- Amazon.co.jp ・本 (336ページ)
- / ISBN・EAN: 9784130341912
作品紹介・あらすじ
希望とは何か.なぜ人や社会は,希望をときに失いながら,それでもなお,希望を求め続けるのだろうか.社会科学のさまざまな分野の研究者が,希望とは,単に個人の心理に還元されるものではなく,社会の変革の構想と密接につながるものであることを解き明かす.
感想・レビュー・書評
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様々な角度・テーマから「希望」にアプローチした研究成果をまとめた論文集。
<blockquote>巻頭? 希望はいつもどこかパラドキシカルだ。「まだない」からこそ、求めるべき対象として、希望は「存在」する。希望は、画一的な理解を拒絶する「怪物」である。
P25 希望は「幸福」と異なる。希望が未来についての表象であるのに対して、幸福は現在についての表象であり、希望が変化を求めるものであるのに対して、幸福は持続を求めるものである。希望が人々を幸福にすることはあるが、幸福は、希望のための要件では全くない。
P41 哲学は過去にとらわれていて希望を見ない。
P52 バウマンによると、人は、希望を抱くための客観的な理由が全くないような多くの状況でも、希望を見出すことができるとして次のように主張する。「希望は、あらゆる想像可能な『現実の証言』よりも強固である」「希望には証明は不要である」「希望は根拠がなくとも、正当であり実体的である」
P151 希望の修正が明確にやりがいに影響することは、プロビット分析と呼ばれる手法を用いることで、統計的に見ても厳密な形で存在している。
希望の多くは実現しない。希望は多くの人にとって失望に終わる。(中略)しかし、希望を持ち、失望を経験することで、はじめて獲得できる希望もある。
P155 「希望を捨てることは敗北とは限らず、ときには脱皮のひとつであり、階段を一段上がることになる。きちんと手続きを踏めれば、次のステップになる」(中略)種田山頭火の句が心に響いた。
「まつすぐな道でさみしい。」
これもまた、希望と挫折の関係を象徴する一つの言葉なのかもしれない。
P162 「フィクションというほな事実ではない、人々が自由であり、平等であるというのは事実ではないけれども、しかし虚偽ではない、嘘ではないといいます。事実でもなく虚偽でもなく、人々が望ましいと思うその状態を仮定しているというわけです。(中略)そんな「フィクション」こそが、変わるべき社会の方向性としての希望である。フィクションの存在は、未来の行き先について、社会や個人が想像力をたくましくするための基盤でもある。(中略)法律では、そのようなフィクションがあってはじめて、現在の視点から過去を振り返ることができ、同時に未来を法的に再構成することも可能になるのだ。
P168 希望という物語は社会活動の実質や根幹をなすものではなく、いわば「遊び」や余白」の領域に属するものでしかないのかもしれない。(中略)遊びとは、思考や行動の中で、事前的な単一の価値や意味を敢えて与えずに残された部分である。遊び自体は無用に思えたとしても、それがあって初めて偶発的な出会いや発見が生じる。遊びのない社会から、創造性は生まれない。希望も生まれない。
P201 欧米諸国と比較してみた場合、日本の労働は「ひと」としての性格を強く持ってきたといえる。これは日本の社会組織のあり方と密接にかかわっている。(中略)
日本における労働の「ひと」としての性格―日本企業の「共同体」性―は、社会的に見ると大きな危険性をもはらんだものともなっている。(中略)
?人と人との直接の接触によってより近接した社会性であり、?現場での分権的な調整によって外部環境の変化に柔軟に対応できる長所もみられた。しかしそこには同時に?人間関係の重視という共同体の論理によって個人が抑圧されてしまう危険性?普遍性を欠く社会性であるため外部者や少数者は排除されやすいという弊害も内包されてきたのである。
P205 労働に生きがいや希望を見出そうとする細菌の言説は、自覚的にあるいは無自覚的に、この日本の勤労観に根差したものとなっている。しかしこの勤労観とグローバル競争が結びつくことによって、今日の日本では大きな問題が生じている。(中略)「労働=ひと」自体が、際限のない経済競争の手段となり、搾り取られる資源や削減されるコストとみられるようになる。勤労を是とする集団的な意識あるいは無意識が、労働に内在する負の側面を覆い隠したまま、「ひと」を手段として酷使しあるいは使い捨てるという現象が生じているのである。
P230 (合成の誤謬)自分ひとりだけが希望を持とうと行動するケースと社会のみんなが希望を持とうと行動するケースでは個人のもつ希望が大きく変わるとしても、これを持って個人の希望に還元できない社会の希望があると誤解してはならないし、その発見だけで新しい学問が生まれたと考えてはならない。これは単に外部性を議論しているだけである。
P275 倫理的・政治的言説の中心が、「公正な社会」建設から、個人的差異、幸福と生活様式の自由選択を保障した「人権」へと移行したことにもあらわれているという。しかも、伝統的な規則が失われる中、個人のアイデンティティは、もはや与えられるものではなく、獲得すべきものとなり、その獲得の責任、および獲得に伴って生じる結果の責任もまた、個人が負うことになった。すなわち、個人の生活のほとんどが、いかなる手段を選択するかではなく、いかなる目標を設定するかの悩みに費やされることになったのである。
P281 (内省的逡巡)新しい社会理論は、かつての新母子間のように、一義的な未来予想を前提とするのではなく、あるいは革命士官のように、現状の社会のあり方に代わるだいたい社会モデルに基礎を置くのでもない。むしろ未来の不確実性を前提に、ためらいながら考えて行く社会理論の姿こそが、リアリティをもつことになる。そこで前提とされる理性は、すべてを独断的に断定するものではなく、むしろ懐疑と深く結びついた自己反省的なものであろうと宮崎は言う。
おそらく、希望という問題を扱うことで、社会価額は予測できないものを予測するのではなく、しかしかといって、単なる不可知に陥るのでもなく、予測できない未来を、そのようなものとして、しかるべき位置を与えていくことが求められるであろう。
P284 ある積極的な価値の実現を、公権力を用いて実現しようとする場合、たとえその意図がどれだけ善意なものであれ、価値の多元性を脅かし、そのような価値を共有しないものへの強制をもたらす。(中略)「ともかく希望があればいいというわけではない」「政治が希望を語る場合には、特に注意しなければならない」</blockquote>詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
[ 内容 ]
[ 目次 ]
第1部 希望とは何だろうか(希望と変革―いま、希望を語るとすれば;希望研究の系譜―希望はいかに語られてきたか;アジアの幸福と希望―「国民の幸福」戦略と個人の新たな選択)
第2部 日本における希望の行方(データが語る日本の希望―可能性、関係性、物語性;「希望がない」ということ―戦後日本と「改革」の時代;労働信仰の魔法とそれを解く法―希望の意義と危険性)
第3部 社会科学は希望を語れるか(経済学からみた希望学―新たな地平を開くために;ハンナ・アーレントと「想起」の政治―記憶の中にある希望;社会科学において希望を語るとは―社会と個人の新たな結節点)
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