大乗仏典―中国・日本篇 (第26巻) 一休・良寛

  • 中央公論新社
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  • Amazon.co.jp ・本 (637ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784124026467

作品紹介・あらすじ

破戒・風狂の禅僧一休宗純の中国禅と文学に裏うちされた詩集「寛永版狂雲集」と、自然や子どもらを友とし、破屋五合庵に乞食の生涯を果てた大愚良寛の「良寛道人遺稿」を全訳で収める。

感想・レビュー・書評

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  • 一休宗純の中国禅と文学に裏うちされた詩集「狂雲集」と、自然や子どもらを友とした大愚良寛の「良寛道人遺稿」を収める。

    本当はこの本よりもむしろ、『日本の禅語録〈第12巻〉一休』のほうで一休の漢詩を読んだのだけれど、そちらはもう感想を書いてしまっているので、この本で一休の詩を読んでの感想を書くことにする。

    と言っても、思ったことはすでに卒論にまとめているので、そちらの文章を転写したい。あんまり感想になっていない上に、手抜きでスミマセン。

    ①禅の先達への敬意
    一休は『狂雲集』において、多くの禅の先達の名前を挙げている。それは国内の臨済宗派の僧に止まらず、中国の禅僧にまでさかのぼる。
    中でも一休が尊敬の念を寄せているのは、虚堂智愚と大燈国師(=宗峰妙超)であろう。宗峰が、後に一休が住持となる大徳寺の開山であることは前章にて述べたとおりである。虚堂は、宗峰からさらにさかのぼること二代にあたる、中国の禅僧である。ゆえに一休は、しばしば自身のことを『狂雲集』において、「虚堂七世」「大燈五世」と自称している。つまり、彼らの禅を担い、継承しているのは私である、と言っているのである。
    このほかにも、『狂雲集』に挙げられている禅僧、あるいは踏まえてある経や公案の数は膨大で、一休がいかに禅の先達に敬意を寄せていたか、また禅の伝統をよく学んでいたかがわかる。
    一休はとくに、清貧枯淡にして器の大きい禅風を好んだようである。世俗権力におもねらず、一生を地方の田舎町で過ごした僧や、下手な飾り立てをしない、豪胆で男伊達のする僧をよく取り上げ、賞賛している。一休の理想とする禅風が窺われる。

    ②批判と自負
    このように、一休の禅に対する理想は高かった。また、その高い理想を継ぎ、実践していくのは自分であるという強い自負があった。
    この自負にはもちろん、当時の禅林社会の腐敗が大きく関係している。形骸化・俗化した禅林に対する激しい怒りを、一休は常に抱いていた。その憤りは禅林社会に留まらず、当時の政治社会への批判にも繋がっている。『狂雲集』には権力独裁者への政治的批判の詩 も見られ、一休が政治体制にも強い憤りを感じていたことがわかる。
     兄弟子にあたる養叟宗頥およびその一門に対する強烈な罵倒も、一休が禅に対して確固たる理想を持っていたゆえだろう。養叟が権力におもねり、政治的に禅の再興を図ったことが、一休にとっては禅の気風を乱すこと、つまり偉大な僧たちが築いてきた、禅の伝統をもないがしろにすることと映ったのである。
    しかし一方で、絶法宣言をしたという立場から、時に高慢とも取れる一休の強い自負を説明する見方もある。謙翁宗為と華叟宗曇という二人の師匠から印可状をもらっていない一休には、「悟り」の境地に達しているという客観的な証がない。さらに彼は、嗣法の弟子を残さないという宣言もしている。つまり、一休は自分の禅を確立していくにしろ、維持していくにしろ、頼るべき師も弟子もいないのである。彼が自らを悟りに境地に達したと肯定するためには、ただひたすらに己の自覚を強めるしか方法がないのだ。
    それは体制に対する完全な孤立である。高い理想を掲げ、己の自覚のみを頼りにする一休の生き方は、まさに孤独な修羅の道を歩むことそのものだと言えよう。

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