- 本 ・本 (464ページ)
- / ISBN・EAN: 9784122074477
作品紹介・あらすじ
「悲しみ(grief)と虚無(nothing)しかないのだとしたら、ぼくは悲しみのほうを取ろう。」
1937年――人妻シャーロットと恋に落ち、二人の世界を求めて彷徨する元医学生ウイルボーン。(「野生の棕櫚」)
1927年――ミシシピイ河の洪水対策のさなか、漂流したボートで妊婦を救助した囚人。(「オールド・マン」)
二組の男女/二つのドラマが強烈なコントラストで照射する、現代の愛と死。
アメリカ南部を舞台に、実験的かつ斬新な小説群を、洪水的想像力で生涯書き継いだ巨人、ウィリアム・フォークナー。
本作は、「一つの作品の中で異なる二つのストーリーを交互に展開する」という小説構成の先駆となったことで知られる。原著刊行(1939)の直後、ボルヘスによってスペイン語訳され(1941)、その断片的かつ非直線的な時間進行の物語構成により混沌とした現実を表現する手法は、コルタサル、ルルフォ、ガルシア=マルケス、バルガス=リョサなど、その後のラテンアメリカ文学に巨大な霊感を与えた。
他方、現代日本の小説にも、大江健三郎(『「雨の木」を聴く女たち』)や村上春樹(『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』)、叙述トリックを用いたサスペンス小説(連城三紀彦は本作を生涯の10冊に挙げている)など、本作の影響は数多見受けられる。
また、ゴダール(『勝手にしやがれ』)、ジャームッシュ(『ミステリー・トレイン』)における言及で本作を知る映画ファンも多いだろう。
その意味では、文学のみならず20世紀カルチャーにおいて最大級の方法的インパクトを与えた、世界文学史上の重要作にして必読の傑作だといえる。
これまで日本の新刊書籍市場ではなかなか入手できなかった本作を、『八月の光』『サンクチュアリ』『兵士の報酬』などの名訳によって定評のある、加島祥造訳にて復刊する。
感想・レビュー・書評
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1976年の夏、ぼくはフォークナーを三冊、続けざまに読んでいる。『サンクチュアリ』(1931年作品)『八月の光』(1932年作品)『フォークナー短編集』(1950年)。『響きと怒り』(1929年)も読んでいる気がするのだが、記録にはないので間違いかもしれない。いずれにせよ当時、ぐいぐい引っ張られたことを覚えているのと、何とも暴力的な世界だとの印象が残る。強烈な暴力の印象が。『サンクチュアリ』は二十歳のぼくにとってとても衝撃的で、しかも魅力的であった。それから半世紀近くが過ぎようとしている今、フォークナーの『野生の棕櫚』(1939年)が文庫化され目の前に出現。フォークナー作品で受けた衝撃は覚えているから、ただ事ではなかった。
そしてページを開いて呆気にとられる。この一冊の中には二つの小説作品が存在している。確かに本の帯には<二重小説>との特大文字が光る。目次を見ると『野生の棕櫚』の各章の合間には別の作品『オールドマン』が挟まれている。なので、二つの全く異なる作品を同時に読んでゆくという形式なのだ。いわゆる1930年代に書かれた極めて前衛的な構成の作品なのである。破壊的要素も強い印象のあるフォークナーだが、本書ではここまでやっていたのだ。
しかもフォークナーは、この作品を別々に書いたのではなく、『野生の棕櫚』を一章書くと、『オールドマン』の一章を連続して書き、また『野生の棕櫚』に戻るという書き方に徹したらしい。二つの小説を別々に書いたのではなく、二つの小説をセットとして意識して書いたのだ。
と、同じ構成の作品が何か身近になかったかと考えると一つだけ思い当たった。村上春樹『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』である。アメリカ文学に詳しい村上春樹のことだからフォークナーへのオマージュは既にあったのかもしれない。
さて『野生の棕櫚』は、いくつかの夏用貸し別荘の建つ湖畔だが、季節外れになると誰もいなくなる医師夫妻のもとに、とある男女が辿り着くところから始まる。別荘の一つを仮住まいとして住み着いた夫婦は何やら訳ありの空気が見られる。第二章からは彼らの放浪の出発地点からのことが過去に遡って語られ始める。
一方『オールドマン』は、大雨洪水災害に見舞われるミシシッピ川の堤防の修復に駆り出される囚人たちの光景から物語がスタートする。未曽有の災害と言われる大洪水は、もう何度もミシシッピ川を襲ったことがあるらしいが、今回のそれはまた桁外れの様相だ。第一章では獄中にある囚人たちに看守から、堤防の補強に駆り出されるところまでが描かれる。その後、囚人たちのグループも看守たちを含め作業中にバラバラになってしまう。生死を賭けた自然の猛威との闘いがその後描かれてゆく。
若い不倫男女のあてどない逃避行と、飢餓感、餓えたような愛と性、救いどころのないロードノベルのような『野生の棕櫚』。
一方、流され翻弄される囚人が、被災した妊婦を助け、ともにミシシッピ川を下るエネルギッシュなストーリー。
作者は、あまりに救いのないギリシャ悲劇のような一つの物語を、もう一つの災害中でありながら救いに満ちた物語と交互に語ることで、バランスをとるという考えでこの一冊を書き上げたらしい。なのでそれぞれを別々にではなく、交互にストーリーを書きながら二つで一つの世界として構築してきたものだと言う。
文章は、とても長く、長ったらしく、段落替えが極度に少ないが、その文体とて考えられ考え抜かれたものなのか、フォークナーという独特の作品用文体なのか。ともかく描写能力は際立っているし、心の流れもどんどん文章化されてゆくように思う。前衛さと、文章のディープさと、フォークナー文学を支える原初的な野生。自分は小説家ではないと豪語しつつノーベル文学賞までかっさらった天才の物語作風は、やはり強烈そのものであった。半世紀前に受けた衝撃からこの方、いささかも緩ぎないものだったのである。 -
フォークナーの野生の棕櫚。ゴダールの『気狂いピエロ』だったと思うけど、映画の中でJ・P・ベルモンドが読んでいた小説。『Perfect days』で役所広司も読んでいた。野生の棕櫚とオールドマンが交互に配置されることでフォークナー自身が言うように独特の効果を発揮している。単に野生の棕櫚だけだったら普通の?恋愛小説になっているところに、全く関係のないオールドマンを重ねることで、野生の棕櫚にそもそも飽きが来ないようになっているし、関係性を探るような深読みも誘う。
生き急いでいるように感じる2人を描く野生の棕櫚と、どこか達観した2人を描くオールドマンの関係がなおさら、野生の棕櫚の2人の痛々しいまでの関係性を際立たせる。
文体はやや難しく、全ての出来事を拾い切れていないと思う。特に重要なイベントをぼやかして書かれているので、イベントに気がつかないところも多かった。ただ、その表現は散文だけれど詩的でかっこいい。何度も読みたい小説。 -
★3 野生の棕櫚
★3.5 オールド・マン -
「愛は死なないのよ。ただ、立ち去るだけ──もしその人間がそれに値しないときは消え去るだけだわ。愛は死なないのよ、死ぬのは人間のほうよ、愛は大きな海みたいなものよ──、もし人間がそれに値しなくて、くさい臭いをだしはじめると、どこかの岸に吐きだして死ぬままにさせるのよ。」
一方の話の最後のシーンやひとことが、もう一方の話の次の冒頭まで侵食してくるよう。そして物語どうしまでもが呼応してゆく、まるでそれにお互いが反撥するためであるかのように。この世の光と影が、風にふかれてちらちらと美しく瞬いている。
自由という解放にむかう光芒のなかに聴こえる頽廃の足音。永遠のような陽光に満ちた閑寂の世界。そして追放された楽園の幻影ともども、果てしもなく荒涼と広がる水面下へと沈んでゆく。煩い風を無視して、わたしたちは何処へむかうのか。取り残されたものたちの空ろにひびく声、額縁にいれて飾られた 愛 もやがて、いのちを吹き込まれるだろう。そうして、悲しみに悦んで身を浸す。それでも生きてゆく、という気概がぷくぷくと水面下から湧いてくる。
ふたつの物語は、支流が、長い長いミシシッピ川にとけこむようにひとつになってゆく。生命の源、厄災の元凶、「Old Man」という名の母なる河へ。「女なんてみんなくそくらえさ!」。
「二人は衰えゆく年の紅葉の流れの下にいて、繰り返し落葉が互いに口づけするのを、いつまでも見つめているのだ。」
「実際あらゆる生物のなかで人間だけが自分の生来の感覚を故意に萎縮させているのだ、それも他の生物を犠牲にすることでだ、実際、四つ足の動物はみんな、かいだり見たり聞いたりすることですべての情報を入手して、他の方法は信じないのに、二つ足の生物はただ自分の読むものしか信じないのだ。」
「自由のかけらを見つけるまで、君はこれから幾度も乾杯することだろうよ。」
「そういう亭主そっくりなのさ。かの呪われたる蛆虫さ、すべての情熱には盲目ですべての希望には無感覚でいてそれを自覚さえしていないし、すべての闇黒、すべての未知のもの、自分を吹きとばし嘲笑うものすべてのものに気のつかない存在さ。」
「なぜなら愛はつづかないからなんだ。いまこの世界しゃあ、愛の生きる場所はないんだ、ユタ州でさえね。ぼくら人間が追放しちまったからだ。」
「つまり、正しいということ自体には、なんの慰めも心の安らぎもないのだから。」
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久しぶりのウィリアム・フォークナー。
ゆっくり読もうと思いつつも自然描写に圧倒され、あっという間に駆け足で読み切った。読後は虚脱状態に陥るほど。ただ、文章表現は巧みだが一読では理解できない比喩もある。若き人妻と恋に落ちた元研修医の愛の逃避行。ミシシッピ川氾濫時に避難した妊婦をボートで偶然助ける囚人の冒険譚。2つの異なる物語を対位法として用いて、純粋な愛の完結と排他的世界を描いている。私は特にミシシッピ川の荒々しくも神々しい描写と自然の情景に嘆息して魅入った。
時間軸が異なる語りの構成。荒々しくも繊細な自然描写。唐突に語り手を俯瞰する神のような視点。フォークナーの小説技法や形式のほんの数例だが、こうした手法が、後にマルケスやリョサといったラテン文学の作家たちや、日本における大江健三郎や中上健次に影響を及ぼした。その影響力の大きさと深さを本作を読んで改めて感じた。 -
小説におけるオールタイムベストに「八月の光」を挙げている私は、その著者フォークナーの文庫最新刊に当たる本作の発売を楽しみにしていた
ミシシッピ州に属す架空の街(ヨクナパトーファ郡)を舞台に、様々な登場人物たちの人生が交錯するサーガ形式であったり、或いは、代表作「響きと怒り」に用いられた、言葉を持たない(話せない)者の意識の流れを綴った文章表現であったりという具合に、小説の可能性を常に追求し続けた作家、それがフォークナーと言っていいだろう
そんな革新派スタイルの彼が、ここで試みたのは、異なるふたつのストーリーを交互に語り進めていく「二重小説」だ。元医学生と人妻が世間のあらゆるシガラミから逃れるべくアメリカ各地を放浪する話と、ミシシッピ河の洪水で取り残された女を救う囚人を描いた話は一見すると全く別の物語のようだが、どちらも「懐妊」をキーワードにして、底辺では共鳴し合っており、私には前者が「旧約聖書」アダムとイヴの楽園追放を、後者が「新約聖書」ヨゼフ、マリア、イエスの聖家族をモチーフにしている風にも感じられた。こうした重奏的な物語の構成は如何にもフォークナーらしい独自性に溢れ、読み手をたまらなく魅了する
ただ残念なのは、日本語訳に滑らかさが欠けているため文章がかなり読みづらく、スンナリと内容を把握出来ない箇所がいくつもあった点だ。途中で頭が混乱してしまい何度頁を戻ったことか。本書は50年近く前に学研より出版された世界文学全集に依ると巻末に記されていたが、今回敢えて文庫を刊行するのであれば版元には新訳に挑んでほしかったと思わずにはいられない -
かなりひどいことが起きているのに、カラッとした読み味で読み終えられたのはオールド・マンのおかげなのだろう。野生の棕櫚に見られる一組の男女の悲しい顛末を、オールド・マンのなかの囚人と妊婦の長い旅の場面が差し込まれることで、うまく気持ちをフラットにしたまま読めた。オールド・マンが、まるで老人と海のようでもあり、自然に翻弄されながら必死にボートを漕ぐ囚人がユーモラスに映る。でもオールド・マンだけを読んでも、多分あまり意味がないのだろうと思うから、この交互という形が完ぺきなのだろう。
フォークナーは読むのに時間がかかるのに、また読みたくなる。光とも暗部とも取れるこのエネルギーを受け取りたい。自分の大事な地盤となっている感触がある。死がピークとなった「響きと怒り」だが、今作で死はピークではなかった。しずかな悲劇であった。 -
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交互に展開する二筋の物語は、読む人の人生観を浮き彫りにさせると思った。現実を忌避するようなふわふわとした逃避行の末に最悪の結末に至った二人は、一体何が足りず何を求めていたのか、私の中で答えに辿り着けていない。対する漂流する囚人と妊婦の力強い生命力。善悪も愛も悲しみも全て命あってこそなのに、命だけでは生きることができない人間の哀しさ、を個人的には感じた。
著者プロフィール
ウィリアム・フォークナーの作品





