなどありはしない 幻覚論法の失敗 二重視の問題 二重視とパースペクティブ変化
4 「実在」の意味 069
実在の意味の問いに潜む罠 枠組概念とその可視化 否定主導語 否定主導語としての「正常」 否定主導語としての「実在」 非実在性を規定するいくつかの観点〔 (1) 連関性 (2) 異常の原因 (3) 背景となる信念 〕 「見えている通りにある」ということ 虚実のねじれ
第二章 〈内界〉という神話 090
1 心身二元論 092
身体に宿るものとしての心 他者の不可知性 他我の無意味性 他人の意志
2 他我のアニミズム 108
二元論の足し算図式 心ある描写の基底性 アニミズム
3 独我論 118
アニミズム原点としての私 独我論への道 黒い犬・こわい犬 主観的と客観的 「こわさ」の在りか 「世界現象」としての感情 他の心的諸現象 世界へと開かれた思考 世界霊魂 他我問題の再出発
第三章 眺望論 146
1 視点状況とパースペクティブ 148
知覚における他我問題 キュビズム的世界了解 他人の知覚 知覚報告の状況 知覚内容と視点状況
2 痛みと身体 164
知覚と感覚 感覚報告と身体状態 感覚報告における当人の特権性 「感覚対象」という考え 感覚の単眼性 複眼的世界と単眼的世界の二元論? 身体状態 見透かされた身体 見透しにおける当人の特権性
3 相貌論 197
他者と心の在りか 反転図形 アスペクト報告 対象と意味 文法把握 単相状態と複相状態 意味の散乱 感情論素描 他者の思考 意図とアスペクト的体験 他者の意図 意味の他者性と自己知 〈私〉・〈心〉・〈他者〉
第四章 規範の他者 233
1 〈意味〉の脱神話化 236
ウィトゲンシュタインの講義室 「植物」の意味 意味と使用 規則の根元性 規則のパラドックス 規則遵守の理由と原因 人間の一致
2 記号のアニミズム 265
記号の生命 大工の言語ゲーム 言語ゲームとそれを取り巻く状況 思考 語の表情 アスペクト アスペクト盲 意味盲 意味体験 意味体験と〈示し〉 意味盲の世界 アスペクトゲーム 一抹の夢 意味盲と規則遵守
3 自然と規範 300
行動と実践 意味盲と実践盲 見方の変化と物の変化 アスペクト盲と見誤り 予測と知覚 意味盲と誤解 計算まちがい 賞罰と条件付け 約束と意味の発生 意味盲と規範性
註 [331-349]
文庫版のあとがき(二〇一二年月 野矢茂樹) [351-353]
解説(田島正樹) [355-361]
参考文献 [362-365]
大森荘蔵のメモ [366-380]
編集部の断り書き [381] -
ウィトゲンシュタインに依拠して、言語哲学の基盤から他者論に進むための地ならしをしている。
筆者の主張に対して、そうかな…?という疑問がぬぐいきれない。後半がものすごくわかりにくい。 -
14/10/24、ブックオフで購入。
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理路を整理すると、
観念論=現象主義の否定
・虚実無記の立ち現れの否定
・非主導語としての「実在」 非実在性の規定について
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p61-2
まず幻覚論法は、「いま、この光景をそれ自体としていくら調べても、なおそれが幻覚である可能性は残される」と指摘する。そしてこのような欺かれる可能性についてはわれわれも認める。だが、ここから、「それゆえそれが正常な知覚であると分かった場合も幻覚と判明した場合も、その見え方そのものに違いはない」ということは出てこない。幻覚と分かったとき、そのアスペクトは一変する。実在性の枠組が崩れ、参与する実践・行為が変化し、見えているものの意味が変わり、その見え方が変わるのである。かといって、「それでも、そうした複数の見え方を担う一個同一の何かがあるだろう」ということにもなりはしない。けっきょく、事情は、知覚として呑み込んでいたものが実は幻覚と判明し、いまやまったく異なった見え方をするようになった、ということにほかならず、そこに虚実無記の立ち現われのごときものを要請する必要などありはしないのである。かくして、幻覚論法は失敗している、そう結論できるだろう。
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心身二元論的な内面の吟味
・(実感としての)他我の不可知性
・ロボットに他我を投影するかというのは私の態度の問題であり、アミニズムの問題
・他者がいないのであれば客観的な記述と主観的な記述は区別し得ないのであり、結果的に心という概念が消滅する。心的現象は世界現象となる。
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p144-5
いまや、他我問題は問われなおされねばならない。当初、他我問題においては、まず私の心の世界から議論が始められた。私が確実に知ることのでき、そして私がもっとも透明に理解しているもの、それが私の心であると思われた。それゆえ私は私の心をもとに、他人の心を知り、理解するのであろう。ではその道はどのようなものか。……だが、その一歩を進めようとして、私の心から他人の心への無限の距離に愕然となったのである。私は私の場合において心的な諸概念、例えば「痛み」を理解している。「痛み」とは何か、〈これ〉だ。しかし、その〈これ〉はもはや他人に適用しえないものでしかない。感覚としての痛みは、それが感覚である以上、痛みを感じる主体たる私を刻印している。それゆえ私の刻印つきで〈それ〉を他人に適用したとしても、たんに私が他人の身体に痛みを感じているという奇妙な状況が生じるだけでしかない。私は、私ならざる視点から感じられた痛みを理解しなければならないのだ。
――出発点がそもそもまちがっていたのである。独我論的世界は私の心を表わすものではなかった。痛みも恐れも悲しみも、そこでは端的に世界についての描写なのであり、それゆえ独我論的世界は〈無心の世界〉にほかならない。とすれば、問われるべきはもはや「他人の心」ではなく、「心」そのものにほかならない。無心の世界にいかにして心が登場しうるのか。すなわち、たんに心なき描写をするだけでは済まず、心ある描写が為されねばならないのはなぜなのか。これがわれわれの問題なのである。私はココロを登場させるその契機をこそ、〈他者〉と呼びたい。他者がいなければ世界はただ透明にその姿を現わすだけであろう。他者の存在によってはじめて、世界は透明性を失い、心という襞をもつ。われわれはいまやこの「心」が何であるのかをこそ問わねばならない。そしてまさにそれと同じ意味において、「他者」とは何であるかを問わねばならない。
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知覚における他我問題の検討
・パースペクティヴは前人称的 キュビズム的世界理解において、他のパースペクティヴは想定されても他者は想定されない パースペクティヴは誰のものでもない
・「他者の見ているものが私には分からない」が不自然な問いだとしても「他者の痛みが私には分からない」については?
・パースペクティヴ=視点状況を身体状況に置き換えれば、非人称的な痛みについて説明できる
・感覚表現における特権性は見透かし構造によって説明される
・では他者の深みをつくりだすものは何か。ここでアスペクトが導入される。他のアスペクトで見ている者が他者である
・アスペクトに対して単相状態・複相状態の区別 単相状態は「〜が見える」であり、複相状態は「〜に見える」であり、他のアスペクトが想定されている。この区別は原因/理由や意図についても言える
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p231
[内界モデルに代わる新たな心のモデルのスケッチとして]
まず、〈私〉という項を単相的なものとして要請する。すなわち、〈私〉は知覚や行為においてためらうことなく、自らに問いかけることもない。見えるがままに、感じるがままに世界を受け取り、端的にかく行為する。それゆえ、それは必ずしもこの私ではない。というのも、この私は意図において揺らぎ、ためらい、しばしば自問する、実際は複相的な存在であり、その意味で複数の〈私〉をもっているだろうからである。あるいは逆に、〈私〉はいわゆるわれわれであるかもしれない。もしわれわれが同じ意味秩序を完全に共有していたならば(というよりも、共有されない部分が関心の統御によって完全に無視されえたならば)、われわれは単相的であり、それはここで要請された〈私〉に等しいものとなるだろう。
次に、〈私〉と異相的なものとして〈他者〉という項を要請する。〈私〉は〈私〉と異相的な〈他者〉に出会い、そこに複相状態が生じる。それは、単相的なものとして要請された〈私〉が崩壊する瞬間でもある。〈他者〉は〈私〉を突き崩し、私は〈私〉からはじき出される。いわば単相的な〈世界〉が崩れ、〈心〉が姿を現わすのである。
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・意味の水源地モデルあるいは随伴過程説批判:記号使用に随伴するいかなる心的体験、心的過程も記号の生命たりえない、それはまた記号に過ぎない。随伴過程説には心身二元論が対応する:行動に随伴するのは心的体験だということ。
・p283「アスペクト把握を「見方の把握」として、すなわち「そのものの属する意味上の連関性=文法をなんらかの形で主題化する体験」として捉えるならば、ここから言語使用の場面へと転ずることは容易だろう。ウィトゲンシュタインがここで「意味体験」と呼ぶものは、まさに「その語の意味上の連関性=文法をなんらかの形で主題化する体験」にほかならないからである。そこで、「アスペクト盲」に対応する概念として「意味盲」という概念が立てられる。では、意味盲は何を失うことになるのか。意味体験とは、言語にとって不可欠の体験なのだろうか。」
・p285「意味体験とは、記号使用においてその記号の文法を主題的に見てとる体験なのであり、記号使用の背後にあるものではない」規則のパラドックスで示されるように、文法は常に解釈が伴って一義的なものにはならない、この意味で実際に作用している文法は語りえず、示されるのみである。
・通常ゲームとアスペクトゲーム:p292-3「ひとつは通常の言語使用、よどみのないコミュニケーション等の場面で為されるさまざまな言語ゲームであり、もうひとつは、[...]端的な言語使用のレベルから身を離し、いくつかの選択肢を前にして吟味し、説明するといった場面で為される諸ゲームである。」
・意味盲は通常ゲームは遂行できてもアスペクトゲームは遂行できない者である。通常ゲームにおいてはアスペクトの問題はない。
・行動と実践の区別 実践=規則抜きでは同定されえないふるまい 行動=規則と無縁に同定されうるようなふるまい
・アスペクト盲は見誤りをしない(縄を蛇に見間違えていた、と解釈することができず、蛇が縄に変わったとしか思えない。現れは絶対なのだから)
・同様に意味盲は計算誤りをしない。(1+1=2のところを3と間違えていた、と解釈するのではなく、1+1=3という計算をした後に、それが計算ではない文字列になったと考える)
・p319「「誤った引き算」という概念は、たんに無意味な記号がそこにあるというだけではなく、それが従うべきであったはずの、実行されなかった規則に対する示唆を必要とする。しかし、意味盲にはそれが理解できないのである。意味盲においては、意味と対象、規則とその適用例は完全に癒着しており、いかなる乖離も生じない。それゆえ、規則はそれを「正しく」実行している現場を離れては端的に意味を失うのである。そしてもちろん、「誤り」が原理的に排除されているのであれば、「正しく」規則に従うこともありはしない。かくして、意味盲は気息を誤解することも、また理解しつつなお規則に従い損ねることもない、と結論できる。」
・とはいっても意味盲は誤った行動を犯さないわけではないから、彼らには規範ではなく規則として教育しなければならない。彼らは、被教育者でありながら自分に対する教育者でもあるという二重性、意味空間と現実の二重性を保持することができない。
・このように意味盲は規範盲である。彼らは破られることもありうる規範的実践には参加せず、ものごとがそう動くところの規則しか認識しない。ある規範を認識することで見方が変わる、ということがありえないのだから。
・自然と規範の融合、という楽園。そこから我々ははみ出してしまっている。そのアスペクト的体験に、規範と他者が生まれる。 -
大森荘蔵の哲学を、ウィトゲンシュタインのアスペクト論を武器に、徹底に再考することで「独我論」を乗り越え、「他者」をこの世界に位置づけようとした著者の思想的試み。
そんな風な本として読みました。
門外漢の私には、その内容はそもそも難しくってよく理解できませんでしたが、大森氏の自身の反論や感想などが併記された本書は、それだけで何か火花が散るようで、妙に刺激的で、なんかよく分からないのに惹きつけられてしまう魅力があります。
ある種の(それともすべての、なのかな)「意味」が成立するためには、「私」だけでなく、「私」とは異なる意味体系を持った者の存在=「他者」が必要になる。
とまあ、そんな感じなのかなとは思ったけれど、筆者の考えが理解できたとは思いません。
でも、学生時代に哲学で大事なのは、何かを理解することではなく、私自身が「哲学する」ことにあると言われたので、これはこれでいいんだと思う。
本書を通して「他者」とはなにか、という問題を、著者の思考をたどりながら、そして大森氏の反論に触発されながら、「哲学しよう」とできたこと。そして、何より本書が「哲学する」ための本になっているように感じられたこと。
それだけで、とても面白い本だったと感じられました。 -
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