スピノザ 「無神論者」は宗教を肯定できるか (シリーズ・哲学のエッセンス)

  • 日本放送出版協会 (2006年7月29日発売)
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Amazon.co.jp ・本 (112ページ) / ISBN・EAN: 9784140093337

みんなの感想まとめ

信仰と理性の関係を深く掘り下げた作品は、スピノザの哲学を新たな視点から考察しています。著者は、スピノザの主著「神学・政治論」を中心に、当時の社会情勢や思想的背景を踏まえながら、彼のテクストを忠実に読み...

感想・レビュー・書評

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  • 同じ著者の『スピノザの世界 神あるいは自然』がとても良かったので続けて読んだ。何より『「無神論者」は宗教を肯定できるか』というサブタイトルに惹かれた。本書の主題は『神学・政治論』である。少数者のための『エチカ』とは異なり、『神学・政治論』では群衆のための道が示される。
    著者によると、『神学・政治論』の執筆動機は、宗教を擁護したうえで、哲学とは切り離して、それぞれを同時に肯定することである。つまり、17世紀のオランダで先鋭化してきた『理性』-『信仰』という対立に際して、どちらか片方に与せず、両方を同時に肯定しようとしたのである。そのような意図が込められた『神学・政治論』は、しかしながら、理性サイド(デカルト主義者)にも信仰サイド(キリスト教会)にも猛批判され、あげく禁書に指定されるという、なんとも不遇な運命を辿ったのだった。
    『神学・政治論』の宗教観は『宗教は真理を教えない』、『聖書は真理を教えていないし教える必要もない』、『信仰は無知であってかまわない』、『聖書は敬虔の正しい文法を教え、敬虔は共同社会の平和に不可欠である』、『よって、真理を知る者は宗教と信仰を肯定する』といった主張に集約される。つまり『宗教』や『信仰』は、平和な社会の維持に寄与するための方便だということになる。非常にプラグマティックな考え方である。デカルト主義者の反論も、そのスピノザの宗教観を理解したうえで、それを『欺瞞』として批判するという論調だったらしい。著者も批判者の言い分について『わからないでもない』と述べており、私もそう思う。著者はスピノザの宗教への接し方について『少なくとも信者が信じるようには信じてない』、『けれども受け入れている』と説明する。宗教に『真理』を認めない以上、それは普通の意味での『信仰』ではありえない、しかしながら肯定しているというわけだ。本書のサブタイトルが『「無神論者」は宗教を肯定できるか』であって『「無神論者」は宗教を信じることができるか』ではないことも、つまりはそのような意味であろう。
    そのような意味での信仰の必要性は中世に特有なものだろうか?そうではない。現代の社会も「人権」をあたかも「あるもの」として扱っており、その前提で憲法が作られ、人々はそのような法に従って生活している。率直に考えれば、「人権」とは一つの形而上学的概念であり、作為的なものですらあることに疑いの余地はない。中世の『宗教』も、現代の「人権」も本質的には変わらない。どちらもフィクションであり、どちらも尊重すべきだ、という意味で。スピノザも『敬虔』かどうかの基準となるガイドラインとして『強大な第三者が彼らの上に最高権力をもって君臨すること』が要請されると主張する。著者も指摘するように、そのような『強大な第三者』は多かれ少なかれ神学的なものであり、つまりフィクション性をもつ。スピノザとしては、少数者は哲学、つまり『エチカ』の示す『理性』の道によって『誠実と正義を愛する』のであり、群衆は『信仰』によって『隣人愛の教え』に促されるのだから、どちらも等しく『敬虔』なのだということになる。啓蒙されたはずの現代人にも「人権」などのフィクションが必要だということは、群衆が『理性』のみに従わないのはいつの時代も同じだということだろう。
    スピノザはもちろん『理性』サイドの人間である。『神学・政治論』の最も大きな主張は、言論と思考の自由を『信仰』の圧力によって弾圧するのならば、そのような権力は不正なものとして人々に映り、そのような社会からは『敬虔』とともに平和も失われるということである。つまり『理性』と『信仰』を切り離したうえで、『信仰』自体は保存しつつ、哲学の自由を確保しようとしたのだ。それにもかかわらず、『理性』サイドのデカルト主義者たちに批判されるのは、スピノザとしても予想外であり大変動揺したらしい。あまりに新しすぎて、中世で拒絶されたのも無理はないと思う。現代人の誰かが「人権なんてフィクションだ」とテレビ等で公言したと想像してみても、『神学・政治論』への困惑はその比ではなかったのだろう。

  • なんだかまだモヤモヤとしちゃうけど、ひっくり返したような考え方は好きだ。

  • UOa

  • 著者の「スピノザの世界」が分かりやすかったので、勢いで、こちらのほうも読んでみた。「スピノザの世界」が「エチカ」を中心としているのに対し、本書はスピノザの生前にでた主著(?)「神学・政治論」を中心とした宗教・モラル・政治論。

    「スピノザの世界」が、「エチカ」を時代や社会環境を超えて、そのテクスト自体から読み解いていく試みであったのに対して、本書は、当時の社会情勢や思想的なコンテクストを踏まえながら、「神学・政治論」を読み解いていく。といっても、著者の読みは、やはりスピノザのテクストの論理に忠実で、隠された意図、例えば、「本当はスピノザが主張したいのは無神論だが、それを直接的に言えないので、こういう主張の形をとったのだ」という読みを排除する。つまり、表題のとおり「無神論者がなぜ宗教を肯定できるのか」というパラドックスに正面から答えようとしているのだ。

    著者によると、スピノザの聖書の読みは、いわばテクストとしての読みであり、また、聖書のロジックはそれ自体正しく、そしてそれは政治的な権力ともつながる、とのこと。これは、きわめて、フランス現代思想っぽい世界で、なかなかスリリングだ。

    スピノザは、その倫理のみならず、権力論においても、ニーチェみたいなんだな、と思った。

    面白い本だと思うが、100ページの本が、1000円もするというのは、少し高いのではないだろうか。なので、満足度は4点としておく。

  • 信仰と理性をめぐる関係において、ここまで切実に、また、真正面から考え、論じた哲学者がいたのか。スピノザ。ここから、私の新たな探求が始まりそうだ。時代制約があったればこそ、ここまで深まったのだろう。

    短いながらも濃密な思考の軌跡だった。

    ・自由が牧歌的だったことはない。p19
    ・哲学の目的はもっぱら真理のみであり、これに反して信仰の目的は、服従と敬虔以外の何ものでもない。p57
    ・ほかのどんな政体もフィクションである。政治はメンバーの誰でもない服従と不可視の第三者を呼び出しその声を法として取り次ぐ。p69

  • 卒論で少し齧ったのですが、そのまま放置されていたスピノザについて興味が再燃したため。わかりやすい。

  • 前著よりわかりやすい。神学と哲学の分離、宗教に対し理性は不敬虔なのか?、思想・言論の自由の許容範囲の探究、神への服従の論理的条件、等々を鮮やかに証明していくんだが、結局「神学・政治論」は無神論として批難される。真理に対する宗教と哲学の立場の違いがよくわかる。宗教によって思想・言論の自由を奪われるというのはなんとも皮肉な話である。

  • 自然法則の課する正しい規範が偶然にもあらわれ「神の統治」「神の法」ができた。みんながそろって賢者でなくても全うに存続する社会ができた。
    聖書は、そんな素敵な社会が出現する過程をややオーバーにつづった有難い記録である。
    現代は偶然に頼らず「人民の統治」「国家の法」が出来てる。
    ここがすでに神の国☆
    しかし「神の統治」「神の法」=「人民の統治」「国家の法」の失敗によって迷信がはびこる~。
    ってゆうのがスピノザの考えらしい。(私の勝手な解釈では…)


    オーバーで分かり難い聖書からではなく、政治の仕組みやら憲法でも読んでみようかwww



    スゴク良かった。
    借りたけど、購入したいくらいだ~   五ッ星♪

  • 重くない哲学書。
    さくさく読めました。

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著者プロフィール

1951年生まれ。大阪大学大学院文学研究科教授。
著書
『スピノザの世界―神あるいは自然』(講談社、2005年)
『デカルト、ホッブズ、スピノザ―哲学する十七世紀』(講談社学術文庫、2011年)
『哲学者たちのワンダーランド―様相の十七世紀』(講談社、2013年)
『スピノザ『神学政治論』を読む』(ちくま学芸文庫、2014年)などがある。

「2017年 『主体の論理・概念の倫理』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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