ちょっと言葉遣いが排他的で個人的には好きではなく、人におすすめはできないが、内容はわかりやすい。
大乗仏教(釈迦の死後できた小乗仏教の(500年後くらいにできたもの←不明、紀元前後とされてる)で、小乗仏教という言い方はちょっと蔑称とされてて今は、ニカーヤ仏教と言われる。小乗仏教は結構厳し目、出家しないと、って感じだけど、大乗仏教の方は在家もOK)の立場。空の哲学。
自然的欲望と奴隷的欲望に欲を分ける。
自然的欲望:美味しく物を食べたい
奴隷的欲望:美味しい物を食べたい
自然的欲望の方は、自分の心の持ちようでどうにでもなるが、奴隷的欲望の方は人間がものに支配されてしまっている。
また、奴隷的欲望の方は、充足されることがないもの。例えばお金が欲しい、など
日本人はみんな多財餓鬼といって良い。こんなに豊かな生活をしているのに、少し足りないものがあるだけで、もっともっと、と言い始める。年収1000万円のサラリーマンは、1000万円を達成したら、いやこの時勢では1000万円では足りない、もっとだ、となっていく。欲望が膨らんでいく。
我々が自由になって、欲望に対して主体性を確立した時初めて、奴隷的欲望が自然的欲望に変化する。
仏教の教え:少欲知足(しょうよくちそく)
欲を無くせというわけではなく、欲望の奴隷になるな、という考え方。
般若心経(大乗仏教の経典)は、「すべては空である」、のみ。
自由とは、自分に由(よ)ること。自分が原因であるとすること、という意味。
仏教の自灯明・法灯明という教えでも、仏教の法よりも自分自身を優先せよ、と書いてある。(←誤読可能性あり:仏教の法も、自分自身も優先しよう、ということ)
法を色々打ち立てても、最終的には自分しかないのだから、自分を優先しよう、という発想は、そうだな〜と思う。結局真実なのは自分自身だけであるから。
←ここに対して、最後、僕の命は僕のもの、というのが変だ。なぜならば魚の命は魚のものなのに、僕はそれを食べても良いのはなぜか?という問いに答えられないから。
僕の命も魚の命も仏様のものであって、みんな仏様から命を預かっている、魚も仏様から魚の命を預かり人間にその命をプレゼントしているのだよ、という考え方が提示された。(関係ないけど、ブラッシュアップライフの受付のシーン、すごくこの発想に近いものがあるのかな、?とちょっとだけ思った)
(with chatgpt「魚の命は人に布施されている」説は伝統内でも賛否あるらしい)
大乗の一部経典(楞伽経や大乗涅槃経など)は肉食を強く戒め、慈悲の観点から菜食を勧めます。命を“布施された”と正当化するより、生き物への恐怖と苦を減らす倫理が強調されがちです。
イエスの言葉で、安息日は人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。(マルコによる福音書)という言葉があるらしい。なんか、私も今、休日を設けてやろうとか思ってるけど、その休日、というものに自分自身の人生が縛られている感覚みたいなのはやっぱり少しあったから、なんかそこで休まなきゃ、みたいな。自分が作ったシステムなのに、いつの間にか自分自身がそのシステムに縛られてる、みたいなことって結構あるなあ、と思った。
あと、「自分を売り出しなさい」という言葉に対する疑いの言葉も書いてあって興味深かった。それは自分が売られて、商品になっていた奴隷と同じだ、と。テレビタレントなどは視聴者というご主人様に生殺与奪の権利を握られていたり、サラリーマンも上司に目をかけてもらうために上司の奴隷になり、商品としての自分を高く売り込もうとしている。それがサラリーマンの実態。教育システムの時点から子どもたちを幸せにするためではなく、子どもたちの商品化が目的となっている、と。
私は結構社会の中にいると、この、商品としての自分の価値にすごく縛られてしまうところがあるから、それだけじゃないというのは当たり前なのかもしれないけれど、でも、それは奴隷的な人間がやっていることだ、といってもらえて少し気が楽になった。
日本人が奴隷になっているのは、無宗教であるからだ、という論が展開されている。信じられるものがない、特に宗教は世間を馬鹿にしているものだが、それを信じていないと、世間というものが自分にとって重大な判断軸になってしまう、と。
多くのサラリーマンが社畜であり、会社の奴隷になっている。
不登校の子も、世間の目に疲れているのに、親がどうやったら学校に行ってくれるか、、と考えている間は、悪い状態のまま。学校には行かなくてもいいや、と考えが変わった途端良くなることが多い。こころを開いて子供が話してくれるようになる。
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私たちが自由人になった時、真の人間関係を取り結ぶことができる。
これはなんか刺さるな〜と思った。世間からは常にまなざしを向けられているのに、自分自身が信頼している人からも世間と同等のまなざしを向けられるのはかなりきつい。逆に、自分自身が信頼している人が、自分自身のことを、世間とは関係なく心配してくれている、大切に思ってくれている、と気づくと、その人に対して心を開こう、という思いになるな、と身をもって体感したことと重なる。
自由人は自分のものさしを持っている。自分のものさしを持っているから例えば学校は刑務所だ、という発言を聞いても、自分はそれを利用しているだけだと思っていて、他人がそれをどう評していても特に何も感じない。他人の自由を尊重することができる。
自分は結構周りの人に言われたことに対して怒ってしまうというか、なんで自分の言っていることを理解してくれないんだ、と思って悲しんだりする節があるな、と思った。でもそれは、自分自身はある程度世間から自由かもしれないけど、他の人に自分の思っていることに共感してほしい、みたいな願いがあるんだな〜ということに気付かされた。だから自分の思っていることに共感しない、わかる〜と言ってこない他者は、それはそれでその人が自由である、という証だし、それは裏返せば自分自身が自由であることの証でもある。だから他人に共感されなかったことに落ち込んだり、他人の価値観に対して怒ったり凹んだりしているうちは、まだ奴隷的な根性が残っている、ということなのだろう、と思った。
現実の世界は矛盾に満ちている。大学入試で全員が大学に入れるようになっても次は、一流大学に入らなければいけない、ということになる。みんなお金持ちになって働かず暮らしたいと思っているけれど、みんなお金持ちになって誰も働かなかったらみんなが餓死することになる。
なるほどな〜と思った。誰かが一生ずっと信じ続けている人がこんなにも、問答の中においては一瞬で否定されてしまったりするのだな、と。
私たちは生きているだけで他人に迷惑をかけている。電車に乗れば席が一つ埋まるし、排泄物で地球は汚れている。だから死ねとかそういうことではなくて、自分が他人に迷惑をかけているのだということを自覚し、それゆえに他者からかけられた迷惑も赦さないといけない、というのが教え。
なるほどな〜と思った。自分はあまり人と関わらないように、と思って生きていたけど、それでも電車に乗って席に座ったら座れない人がいたりとか、そういうふうに迷惑をかけているシチュエーションはいっぱいあったんだな、と。だから迷惑は掛け合いなんだ、と。他人に迷惑をかけるな!という教育はかなり間違っている、という視点をもらえたのはよかった。自分の中の行動のプライオリティの一つに他人に迷惑をかけない、というものがあるように思ったので。
そもそも矛盾に満ちた世界なのだから、みんなで迷惑かけ合ってやってかないとね、という感じ。
迷惑をかけるなと教えられると、自分の迷惑を小さく計算して、他人の迷惑を過大評価するようになる、というのは確かにな〜と思った。
般若心境の一行目の意味:観自在菩薩は、般若波羅蜜(彼岸へ渡ること=智慧の完成)を実践され、すべては空だとわかり、あらゆる苦しみを克服された。
仏教の基本原理:出世間、小乗仏教では出家、大乗仏教では、世間の物差しを捨てること(著者の考えによれば)
世間の物差しを捨てるための修行:六波羅蜜「布施」「持戒」「忍辱」「精進」「禅定」「智慧」
「持戒」:仏教の五戒「不殺生戒(殺さない)」「不偸盗戒(盗まない)」「不邪淫戒(不倫・邪な性行為をしない)」「不妄語戒(嘘をつかない)」「不飲酒戒(酒を飲まない)」
これはただ守れば良いものでもないし、必ず守らなければならないものでもない。そう考えるのは今度は、戒の奴隷ということになる。(結構守った方が良い目ではやっぱりあるっぽい)
不殺生は無理。嘘もつく。ただ、その時に、我々は破戒者であり、破らずには生きられない弱い人間であるということをしっかり自覚することが重要。自分も弱く、周りも弱い人間である、そう考えると他者を許せるようになる。
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「忍辱」:他人からの迷惑をじっと耐え忍ぶ、ができるようになる。
「精進」:がんばらない、譲ることを頑張る、という感じ。努力すれば幸福になれるのではない。幸福だから努力できるのだ。(←やや誤読:“喜びを伴うエネルギー/持続的努力”。ムリな根性論ではないが、努力そのものを否定しません。)
「禅定」:何か金や目標のことをじーっと考えるのではなく、ぼけーっと精神をリラックスさせてのんびりすること。(←やや誤読?:禅定(dhyāna)は集中・心の安定の完成(散乱や鈍さの除去)。“のんびり”ではなく、明晰で安定したフォーカスです。)
「智慧」:自分の損得を考える此岸の知恵ではなく、彼岸の、仏の智慧を得る。そのためには、此岸の知恵を捨てなければならない。
「布施」:施す人、受ける人、施すもの、の3つ全てが清浄じゃないとダメ、とされる。
空:ものに物差しがついているのではなく、物差しはものを見る人間がそれぞれに持っているのだ、という考え方。
マイナス思考、常に自分には何かが足りない、100頭の牛を持っていたら次は150頭だ、と思っていたら、マイナス思考
縁起:相互依存関係。この宇宙に存在するものは単独に存在せず、すべて他のものと関係しあって存在している、という考え方。釈迦の教義の体系づけの元となっている。
論理的相互依存関係:長いものがあるから短いと思うものがある、という話。学校の成績を良くしようと自分が頑張ることは、他人の成績を悪くしようとしているのと一緒→頑張る必要ない、と気づける。テストには争いたい人だけが参加すれば良い。
(with chatgpt「競争=誰かを引き下げるから頑張らなくていい」は独自解釈
“長短の相対性”と“倫理判断”を直結させるのは大乗の標準教説ではありません。龍樹は因果を相対化しても、**縁起そのもの(因果の連関)**は否定しません。)
時間的相互依存関係:因果だけでものを見るのではなく、縁起的に見る。種を植えたから芽が出たのだ、というのが因果的な考え方だが、本来は因縁的に考えるべきで、実際には、水分や適度な温度が必要であった、鳥が種を掘り返さないことが必要だった、ということ。因が果を得るには縁が必要であり、因は縁によって果を結ぶ。
私が電車で座れたのは、その電車に乗らなかった多くの人のおかげ。
なんかそういうマイナスの縁まで考えてみると、すごく人と縁があるな、と感じる。
結果にこだわることもやめる。原因は因縁で、結果の方は果報に分ける。果は直接的な結果、報は間接的な予期せざる結果。宝くじが当たった果から、金を無心する友人が集まってくるという報があるかもしれない。現役で大学に合格したは良いが、同級生に相性の悪い人がいて自殺する人もいる。
科学のように因果にこだわりすぎるのはやめて良い。
空間的相互依存関係:世界は縁でできているのだ。弱肉強食でネコがネズミを食べる、という世界観ではなく、ネズミはネコがいなかったらひとりでに死ぬ、つまり、ネコとネズミはそれぞれ縁があるものだ、というふうに捉えるやり方。私たちが魚を食べられるのは、人間が強者で弱者を殺しているからではなくて、魚の方が命を布施してくれている、という見方。
西洋医学に似た四諦:①人生は苦であるという「苦諦」、②苦しみの原因は執着にあるという「集諦」、③苦しみがなくなる境地である「滅諦」、④苦しみを滅するための実践方法「道諦」で、この道諦が 八正道へと続く。
宗教は、この世の物差しでうまくいっている人には必要ない。宗教は彼岸の物差しを教えるもの。この世の物差しで不幸になっている人に宗教が必要なのである。
←これは普通にいいな〜と思った。
でもうまく言ってると思ってても、実は傷ついてるみたいなこともあるから要注意。
般若心経的解釈
苦:思うがままにならないことを、思うがままにしようとすること。つまり勝手に苦を作っている。
私たちは一分一秒ごとに徐々に老いていって死んでいる。
我々は現象形態にとらわれてものを見ている。コップの中に水が入っていればある、と思い、それを飲んでしまったら、無くなった、という。でも、H2Oの分子自体は自分の体の中に入っていったり、排泄されて浄水場に行っていたりするわけで、その分子自体は不滅である。
なんかいなくなってしまった人のこととか、今いない人のことをいない、と思ってしまって寂しく思う、ということがあるけど、留学中に空を見て、この空は日本と繋がっているんだ、と思っていた頃のように、実はいるし、死んでしまってもいるし、という感じで捉えたら、なんか寂しさみたいなものは無いな、と思う。不生不滅。
自分の命を自分のものだ、と思っていると、死が怖くなってしまう。でも、命はみんな仏様のものであり、それを代わりに私は預かってるんだ、と思って、寿命が来たら仏様に返す、という考え方をしたら、安らかに死ねるのではないか?
神や仏に祈る時、私たちは何か欲望に基づいて祈るのではなく、「私はこれで良いのだ!」と自分を大肯定し(個人的には受容するというニュアンスかな?と思った)、その上で仏に、「ありがとう」と感謝するのが良い。もはやどっちかっていうと良いとか悪いとかなくて、こんな感じでやってますよ〜ありがとう、っていう感じかなあ。。?病気になっても病気だなあ、と思いながらどっこい生きれば良い。
釈迦の言葉
過ぎ去るを追うことなかれ。
いまだ来たらざるを念うことなかれ。
過去、そはいまだ到らざるなり。
されば、ただ現在するところのものを、
そのところにおいてよく観察すべし。
揺らぐことなく、動ずることなく、
そを見きわめ、そを実践すべし。
ただ今日まさに作すべきことを熱心になせ。
「中部経典」
←これ、めっちゃ良いね。
私たちは今なすべきことをしっかりとすれば良い。苦しい時はしっかりと苦しめば良い。嬉しい時はしっかりと喜ぶと良い。