古典日本語の世界 漢字がつくる日本

  • 東京大学出版会 (2007年4月20日発売)
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Amazon.co.jp ・本 (292ページ) / ISBN・EAN: 9784130830454

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  • ■本書のねらい
    古代からあり続けた固有の民族の言語=「日本語」による文学、という「古文」観は、近代国家のイデオロギーが成り立たせたものであるから、それを離れて、読み書きの世界の実際に即して見て、古典の世界の認識を作り直す。
    ■書籍の構成(目次)
    はしがき
    第一部 古代
     文字の文化世界の形成
     漢字と非漢文の空間
     漢字と『万葉集』
    第二部 中世
     漢文体と和文体の間
     「抄物」の世界
     世阿弥の身体論
    第三部 近世・近代
     頼山陽の漢詩文
     読み書きの風景
     夏目漱石の『文学論』
    ■本書の結論
    近代以前、実際の「読み・書き」の世界は、大方は、漢字を書くことであり、漢文を読むことだった。それが生きる教養を身につけることであり、古典日本語の世界だった。
    □考察1:本書からの示唆
    □考察2:残された課題

    【メモ】

  • 日本語における漢字漢文の変遷を辿る。

  • 日本語の書き言葉の文体はどのように形成されたのか。考えてみれば当たり前なのだけど、書くという行為自体がなかったところでは、文体というのは文字と同時に入ってくるものなのだ。だから、文字が入ってきて間もなくには我々が自分たちの言葉をそのままに書いていて言文一致が実現されていたとか仮定したり、言と文が一つのところから次第に乖離していったとか想定する、プリミティブな発想で文章史を考えるわけにはいかない。

    いわゆる名文という発想や、記紀万葉の素朴な文体から『源氏物語』の雅文へといった発展史観は、実際に古典作品の文章を読んでみるとなかなか当てはまらないもので、まじめに考えれば、古代中国語を日本語へと読み替える人工的なところから派生した訓読体がなぜ「美しい」のかとか、「春はあけぼの」を名文とするなら『枕草子』日記的章段の冗長な散文はなんなのかとか、すぐに足下をすくわれることになる。で、それにどうも落ち着きを感じない(が、古典の散文はすべからく名文であるべきという発想から抜けられない)人は、それを「素朴さ」と言ってごまかしてみたりする。

    丸谷才一は『文章読本』のなかで、『伊勢物語』の「……ば、……ば、……ば、」とだらしなく続くあの文体はなんなのか、と率直な困惑を表明していた。『伊勢物語』が早くから古典として敬われていたことと、このだらしない文体とがなかなか結びつかないのが現代人の自然な感覚だと思う。『蜻蛉日記』に『和泉式部日記』、『枕草子』の日記的章段、『源氏物語』の序盤もそうである。で、今までは、これはまだ作者が「書き慣れていない」からという説明くらいしかされていなかったように思う。

    ところが、本書を読むと、これはどうも漢字でもって日本語を表記する上での約束事が日本語の書き言葉の文体を生み出した、その漢文訓読文体の影響であったのではないかということが伺える。それ以前には日本語には(文字がなかったんだから)「文体」はなかった。文章を「書く」と言うことは「そのように書く」ということにほかならなかったわけで、そうなるとたんに古代の日本人がまず素朴な文章から書き始めたとかそういう話ではぜんぜんなくて、『伊勢物語』の文体は、作者が漢文作品に親しかった証左ということになる。

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