- Amazon.co.jp ・本 (229ページ)
- / ISBN・EAN: 9784140019146
作品紹介・あらすじ
21世紀は感性の時代といわれる。感性とは「うるおい」や「やすらぎ」、古くは「すき」などのこと。身体的自己と環境とのかかわりを捉える認識能力であり、価値判断能力である。普遍的、永遠的なものを求める西洋哲学の理性は、身近なもの、感性的なものの重要性を見落とし、環境破壊などを招いた。ギリシア哲学を専攻した俊英が、さらに東洋哲学、日本的美意識を見直し、感性の本質とその回復を探るチャレンジングな試み。
感想・レビュー・書評
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感性の重要性を説いた哲学的エッセイというべき本です。
著者は、われわれが身体を包み込む環境を生きているといいます。そして、環境のなかでの体験が積みかさなって「履歴」となることで、われわれはみずからを形成していると考えることができます。こうした体験がなされる空間の相貌を、著者は「風景」と呼んでいます。さらに、このようなわれわれを取り巻いている風景に新たな意味を見いだし、新たな価値を発見する能力が「感性」にほかならないといいます。しかし、「近代」という時代において、「感性」はわすれ去られてしまい、身体の置かれているローカルな場所を離脱することがめざされてきました。そして、普遍的な概念によって世界を思惟する「理性」が偏重されてきました。
著者は、アリストテレスの『デ・アニマ』における「魂」の理解を手がかりにして、感性の重要性に注目します。アリストテレスは、プラトンが物理的運動の概念によって魂を理解していたことを批判し、働いている理性と、理性によって考えられているものは、その現実的な働きにおいて一致していると考えます。プラトンは物理的な運動の概念に囚われていたために、魂を肉体という墓場から分離する道へと進んでいきました。他方アリストテレスは、ある能力が発揮されている状態として、魂の独自の作用を理解する道を切り開いたと論じられます。
さらに著者は、ハビアン不干斎が『妙貞問答』でおこなったキリスト教と仏教・儒教・神道を対照的に論じていることを紹介し、あるいは夢窓疎石や小堀遠州らが自己の欲望を否定しうえでより大きな自然全体のなかに対象を置いて見る「数寄」の考えに注目しています。さらに大森荘蔵の論文「ことだま論」を参照しつつ、感性的な生活の場面から「地続き」で理念を語ることの可能性を探ろうとしています。
議論の内容が多岐にわたっていますが、著者の思想の根幹にある「感性」の重要性は、比較的明瞭に把握することができるように思います。ただ個人的には、個別的なテーマにかんする議論に興味をさそわれました。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
おととい届いて机の上にあって、いますごーく読みたい
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第2章が一番関心が持てた。感性的体験と原風景。人間の履歴と空間の履歴。
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空間は時間を記憶し、それが履歴として残り現在に姿を見せる。
感性とはそういった自己から他を捉える時の能力である。