- Amazon.co.jp ・本 (269ページ)
- / ISBN・EAN: 9784122057456
作品紹介・あらすじ
庶民とは、ぶかっこうで食いしん坊、強情であわてもの…周囲を気遣って本音を言わずにいる母親のすがた(『おくま嘘歌』)、美しく滑稽な四姉妹の人生(『お燈明の姉妹』)ほか、烈しくも哀愁漂う庶民のすさまじい生き方を描いた連作短篇集。
感想・レビュー・書評
-
んー、面白い。
別に唸る様な仕掛けも美しい表現も綺麗な締まりないが、表題通りの、当時の“庶民”の苛烈な生活がつらつらと描かれている。
序章の、“庶民”の定義を巡った作者と知人とのちょっとおバカっぽい掛け合いも、気が利いていて良い滑走路になっていた。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
深沢七郎のこの本を読みたいなあと思っていたら、ちょうど中公文庫が出してくれた。ありがとう。これからも深沢七郎出して下さい。
最初の「序章」と「おくま嘘歌」はちくま文庫の『深沢七郎コレクション 転』にも掲載されていたので再読。
「序章」は「インテリ」や庶民あがりの金持ちとの談話で「庶民とは○○だ」という可笑しい議論を繰り広げるのだが、よく読むと、作者本人とおぼしき「私」が最後の方で自分は庶民なのか、庶民でないのかと自問する場面がある。
「庶民」ばかりが横溢する小説を書いた深沢は「庶民」だったろうか? ふつうの意味での「文学者」たちとは一線を画した彼はやはりどちらかというと「庶民」の方にいるのだが、しかし庶民は「庶民」などという言葉を使わない。彼は庶民と「共に」ありながら、庶民を語る「語り部」のような、内在的な外部の存在なのだろう。バルガス=リョサの小説『密林の語り部』に登場した「語り部」のように、彼は共同体の内側にいると共に、異人でもあるという両義的存在なのだ。
「安芸のやぐも唄」という短い作品は、どうやらヒロシマで被爆した老女の話である。家族はみな原爆で死んでしまったにもかかわらず、彼女は原爆の「雲」を回想しつつ、
「雲の中には一人で生きることを教えてくれた不動明王のような神が住んでいるのだ」
と考える。このくだりは実に深沢的である。
深沢のえがく「庶民」たちは、文明的なしきたりからときとして外れ、「すさまじい」言動を繰り出すのだが、この「すさまじさ」は、純朴でひたすらな生の、ストレートな発現によるものだろう。
彼らは決して体制や政治やイデオロギーを批判したりしない。彼らはディスクールからは遠くにいる。ただひたすら、懸命に生きようとするだけだ。そこにディスクールは不要なのだ。
いまではインターネットなどという無用な空間に庶民は解き放たれ、愚にもつかない言明や他者批判を繰り広げており、醜悪きわまりない様相を呈しているけれど、深沢的「庶民」はこういうところにはもはや存在しない。
庶民は語らない。
いや、語ることの無意味さ・無用さを本能的に知っているのだ。深沢七郎も。 -
面白い。
序は、まるで『果てしない物語』のよう。
カフェに置いてあって、まだ少ししか読めていないけど、手元に置いておきたい本。 -
描かれている情景は 宮本常一の「忘れられた日本人」な感じ。近代の日本人というより、山奥で原始的な暮らしをする庶民の滑稽で、哀しい日常を描いている
見ようによっては 神話に見える。庶民の哀しい現実に 自然調和や社会構造が働いているように見える。庶民の本質として 虚栄心ではない 強情さ を見いだせる -
本読みの友が、いつだったか買っていた深沢七郎の本が発掘された!と読んだそうで、「おくまさんがね…」と内容にかかわるメールがきたところで、待って待って、まだ読んでないから待ってと、私も図書館で本を借りてきて読む。タイトルどおり、"庶民"の生き方が描かれたものである。
友の「おくまさんがね…」というのは、周囲を気遣って決して本音を言わずにいる母親おくまの話「おくま嘘歌」であった。嫁の心を考え、嫁いだ娘の気持ちを考え、おくまは「こう思わせたい」行動をとる。
ほんとうは娘の顔が見たくて婚家へ訪ねてきたのに、「坊の顔を見たくて来たのオジャンけ」(p.68)とおくまは嘘を言う。孫の顔を見たくて来たと言った方が娘が喜ぶと思ったからだ。その孫をおぶったおくまは、ちょっとの間に大きくなった孫が肩が痛くなるほど重いと感じる。それでも、苦しげにおぶっていては、かえって娘に心配させるから、そんな重い子をずっとおぶっていたのかと問われたときには、「なーに、いっさら、クタビれんでごいす」(p.70)と嘘を言う。
おくまの言動はずっとこんな具合だ。娘の家から帰ってきたとき、嫁も息子も疲れただろうと言ってくれる。たしかにくたびれているのだが、娘の家へ行って疲れて帰ってくるのは申し訳ない気がするし、そう思われては次に行くときに気がひけるから、やはりおくまは「なに、いっさら」(p.73)と嘘を言う。そうして、死ぬときにも嘘を言ったおくまが描かれる。
そんな"庶民"の話が6つと、巻頭には「庶民というものは、どんな人達だか」(p.9)を書いた序章が収められている。
どの話もなんだかすさまじい。そのなかでも私がおもしろかったのは、「べえべえぶし」。歌の上手かった善兵衛さんの話だ。野良唄として歌われた「べえべえぶし」にことよせて、農業で生きる姿やその心を描いている。
やくざゴボータコの足
やくざ菜っパの傘のホネ
むすこも むすめも
あましもんだんべえ
と、善兵衛さんが囃子のように歌うのは、役に立たないものたちを並べた文句だ。このやくざゴボーのまえに、善兵衛さんが
アア、「子褒め、役好き、出させ好き」
と叫ぶような言い方の合いの手を入れることもあった、と続く。
▼百姓の生活は昔気質というのか、古い時代からの習慣からだろうか、農業は畑からとれる予定以外の収入は全然ないのである。大げさに表現すれば百姓は一生涯たっても予定の収入以外はないのである。これは、希望がない生活でもあった。農作物は高値のときもあるがそんな場合は収穫の少ない時である。豊作なら安値だから、高値でも安値でもほとんど変りはない。結局、百姓たちの希望は自分の子供に寄せられている。「子褒め」は自分の子供を褒めることだが、もし、予定以外の儲けを運んでくれるものがあるなら、それは子供以外にはないのである。なんとかして自分の子供のすぐれた点を見つけだそうとする。「画がうまい」、「野球がうまい」、「唄がうまい」、「自転車が速い」と、それは、幼稚園児でも小学生でも、ちょっと、すぐれた点があれば、将来、「競輪の選手になるだろう」「歌手になって」儲けてくれるではないだろうかと、捕らぬ狸の皮の代金を計ったりする、そこには溺れる者が藁をつかむように自分の子供への将来を讃えるのは自分の子供を褒めることしか希望がないからなのである。(p.219)
そして、この後ろには「役好き」、生活の中にある組合のような隣組のような組織の「役」、いわば当番をすることに生きる重要性とプライドを見いだす「役がなければ生き甲斐がない」(p.220)百姓生活と、「出させ好き」、つまり余分の収入のない生活が「他人に出させる」という智恵を産み、「金銭、酒、食物等、他人から出させようとする。そのためには選挙でもなんでも自分の権利を放棄してしまう」(p.220)という百姓の哀れさが述べられている。
こういうところに、宮本常一が人の話をよくよく聞いて書いたのと似たものを感じる。生きていることのすさまじさ、そうして生きている庶民の姿を描いたからこそ、深沢は「烈」の字をあてて、庶民烈伝としたのだろうと思う。
(1/16了) -
すぐれた小説の条件とは何だろう。
まず、「機械仕掛けの神」を作品に仕掛けるようではダメだ、と言ってみよう。
その神は、いろんなことを解決したり先送りしてしまったりするのだが、
所詮、作者の作った機械による仕掛けにすぎないのだ。
これに対して、深沢七郎の小説は、「神が仕掛けられた機械」そのものである。
作者ですら、その神の意図はわからない、という形をとるのだ。
これは、文学でしか表現できない、ということもできる。 -
子褒め、役好き、出させ好き。いや~含蓄ある言葉。
-
何?この面白さ。
-
庶民とは、ぶかっこうで食いしん坊、強情であわてもの…周囲を気遣って本音を言わずにいる母親のすがた(『おくま嘘歌』)、美しく滑稽な四姉妹の人生(『お燈明の姉妹』)ほか、烈しくも哀愁漂う庶民のすさまじい生き方を描いた連作短篇集。