告白 III (中公文庫)

  • 中央公論新社
4.08
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感想 : 7
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  • Amazon.co.jp ・本 (375ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784122059306

作品紹介・あらすじ

聖書は深淵である。『告白』最後の部分は、聖書の読み解きを通して叙述が進められていく。アウグスティヌスは天地創造をどう理解していたのか。キリスト、そして三位一体の意味とは。また、時間に関する考察は、後の哲学者に時間論の土台を提供した。訳者・山田晶による「教父アウグスティヌスと『告白』」とともに、人名・地名・事項索引を収録。

感想・レビュー・書評

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  • 自らの信仰の道のり、神への賛美、聖書の解釈が、神へ告白するという形をとってつづられた書。

    印象的だったのが、アウグスティヌスが母の死に遭遇した際、信仰心から悲しみをおさえようとするも、おさえきれず、涙を流す場面。
    そのことを罪とする者がいるとしたら、「その人自身、私の罪のために泣いてほしい」と書く優しさが心に残る。

    自伝のようでもあり、論文の色彩が強い箇所もあったけれど、一番近いと思ったのは、自分で録音して配信する音声メディア。
    ひっそりと録音された誰かの肉声に、こちらも1人で静かに耳を傾けている感覚に近くて。
    それだからか、終始、布教のために自分は何を語るべきか、アウグスティヌス自身が冷静に考えて全体を構成している客観性も感じました。

    聖書解釈に関する記述はほぼわからず、ページをめくっただけになってしまった箇所も多くて、「『告白』を読んだ」というより「『告白』と一緒に過ごした」という表現が近い、この4ヶ月あまりの日々。
    祈りに耳を傾ける時間は、日常の慌ただしさにすぐ紛れ去ってしまうけれど。
    この本をめくる多くの時間を過ごした長距離移動の列車の窓から見えた山と海の風景を、きっと人生のふとした折に、また思い出すことになるかもしれないな、と感じています。

  • 三巻目は創世記1章冒頭の天地創造について考察する。天地創造の一文一文でこれほどの思索をして神学を展開できるのか、と圧倒されてしまった。「始めに神は天地を造りたもうた」は「秩序において」先立つ質料を示すという論は面白かった。旧約聖書の記述を暗喩として意味を見いだしていくアンブロシウスの説教によって回心したアウグスティヌスだからなのか、天と地、光と闇、地と水などモチーフに様々なイメージを重ね、たったあれだけの天地創造の章句に豊かで重層的な読みをする。
    「この祝福のことばにおいて、私たちがただ一つのしかたで理解し心にいだいていることを多様なしかたで表現できる能力や力、また、私たちが読むものの中にあいまいな一つのしかたで表現されていることを多様な意味に理解できる能力や力が、あなたから与えられたと私は解するのです」
    賜物をいただいたという喜びもあふれんばかりに、ことばの畑を耕していくアウグスティヌス。たった一つの正しい読みがあるのではなく、様々な真理を引き出すことこそが必要なのだという信念の美しさ。かつては傾倒したマニ教のような、ことばの表面的な意味や一つの解釈に固執する姿勢を苛烈に批判する場面もあるけれど、様々な解釈があることはむしろ歓迎している。こういう本を読むと、信仰っていいなと思う。

    「見よ、かつて私たちは闇であったが、いまは主において光である」
    巻末の訳者の解説に、告白とは懺悔と感謝・賛美とが分かちがたく結びつくものであるとあったが、本当にこれはよろこびの本なのだ。楽しかった。

  • 11巻の2/3くらいを読み終わったとこで終了しました。
    時間とは、という考察など、興味深いといえば興味深いけど、そこを深入りするつもりにはなれなかった。

    アウグスティヌスという人がどういう人か、告白をここまで読んで見えてきたところもある
    それで僕は充分
    神学を求めてるのではない
    この時代、何を考えて何が育まれたのか、のイメージがわけばそれでいいので、次にいこうと思う

    深入りしたいときはまた戻ってきます

  • アウグスティヌス(山田昌訳)『告白』中公文庫。古典的名著の歴史的名訳待望の文庫収録。安易な外部の物語に依存する心性からの超越を克明に記録する偽りのない徹底的な自己内対話は、読み手の心を捉えてはなさない。解説「『告白』山田昌訳をもつということ」(松崎一平)も秀逸。手元に置きたい三分冊。

  • アウグスティヌス(山田晶訳)『告白Ⅲ』中公文庫、2014年(初版1978年)
     第11巻から第13巻までを収める。この部分は『聖書』創世記、とくに冒頭「初めに神は天地を創造された」の部分の注釈であり、巻10までのアウグスティヌスの生涯の告白とは異なる。このため、11巻以降を省略する翻訳もあるそうだ。神(つまり無限)について語っているので、とにかく難解である。
     巻11巻は時間論である。「初めに」がいかなる意味であるのかを80ページほど書いている。「神は天地を創造するまえに何をしていたのか」という疑問に答えるのがその主眼である。結論から言えば、「何もしていなかった」のであるが、神は時間も創造したのだから、こういう疑問そのものが時間的で、時間を超越して永遠なる存在の神にはあてはまらない。世界は一曲の歌のように初めから終わりまで、同時に神には知られているが、神は意志を変えない。ある日突然「世界でも作ってみるか」と意志するような存在として神を考えると、意志する前の神と意志した後の神のふたつにわかれてしまうが、神の単一性を考えると、そういうことはないそうである。人間的な時間について、アウグスティヌスは魂と関連させていて、「過去」は「記憶」、「現在」は「直観」(よく見ること)、「未来」は「期待」ということになるが、こうした時間を超えたものが神なのである。
     巻12は「天地」について、90ページほど語っている。創世記によれば第一日に「天地」を作ったのだが、第二日には「大空」と「水」、三日目には「地」と「草」を作った。したがって、第一日目の「天地」が二日目の「大空」と三日目の「地」と、どのようにちがうのかという話になる。アウグスティヌスによれば、「地」は「無形の質料」であり、形をうけることのできる基体である。「天」はつねに神の顔をながめている知的被造物ということになる。また、アウグスティヌスは真理を探究するうえで成される聖書の多様な解釈はどれも退けられるべきではないとする。正しい解釈のどれもをモーゼが知っていたとしてもよいとも言っている。ここでも天地創造に歌の比喩がでてきて、歌が歌われるとき、形と音は同時に発せられることを指摘している。まず音が発せられて、それに形が与えられて歌になるというような段階をふまないのである。形と音は同時に創造されるが、音に形が与えられるという起源において音が先立つのであり、形に音が与えれるわけではない。
     第13巻は、『旧約聖書』創世記の内容を『新約聖書』を象徴するものとして読み解いていく。水(洗礼)とか魚(キリスト)、太陽・月・星(それぞれ智慧・知識)などである。「愛は重さである」という観点もみえる。これはアリストテレスからだと思うが、万物には本来あるべき場所があり、火は上に、石は下にと、本来向かう場所がある。この本来いるべき場所にむかう力が「重さ」であり、人間の場合、「愛」のない状態は不安で、「愛」に向かおうとするから、「愛は重さ」なのである。ただ、現実の人間には肉体がもつ傾向(重さ)と神への愛(重さ)に引き裂かれているのが現状であるとする。最後に、神の7日目の休息は人類がやるべきことを終えたあとの平安であるとして、全体をしめくくっている。
     全体をよんでみて、「言葉」と「生命」の考えが印象的であった。プロテスタンティズムと産業革命がくっついた後のキリスト教は、心身二元論とか、人間の特別視とか、「地球にやさしい」エコロジーからみると諸悪の根源のように言われることもあるが、生命とか環境という概念を作ってきたのが、「自然に甘えてきた」東洋の思想ではなく(加藤尚武)、西洋の思想であることも事実だ。「言葉」と「生命」は両者とも過ぎ去り、過ぎ去るからこそ意味があり、カオスに対する秩序でありうる。こういう言語と生命を結びつける生命観そのものが問題なのかもしれないが。
     宗教とか神学というのは、論理学的に言えば、「前企投的」であって、なぜ神が一・善・智慧・意志・恵みであるのか、説明はなされないことが多い。単純に神はそういうものだとされる。東洋の文化からみれば、べつの神もあり得るのかもしれないが、キリスト教的にいえば、そういう神は不完全である。もっといえば、なぜ神を不完全と考えてはならないのかという話になるが、究極の存在ということで神を考えれば、不完全なのものが神ではないということは自明なのだろう。人間が不完全なのも前提であるから、人間は神からの恵みによってのみ救済されうる。そもそも救済されたいという意志そのものが神の創造である。ともあれ、こういう文化が世界史上、押しつけがましいのは、いわば「個性」なのかもしれない。
     山田晶の解説の最後の部分は印象的である。「現代のみを価値の標準としているあいだに、いつのまにか彼自身、その標準とともに過去になり、忘れ去られるであろう。現代はそこにおいて、ただそこにおいてのみ永遠が実現される場所として貴い。現代において永遠を実現するために、われわれは永遠なものを現代から判断する態度をあらためて、現代を永遠なものから判断してみなければならない。古典はすべてそのような意味をもつであろう」。また、「思想における永遠なものは、その現代を徹底的に生きぬくことによって得られる。」具体的にどうすればいいのかはよくわからんし、そもそも永遠をもとめる必要があるのかという点も問題である。

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著者プロフィール

4~5世紀、北アフリカで活躍した初期キリスト教のラテン教父の一人。ヒッポの司教。アウグスティヌスによってそれまでの思想は完成され、のちのキリスト教思想の根源になったとされる、ヨーロッパ・キリスト教思想史最大の神学者。

「2023年 『アウグスティヌス著作集20/Ⅱ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

アウグスティヌスの作品

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