自由を考える―9・11以降の現代思想 (NHKブックス)

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  • Amazon.co.jp ・本 (256ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784140019672

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  • フーコー以後について。


  • 大澤真幸と東浩紀の対談。そのテーマは<自由>。
    われわれは取り敢えず自由な社会に生きている。
    しかし、それは本当に自由なのか。大澤真幸も東浩紀も、広範囲に渡って例示を出し、
    自由という一つのテーマのもと、フーコーの「規律訓練型社会」から「環境管理型社会」のシフトについて考察したり、
    カフカの『審判』の話題を二人とも独自の解釈に基づいて、ささやかに火花を散らしたり、といったように
    様々なキーワードのもと語られる二人の言葉は、対談だけあり生き生きとしている。
    この対談が後に大澤真幸では『<自由>の条件』での仕事に存分に活かされており、その伏線とも言える一冊である。
    口語体なので読み易いし、よく編纂されていると思う。さすが、NHK出版。

  • 心に引っかかった部分と少量の自分のコメント

    いろんなことがこの世界で起きているが、それが何であるかわからない。そのとき解明してくれるに違いないとあてにされる知識人というのがいる。それが現代風の「第三者の審級」。人がそこに「真理」を帰属させる超越的な他者。日本ではそれが長い間、文芸系の知識人によって担われていた。ところがそういう期待がなくなっていてこれも第三者の審級の失効、との事だが、これは論壇系知識人の追っかけの減少として現れているのかな。

    規範や意味が効力をもつための論理的前提条件となるような、超越的あるいは超越論的な他者(第三者の審級)の効力が次第に減衰してきている。それは東の言葉では大きな物語の消滅と同じ。第三者の審級は、法とか権力のメカニズムの作動を支える根本的な要素で、それの不在というのは、権力の失効につながるはずだが、この時代には社会全体にある種の権力(管理)のネットワークがあらためてはりめぐらされてもいる。第三者の審級=神が不在になっている、そうしたときに人が想像していたのは無法地帯の出現だが、神がいなくなったらもっと強烈な管理のネットワークの時代がやってきた。

    規律訓練型権力は価値観を共有し内面に規範=規律を植えつけ自己規制する主体を形成していく権力。例えば学校。
    環境管理型権力は人の多様な価値観の共存を認めているが行動を物理的に制限する権力。例えばファーストフード店やファミレスの椅子の硬さやBGMの音量や冷房による室内の温度の調整。

    現代人はきわめて動物的に管理されている。マクドナルドやセキュリティの強化にいたるまで、あらゆるレベルで環境管理型の秩序維持が台頭している。こういう状態がはっきり現れているときに、では自由な意志とは何なのか、というのはよくわからなくなってくる。誰に命令されたわけでもないけど、私たちは自発的に何かに動かされている。それは自由なのか不自由なのか。
    「自由」とは、まず最初にそれが奪われているという感覚があって、その反対物として想定される概念なのではないか。ポストモダン社会の環境管理型権力は、自由そのものを増やすとか減らすとかではなくて、端的に「自由が奪われている」という感覚そのものを極小にするように働いている。だからこそ、私たちは、そこで、自由があるのかないのかもよくわからない状態に放置されてしまう。

    ハンナ・アレントの「人間の条件」とネット初期のユーザーの実名での発言の尊重。

    僕たちは、いつどこに行っても匿名になれそうにない社会を作ろうとしている。そしてこれは、必ずしも国家権力が主導している動きではない。監視カメラの設置なんて、むしろ商店街や住民が自発的にやっている。国家と市民のあいだに対立は存在しない。

    管理型権力が奪っているのは固有名の記述に還元できない余剰ではないか。記述主義的還元というのが、ひとつの現代的な社会変容の方向であって、それが個人の精神症状として現れれば多重人格になってくるし、コミュニケーション環境の水準でとらえれば、個人情報によってわれわれが統計学的にアイデンティファイされているという現象になる。

    排除は、人間の生物としての生存に関わる部分でだけ、つまり安全で快適な生活に関わる部分でだけ作用している、との事だが、たとえば2chの在日朝鮮人排除の思考などがあるのではないか。

    住基ネットが機能を拡大する、自動改札機が導入される、監視カメラが設置される、そのときに私たちはこれは何かヤバいのではないか、何かが間違っているのではないかと感じる。その感覚を言葉にすると、今のところは、犯罪を行う権利だとしか表現のしようがないが、私たちは何かをそこで感じているわけだから、その何かを正当な権利として汲み上げてくる論理、犯罪を行う権利を別の権利に組み換える、人文的な「概念の作業」が必要になってくるのではないか。
    個人情報を売って代価やサービスをもらう、個人情報を売って自由をもらう、そのどこがいけないのか。いけなくない。ただはっきりしているのは、にもかかわらず、これは何かが間違っているのではないかと、多くの人々が不安を抱えているということ。その感覚を言葉や論理に変えていかなければならない。つまり概念の発明が必要。

著者プロフィール

1971年東京生まれ。批評家・作家。東京大学大学院博士課程修了。博士(学術)。株式会社ゲンロン創業者。著書に『存在論的、郵便的』(第21回サントリー学芸賞)、『動物化するポストモダン』、『クォンタム・ファミリーズ』(第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』、『弱いつながり』(紀伊國屋じんぶん大賞2015)、『観光客の哲学』(第71回毎日出版文化賞)、『ゲンロン戦記』、『訂正可能性の哲学』など。

「2023年 『ゲンロン15』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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