ウイスキーと私

著者 :
  • NHK出版
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  • Amazon.co.jp ・本 (196ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784140816554

作品紹介・あらすじ

NHK連続テレビ小説「マッサン」のモデル・竹鶴政孝のユーモアとダンディズムあふれる伝説的自伝。

感想・レビュー・書評

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  • 竹鶴政孝という人がいなければ、今のサントリーもニッカもなかった。私は山崎が大好きで、よくサントリーの山崎蒸溜所に行っていたけれど、その山崎も竹鶴氏がいなければ当然存在しなかった。今更ながら竹鶴政孝という人物を知って、感謝せずにはいられない。いまこうして美味しい山崎を飲めるのも彼がいてこそだったんだな。そして、恥ずかしながらニッカは殆ど飲んだことがない。今度ニッカのウイスキーも飲んでみようと思った。

  • スコットランドでウィスキー作りを学び、日本でウィスキーの製造を軌道に乗せるまでを書いた竹鶴政孝氏の自伝です。淡々と書かれていますがウィスキー作りについてだけでなく、第一次対戦から戦後までの時代感も伝わって来るのが面白いです。ウィスキーの好きな方はぜひ。

  • 竹鶴政孝の自伝のようなもの。彼がいなければ日本でウイスキーが作られることもなかったのかも。ウイスキーは作ってすぐ売ることのできず原酒の熟成を待つ必要があるがそれ故に流行りと合わせるのは難しく、商売としても根気がいるものでそれをはじめからやるっていうのはすごい。

  • 1188

    ウイスキーと私
    by 竹鶴政孝
    学校でも理科は得意だった

    ウイスキーのつくり方をごく簡単にいうと、まず大麦に水分を与える。大麦は水を吸うと、まるまると太り、芽と根を出してみずみずしい精気をあたりいっぱいに発散させる。  約一週間で発芽をとめ、乾燥塔内でピート(Peat・草炭)の煙にいぶされる。ピートの煙は床に刻まれた細いすきまを通り、麦の一粒一粒のシンのそこにまで移り香をしみこませる。  麦はピートの移り香を吸い、ウイスキー独特の香りを早くもここで身につける。  ピートで十分に乾燥した麦を粉にし、湯水を加えて 攪拌 すると、ジアスターゼ(Diastase)の作用によって、でん粉が麦芽糖という糖分に変身する。  これを 濾過 し、冷やして酵母を入れると、醱酵によって甘い麦芽糖が辛いアルコールになる。  これを先の昔ながらの素朴で、しかし、優雅な形をした単式蒸留機で繰り返し蒸留すると無色で透明な原酒になる。  これを樽につめて貯蔵すると、その間にコクと色を増し、ウイスキーの原酒に

    同じ時、同じ方法でつくったものでも、樽によって熟成の度合いは違うし、上段に積んだ樽と下段に置いたものでは、でき方に大きな違いが出る。それほどデリケートに自然の影響を受ける生きものであっ

    父親の隣のいすに、大きな、きれいな目で私を見つめていた女性がいた。それがリタだっ

    オラガということばは、その当時の流行語の一つであった。総理大臣をやり、政友会の総裁であった田中義一大将が、自分のことを「オラガ、オラガ」といっていたが、このことばは当時の庶民感情とマッチして流行していたのでビールの名前に採用したので

  • 【目次】(「BOOK」データベースより)
    宿命的なウイスキー人生(多くの人々の助力で)/生家はつくり酒屋(物心ついたときから酒の世界)/小学校で鼻を大ケガ(池田元首相をしごいた中学の寮)/二人の兄がきらった醸造科に入学(洋酒に興味持ち“押しかけ就職”)/はじめての洋酒づくり(鳥井さんとも知り合う)/ウイスキーの勉強に英国へ(反対の両親を社長が口説く)/米国で、ぶどう酒と英語の勉強(仏・伊と違う大量生産方式)/軍用船で大西洋を渡る(グラスゴー大学に入学)/ウイリアム教授の尽力で(スコッチ・ウイスキー工場で実習)/原酒づくりに体当たり(素朴で親切な人たち)/不安と責任感が重なり(オーロラの輝く北の夜空に泣く)/異郷で芽ばえた愛(Xマスの占いが“将来”を予見)/湖畔で誓い合った“将来”(二人の愛を知らず義父は急逝)〔ほか〕

  • マッサン放映後に読了。艱難辛苦なことが前面でなく、あっさりとしたエッセイ。スコットランドに単身で行き、日本を五大産地の一つにした偉業はすばらしい。研究者であり、経営者であり、職人であった。
    何でウィスキーづくりを学びに行ったのだろう?

  • 文章から滲み出る、幸運への感謝と自身の努力、成果への自負。
    驚くほど淡々とした筆致だが、それでもなおダイナミックだった氏の人生がありありと伝わってきた。

  • 2016年11月7日読了。

  • 仕事してる時は、夏はビール、冬は日本酒、春・秋はウィスキーやブランディをよく飲んでた気がしますw。ワインは身体にいいと聞いてますが、滅多に飲まないです。今はホッピーと焼酎甲類キンミヤ、日本酒が多く、時々ビールです。この本は、ニッカウィスキー創業者、竹鶴政孝氏(1894~1979)の自伝です。広島県、尾道と呉の中間、安芸の京都、頼山陽の生まれた地、竹原に生まれ、ただ一筋にウィスキーづくりに生きた男の物語です。真綿色したシクラメン、琥珀色したウィスキー、絵になりますね(^-^)

  •  NHKの連ドラ『マッサン』に影響されて、ウイスキーなど嗜みだした馬鹿者である。ドラマ自体はずば抜けて面白いわけではないが、モデルとなったニッカの竹鶴政孝とサントリーの鳥井信治郎の航跡はちょっと調べてみても面白い。ドラマは一部事実に基づき、一部は作り話になっている。
     ドラマでマッサンがウイスキーをはじめて飲んで、そのうまさに惚れ込む場面があるが、ウイスキーのようなクセの強い嗜好品は何度も味わって慣れないと旨さがわからないものではないかと思う。竹鶴は実際どうやってウイスキーに目覚めたのだろう。

     本書は日経に連載した「私の履歴書」を1972年にニッカが非売品として書籍化したものの復刻版である。『マッサン』の放映開始に合わせたNHKの商売上手である。本人の書いた内容が必ずしも正しいとはいえないが、まずは一次資料ではある。ところがどっこい、なかなか滋味ある語り口でこれが読ませるのである。
     「私の履歴書」というのは産業界の成功者に自分の人生を語らせたものと思われるが、自分はウイスキー造りをしてきただけの男であり一言で終わりだというようなことを述べて竹鶴は話を始める。
     上の疑問、ウイスキー開眼については、大学で醸造を勉強していた時期に洋酒にも興味を持ったとしか書かれていない。竹鶴家は広島に300年続く造り酒屋で、竹鶴は酒の名前だったのが、明治維新の時に間違えて苗字にされてしまったとか。政孝は三男だが、ふたりの兄は酒造業を継ごうとせず、彼におはちが回ってきたのだ。洋酒への興味から、大学を卒業して冬の日本酒の仕込みまでの間、大阪の摂津酒造に洋酒造りの勉強をさせてくれと頼み込む。この辺の行動力が竹鶴の美点で、まあ、体育会系なのだ。幼い頃、階段から落ちて鼻をひどく怪我して鼻が大きくなったのでにおいの嗅ぎわけがよくなったなどという。また、学生時代は柔道をやっていた。ドラマの二枚目マッサンとはちと違うようだ。
     当時、摂津酒造は日本では数少ない洋酒製造業者だった。とはいえその頃の洋酒とはほとんどがイミテーションだった。摂津酒造の社長も本格的な洋酒を作りたいという気持ちは持っていたようだ。折しも景気はよかった。入社して1年もたたない竹鶴青年をスコットランドに留学させようという話になった。よほど気に入られたのであろうか。そう言われて行くほうも行くほうだ。飛行機の定期便があり、電子メールが瞬時に届く今と違って、当時のイギリスといったら月くらいに遠い感覚だったのではないかと思うのだが。
     おかげで跡継ぎを失った実家の酒造は親戚に譲ってしまったという。
     
     イギリス留学はアメリカ経由であった。カリフォルニアでワイン工場を見学するが、その大量生産方式を見て、「アメリカ人はよい酒を造る国民性に、どうも欠けている」などと述べている。スコットランドではグラズゴー大学で学びつつ、醸造所でウイスキー造りの実際を見せてもらった。一番世話になったのがクレンリベット醸造所だというが、国王の愛飲したクレンリベットがおお流行り、どこもかしこもグレンリベットを名乗るので、現在グレンリベットの酒瓶には「ザ・グレンリベット」と書かれている。竹鶴のいうグレンリベットは「ロングモーン・グレンリベット醸造所」ではないかと註にある。
     留学中はウイスキーだけでなく、ボルドーにワイン醸造の見学に行ったりもするのだが、そこで第1次大戦の戦火を見て、戦争には勝者も敗者もないと述べるくだりでは、シリアやウクライナの映像を思い出さざるを得なかった。
     ジェシー・リタ・カウンとの出会いも書かれている。クリスマスにプディングに銀貨と指ぬきを入れておき、それを引き当てた男女が将来結婚するという占いで、リタとマッサンが引き当てるというエピソードはここに書かれている。当時のイギリス人からしたら火星人くらいに異質な日本人と結婚し、火星くらい遠い日本によく来てくれたものだと思う。写真に見るリタは澄んだ瞳をしているが、いつも緊張した面持ちでどこか小動物が怯えているような印象を受けるのだが、明るく楽天的な人だったそうだ。

     1918年に日本を発ち21年に帰国するのだが、この間に日本は不況に陥っており、摂津酒造でのウイスキー造りは適わず、そこに壽屋(現サントリー)の鳥井信治郎から声がかかる。10年の約束でウイスキー造りに取り組み、山崎醸造所を立ち上げ、白札(サントリー・ホワイト)を製品化する。その後、独立して北海道の余市に大日本果汁株式会社を設立し、リンゴジュースを作りながら、最低でも5年は寝かしておかねばならないウイスキー醸造をはじめるのだ。ニッカの名称は日果からとられている。
     竹鶴の筆からは鳥井への感謝こそあれ、葛藤は書かれていないが、本当のところどうだったのであろうか。かたやサントリーのHPでは社歴に竹鶴の「た」の時も出てこないのだが。

     余市醸造所ではハイランド風のモルトを、1969年稼働の宮城峡醸造所ではロウランド風のモルトを、西宮では(現在は宮城峡に移転しているようだが)カフェ式蒸留器によるグレーン・ウイスキーの製造をと技術者ならではの見識を持って事業を展開していく面白さはドラマには欠けている部分である(ここにも詳しく書かれているわけではないが)。だた好きなことをやり、人に恵まれてきただけだと述べ、苦労を嘆かず、成功を誇らぬ筆致には朴訥だが貴族的な人柄が偲ばれる。
     巻末に本人や関係者による小文が付録となっているが、ウイスキーの飲み方について竹鶴は嗜好品だから好きに飲めばいいという趣旨を述べる。味や香りをみるにはストレートだが、毎日飲む人は胃がやられてはいけないので水割りがいい。オン・ザ・ロックは冷えすぎるのでいかんのだそうだ。

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