- Amazon.co.jp ・本 (317ページ)
- / ISBN・EAN: 9784122057395
感想・レビュー・書評
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めっちゃ専門用語や込み入った考察、比喩、可能性の妄想などがバンバン出てくるのに超わかりやすい上に文章表現力が抜きん出ており、とてつもなく面白い。
のに、コリン・ウィルソンの他作は全然面白くないので、人生渾身の一発だった模様。 -
思索
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原書名:THE OUTSIDER(Wilson, Colin, 1931-)
アイデンティティーの問題◆大いなる綜合◆幻視者としてのアウトサイダー◆回路からの脱出
著者:コリン・ウィルソン(1931-、イギリス)
訳者:中村保男(1931-、東京) -
「アウトサイダー」自分のしたいことを、それと信じれれぬ人間のこと。究極の自己表現を探し続ける人たちのことのようだ。このアウトサイダーの人たちをどう考えればいいのか、上下巻を通して述べていく内容。「いつわりの自己」から脱出してもまた「いつわりの自己」につかまってしまう…われわれは人生をどう生きればいいのか…そんなことを考えさせる内容だった。ただ自分には少し難解だったかな…
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前から読んでみたかったこの本が文庫になって、すぐに買ったはいいが積んでました…。
正直いって、難しい。私には全部理解できなかったとは思いますが、それでも面白さのエッセンスみたいなものは伝わってきたと思います。
てっきり実在の犯罪者とかアウトローの話だと思ってましたが、文学作品からの引用が多いです。ヘッセやヘミングウエイ、ドストエフスキー、詩やミステリにも触れたりして、作者の博識ぶりがすごい。しかも当時25歳で、学歴もなく仕事をしながら図書館にこもり、公園で寝て生活していたそうです…。まさに彼こそアウトサイダーでありましょう。 -
上巻はアウトサイダーたるものの定義と自覚への過程が、主に実存主義の立場で考察され共感できた。解決編に当たる下巻は一挙にオカルトじみてきて戸惑う。最終的には宗教に帰結するが、その経緯はあまりに過酷で壮大だ。アウトサイダーに共感しながら壁を超えれない半アウトサイダーが自分だ(自らをインサイダーと認めたくない意地もある)。若い頃読んでいたら違ったかな。老いに従い保全を固め、且つロカンタンのペシミズムから抜け出せない万年青二才を知らしめられつつ、自己実現を志向した超人らの文献を的確な引用で沢山読めたのは有用だった。
知的スリラーとの呼び名の通り、読み物として抜群に面白かった。 -
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「誰彼の区別はない、その人の住んでいる世界に向かって眼をひらかせれば、その人はたちまち「アウトサイダー」となる。そして「アウトサイダー」は、まず、自分は「あまりに深く、あまりに多くを見とおす」人間だと考えることから出発して、最後には、あまりに深く、あまりに多くを見とおすことなど不可能だと悟るにいたる。」(下巻、151)
「「アウトサイダー」はこのような肯定の眼を心に築きあげ、それを永久に自分のものにすることができると信じている。だが、それにはどうしたらよいのか?さらに深くおのれを知ること。自分の弱さと分裂した心を克服する規律を設けること。調和のとれた、分裂のない人間めざして努力すること。」(下巻、209)
この本で、「アウトサイダー」とは、単に社会規範から外れた人というのではなく、自分自身の存在自体にも疑いを向け、安定した自分から外れてしまった人のことを指している。
それじゃあ、そんな「アウトサイダー」はどうしたらいいのさ、という問いへの答えが本の後半には書かれている。
その答えは、一言でいうと、ずばり「宗教」である!ラーマクリシュナ、グルジェフといった、錚々たるメンバーである。
ちょっと、拍子抜けするが、一般的な宗教とは違うようだ。
「これまでわれわれが頼ってきた規範は、どんな宗教的真理も主観的に決定されねばならぬということだった。....たとえ犬が青いということが客観的に事実であろうと、それは客観的真理以外の何ものでもなく、宗教的真理とはなりえない。....宗教的真理は、頭脳の緊張、真理を会得しようとする各個人の努力なくしては存在できぬのである。」(下巻、256-7)
「至上のヴィジョン」を得るためには、「アウトサイダー」ひとりひとりの、主観的な宗教を見つけろ!ここは、1950年代当時に哲学界を席巻した、実存主義の影響を感じさせる部分である。
長くてくどいけど、結びを引用。
「自己保全の本能が内面拡大の苦しみに反抗し、精神的な怠惰へ趨りがちな衝動が、ことあるごとに波のような眠りに高まってくるのをものともせずに、自分の眼で見、自分の手で触れる体験の量を限定しまいと意識的に努め、存在の敏感な部分を、それに傷を与えるかもしれない対象にさらけだし、あくまでも全体としてものを見るべく苦闘すること、それが個人に課せられた問題である。個人は、この永い努力を「アウトサイダー」として、始める。そして、聖者としてなしおえるかもしれない。」(下巻、277) -
〈まとめ〉
クソほどの価値もない人生をいかに生くべきか、それがアウトサイダーの始点だ。まともに考える脳みそもってればこの世がクソほどの価値もないのはまず間違いないのだが、ほんとうにクソほどの価値もない人生だとすれば、「じぶん」も当然のことながらクソほどの価値もないことになる。ここからあらゆる対立がはじまることとなる。そのなかでも最も壮絶な戦いとなるのは、当然のことながら自己との対立だ。
若き作者はみずから「アウトサイダー的」と思われる小説家や思想家の著作をとおして、「アウトサイダー的」葛藤の歴史とその戦いの行方をつまびらかにしようと試みる。
下巻にはいると急に宗教的、あるいは神秘的な面が際立ってちょっと「ぼんやり」してしまうのは、たぶん致し方ない。どっちみち「いかに生くべきか」は宗教的領分なわけだし。
まあちょっと物足りないとこないわけではないけど、「もっとこっちのほう突き詰めたい」と思ったらこの本はそのまま「その手の本のカタログ」にもなるというすぐれものなのだ。
ちと感想書くまでに時間があいてしまってあれだけど、自分が今までぼんやり抱いていたテーマを、「それ実存主義っていいますねん」とおしえてもらい、かつ充実した講義を受けたような気持ちになれたんで星5つ。
以下、引用。
>少量の病菌を体内に注入すれば、その人間は大量の病菌にたいして免疫となり、酷暑と酷寒に慣らせば、普通の人間が死んでしまう条件下でも生存をつづけるほど暑さ寒さへの抵抗が増大する。それと同様に、命のさだかならぬことに心をさいなまれている「アウトサイダー」は、その無常感を、自分をより強靭にするための生物学的な一手段と見なすことができる。つまりそれは、「充実した人生」を送ることを可能にするための手段なのだ。
>ここに「アウトサイダー」にとって最悪のディレンマがある。一方では、自分の全身全霊がなんらかの感情的充足を求め、確乎とした現実に触れたがって呻き苦しんでいるにもかかわらず、他方、理性の働きは一人そこから離れたところに立って充足の可能性にけちをつけ、充足へ一歩でも近づくことを妨げているのだ。
>真に知識を得る方法は実験である以上、真に知ることとは体験することでなければならない。
>思想が洞窟に閉ざされるとき
地獄の底で愛はその根をむきだしにする。……
これを言いかえれば、自己表現が否定された場合には、エネルギーは犯罪か暴力に捌口を見つけるということである。自己表現が危険に瀕したときには道徳を度外視してもかまわぬという態度が、ブレイクの作品にはしばしば見られる――「満たされぬ欲望を抱いているくらいなら、むしろ揺り籠の幼児を殺せ」
>「詩人はヴィジョンを見る人でなくてはならない。人は、ヴィジョンを見るべく心がけるべきだ。……」「永いこと感覚を整然と狂わせておくことによって人はヴィジョンを見るようになる。」
・内に力を蓄えること(消極的な考えにとらわれ無為にエネルギーの浪費をしない、稼いで遣うという資本主義的思考の否定など)
・自己充足によりヴィジョンを見ること
・ニーチェの見た『力の意思』、『力のヴィジョン』を見るよう心がけること