- Amazon.co.jp ・本 (355ページ)
- / ISBN・EAN: 9784122059283
作品紹介・あらすじ
ローマ帝国末期のキリスト教最大の教父、アウグスティヌス(三五四‐四三〇)。幼少年期の過ちと怠惰、青年期の放埒を赤裸々に告白し、信仰に生きるに至るまでの半生を綴る。己れの弱さと原罪の自覚。虚栄を喜ぶ一方で、不安に苛まれる魂が光を見出す記録は人々の心を捉え続けた。古典的名著を歴史的名訳で送る。第一巻から第六巻まで。
感想・レビュー・書評
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ひとまず1巻読了。
日記は3巻で書く予定。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
アウグスティヌスが自らの半生を回顧した自伝としての性格を持つ本作。本巻では30歳までが語られるが、まずは読み物として大変おもしろく読んだ。
少年時代、教師の笞が恐くていやいや勉強したことや、逆にほめられて得意になったこと、好きな教科や苦手な教科の話などを読むと、偉大な教父もやはり人の子であったかと、親近感を覚えずにはいられない。
16歳の時、悪友たちとつるんでいたいだけのために盗みの罪を犯したことについて、著者は厳しい自己批判を加えている。だが、仲間と群れたがり、あるいは意味もなく社会に反抗的になりがちなこの年代特有の傾向と、アウグスティヌスも無縁ではなかったということだろう。
一方で、早くから修辞学の才能を示したり、アリストテレスの著作を難なく読みこなすなど、やはり非凡なところは非凡なのだと感じさせる。母モニカや親友たちの人となりも、エピソードを交え生き生きと伝えておりほほえましい。
とはいえ本書の核心をなすものは、青年期にキケロの著作を読んだことから真理探究の道を志すことになった著者の、いわば魂の遍歴にあるといってよい。
キリスト教にどこかで心惹かれながらもマニ教にはまってしまうアウグスティヌス。だが、ギリシアの自然哲学を学ぶにつれマニ教にも疑問を感じるようになり、果ては当時流行の懐疑主義に逃げ込んでしまう。
しかし、修辞学教授として赴任したミラノで、司教アンブロシウスの説法を聴いたことが転機となる。かつては荒唐無稽に思われた旧約聖書の説話の多くが合理的に解釈できることを知り、新鮮な感銘を受けるとともに、人間の知識の限界も悟り、「信仰」の重要性に目覚めていく。
それでも、ようやくつかみかけた栄達の道もまた捨てきれない。葛藤する心の内を率直に、生々しく語るさまは感動的である。
まるで近代文学のような「苦悩する自己」を描きつつも、どこかカラリとした、地中海の陽の光を感じさせるのが本書の特色であろうか。
ところどころに神への感謝や賛嘆の言葉が差しはさまれるが、篤い信仰心とともに、神に対する深い哲学的思索の跡も感じられる。特に新プラトン主義の影響はそこかしこに見いだされ興味深い。
訳文の読みやすさ、注釈の的確さも申し分ない。 -
アウグスティヌス 。
その名前も、この本も、いつから知ってただろうか。
やっと読み始めた。
自伝。告白。これぞキリスト教徒の人生の捉え方。
子供も無垢ではない、罪を犯している。
キリスト教へ辿り着くまでの長い彷徨い。
アリストテレスとの出会いや、マニ教との出会い、失望。
肉欲。
人生をこう捉えるのがキリスト教的なものなのか、という発見。
噂に違わぬ名著。
2巻へ。 -
本書はルソーの『告白』やゲーテの『詩と真実』と並んで告白文学の傑作とされることが多いが、かけがえのないものとしての自我の探求や、ビルドゥングロマンスといわれる人格の形成・発展を主題とした近代の告白文学と決定的に異なるのは、本書が神の賛美として書かれたということだ。訳者の山田氏が指摘するように、「およそ人間というものがそれだけでは何とみじめな者であるか、それにもかかわらず、この一人の人間をもお見捨てにならない神のいかに偉大であるかを知るため」の書なのである。罪を告白する者は、その告白の中で告白せしめる神の恵みを感じ、それに感謝し、讃美する。そして忘れるべきでないのは、アウグスティヌスが本書を「自己のために」書いたのではなく、「人々のために」書いたということだ。「自身の神への讃美であるとともに、読む人々をして、神への讃美にいざなう」ことを意図した書なのである。そこに共感できなければ、本書は退屈な説教小説に過ぎないものとなってしまうだろう。
マニ教を克服し回心に至る過程を綴った自伝的色彩の強い前半の白眉は、結婚のために離別した最初の女性に対するアウグスティヌスの苦悩とそれが回心への決定的契機となったくだりである。「彼女にすっかり結びついていた私の心は引き裂かれ、傷つけられ、だらだらと血を流しました。」「彼女は・・・、今後はほかの男を知るまいと誓い、私のかたわらに、彼女から生まれた私の息子を残して、アフリカへ帰ってゆきました。」これ以外にこの女性に言及する箇所はほとんどないが、アウグスティヌスが若い頃放蕩の限りを尽くしたという通説に抗して、この数行の中に、あるいはその沈黙のうちに、彼の悲嘆と女性に対する愛と貞節を読み取った山田氏の炯眼はさすがと言う他ない。中世哲学の泰斗にして詩人の横顔も持つ山田氏ならではと言えようか。 -
一者はいたるところに存在しながら、しかもどこにも存在しない、という新プラトン派の思想が面白い。1巻ではマニ教の影響を受けた青年期の人生を主に描く。
松崎一平氏の解説では訳者の山田晶氏との思い出が描かれているが、古い良き?アカデミズムの世界があったかのようで羨ましかった。