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Amazon.co.jp ・本 (320ページ) / ISBN・EAN: 9784122074484
作品紹介・あらすじ
シラケつつノリ、ノリつつシラケる――。最先端の知の位相を、縦横に、そして軽やかに架橋する。
1983年の初刊以来、40年にわたり読みつがれてきた名著、待望の文庫化!
ポストモダン/現代思想をはじめて明晰に体系化、1980年代には、「ニュー・アカデミズム」を代表する一冊として、社会現象にもなった。しかし、冷戦終結後30年を経て、世界はいまだポストモダンのパースペクティブを描けていない。本書の理論は、混迷する現代社会・思想状況を理解するうえで、今なお新しい。
〈解説〉千葉雅也
みんなの感想まとめ
現代社会の複雑さを理解するための理論が展開されている本書は、1980年代にニューアカデミズムの火付け役となり、今もなお新たな視点を提供しています。著者は、前近代から近代へと移行する潮流を、コード化や脱...
感想・レビュー・書評
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1980年代のニューアカデミズムブームを牽引した本。「誰も理解できずファッションとして消費されていた」、まさに堀江貴文が揶揄する、難解な本を読んでいるマウント。裸の王様が闊歩した時代だ。この点について、私の好きな引用を載せてから、少し内容に触れたい。
ー 80年代、思想家はロックスターみたいなものだった。しかし日本ではなかなか翻訳がなかったので、何が凄いのか誰も知らなかった。こうしたムーブが急速に廃れていく。そのきっかけは、物理学者アラン・ソーカルによる一つの論文だ。ソーカルはずっとポストモダンの思想家が物理学や数学の専門用語を濫用することが不満だった。文系の知識人が使う科学的な概念や述語がほとんどデタラメだからだ。そこでソーカルは、そのでたらめを適当につなぎ合わせて論文ぽく仕立て、最も権威があるとされた思想誌に投稿。すると、そのインチキな論文が掲載されてしまった。これにより、実は誰もが論文の内容を全く理解していなかったことが明るみになった。
アラン・ソーカルは欺瞞を暴いた。難解な言葉を弄してマウントを取り合うポストモダンブームは終わった。それはまるで、はしゃぎ過ぎた若者が叱られて元気を無くすように。
これを述べてから本書を引くと、書き手のみならず、読み手に対しても共感性羞恥に駆られるかも知れない。何せ、漢字に外来語のルビを振り、敢えて階層を変化させるような造語による換言を繰り返すのだから。
ー 種に固有の環境としての環境世界が折り合わされ、全体として共存のエコシステムが作り上げられている。このような生きた自然の秩序をピュシスと呼ぶことにする(なぜ?)。ここで方向と意味を同時に表すべく、サンスと言う言葉を導入する(なぜ?)生きた自然からのズレ、ピュシスからの追放。これこそ、人間と社会の学びの出発点。人間は、エコシステムの中に所を得て、安らぐことのできない欠陥生物であり、確定した生のサンスを持ち合わせない、言い換えれば、過剰なサンスを孕んでしまった反自然的存在なのである。
ー サンボリックは、セミオティックな抑圧することによって、スタティックな行動として確立される。一方、セミオティックスは隙をうかがって噴出し、侵犯の眩暈の只中でサンボリックを再流動化し組み換える。
この文を見て、それこそ眩暈がするなら、本書は推奨できない。構造主義とは乱暴に言えば、人間社会に普遍な自然発生的な文化や制度。つまり、どの社会にでも共通な言語ルールがあり、翻訳可能な部分は、構造的。ポスト構造主義とは、翻訳不可能な部分という定義、これは言語に限らず本能行動を起源とした家屋などのハード面やルール秩序などのソフト面にも通用する概念整理。という理解だ。
対して、力というのは、ドゥルーズならば「欲望」、ガタリは「差延」、バタイユの「エロス」、柄谷行人の「資本」など。所謂、構造を作り出す本源的部分。浅田彰がこれらを、構造をつき動かす「力」という概念でまとめたというもの。
ファッションとして思想を着こなす。だからこそ、誰それが言った、という参照の乱用とお披露目会。まるでDCブランドだ。スラムダンクを見てバスケを始め、キャプテン翼でサッカーを始め、ブレイキングダウンで格闘に憧れる。ハイデガーやデリダが思想界のヒーローに。表現は大衆の模倣を誘う事で、人間社会は構造主義的に成り立っている。この模倣こそ「力」だと思えば、本書は社会実験にさえも思える。
しかし、素直にも思う。これは現代の枢軸時代のようで、そんな時代にも生きてみたかったと。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
現代日本の批評家である浅田彰(1957-)による哲学書、1984年。構造主義やポスト構造主義(ソシュール言語学、レヴィ=ストロースの構造人類学、ラカン派精神分析、バタイユ、ドゥルーズ=ガタリ、フーコー、デリダ、さらにそれらの源流としてのマルクス、ニーチェ、フロイトなど)を思想史の中に位置づけ、ひとつのパースペクティブの下に再構成した。
以下、個人的な要約。
□ 人間は過剰な存在である
宇宙は、常にエントロピーが増大し続け、無秩序へ向かって進んでいく。しかしそうした宇宙にあって、外部としての世界に対して自らを内部として区別する境界をもち、内外の間で物質やエネルギーを交換しながら、自己を構成していく、局所的で開放的な自己組織系としての生命が誕生する。そこで生命は、無秩序に向かおうとする宇宙とは逆に、負のエントロピーを食べ、一定の方向性をもった秩序を構築していこうとする。そうした一定の方向=目的に向かって構築された秩序のネットワークに基づいて、生命は自身を取り巻く環境世界に対して、ひいては自らの生そのものに対して、一定の意味(機能的な意味)を付与していく。ここでは、生命はひとつの方向をなぞっていれば十分であるという点で、生の意味や目的は自明であるといえる。
ところが精神分析によると、人間は、こうした諸生命が構築する有機的秩序のネットワーク(ピュシス)から逸脱してしまう存在として、特徴づけられる。なぜなら、人間はひとつの方向=意味に包摂しきれない過剰な方向=意味を持て余しており、過不足のないそれ自体で安定しているピュシスのシステムに安住することができず、常に外部へとはみ出てしまうから。こうした人間にとって、世界は多方向的な意味が氾濫するカオスとなる。つまりそこでは、生の意味や目的が自明ではなくなってしまう。生命にとって自明であった「本能」は、人間にとっては過剰な「欲動」となる。
「白と黒で明確に塗り分けられていた世界にありったけの絵具がぶちまけられ、目もあやな色彩の乱舞がくりひろげられることになろう。生のサンスを担っていた《かたち》(ゲシュタルト)は過剰なサンスを帯びて明滅する《像》(イマージュ)となり、相互的・円環的統一は崩れ去って鏡の地獄としての想像界(イマジネールの領域)が立ち現われる。そこは、幻を追い求めて氾濫する暴力の領域に他ならない。ピュシスにあってしっかりと生の方向=目的性を指し示していたあの矢印は、磁気嵐にあった羅針盤の如く狂ったように回転し、人間を、あるいは倒錯の性へ、あるいは際限のない殺戮へ誘う。〔略〕。人間的自然(human nature)は錯乱せる自然であり不自然である。〔略〕。文化の《栄光》は、このようなカオスの《悲惨》から出発してはじめて理解されうるだろう。」(p49-50)
□ なぜ人間は過剰な存在なのか
人間は、自然的秩序に収まりきらない、過剰さを持て余している存在である。自足的な「自然」に対して、そこから逸脱する過剰な「意味」を付与しようとする。
人間のこの過剰さはどこからくるのか。それは人間が自己意識をもった超越論的な存在であることからくるのではないか。自己は、自己それ自体であると同時に、自己意識でもって当の自己を対象化する。オブジェクト・レヴェルにあると同時に、メタ・レヴェルにもある。その階層区別を設定し、同時にそれを越境する。外部の自然的秩序に静的に収まっていることができず、超越論的機制でもって常に自己及び自己を包摂している世界(自然的秩序)を対象化し意識化することで、そこから逸脱してしまう。自己は常に自己及び世界(自然的秩序)を超越してしまう存在である。ここに、人間の過剰さ、恣意性、秩序逸脱性の根拠があるのではないか。
しかし、この「超越論的であること」とは一体何なのか。どこに位置づけられるものなのか。「超越論的であること」を特権化すること自体が、既に或る種の観念論にとらわれているということになるのではないか。全歴史、全文化を通じて人間は「超越論的」であったのか。人間以外の生命も「超越論的」であり得るのか。次のニーチェの箴言が思い出された。
「「精神」を、脳髄の産物を、超自然的なものとして考察するということ! それどころか、神化さえするということ、なんという愚かしさか!」(ニーチェ『哲学者の書』ちくま学芸文庫p281)
□ 構造としての象徴秩序
過剰さゆえに自然的秩序から放逐されてしまった人間は、カオスに抗するべく、自然的秩序(機能的な意味のネットワーク、ピュシス)に代わる新たな意味の体系としての文化的秩序(象徴的な意味のネットワーク、象徴秩序)を構築していくことになる。では、象徴秩序はいかにして特徴づけられるか。それは、恣意性、差異性、共時性によって。この三点によって特徴づけられる「構造」は、はじめソシュールによって言語において見出され、次いでレヴィ=ストロースによって文化一般へと拡張されていった。
①
まず恣意性。カオスとはそもそも多方向的な意味が氾濫する恣意性のことであり、その恣意性に制限をかけるために或る一定の意味秩序を構築していくことが必要となる。ところが、そこで持ち出される意味秩序が「それ」でなければならない本質的な根拠はない。つまり、恣意性の氾濫を抑えるための意味秩序それ自体が、これまた恣意的なものであるしかない。さらに、象徴秩序はそうした自らの恣意性を隠蔽し、必然性や普遍性を僭称することで、出自としての恣意性をそれこそ恣意的に制度化してしまおうとする。つまり象徴秩序はイデオロギーとしても機能する(「象徴秩序は永遠不変である」「象徴秩序は自然に成立した」「我々は象徴秩序ではなくピュシスの中にいる」等々)。このように恣意性に対処するに恣意性を以てするのが、象徴秩序である。
②
次に差異性。それが必然性に基づく体系であれば、個々の要素は、それぞれに固有の自己同一性によって自立的な実体として定められ、それ自体として他から区別される。しかし、①より象徴秩序は恣意性に基づく体系であるため、そこでの各要素は他の諸要素との相対的な関係においてのみ自らの位置を示すことができるに過ぎない。つまりそれは、差異に基づく関係の体系であって、同一性に基づく実体の集積なのではない。
③
そして共時性。それが同一性に基づく体系であれば、個々の自立した実体を要素としてそこから全体をボトムアップ式に(通時的に)構築していくことが可能である。しかし、②より象徴秩序は差異に基づく体系であるため、関係のネットワークから独立したものとして要素を考えることは不可能であり、関係のネットワークがそれ自体として一挙的に(共時的に)与えられなければならない。丸山圭三郎の饅頭と風船の比喩を参照せよ。
象徴秩序において、自然を分節化=差異化=意味化=コード化=秩序化したものがコスモスであり、社会を分節化=差異化=意味化=コード化=秩序化したものがノモスである。原始共同体では、トーテミズム(特定の動植物(トーテム)を、集団を象徴する宗教的存在として崇拝すること)によってコスモスとノモスとの間に対応関係がつくられ、その紐帯によって双方の恣意的な分節=差異が安定化させられる。この両者の結合が、自然的秩序(ピュシス)とは別の文化的秩序(象徴秩序)をなす。
さらに上記の三つの特徴から、象徴秩序は交換の体系であること(コトバ、ヒト、モノの絶えざる交換によって、その交換関係の実現によって、自らを成立させ、維持し、再確認していくシステムであるということ)が導かれる。なぜか。象徴秩序の要素としての象徴的な意味=価値は、そもそも恣意的なものであり、それ自体として実体的に自己を定立しているのではなく、他の諸要素との相対的な関係においてのみ自らの位置を示すことができるに過ぎない。よって象徴秩序は、諸要素が相互に関係づけられていることを常に再確認することを通して、自らが秩序として成立していることを確証し続けていく必要がある。ところが、繰り返すように象徴秩序自体は実体的なものではなく関係的なものであるに過ぎないため、この関係の総体としての象徴秩序を実体的なものとして物象化し、物象化を通して社会的なものとして具現化された象徴的な意味=価値(つまり、コトバ、ヒト、モノ)が、同じく社会的なものとして具現化された相互関係によって結びつけられている(つまり、社会的な交換関係のうちにある)ということを、常に確認し続けることが必要とされる。
□ 「円錐」的象徴秩序の生成過程
では、過剰を持て余して自然的秩序から放逐された人間は、交換体系としての象徴秩序をいかにして構築していくか。その論理的な過程は、マルクスが価値形態論において貨幣を導出する理路と同型である。グー『貨幣の考古学』参照。
①
まず水平的な二者関係において。そもそも混沌の中にあって人間は、自己のまとまった自己像を獲得することができない(「寸断された身体」)。過剰を持て余し多方向的に氾濫する自己の意味を確証するべく、目の前の他者を、そこに自己の意味を映し出すための鏡として客体化し、その他者との関係の中で自己の位置価を主体的に定めようとする(「鏡像段階」)。そこでは、互いが相手の主体性を奪い自己の意味を確認する手段として客体化しようと闘争している(ヘーゲルの相互承認論、主人と奴隷の弁証法)。ところで、生身の自己が鏡に映る自己を見るとき、自己は自己が自分の外部に客体化されているのを見るのであり、つまり自己は自己がまるで自己にとって疎遠な他者として自己と対峙(場合によっては敵対)しているのを見る、あるいは自己の自己像が他者に奪われてしまっているのを見る。これは、本来は自分のもとにあった全体としての自己が、自分の外部へと引き離されてしまっているという事態である。これと同様に、他者との関係のうちに自己の意味を見出そうとする人間は、「生身の自己」と「他者を通して映し出された社会的な自己」とが決して一致しない、自己と自己像との間には決して埋められない亀裂が走っている、という自己疎外の状況に常に置かれることになる。
②
①の二者関係が多数者によって平面的に拡大していく(承認をめぐる万人の万人に対する闘争)。たとえ闘争に勝利したとしても、自己を映し出す鏡の数が増えれば増えるほど、それだけ自己の鏡像も増え、自己はそれぞれの鏡に対して分裂して別々の顔をもつことになり、自己疎外の状況も混沌を極めていく。ラカン派の精神分析に即して言えば、過剰を持て余した人間たちが、他者を通して自己の自己像を確認する場としての、他者に自己を承認させる闘争の場としての、「想像界(鏡像界)」における混沌と自己疎外の状況である。
③
②の全面的な闘争状況を一挙的に調停するべく、闘争し合う万人に対して垂直的に屹立する超越的な第三者が要請される。則ち、あらゆる要素の意味をそこに映し出す万人の鏡であり万人の《奴》であるものとしての、ゼロである。このゼロとの関係において、ゼロから照り返されることで、個々の要素は自己の意味=位置価を確証することができるようになる。こうして、普遍的媒介としての万人の《奴》たるゼロは、全ての要素に一方的に意味を贈与することで諸要素間のあらゆる相互関係=交換関係を可能にする。このとき、万人の《奴》であったゼロは、全能の《主》として、「一般的等価物」として、交換の中心に位置づけられる。この中心ゼロによる意味=位置価の全面的かつ一方的な贈与が、交換体系が成立するための前提条件となる。
あらゆる要素はこの中心ゼロを媒介にして自己の意味を確証する。つまり、あらゆる交換はこの中心ゼロの媒介を経てなされる。逆に言えば、中心ゼロは、異なる要素同士が直接的に相互関係を結ぶことを禁止している。常に中心ゼロに遡及しそれによって付与される意味を経由しなければ、相互関係は実現しない。こうして、自己は中心ゼロによって媒介される非直接的で抽象的な自己像に満足するほかなく、「自己自身」と「中心ゼロによって映し出される社会的な自己」とが決して一致しない、自己と自己像との間には決して埋められない亀裂が走っている、という自己疎外の状況に常に置かれることになる。と同時に、自己と他者との直接的で透明な結びつきも、中心ゼロが常にその間に割って入ってくることによって、永遠に断念しなければならなくなる。つまり、交換体系において一切の直接性は予め不可能である。これが、過剰を持て余して自然的秩序を追放された人間が、それでもカオスに陥らないために象徴秩序を構築したことに対して支払う代償である。
フロイトの精神分析に即して言えば、ここでの中心ゼロとは「父」であり、「父」から発せられる他者との直接的結合の禁止(「父」=言語による媒介を経由しない直接的関係の禁止)が「去勢」となる。この禁止は「母」との近親相姦の禁止も含意している。「去勢」によって、幼児は自己の全能感を喪失し、「母」との全的な合一も断念することになる。こうして「エディプス・コンプレックス」が克服され、「父」による禁止の法が「超自我」として内面化される。「子」は「母」との密室から脱して、外の社会へ出ていく。ラカン派の精神分析に即して言えば、中心ゼロは、過剰を持て余した人間たちによる承認をめぐる闘争の混沌にある「想像界(鏡像界)」を言語=法で統御する「象徴界」の成立を意味する。「象徴界」は欠如、分裂、疎外、媒介性(非直接性)の上に成立する。
こうして、コトバ、ヒト、モノの交換体系である象徴秩序が構成される。特にモノの交換における中心ゼロが、マルクスが価値形態論において論理的に導出した「一般的等価物」としての「貨幣」であり、コトバの交換における中心ゼロが、ラカンが象徴界の成立と関連して論じた「大文字の他者」である。
「「いかにして人間獣に記憶が植えつけられるか。いかにしてこの半ば鈍重な、半ば愚鈍な刹那的悟性に、この健忘の化身にいつまでも消え失せないような印象が刻みつけられるか。」ニーチェはこの問いに簡潔に答えている。烙きつけること、絶え間なく苦痛を与えることによって。これである。大地の上に横たわった錯乱せる身体に向かって下降する真赤にやけた焼きごて。その皮膚に奇怪なしるしを掘りつける刺青刀。文化とは何よりもまずこのような垂直の力の運動なのだ。」(p205-206)
□ プレモダンからモダンへ(「円錐」的象徴秩序から「クラインの壺」的運動へ)
前近代(プレモダン)は、安定的な象徴秩序を維持した質的で静的な社会であった。それは、「冷たい社会」、目的論的(質的)世界観、ゲマインシャフトなどの名前で呼ばれているものと重なるだろう。まずは、ドゥルーズ=ガタリのいう「コード化」の段階、則ち原始共同体の段階がある。それは平面的な広がりをもつ社会秩序である。この秩序において、過剰は何によって回路づけられるのか。つまり、この秩序の存立を保障する「垂直の力」は何によって駆動されるのか。それは、贈与を通して発生する「負債」によって。つまり、贈与はそれを受け取った者に返礼の債務を負わせ、新たな贈与によってその「負債」を払うように促し、こうして一定のルールに基づく贈与の連鎖が社会全体に広がっていくことで、多方向的な過剰がひとつの秩序に回収されていくことになる。続いて、ドゥルーズ=ガタリのいう「超コード化」の段階、則ち古代専制国家の段階がある。それは平面的に広がっていただけの原始共同体が垂直方向に積み重なっていき、唯一絶対の「王」ないし「神」がその頂点から臣下たちの上に君臨するピラミッド型の社会秩序である。この秩序において、過剰は何によって回路づけられるのか。つまり、この秩序の存立を保障する「垂直の力」は何によって駆動されるのか。それは、中心ゼロによる贈与を通して発生する「負債」によって。つまり、体系内の全ての要素に一方的に意味を贈与する《主》としての中心ゼロに対する無限の「負債」によって、諸要素は中心ゼロに絶対的に服従し、中心ゼロが与えるひとつの意味=位置価に束縛されることになる。このように前近代社会(プレモダン)は、人間の過剰を象徴秩序(分節=差異の網の目)に位置づけ埋め込むことで、静的秩序をつくろうとする。この点で、前近代社会(プレモダン)とは、静的な差異の体系であるといえる。
他方で近代(モダン)は、質的で静的な前近代社会(プレモダン)に対して、量的で動的な社会として特徴づけられる。それは、「熱い社会」、機械論的(量的)世界観、ゲゼルシャフトなどの名前で呼ばれているものと重なるだろう。先行する局所的な象徴秩序同士の相互作用(コトバ、ヒト、モノの交換関係)が深化していく中で、個々の象徴秩序が恣意的なコード化によって構築していたコスモス-ノモスの有意味な秩序を、互いに通約化する必要が生じる。このとき、それぞれの象徴秩序はその恣意性ゆえにどれも他に対して本質的な優位に立つことはない。この通約化の過程においてそれぞれの象徴秩序は脱コード化され、則ち個々の象徴秩序に「王」ないし「神」として君臨していた中心ゼロが地上に引きずりおろされ、その諸要素に付与されていた恣意的な固有性が相対化され平板化され一様化されていく。コスモスはただ無際限に広がる即物的な時空間として、ノモスはただ諸個人がバラバラに並列化された匿名的なアトムの集合として、無意味化させられる。その結果、個々の象徴秩序は解体され、脱意味的で、即物的で、無機的で、機械論的で、量的な、つまり総じてsachelichな近代社会が、全域的に成立していく。これが、ドゥルーズ=ガタリのいう「脱コード化」の段階、則ち近代資本制の段階である。
象徴秩序による統御が無効となる中で、それでも人間の過剰がカオスに陥ることを回避すべく、近代社会は、その過剰それ自体を一定の方向に回路づけて運動を惹き起こし、この運動それ自体を意味の源泉としてしまう、という戦略をとる。運動することそれ自体に意味をもたせているのだから、その運動の中にある限りで暫定的な安定を得ることができるが、運動が止まってしまえば、直ちに無意味に突き落とされてしまう。この破滅を先延ばしにするために、運動は不断に持続されなければならない、という強迫観念に取り憑かれることになる。具体的に言えば、資本主義社会における利潤獲得競争のように、ある即物的な量的価値の累積を目指す目的合理的な無際限の運動が、その典型である。金儲けに邁進している限り(昨日よりも多く、他人よりも多く)、自分のすぐ背後に影のように離れずにいる生の無意味さに直面しなくてすむ。こうした運動の中で、差異の体系である個々の象徴秩序は解体され、その過程で差異は計量化されていく。量化された差異の量的累積を強迫的に追求することで、その運動はますます加速していくことになる。この意味で、近代社会(モダン)とは、質としての差異を量化する運動であるといえる。前近代社会(プレモダン)においてその安定的な秩序に対する脅威であった過剰は、近代社会(モダン)においてはそのダイナミズムを保ち続けるための動力源として取り込まれる。こうして近代社会(モダン)は、運動そのもののうちに一時的な秩序をつくろうとする。
この秩序において、過剰は何によって回路づけられるのか。つまり、この秩序の存立を保障する「垂直の力」は何によって駆動されるのか。それは、量化された無際限の運動の中で永遠に発生し続ける、自己の自己自身に対する「負債」によって。つまり、「現在の自己」が「現在の自己」よりも多く持つ「来るべき自己」に追いつき追いこそうとし、そして「来るべき自己」に追いついたら、今度はそれを新たな「現在の自己」として更新し、更新された「現在の自己」よりもさらに多く持つ新たな「来るべき自己」を設定してそれに追いつき追いこそうとする。そしてこれが量的な評価軸上の運動である以上、到達すべき最終地点は存在せず、「現在の自己」が「来るべき自己」に追いついて安息することは永遠に不可能である。かつて《主》たる中心ゼロに対して負っていた無限の「負債」が、いまや無際限の「負債」として、《奴》たる自己自身に対して負わされてしまっている。こうして自己は自己自身に対する無際限の競争に駆り立てられ、自己に内面化された自己自身に対する無際限の「負債」を永遠に払い続けることになる。
近代社会(モダン)の実態が量的累積の運動である以上、そこには質的意味がなく、相対的な「より多く」以外の評価基準もなく、到達すべき最終地点もない。つまり、この運動は終わることが想定されていない。にもかかわらず、この運動が永続可能であるという保証もない。この運動は、それがいつ停止して人間を無意味のカオスに突き落としてしまうかわからない、という根本的かつ恒常的な不安定さの上にある。
□ モダンからポストモダンへ(「クラインの壺」的運動から「リゾーム」的遊戯へ)
自己の自己自身に対する「負債」にとり憑かれた強迫的な競争者から、一切の「負債」から解放された遊戯者へ。パラノイアックな一方向的競走から、スキゾフレニックな多方向的逃走へ。差異を強迫的に量化することから、差異を差異として肯定し享受することへ。超越論的階層構造における無際限のアイロニーから、超越が内在化した同一平面におけるユーモアへ。
しかし、「「負債」から解放される」とは「生を無意味なものとして肯定する」ということであり、これはニーチェが『ツァラトゥストラ』で提起した「超人」という生き方の問題と同型なのであるが、この問い自体が自己矛盾を孕んでいて予め解を拒絶しているように思えてならない。浅田本人はこんな問いに解があると信じているのだろうか。むしろ解の不可能性こそが示されてしまうのではないか。 -
構造と力
記号論を超えて
中公文庫 あ51-2
著:浅田彰
出版社:中央公論新社
買う前、そんなに有名な本だったなんて知りませんでした
ここまでくるのにも、かなりの時間が掛かってしまいました。
記号論を超えるとのことで、先ず記号論(セミオティック)を調べる。記号学の一分野とある
バース記号論「表現、内容、指示対象」の三項に基づく記号学
ソシュール記号学→シニフィアン(意味するもの)とシニフィエ(意味されるもの)
数学の証明問題を記述するのが記号論と勘違いしていたせいで、未だに生理的に受付ない学問だ
コード化:ものごとを記号で表せるようにすること、人間の営みを記号(=言語)にすること、原始共同体
超コード化:古代専制国家、いろんなものごとを、統一的に1つの体系であらわせるようにすること
脱コード化:専制国家から、脱して、近代資本制、グローバル化すること、いろいろなコードをそれぞれに用いるとの理解した
二元論と、クラインの壺:善と悪という対立する概念を否定して、その事象を離れてみること、パースティクティブ(俯瞰)
クラインの壺がでてきたのは、内と外がない壺だから、同様メビウスの帯もでてくるが、同様表と裏がない。
その面に入れば分からないが、離れて眺めると、全体から、内も外も、表も裏もないことがわかる
(もっとも、クラインの壺は、位相(トポロジー)的には、三次元空間には成立し得ない)
人間とは過剰な動物であるというのが前提である
他の動物とはちがって、人間は壊れている存在、ホモ・サピエンス(賢い人)であると同時に、ホモ・デモンス(だめな人)、何をするかわからないので、そこに何らかの秩序(制限)を加えなければならない
そのために、人間のまわりに、象徴秩序を貼り廻られなければならない、というが、構造主義と説く。
構造とは、象徴秩序と同一である。経済、社会、主体に対して、象徴秩序を設定する。
これを超コード化という。その究極が、古代専制国家である
近代は、脱コード化で人間をその檻から解き放ってしまっているのだ
男と女
矛盾した公理系
走っていなければ、矛盾につかまってしまうので、止まれない近代人の滑稽さ
結論は、近代人は遊戯者である。それも、この上もなく不幸な遊戯者である、だと。
ただ、デリタや、カント、パタイユ、ヘーゲル、ラカン、等々、そうそうたる哲人の引用が張り巡らされていて
うわべの言葉は捉えたと思っても、著者の真に言いたいことは何かは、闇の中である。
目次
本書の構成について
序に代えて
1 構造主義/ポスト構造主義のパースペクティヴ
第1章 構造とその外部 あるいはEXCESの行方
第2章 ダイアグラム
2 構造主義のリミットを超える―ラカンとラカン以後
第3章 ラカン 構造主義のリミットとしての
第4章 コードなき時代の国家
第5章 クラインの壺 あるいはフロンティアの消滅
第6章 クラインの壺からリゾームへ
あとがき
初出一覧
解説 千葉雅也
ISBN:9784122074484
出版社:中央公論新社
判型:文庫
ページ数:320ページ
定価:1000円(本体)
2023年12月25日初版発行
2024年01月15日再版発行 -
80年代にニューアカブームを巻き起こすきっかけの最先鋒となった書籍。2023年についに文庫化しており、Kindleもなかったので日本帰国時に書店で真っ先に購入。そんな経緯ももあり、楽しみながら読んだ。内容理解度はさておいて。
千葉雅也先生の解説が秀逸。まずはこちらを先に読むことを強くおすすめする。
浅田彰が本作で論じる前近代→近代へと移る潮流をコード化→超コード化→脱コード化という順序で進めてるんだよ、って教えてくれる。この主張を基底に経済・社会・個人の主体性といった話題を展開しながら、繰り返し主題の確からしさを論考する。
この手引きがあったおかげで、浅田の衒学的も言っていいであろう難解な用語の洪水を主題を見失わずに渡りきることができた、深謝。
現代に生きる人々にとって、浅田の理論はどう解釈すべきか。絶対的な象徴秩序が崩壊した構造は、今も続いていると感じる。より個人責任偏重の傾向が強まっている。
個人と個人のぶつかり合いでより前進したものが勝つといった資本主義社会での生活に疲弊している。浅田の提示した脱コード化社会はより強固なものになり、だからこそ「リゾーム」であり「遊戯」であることの重要性はさらに高まっているのである。まだ人類は浅田が突き付けた現代病に対する解決策を見つけられていない。
折しも、敵対を避けより豊かに生きるための道を模索するという態度がみられる「令和人文主義」がブームになている。「衝動」「趣味」「批評」というキーワードが並ぶが、これらが意味する先に浅田の「力」が合流し現代人にマッチした思想へと昇華していくのではないか、という現代人文系文筆家たちへの淡い期待が立ち現れる。楽しみである。 -
とにかく論理を肉付けするのに様々な思想から言葉を引っ張ってきて繋げるセンスが凄まじいという感じがする。
現代思想は思索する上で、デリダの脱構築に代表されるように問題をズラすという方法を採用しているが、本書の「序に代えて」を読んで、この「ズラす」という運動を初めて身体感覚として掴めた気がする。
そういう意味では本書は実践的な書なのかもしれない。 -
難解なフランス現代思想をあられもなく解説し、80年代ニューアカブームの火付け役となった本だが、この本を現代思想入門として読むのは誤読だろう。極めて優れた入門書でもあるだけに、評者自身を含めて誤読する者が後を絶たない。だが今思えば浅田の意図は、小難しいことをグダグダ言っても思想なんて所詮この程度、だから「書を捨てよ、町へ出よう!」ということではなかったか。実際この本以降浅田はまともな思想書を書いてない。
出版から15年後の98年に出た東浩紀の『存在論的、郵便的』に対し、「『構造と力』が完全に過去のものとなった」と浅田は言い放つ。これでようやく言論界も現代思想を卒業できるというひそかな期待がこめられていたのかも知れない。だがその後も東の郵便本とともに本書は売れ続け、ちっとも過去とはならず40年後には何と文庫化だ。浅田本人は苦笑してるだろう。これは決して冗談ではない。
もちろん浅田は反知性主義を唱えたわけではない。浅田にとって本物の知性とはどこまでも明晰であることではなかったろうか。それは内輪で盛り上がるだけのお座敷芸と化したアカデミズムでは決してない。この「知性ごっこ」を笑い飛ばすために、敢えてその土俵の上で、恐ろしく大胆に、かつ誰よりもシャープに当時最先端とされた思想をパラフレーズしてみせた。その手捌きは見事という他ない。
思想や哲学について書こうと思えば本格的な研究書をいくつも書けたと思う。だが結局同じことの焼き直しか重箱の隅をほじくることにしかならないと見通していたに違いない。30代以降の浅田は芸術や映画批評など純粋に好きなことだけをやって今に至ったように見える。思想や哲学というものは所詮論理に還元できる(とも言い切れないところに実は思想史の意義もあるのだが、概ね還元できる、またできなくては思想の名に値しない)。浅田が渇望した人文知の本義は還元不能な個別性なのだ。彼が「書を捨て」て芸術作品に向ったのは自然な成行きだ。 -
前半は難しくてついて行けていなかったが、後半になるに従って内容が掴めてきた。にしても難しい。
70年代にフランスで起こったポスト構造主義の哲学について、前近代の社会や思想と比較しながらまとめた論考。
神や王といった権威が消滅した近代において、その権威を内面化し決して本当に自由になることも満ち足りることもなくなった人間。それでも私たちは、前近代的な世界に戻ることなく自由にならなくては、と説いている(と読んだ)。
26歳でこんな難しい本を書いた著者の知性には畏れいるけど、これが代表作になってしまったのかなあ、という感じはする。
著者を敬愛する千葉雅也の解説付き。 -
半月ほどかけてやっと読み通した。いや、読んだなどとは決して口外できない。全く理解していないし、何も残っていない。途中で読むのをやめても良かったが、とりあえず最後まで出て来ることば、固有名詞を追いかけていただけ。最初にコンサマトリーとインストゥルメンタルが登場したときには、わくわくし先を読みたいと思ったのだが、その後は、何も起こらなかった。何が問いなのか、どういう問題意識があって書かれているのかさっぱり分からない。千葉雅也さんの解説を読むことでいくらかは解消されたけれど、やはり分からないものは分からない。そんな中、登場する人名だけは読んでいて懐かしくもあり、わくわくさせられた。外国人の名前はやめておこう。どうせ誰も読んだことはない。森毅(一刀斎)、山口昌男(僕は山口昌哉の方が好みだったが)、今村仁司、栗本真一郎、岩井克人、柄谷行人。僕が読んだ中で本書に登場しなかったのが丸山圭三郎。ノモス、カオス、コスモスの話が今も印象に残っている。中沢新一。2人の間はどういう関係だったのだろうか。後に、浅田彰と柄谷行人が取り組んだNAMに興味を持ち、しばらく追いかけたことがあった。地域通貨とか興味深かった。それから、確か、浅田彰が人文研にいたころか、公開講座を聞きに行ったことがある。中身はすっかり忘れたけれど。結局他に「逃走論」を書いただけで、それ以外に本は書かれなかったようだけれど、その後、どんな仕事をされていたのだろう。芸大に移られた後は、ときどき新聞などで見かける程度になってしまったが。そして、なぜ、本書が40年ぶりに文庫化されたのか。普通、著者自身による文庫版あとがきなどがあるはずだが、本書にそういうものはない。浅田さんは、この文庫化をいったいどう受けとめているのか。そこが知りたい。
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2025.04.15 42年ぶり、2度目の読了。ただし42年前は全く理解できなかった。今も十分には理解できないが、最後の千葉雅也氏による解説も含めてざっくり理解できたかなぁ。この40年はまさに差異とやらによる無限運動に乗って、ひたすら走り続けてきたが一向に充足はしなかった。まさにこの本の指摘通りの人生だったなぁ。脱コード化した近代・資本制社会の中のズレとは何か。決して多くはない残りの人生は、このズレを見つけてwell-beingを高めたい。ジジイによる逃走??
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終始楽しい読書だった。 近代について、現代思想から俯瞰的に解説された感じ。 読了後、序の シラケつつノリ、ノリつつシラける。 を再確認。
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一口に言うと、唯物論の予言書であり
アジテーションの書でもあった
サンスの過剰でもってピュシスからズレた存在になったとき
人の認識に二元論の萌芽が生まれた
サンスの過剰とは
ピュシス…自然の法則にあらがって生きる強い意志だ
それによって文化を生み出した人類は
文化の秩序を乱すものとしてカオスの存在を発見した
文化とカオス、すなわち二元論である
カオスとは文化の外から襲ってくると同時に
人の内からわきあがるものでもあった
当初は、交換・贈与による拡散で対処していたが
負債を得た人々からカオスは噴出する
それによって殺害されたスケープゴートを元に
人々はより強固な象徴秩序をつくりあげた
要するに神のもとの秩序である
ここで二元論は、いったん統合された
しかし自然科学の発展とともに神への懐疑が強まり
二元論を再統合する必要が生じた
これを構造主義の始まりと考えることができるだろう
エーテルに満たされた世界という虚構でもって
なしとげようとしたのがヘーゲル
そんなヘーゲルを唯物論で超克したのがバタイユである
祝祭の連続…終わりなき弁証法の過程によって
統合は持続されるとバタイユは考えた
一方、精神分析家のラカンは
神話再現の儀礼的空間として家庭のシステムを定義した
父の名において母子の想像界が切断されたのち
父の名において到来する象徴界を
構造主義は包摂できない
家庭内の象徴秩序は未だなお強固であり
「浮遊するシニフィアン」も
また、去勢された象徴界の外部も捉えることができなかった
ここに構造主義の限界はあったと思われたが
しかしこの本では視点を高みに上げ
国家を論じていくことになる
ドゥルーズ=ガタリ言うところの脱コード化された近代国家で
家庭が社会性を失う一方
学校では、脱コード化された科学的世界観を
子供たちに教え込んでいった
ところが、ここに管理教育の問題というものが見出された
教室はパノプティコンのように監視されており
言うなれば陽の光に照らしだされた昼の世界である
そこで監視者の目は、囚人たる子供たちの内面に入り込み
自発的な服従を強いるわけだ
そして、教室が昼なら家庭は夜であった
結局、構造主義では象徴秩序を超えられないのだろうか?
ここで僕なんかは
シラケつつノリ、ノリつつシラケるという例のスローガンで
象徴秩序に対するのが唯一の解だと思うんだが
しかしこの本では、なぜかそうならなかった
というのは、なんだかんだ言っても
文化とカオスの統合を持続することが難しくなった時点から
やはり象徴秩序の強制力が衰えてきているのである
そういう世の中では
コミュニケーション能力の高さが個人に求められた
コミュニケーション能力とは要するに
神にかわって自分を人に信じさせる力のことだ
現代人とは、基本的にそのような神きどりの道化であり
現代とは、道化たちの入り乱れる砂漠のような時代なのであった
…そうなんだろうか
この本では、プレモダン→モダン→ポストモダンという流れを
ツリー→クラインの壺→リゾームという構造に置き換えているんだが
どうも僕には
リゾーム(地下茎)を引きずり出したあと
ツリー(樹木)を地下へと隠蔽してしまったように見えるんだな
象徴秩序の隠蔽された世界で自由な夢を見ながら
唯物論という虚構のもと人々は動かされている
超富裕層に世界のマネーが集中してるらしい現代の構造とは
そういうものでないかしら
ちなみになぜ唯物論が虚構かといえば
我思うゆえに我が思いここにあり、だからです -
2022年のロシアによるウクライナ侵攻を受けた直後のテレビ出演で、初めて浅田彰氏を知った。
その時の感想は、「珍しく事情をよくわかっている人がいるな」。
とても失礼した。
しばらくロシア関連の専門家と思っていたが、違った。
読んだ第一の感想は、時代の違いよりも執筆時点の年齢(26歳)として若い本だ、ということ。
これからアカデミックの世界で生きるという意気込みや、とはいえまだ自分は若く認識が十分ではない、という率直な自信のなさから来る予防線を感じた。
冒頭のテレビ出演で彼は、ロシア政府の行動を世界全体の構造とその時系列から説明しようとしているように見えた。
それが「構造主義」なのかどうか、不勉強な自分にはわからないが、この本を書いたときと根幹は変わっていないように感じる。
全てがパック化・商業化され、質的差異が量的差異によってしか説明されない世の中。
追いかけても先へとズラされ続ける目的に向かい、走り続ける社会。
自己に内蔵された監視の目。
当時も今も変わらない、と言うより、30年以上前の彼の指摘が、更に加速し現在に至るのだろう。
マルクスの「自己の欲望の奴隷」という言葉が思われた。
プレゼンテーション能力重視の昨今は、情報の受け手の理解は発信者の責任に委ねられるが、この本はその責任を放棄しており、まるで受け手側の理解能力のテストだ。
時代が変われば答えは変わるものだと、面白く感じた。 -
読書会課題本。「あれこれ語られているようで、実は何も語られていない」そんな印象だけが残った。読み終わった後に何も残らない空虚な本だ。こんなのが一昔前に日本の哲学界を席巻していたのかと思うと暗い気持ちになる。特に、最終章での音楽についての議論はまさに噴飯物。
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浅田彰さんの『構造と力』を読んでみて、最初はとても難解に感じました。私たちが当たり前に思っている社会や言語の「背景」に、実は見えないルールやパターン(構造)があり、なかなか説明できない「力」が働いている、ということを強調しているからです。
普段あまり意識していない「権力」や「欲望」という言葉の意味を見つめようとしている点です。 一見個人の自由な選択や好みに見える行動でも、実は社会全体のルールや常識、あるいは経済的な力によって誘導されているのかもしれない。
ただし、引用されている考え方家や専門用語が多いため、一度読むだけではすべてを理解するのは難しかったです。 読んでいて「理解できる部分」と「さっぱり理解できない部分」が入っていました。したがって、新しいものの見方を身につけるのだと思います。
全体として、本書は答えをはっきり示唆するというより、「こんな見方もある」という思考のきっかけを与えてくれる本だと思います。 -
逃走というスキゾ的な生き方を魅力的に感じる一方、人間は何にも縛られずに生きていくことは可能なのか疑問に思った。前近代の身分や家族といった共同体は失われつつあるが、アイデンティティの消失が受け入れられている訳ではなく、最近では"推し"によってアイデンティティを獲得しようとする人も多くいる。人間は拠り所無しで生きられるほど強くないのではないかと思う。
カタカナがなかなか馴染まなかった。大学生とか社会人になって改めて読めば捉え方が変わるのかもしれない。 -
p.2023/12/27
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浅田彰の著作を初めて拝見した。
内容としては近代における構造主義を様々な知見を元に細やかに説明し、さらにはポストモダンに関して考察し、新たな知見を示している。
本書は全体を通して固有名詞や哲学的な用語、参考文献など複数のレベルが存在し、初見にて理解する事は難解である様に思われる、しかし、実際には固有名詞や部分に捉われず、全体を俯瞰しながら読んでいけばある程度のオーバービューは獲得できるのではないだろうか。
特に構造主義におけるクラインの壺モデル、そこからポストモダン論としての、リゾームや脱コード化はある程度前提知識があれば大きく理解する事はできるのではと感じる。
本書が刊行されて40年程の月日が流れているとの事だったが、私たちの生きる現代はポストモダンの時代をより混沌にした状況だと感じる。ポストトゥルースや、陰謀論、ロシアやイランにおける戦争、アメリカのトランプによる強権、全ての事情が全く新しい物語を紡ぎ始めているのではないだろうか。
当初想定されていたポストモダンの理想は新たな混沌を生み、私たちはその最先端にいる事を深く実感している。0年代の様な牧歌的な平和は潰え、新たなる時代を生きるしかない状況だ。
本書はその様な社会状況だからこそ、再度振り返り、新たに何ができるのかを考えるきっかけになるのではないだろうか。今一度問いたいと思います。 -
リベンジ必須
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今までに二回、第三章で挫折し、Geminiの手を借りながら三度目の正直でようやっと読了。
基本的には前提知識がなくとも大雑把に対立図式を追っていけば理解することができるが、第三章のラカン、これが曲者で、単純に字面から意味を推測することは不可能であり、ここだけは一冊ラカンの入門書を読んでおくのが良い。
構造をめぐる前近代と近代の説明は非常に明快だが、同じことが何回も繰り返されるので冗長。全ての章は独立して読むことができると言っているが、そんな配慮いらん。
全体としてあまり一冊の本としての完成度は高くないと思うが、後の思想への影響を考えると読む価値はある。
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