- 本 ・本 (336ページ)
- / ISBN・EAN: 9784130342384
感想・レビュー・書評
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本書は、これまで理論と実務が乖離しがちであった行政学の再構築を目的として、行政改革の現場で中心的な位置を占めてきた「調整」概念の「ドクトリン(=政策の背後にあるもっともらしい理論)」を抽出し、その動態に歴史学的な分析を加えたものです。
本書に特徴的な点として、各国で行政学勃興の契機となった「諮問機関」の報告書が主な分析対象とされ、諸外国、戦前・戦後日本の行政改革に関わる1次資料が詳細に検討されていきます。
内容としては、まず前半部分で、諸外国と戦後日本の分析を通じて「調整」の「ドクトリン」が抽出されます。
戦後日本の分析では、第1次臨時行政調査会(1964年)と行政改革会議(1997年)において、「総合調整」と「省間調整」の2つのドクトリンが共通して用いられていることが確認されます。例えば、第2次臨調(1983年)では内閣レベルでの「総合調整」に限定して用いられたのに対し、行革会議では省間で重複する事務にメスを入れる「省間調整」が議論されたことなどが説明されています。この点、第1次臨調と行革会議の違いとして、後者では、重複する事務を整理しないケースにおいて省間で協議する仕組みのルール化が提言されている点など、大変興味深かったです。
後半部分では、日本における2つの「調整」のドクトリンの生成・変容過程、そしてその制度化の過程が描かれています。
まず、著者によれば、2つの「調整」のドクトリンの生成は、既に明治期の内閣官制・各省官制の成立過程に見ることができ、この制度が現在までの行政改革の内容を方向づけていることが確認されます。例えば、初期の内閣官制は、首相の権限が弱められたことに注目されがちですが、一方で次官に対する主務大臣の権限を強化する方向性も見られ、ここに「総合調整」のドクトリンの端緒を見ることができます。
続いて、2つのドクトリンの戦後日本での作動状態については、①「省間調整」の積み重ねの上に大蔵省・内閣法制局による②「省間調整の総合調整」が置かれ、その総和として内閣レベルでの③「総合調整の総合調整」が存在するといった3段階の重層的な「調整」関係が、日本の「調整」様式の最大の特徴であるとして分析されていきます。
ここで、①の動態が詳細に検討されている点に特に関心を持ちました。例えば、俗に言う「セクショナリズム」の問題には省間で未協議の場合と協議不調だった場合が存在すること、各省は中核的利益に関わる問題については紛争の長期化を避ける傾向にあること、協議が紛争に至るケースに不履行・規制強化・遅滞の類型パターンが見出せること、などが事例を用いて説明されていきます。
そして結論部分では、事実上②を統制する③はこれまで存在しなかったのに対し、行革会議では③を強化するための内閣官房の強化や内閣府の設置が試みられ、相対的に②の力が弱体化していることについて、著者の危惧があらわにされています。
以上が本書の主な内容になりますが、行政学の中心部に新たなアプローチで迫る類の書であるだけに、章ごとに新たな知見に触れる機会があり、かなり読み応えがあります。ここ2、3カ月で読んだ本の中ではトップレベルに面白い内容でした。今後の日本で「あるべき政官関係」を思考するためには、必読書と言えると思います。
少し、著者のアプローチを理解できるまで苦労する本書ですが、行政学に関心のある方には強くおすすめします。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
0円購入2009-12-01
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Ⅰ章 改革構想としての「調整」
「つまりダンサイアによれば、一方の極に法案などの形態をとって実務の中で作動する「政策」があり、他方の極に学術的な論稿に結晶した「理論」がある。両者の中間には、諮問機関報告書という「政策」立案のための基本文書に記載された「ドクトリン」があるというのである。」p.20 -
2009年9月16日に鳩山内閣が発足、そしてこの書籍の発行日はその12日後の9月28日。政治主導は「調整」前提であることをこの書籍で学んでいれば、その様相は全く異なるものになったように感じます。
全てがすばらしいのですが、まず「はじめに」で胸ぐらをつかまれます。「調整」に着目する理由とともに、行政学者の現実への関わり方を批判しています。これは仕事は違えど私も耳が痛いです。「背骨のない中で仕事していないか」と牧原先生から刃物を突き付けられているようで。
端的にその内容をまとめれば、「実際の改革にあたっては、海外事例に基づき、確たる『行政学』理論もない中で『事情通』として、よく言えば『実践知』いわば『標語的意見』を披歴する存在」=私のこと(!)
この書籍、行政に関わる人ならオススメです、特にシンクタンカー。 -
残念でした。読みたいと思っていた本です。にもかかわらず、読む機会のない本でした。それだけに、失望の大きな本でした。著者はライターとしての能力は抜群です。同時に、学者としての能力も抜群です。片方だけの人はそこそこいます。しかし、両者を備えた人はまれです。その例外に属する人です。それは、前著で明らかです。にもかかわらずです。それは、書評等の反響を見れば明らかです。同情すべき点はあります。この論文の原型が著者の修士論文なのです。修士論文は、あくまでも、プロに向けた論文なのです。そのため、硬いのです。キーワードは、「ドクトリン」、「調整」です。「ドクトリン」とは、「理論」との対比語です。「理論」は、検証可能な言説です。「ドクトリン」とは、説得のための言説です。「理論」でなくともいいのです。逆に言えば、「理論」はあってもいいのです。全ての報告書は、「理論」ではなく、「ドクトリン」と考える必要がある。行政学者は、そのことを踏まえた上で、「報告書」を書くべきである。また、「報告書」を読むべきだと指摘している。これは鋭い指摘だと思います。「調整」は、橋本行政改革のキーワードでした。うまくいっていないように見えます。その理由として、「調整」もドクトリンに過ぎないのです。理論的に根拠があるわけがないのです。「調整」のターゲットは、「省庁間の縄張り争い」です。その解決法は、3つ指摘されています。第1に、省庁の統廃合を通じた権限の再配分です。第2に、巨大官庁による省庁内での調整です。国土交通省、厚生労働省の創設はその典型例です。最後に、調整機関による調整です。財政諮問会議、官邸機能の強化等です。小泉政権を例外として、うまくいっていないようです。省庁の統廃合は、ある権限に関する縄張り争いに終止符を打ちますが、別の権限争いを招きます。つまり、権限の再配分では問題は解決しないのです。残るのは、調整機関による調整です。小泉時代は、調整を怠りませんでした。それは、摩擦を伴うものでしたが、事前事後にかかわらず調整を怠りませんでした。竹中さんは、官庁との調整に全力を挙げました。それに対して、安倍政権では、調整なしで、官庁を無視して、政策を決定しました。それではうまくいきません。将来についてです。官房が調整機能を持つのは例外的な事象のようです。別の機関が調整に当たる必要があると指摘している。財務省、内閣法制局が適切だと指摘しています。そうかもしれません。ただし、その是非を論じる能力はありません。
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詳細は後ほど…
自分の研究に必要だと痛感し購入。
かなり先を行かれている…(;>_<;)
ボブの発想自体は悪くなかったということか?
しかし、生活費を稼ぐことに忙しく、ジックリ読むことができない…
勉強不足を痛感している今日この頃。
農政研究者は読んでいるのだろうか…
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