- 本 ・本 (256ページ)
- / ISBN・EAN: 9784140816509
感想・レビュー・書評
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新しく生まれてくる文化には「毒」がある。それは、批評であり、権威への懐疑であり、何よりも新しい表現のことだ。読者はここに提示される「毒」の豊かさに驚くに違いない。「反復と変奏の時代」に気鋭の劇作家・宮沢章夫が語る、画期的サブカルチャー論!(出版社HPより)詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
『流』を読んだ時に、「サブカルは終わるんだな」という感想を持った。何故そう思ったのか、自分自身の頭の事ながら訳が分からない。
という訳で、ではまずサブカルについておさらいするかと買ってきた。
『ニッポン戦後サブカルチャー史』も同じ理由で購入した。年内に読めたらいいな。。。 -
本書はNHK Eテレで『ニッポン戦後サブカルチャー史』として2014年8月から10月3日まで、全10回にシリーズとして放映したものをベースに構成したものである。
当然のことながら、毎週リアルタイムでボクは視聴した。
以前、宮沢章夫の『東京大学「80年代地下文化論」講義』を読んだくらいで、人物像を知らなかったが、TV画面を通じてはじめて観た本著者の印象は、ボクがサブカルチャーに目覚めたときにすでに活躍していたYMOの細野晴臣や糸井重里、川﨑徹、浅田彰、中沢新一といった面々と同様、どこか巫山戯たような斜にかまえたような脱力感を滲ませており、案の定、いわゆるサブカルチャーの中で語られるクリエーターと同様のニオイを感じさせるものだった。
そんな『ニッポン戦後サブカルチャー史』がさっそく書籍化されるというので、脊髄反射でポチッとしたのである(笑)
『サブ』であるカルチャーは『本体』がなければ存在しない。
中心と周縁。上位と下位。体制と反体制。
すべては、ある時代の雰囲気の中で、またある舞台装置としての場所の中で、同時発生的な『逸脱』によりサブカルチャーというものが生まれてく。もはや戦後が終わったらしい50年代からのこうしたサブカルチャー創世記はこれまでまとめて触れたことがなかったので新鮮だ。
一方、本書で残念なのは昨今の『サブカル』全盛に至る直近の経緯である。
昨今、サブカルチャーは『サブカル』という言葉の方が一般に流通してしまっている。本書を読んでみてもらえれば明快だが、おそらく『サブカルチャー』と『サブカル』は違う。
サブカルチャーという枠組みの中の特定の分野としての『サブカル』ではないかとボクも感じているところだ。
このあたりのサブカルになっていく時代、これはまさに『おたく』が『オタク』に変容する時代の流れであり、現在に通ずる話になるのだが、この90年代の整理が多少に比べて浅いのである。
まぁ、でもこのあたりは東浩紀はじめ様々な人が批評し尽くしているから他書を読めってことなのかも(笑)
本書では1950年代から主に2000年まで、各時代におけるサブカルチャーとその時代における意味と次の時代への架け橋が述べられている。
サブカルチャーの時代の通史を読んでみて、やはり痛感したのはコレまで自分が触れてきたサブカルチャー。特に西武文化事業全盛時のPARCO文化というか、いわゆる80年代までのサブカルチャーとバブル崩壊以降、現在に至るサブカルとは断絶ではないにせよ、成り立ちが異なっているのだということ。
これまでのサブカルチャーには、『舞台装置』としての場所。
これは60年代の新宿から80年代の原宿〜渋谷に至る経路や、新宿から端を発した周辺文化圏となる下北沢、高円寺、吉祥寺といった中央線沿線文化圏の形成。
それと、舞台装置の誕生を裏付けする社会的な思想。政治的な思想から企業が提示する思想、クリエーターが独自の感覚で捉える思想。
さらに舞台装置の中の時代感覚を捉えて新たな逸脱を遂げるクリエーター、そこに集まる人々。
この、『場所』と『思想』と『人』が奇跡的に結びつくことでパワーのある『逸脱』が発揮され、文学、音楽、演劇といった身体的なサブカルチャーが花咲いては散りを繰り返してきたと思うのだ。
それが、特にパソコンとインターネットの発展により、もはや身体的なサブカルチャーの時代は過ぎ去り、「テクノ」以上に無機質的で0と1の羅列で創造されたデジタルな文化に移行している。
全ては細分化し、データベース化していくと看破したのは東浩樹だったと思うが、まさにサブカルとして定着した感のある現在のサブカルチャーはもはや舞台装置としての場所はない。
全てはネットの世界の中で大きな物語は失われ、クリエイトするという行為はデータベース化した素材を元に誰もが手がけられる世界となっている。
ボクが求めてきた『サブカルチャー』はもはや存在の余地はないのだろうか? -
サブカルチャーは和製英語だと思っていたが、れっきとした英語だった。既存体制に対する怒りをエネルギーにして発展した「本流とは違う」文化を指す。日本のサブカルチャーもそうした怒りをエネルギーにスタートしているが、その後は独自の発展を遂げている。怒りというよりは「逸脱」であり、オタク、クールジャパン、ポップカルチャーなどを巻き込んで変遷していった過程を劇作家の宮沢章夫が語る。
昔は映画、音楽、演劇、漫画が主で、現在では他の要素も多く含んでかなり身軽なもの、大衆的であり「サブ」というよりは世間の大多数が嗜むものに変化していっているようだ。
本書の半分以上は1945~2014年の「サブカルチャーの履歴書」で構成されており、これが圧巻(ただし誤字脱字は散見される)。毎年、毎月の出来事を社会的な大きな事件と共に文化面を中心に記録している(演劇は優先的に書かれている)。
自分が生まれてからの年表は、その時々の自分の体験を重ね合わせて読める。そして今も愛されているコンテンツが「こんな昔にスタートしたのか」と改めて驚かさせれることも。 -
「サブカルチャー研究Ⅱ」
村木益実先生 参考図書
https://library.shobi-u.ac.jp/mylimedio/search/search.do?target=local&mode=comp&materialid=00070074 -
MA2a
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NHKで放送されていたときに観ていたので本でも読んでみました。
「サブカルチャーとは逸脱」という。葉が印象的。
逸脱していてこそ面白い。
皆が好きになっちゃったらただの王道。 -
序章 サブカルチャーとは何か
第1章 五〇年代にサブカルチャーの萌芽を見る
第2章 六〇年代の表現者たち―大島渚、新宿、『カムイ伝』
第3章 極私的、七〇年代雑誌・音楽変遷史
第4章 セゾンとYMOで八〇年代を語る
第5章 「サブカル」の出現と岡崎京子
第6章 それぞれのサブカルチャー -
サブカルチャー
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年表や注釈が詳しいのでリファレンスとして手元にあってもいいかな。
放送ではなく落ちついて文章で読むと、宮沢さんはとても80年代的な人だということがより一層はっきりと分かる。論の中心、起点が80年代(ゼゾン文化やピテカンに代表される)だなと思う。
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宮沢章夫の作品





