告白 II (中公文庫)

  • 中央公論新社
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  • Amazon.co.jp ・本 (359ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784122059290

作品紹介・あらすじ

隣家の子どもの「とれ、よめ」という声を聞いたアウグスティヌスは、パウロ書簡の「主イエス・キリストを着よ、肉欲をみたすことに心をむけるな」を読んで回心する。叙情的とさえいえる語り口で、自身の来し方を語り、神の恩寵を説く。影響は深甚かつ広大で、西洋世界はこの書の上につくられたと言っても過言ではない。第七巻から第十巻まで。

感想・レビュー・書評

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  • 途中ちょっと疲れて読むのをお休みしてたけど、しばらくぶりに手に取ったら、また向き合って読めた。
    そういうことって、ありますよね。
    回心、母との死別、記憶についての考察が語られる2巻。
    すごく良かった。
    ちゃんとした読書日記は3巻で。

  • 発狂寸前という感じの状態からの劇的な回心、そして母モニカの死を語って、哲学的な思索に入っていく。
    神議論のようなものもあれば、自己とは、記憶とは、幸せ・真理を求めるはずの人間が惑うのはなぜなのか…といったことを信仰の光に照らして探っていく。長年さまよったはてに神にすべてを委ねることができたアウグスティヌスの思索は読者にも安らぎを感じさせるもので、ひたむきで誠実、自分の夢精まで包み隠さず告白している。わかりにくいところもあったけど…。
    「まだごくわずかな光が、人々のうちにはのこっている。歩め、歩め、暗闇に追いつかれないように。」

  • マニ教や占星術を離れながらも、その代わりになるものを見つけきれなかったアウグスティヌス が、プラトニスト(新プラトン主義者)の書物との出会いを通して、キリスト教の神を理解していく。そこに求めていた真実を発見しながらも、習慣を捨てることに臆して踏み切れない。「とれ、よめ」と後押しされてやっと。
    逆にいうと、洗礼をうけることをそれほど重大ごとと考えていたが故なのだろう。
    この人間らしさこそ、アウグスティヌスの愛されるところだろう。
    決してうまれながらの聖人ではなく、苦しみ迷い躊躇ったリアルな人物ながらも聖人たる。
    西欧におけるキリスト教の受容そのもののメタファーのようにすら読めてくる。
    感動的なのは、母親の回想のあたり。ここまで繰り返し出てきてた母の最後はこれほど美しいものはない、と思わせる。
    クリスチャンに憧れてしまう瞬間がある。

    10巻はあんまり読めなかった。

  • 本書はルソーの『告白』やゲーテの『詩と真実』と並んで告白文学の傑作とされることが多いが、かけがえのないものとしての自我の探求や、ビルドゥングロマンスといわれる人格の形成・発展を主題とした近代の告白文学と決定的に異なるのは、本書が神の賛美として書かれたということだ。訳者の山田氏が指摘するように、「およそ人間というものがそれだけでは何とみじめな者であるか、それにもかかわらず、この一人の人間をもお見捨てにならない神のいかに偉大であるかを知るため」の書なのである。罪を告白する者は、その告白の中で告白せしめる神の恵みを感じ、それに感謝し、讃美する。そして忘れるべきでないのは、アウグスティヌスが本書を「自己のために」書いたのではなく、「人々のために」書いたということだ。「自身の神への讃美であるとともに、読む人々をして、神への讃美にいざなう」ことを意図した書なのである。そこに共感できなければ、本書は退屈な説教小説に過ぎないものとなってしまうだろう。

    マニ教を克服し回心に至る過程を綴った自伝的色彩の強い前半の白眉は、結婚のために離別した最初の女性に対するアウグスティヌスの苦悩とそれが回心への決定的契機となったくだりである。「彼女にすっかり結びついていた私の心は引き裂かれ、傷つけられ、だらだらと血を流しました。」「彼女は・・・、今後はほかの男を知るまいと誓い、私のかたわらに、彼女から生まれた私の息子を残して、アフリカへ帰ってゆきました。」これ以外にこの女性に言及する箇所はほとんどないが、アウグスティヌスが若い頃放蕩の限りを尽くしたという通説に抗して、この数行の中に、あるいはその沈黙のうちに、彼の悲嘆と女性に対する愛と貞節を読み取った山田氏の炯眼はさすがと言う他ない。中世哲学の泰斗にして詩人の横顔も持つ山田氏ならではと言えようか。

  • アウグスティヌス(山田晶訳)『告白Ⅱ』中公文庫,2014年
     第7巻から第10巻を収める。第7巻では、マニ教を疑い、カトリックに傾いていた31歳のときを回想している。基本的にアウグスティヌスはプロティノスなど新プラトン主義を介して「神」を理解していくのであるが、眼で見えるものしか信じなかった彼は神を自然全体と考えたりする。しかし、自然全体を作ったのも神であり、結局、「神」というのは「どこにいる」という場所ももたず、どこにでもいて、かつ、ここには少なく、あちらには多いということもないという考えにいたる。(数学的にいえば「神」は「無限」である。カントールによれば、無限に無限を加算すると「濃度」が変わってくるのだが)。また、神が人として生まれたイエスについても、すこしづつ認識していく。
     第8巻は32歳の「回心」を語っている。シンプリキアヌスから、元老院議員の師であったウィクトリヌスの回心の話をきき、また、ポンティキアヌスからエジプトの修道者アントニウスの生涯(孤独で祈りに生きた)をきき、アウグスティヌスもキリスト者になろうとするが、いままでの習慣から決断することができない。女性にまつわるいろいろな煩悩も襲ってきて、アウグスティヌスは友と暮らしていた家のイチジクの木の下で泣きだした。そのとき、隣の家から「とれ、よめ」という子供の声が聞こえ、それを神の命令だと思った彼はパウロの書簡をとり、「主イエス・キリストを着よ、肉欲をみたすことに心を向けるな」という一節を読んで回心をし、洗礼志願者になることを決めた。劇的な話ではあるが、面白いのはアウグスティヌスも「やりたいけど、できない」自分にさんざん悩んだということだ。仏教でも習慣の力を指摘しているが、人間なかなか決心ができないもんだなと思う。
     第9巻は修辞学の教師を引退し、息子や友人とともに洗礼をうけ、神に仕えるためにアフリカに帰ることになったことを書いている。しかし、息子は17歳で死に、母モニカもアウグスティヌスの洗礼を見届けて死ぬ。故郷に葬る必要はないが、祭壇では思い出してくれという遺言であった。モニカの墓は15世紀までローマのオスティアの港にあったらしい。山田によれば、第9巻は最高のキリスト教文学のひとつに数えられるそうである。死を前にした母との対話や母のための祈りなど、心が温まるものだと思う。
     第10巻は、ヒッポ(カルタゴ付近)の司教になったアウグスティヌスが自分が現在どういう者であるかを神に告白する。現在を告白するときにアウグスティヌスは「記憶」について考察をしている。かれによれば、感覚が運んできた心象(Imago)も、数学や弁論術などの知的概念も、すべては記憶のなかにあり、さらには未来の希望も「記憶」の場にある。つまり、記憶は時間をつらぬいて存在する自己そのものである。これは言ってみれば、データもプログラムも演算結果も記憶装置にあるということである。ノイマン型コンピュータだ。面白いのは、アウグスティヌスは明らかに「無意識」に気づいていることだ。回心の場面でも自分が「自分」ではない感じに悩んだし、記憶の考察では「忘れたものを覚えている」という不思議な現象を考察している。物をなくした場合、差し出された物が忘れた物ではないことは分かるのに、その物じだいは思いだせない。人の名前などでもそうだ。結局、アウグスティヌスは「人間のうちにある人間の霊にすら知られていない何かが人間のうちにある」(第5章)とし、この「記憶」の奥底におりたところで神と出会うのだということになる。「自分の内側からふれてくる他者」に気づいているのである。こういう話は現代の言語獲得論でも生得概念があるんじゃないかという話になったり、進化倫理学の理論(たとえば人類文化共通で蛇が嫌いとか)とも重複するところがあると思う。フロイトの無意識はおどろおどろしい抑圧の世界だが、アウグスティヌスの無意識には神の場もあり、この点でオールド・ワイズマンなどの元型を指摘したユングの無意識に似ているのかもしれない。フロイトはユングを「現代の預言者になろうとしている」と批判したが。つづいて、アウグスティヌスは感覚の誘惑を分析し、現にいろいろな誘惑にふりまわされていることを告白する。目が醒めているときは誘惑されなくても夢で誘惑に屈し、「肉の流れ」(夢精)がおこることも告白している。なんとも正直な人である。ちなみに仏教でも「夢精は対象を認識しているのか」とか議論がある。基本的にはこうした誘惑に対して、神とイエスの助力を請うている。また、アウグスティヌスは「みる」という言葉が見ないものにも使用され(「いかに堅いかみよ」等)、視覚の欲望が感覚の欲望を代表することをいっている。いわゆるメタファーである。cogito(考える)という言葉も、cogo(集める)の強意だとしていて、「考える」とは記憶の場でいろいろな記憶の断片を「集める」ことだとしている。最近は「認知言語学」など、「認知」を冠する学問が多いが、これは英語ではcognitive 〜である。コギトの派生語だ。
     現代でも「もてたい」とか、いろんな煩悩を告白した本はあるけど、キリスト教の聖職者など、禁欲の極致を生きるような人の告白はやはり迫力があるなと思う。

  • アウグスティヌス(山田昌訳)『告白』中公文庫。古典的名著の歴史的名訳待望の文庫収録。安易な外部の物語に依存する心性からの超越を克明に記録する偽りのない徹底的な自己内対話は、読み手の心を捉えてはなさない。解説「『告白』山田昌訳をもつということ」(松崎一平)も秀逸。手元に置きたい三分冊。

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著者プロフィール

4~5世紀、北アフリカで活躍した初期キリスト教のラテン教父の一人。ヒッポの司教。アウグスティヌスによってそれまでの思想は完成され、のちのキリスト教思想の根源になったとされる、ヨーロッパ・キリスト教思想史最大の神学者。

「2023年 『アウグスティヌス著作集20/Ⅱ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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