- Amazon.co.jp ・本 (352ページ)
- / ISBN・EAN: 9784140815137
作品紹介・あらすじ
これまでのプライバシー/パブリックの境界を越えて今、人々が自分をオープンにさらし、シェアしはじめている。それは、"パブリックであることが価値を生みだす"ことに、ますます多くの人が気づいてきたからだ。それは個人にとどまらない。企業は、透明性とコラボレーションによるイノベーションの可能性に気づき、政府や自治体は莫大な保有データを公開することで新たな価値を生みだしはじめた。ネットを介して生まれつつある"パブリック"-それは、ソーシャルメディア革命と3.11を経て見えてきた、大公開時代の新しいフロンティアだ。
感想・レビュー・書評
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大公開時代。
SNSを上手に利用して、集合知、コラボ、シェア行うことの利点を説く。
まだ、情報を持つ持たないの格差が少ないのかもしれない。
情報を作る、公開する⇒時代とともにツールが変わっただけ。デジタルであることの、利点と欠点がある。個人と他者のバリアの範囲は、物理的には存在するが、ネットでは見過ごされている。
メディアとしての価値。グーテンベルグから発し、無線と有線、マスと個、形を変えてきた。現在では個人のライフスタイルを保存していくことに価値があるとみなされている。(個人も含め)情報を公開すること、シェアすることにどれだけの価値があるのか?真の意味で社会に役立つのか?
パブリック=無料ではない。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
フェイスブックやツイッターをしていると、プライバシーの概念があやふやになる。この本では「プライバシー」と「パブリック」が相反するものではなく、相補的なものだとし、使い分ける際のメリットデメリットを紹介している。
フェイスブックはよく利用するので、めちゃくちゃためになった!
ただし、この「パブリック」という考え方はWEB利用に比例する気がするので、あまり使わない人と考え方が違うのは注意していきたい。 -
インターネット社会、特にフェイスブックに代表される、「匿名性のない情報発信」の意味を実感できる良書。
僕はこの本を読んで、パブリックを考えるときには必然的に「自分が思うプライバシーの範囲」を考えておく必要があるなと思った。
ネット社会に対する個人のプライバシーの境界線は暖味になりやすい。
自分発信の情報は個人的なことであればあるほど「どこまでオープン」にするべき情報なのかをしっかり考える必要がある。
パブリックに放り込まれた情報とは、発信者の意図と必ずしも一致しない可能性があります
その内容は必ずしもこちら側に意図通り届かない場合もあります。
情報は外に出した時点で独り歩きする可能性があります。
思わぬ解釈をされたりとか。
それを踏まえた上で、ネット社会と相対するために、「パブリック感覚を読み解くリテラシー」が必要なんじゃないかなぁ
自分が出す情報がどのように捉えられるか、そして、独り歩きする情報を静観できる強さと賢さも持ち合わせられるか?
で、僕が思うに、「パブリック」という巨大な集合意識に対する一番の方法は「良いインパクトを与える意思」を持ち合わせることではないかと。
これからフェイスブックに代表される記名性のある情報発信が進めが、どんどん透明性のある繋がりが増えていくし、それがあたりまえになるんじゃないかな、とうっすらと思っていて、そんな未来で生きるには、この「良いインパクトを発信する」を自分の中でしっかり感じて出す知恵を身につける必要があると思う。
そんな社会では、ずる賢さではなく、誠実さがキーワードになる気がします。 -
これまでのプライバシー/パブリックの境界を越えて今、人々が自分をオープンにさらし、シェアしはじめている事を多くの個人や企業やさらには政府官公庁がそこに価値を見出した社会が今後どうなっていくかを占う本。
この本を途中まで読んで、昨日まで三分の二を残していたのですが、それを一気に読み終えてしまいました。簡単に内容を申しますと、インターネットやそれに伴うソーシャルメディアによって、私たちや企業、政府官公庁はどこまで自分のことを『パブリック』にしていくべきか、また、自分がパブリックな存在になることで得ることの出来る利益について書かれた本で、自分自身でもここに書かれていることの利益を若干ながら教授している身の上ですので、筆者のおっしゃることはかなり実感することが出来ました。
今まで、プライバシーや秘密を保管することで利益を保持していた企業がオープンであることや透明性を獲得することで、また新たな価値を手に入れることが出来るということを豊富な具体例を出して論じているところは、時代がまた新しいほうに向かっていくということと、まだまだインターネットの世界には『フロンティア』が存在するのだな、という希望が自分には持てました。自身の写真や文章を『シェア』するのもそのひとつかもしれません。
以前、Google+でフォロワー日本一(当時)を獲得した女子大生が話題になっていて、彼女もまた自分の写真を通して感性を『シェア』することによってパブリックな存在になったという顕著な例なのもかもしれません。個人的には読み終えるまでに非常に骨が折れるくらい分厚くて、年末年始などの比較的体が空いている時間にしか読むことは難しいかと思われますが、『新しい時代』を読み解くためにも、ぜひ一読をお勧めしたいと思っております。 -
本書では、"publicness: パブリック化する"という造語を頻繁に用いて、公私情報の公開についての是を論じている。
本書を読んで強く共感したことは「パブリック/プライベートの線引きは社会的便益とのトレードオフである」ということである。
パブリック化による大きなメリットは、透明性、大規模性による高信頼性である。
個人が持っているそれぞれの情報は、それのみでは価値を持たない場合にも、集結させ、相互に補完させると、大きな価値を生み出すというのが、集合知の考え方である。その信頼性の高さを示す例として、Wikipediaが挙げられることが多いが、IT分野に携わる人にとっては、オープンソース製品の信頼性の高さは納得しやすいはずである。利用者は情報ができるまでの経緯を知ることができる。誤った箇所があれば、指摘を受けて修正される。公開するということは、いわば公開対象全体をreviewerとしていることと同義である。
一方で、情報を提供すること、とりわけ、個人情報がデータベースに登録され、インターネット上でやりとりされることについて抵抗を持つ人が多い。本書では秘匿すべき情報についても触れているが、一部を除いたほとんどの情報について、人々は論理的な根拠を持たず、漠然とした不快感により抵抗していることが多いとのことであった。
企業システムへのクラウドコンピューティングの導入に際し、セキュリティの観点からの抵抗が多いと聞くが、同様の理由が多いと思われる。
しかし、個人情報を提供することによるメリットは確かにある。特にインパクトの大きい、安全保障に関わるものを例示すると、災害復旧やテロリズムからの防御に役立つシステムが、実際にある。9.11のテロや3.11の地震・津波において、Google Personal Finderというサービスが提供され、被災者の安否情報の集計に大きく寄与した。監視カメラが撮影した映像に顔認識を適用することによって、行方不明者や指名手配犯の特定が可能になる。
私自身は、もっとミクロなレベルで、パブリック化による恩恵を感じている。SNSだ。Twitterで見ず知らずの人と議論を交わす。Facebookで旧友との繋がりを再構築している。もちろん、それぞれのチャネルで公開している情報とその範囲は、TPOに合わせてコントロールしている。
【編集未完】 -
内にあるプライベートの一部を公開・パブリックにすることで、新たな「公共圏」が成立し、そこからメリットが得られる。パブリックにせず、プライベートを保つことで失っているものも多い。どこまで公開するか? フェイスブックのユーザであれば一度は気にかけたことのあるテーマになっていて、興味深く一気に読みきった。面白かったのはプライベートとパブリックの境界は実に曖昧で、国によっても違うし、無論個人差も大きいという点。例えばグーグルマップの映像にモザイクをかけることを強く要求するドイツ人はなぜかサウナでは男女が裸でとなりあって座っていても問題ないらしい。�日本では考えられない。ただ、日本でも、年配の方と若者の間ではパブリックとプライベートの境界の差はかなり大きいように感じる。今後はどんどんその境界の平均が若者よりになっていきよりパブリック化されていくのだろう。監修・解説の小林弘人氏は一年ほど前に読んだ『シェア』も担当されており、その名前を覚えていたことからこの本を選んだ。大変分かりやすく、最後に監修を読むことで全体を俯瞰できるような内容でいつも参考にさせていただいている。
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WEBマーケティング界隈で有名な事例である「デル・ヘル」ブログの張本人、ジェフ・ジャービス氏の最新刊。ネットやSNSの普及に伴って、プライバシーの境界線が変わりつつあり、「パブリック」にする(様々な情報を公開しシェアする)ことで様々なメリットが得られる時代の到来を描いている。
『かつては、秘密を握る者が権力を握った。今は、透明性を創る者が権力を得る』
同書によって得た最大の気づきは、今、WEBにより起きていること/なされている議論は、500年前にグーテンベルクが印刷技術を発明した際に起きたこととほぼ同じであるということ。
『マルティン・ルターが世界を変えることができたのは、彼がウィッテンベルクの協会の扉に釘を打ち込んだからではなく、印刷物を出版したからだった。1517年から1520年までの間に、彼の30冊の出版物は30万部も売れた。「ルター自身、印刷を『最高で究極の神の愛のしるし』と表現しました」』
印刷物が登場する以前は、「知識」は一部の権力者のみが所有する特権であった。まさに、情報を独占すること自体が権力の象徴。その最たるものが、カトリック教会の神父。信者は神父を通してしかイエス・キリストの教えに触れることができない。従って、神父が神の代理人としての絶大な権力を有することになる。
一方、宗教改革により、聖書が印刷され、様々な言語に翻訳されたことで、信者は神の教えに直接触れることが可能となる。代理人としての神父は不要となり、信者の側に立ち、聖書の理解を手助けする牧師にとって代わられる。
カトリック教会の聖職者のみならず、時の権力者は、こぞって出版を制限しようとした。「有害な知識を広めない」という大義名分のもと。その実は、自らの既得権を守るのが目的。まさに、WEBの登場で新聞社や出版社が展開している論陣とまったく同じ(笑)。
ジャービスは、以下のように整理している
<グーテンベルク時代以前>メディアは書き手のもので、口伝され、共有され、流通プロセスに影響され、しばしば匿名で、パトロンによって支えられ、新しい知識を集めるよりも古い知識を残すことを目的とした。
<グーテンベルク時代>メディアは書き記され、直線的で、固定され、不変で、著者そのものであり、所有され、製品として形になり、商業的で、はっきりとした始まりと終わりがあった。
<グーテンベルク時代以降>僕らのメディア体験は、再び対話型で、オープンで、シェアされ、リミックスされ、製品よりもプロセスに基づき、コラボレーションを生み出し、アマチュアで、終わりのないものになる。
また、ネット時代に必要なものは、統制ではなく、規範であり倫理であると説く
『ネットはパブリックを作り出すプラットフォームだと僕は思う。そうあるために、ネットはそれが抑制すべき権力から独立し、自由でなければならない。もしネットが僕らのプラットフォームならば、それをどう使い、どう守るかは、僕らネットの人々にかかっている。企業が決めるビジネスの原則に頼ったり、政府が法律を定めたりするのを待つのではなく、僕ら自身がネットの原則を築き、守らなければならない』
個人であれ、企業であれ、いち早くこの新しい「ルール」を理解し、行動した者がこれからの時代の勝者になることを啓示した1冊です。ちょっとボリューミーですが一読の価値ありです。 -
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