はじめての宗教論 右巻 見えない世界の逆襲 (生活人新書)

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  • NHK出版
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  • Amazon.co.jp ・本 (272ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784140883082

感想・レビュー・書評

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  • この本を読みながらスタジオジブリの映画『ゲド戦記』のキャッチコピーである『見えぬものこそ』という言葉を連想しました。この本を読んで理解するにはある程度宗教の知識が必須で、万人向けではないです。

    確か、スタジオジブリの映画「ゲド戦記」のキャッチコピーが「見えぬものこそ」というものだったかと思いますが、それはさておき、この本は「知の怪物」といわれる筆者の宗教、特にキリスト教に関する宗教論の「右巻」です。僕にキリスト教、もしくは神学に関する知識がまったくないせいなのかどうなのかは知りませんが、「入門書」と銘打っている割にはエラク難しく、新書でありながらこの本を最後まで読むのは本当に「格闘」という言葉がふさわしいくらいのものでした。

    主にここに書かれているのは、「見えない世界」についてのもので、筆者が引用しているヨーロッパの神学者の名前や文献については皆目見当がつきませんでしたが、神学というものが自分で考えるということを途方もないくらいの長い時間と、当時の英知のすべてを結集して育まれた学問なんだな、ということがよくわかりました。そして、彼によって描き出される、キリストの弟子たちのなんと人間的であることか!彼らを通じて、ユダヤ教の一派閥だったキリストの教えが世界中に広まって、そして、「今」を考える材料となっている。そのことに畏敬の念を感じました。

    文献の引用の中で僕が読んでいて深く考えさせられたのは『倫理という過酷な決断』という箇所に書かれていた話で、筆者がモスクワ大学で教鞭をとっていたときに当時、アフガニスタンから帰還した元兵士との会話が非常に印象的でした。具体的なことはぜひ、本書で確認してほしいんですけれど、僕が実際に筆者の立場だったらどんな答えを彼に言えただろうか?そんなことを考え込んでしまいました。

    巻末に参考文献としてのテキストがずらずらと並べられていますが、読もうかどうか二の足を踏んでおります…。

  •  いかに人間が宗教的動物であるかを示し、神学とはどのような学問であるか、聖書の成り立ちや聖書に現れるアナロジー、また受肉や三位一体といったキリスト教における主要な概念について、プロテスタントである著者が解説したもの。宗教と国家や政治の結びつきについて述べられているのも特徴的。
     本屋に行くと、よく著者の鋭い眼光が際立つ写真が載った帯をかけてある本はたくさんあるし、政治や社会的な話題でのオピニオンリーダー的な人?という感じで、なんとなく自分の趣味に合わなさそうで敬遠していたが、試しに興味のありそうなテーマで読んでみた。そしたらなんと同志社大の神学部出身で、自身がプロテスタントだったという、そしてこの本は、ガッツリとキリスト教に関する本だったという、イメージとの違いに驚いた。何でも毛嫌いせずに読んでみるもんだなあと思う。
     著者はまさに「知の巨人」といった感じで、「私はかつてロシアで外交官として大使館に勤務するかたわら、週一回、モスクワ国立大学哲学部(略)で宗教論の講義をしていました。」(p.243)って、サラッとすごいエピソード入れるなあという。時々、本論から離れて、自身の逮捕されたこととか、自身の思いが語られる。ドイツ語についての話は、おれの興味に合う話なので面白い。「文法の基本的なことを押さえるには、大学の標準的な第二外国語で使っている七、八〇ページの薄い教科書の、特に接続法二式というところを注意して読むことです。」(p.164)だって。そうか、接続法II式って仮定法だっけ?わりと最後の方?にやる文法事項なので、もうほとんど覚えてない。その後在間進の本が紹介されていて、なんとなく15年ぶり?にドイツ語とかやってみようかなあという気に少しなった。
     で、ここまでは全く本題ではなかったので、本題の部分で興味深いと思ったところをメモ。まずキリスト教文明とは、「コルプス・クリスティアヌム」と言うそうで、「これは一種の文化総合体のことです。すなわち、ユダヤ・キリスト教の一神教の伝統と、ギリシャ古典哲学、ローマ法という三つの要素から構成された総合体」(p.20)というのは分かりやすかった。そして宗教とは、という話が一貫して語られているが、その語源を述べた部分、「レリジョンというのは、そもそも『結び合わせる』『結びつける』という意味です。つまり何かと何かを結びつけることが宗教の本質です。神と人間を結びつける、超越的なるものと自然を結びつける、そして『見えない世界』と『見える世界』を結びつける、そのような機能をレリジョンというわけです。」(p.27)というのも、英語に興味のあるおれとしては面白かった。そして、前半で出てくる北朝鮮の話題、金日成の神格化の話はとても興味深い。まず北朝鮮には「カトリックの教会は一つですが、プロテスタントの教会は二つになりました。正教会は一つあります。」(p.51)ということで、教会があるらしい。「なぜ協会が増えてきたかというと、教会経由でアメリカやヨーロッパのキリスト教団体から人道物資の支援を受けており、それが労働党に横流しされているから」(同)だそうだ。結局カネなのか。
     続いて、聖書の話。「翻訳が学術的に正確すぎ」(p.71)て、お蔵入りになるらしい。翻訳とカトリック、プロテスタントそれぞれの考え方に合わない部分が出てきてしまうのでまた訳し直して、「私が見るところ八対二くらいの割合でプロテスタント側が譲っています。」(p.72)という「新共同訳」が出来ているらしい。へえ。
     聖書と言えば、福音書の冒頭は長い家系図で固有名詞の連続を読まないといけないことになるが、「日本語で読むとよくわかりませんが、この個所をギリシャ語で読むと韻を踏んでいます。」(p.78)ということらしい。
     第3章の霊(プネウマ)と魂(プシュケー)の話は難しいが、それはともかく「沖縄では六つ、スリランカでは三〇いくつあると言われています。」(p.90)で、沖縄は6つ、って初めて聞いた。本土は1つで統一されているのだろうか?あと、これも本題とは関係ないが、エルサレムには「安息日専用のエレベーター」(p.93)というのがあるらしい。驚き。体験してみたい。
     それから「オッカムの剃刀」の話はどこかで聞いたことがあるような気がする。それに関連して、「ピュリタンのロバ」の話は、おれがこの1か月内で体験したことがあったので面白かった。「何かを選ぶためには、差異を見出さなければならない」(p.106)という話で、本当に差異のない(ように見える)2つから選択を迫られて、かと言って他愛のないことでもなく割と重要な件であったために、本当に迷って途方にくれたことがある。どっちでもいい、けれども「ちゃんと」選択はしないといけない、という。
     次は「入学試験問題でキリスト教の創設者は誰かという質問が出たとします。」(p.125)という、まさにおれが好きだった倫理の勉強を思い起こさせる記述にも興味を持ったが、これはイエス・キリストではなく、「キリスト教という宗教を作ったのは後述するパウロです。イエスはキリスト教の教祖ですが開祖はパウロです。」(p.125)だそうだ。そんなことも分かっていなかった。ただの弟子じゃん、くらいにしか思っていなかった。
     原罪、の話。「人間には、ものごとをちょっとでも大きくしたがる性向がある。」(p.168)というのは、本当にこういうことをする人の顔が即座に思い浮かび、笑ってしまった。「人の口から出るものが罪を作る」(p.169)とイエスは言ったらしいから、おれも気を付けよう。人間は「神の似姿であるがゆえ、自由意思をもっている」(p.171)、「この自由意思を使って、人間は必ず悪いことをする。責任逃れをしようとする。自由意思によって良い選択、神に至る選択はできない。これがプロテスタンティズムの人間観の根本です。」(p.171)だそうで、おれはカトリックの学校だったからかもしれないけど、こんな話初めて聞いた。性悪説的な。おれもこの考えには賛成してしまう。
     次に聖書のアナロジーの話。「キリスト教のシンボルは十字架以前には魚であり荊の冠でした。」(p.186)って、ダビンチ・コードみたいだなあ。
     そして最後は神学について。興味はあるけど、「教養としての神学というのはありえません。行動の武器としての神学というのもありえません。」(p.238)ということだから、なんか趣味でやるものではないらしい。「私自身の神との関係においてどういう意味をもつのか。」(pp.237-8)ということを考え続ける学問なんだそうだ。
     巻末には宗教や神学、キリスト教について考えるための50のおすすめブックリストが載っている。本文中にあった「マクグラスの『キリスト教神学入門』」(p.72)は興味があるけど、他にも6『宗教から読む「アメリカ」』(p.254)、37『宗教と社会科学のあいだ』(p.262)という本は読んでみたい。
     難しいけど、分かりやすく明快に書かれているので、ぐいぐい読んでしまう。ただおそらく、多少内容的にもクセのある本ではあると思い、キリスト教について考えるためには、別の著者の本も読まないといけないと思った。(21/01/18)

  •  初期の佐藤はよいですね。


    【書誌情報】
    発売日:2009年12月10日
    定価:858円(本体780円)
    シリーズ:生活人新書 308
    判型:新書判
    ページ:272
    商品コード:0088308
    Cコード:C0214(宗教)
    ISBN:978-4-14-088308-2

     論壇の雄にして「知の怪物」による 究極の入門書、ここに登場!
     合理的な「見える世界」が支配するこの時代。しかし、人間の「見えない世界」への関心と結びつき、スピリチュアル・ブームから政治の領域まで、宗教は様々なところに顔を出す。キリスト教神学に照準し、聖書の正しい読み方から神学的思考の本質までを明快に解説。21世紀を生き抜くための知的体力が身につく、著者渾身の書き下ろし!
    https://www.nhk-book.co.jp/detail/000000883082009.html


    【目次】
    目次 [003-007]


    序章 「見える世界」と「見えない世界」――なぜ、宗教について考えるのか? 009
      宗教と名乗らない宗教/なぜ怨霊は怖がられたのか/すべてがカネに還元される社会/プレモダンの考え方とは?/欧米人の深層心理に潜む「コルプス・クリスティアヌム」/なぜ日本人は、欧米人と腹をわった話し合いができないのか/超越性の落ち着き先/宗教とは何か――暫定的定義/右巻のあらまし


    第1章 宗教と政治――神話はいかに作られるのか? 031
      チュチェ思想とキリスト教/「国があってこそ宗教もある」/神話化のメカニズム/チェ・ハクシンの棄教/平壌に教会ができるまで/キリスト教会の積極的役割/特権なきキリスト教/神話は繰り返される/人間は宗教的動物である/「二〇〇九年八月三〇日」の意味/すべては「見えない世界」で起きる


    第2章 聖書の正しい読み方――何のために神学を学ぶのか? 
      「人はパンのみに生くるにあらず」の意味/中世の神学教育/神学のポイント/「新共同訳聖書」誕生の背景/お勧めの神学入門書/四つの福音書/なぜ、マタイは新約冒頭に置かれているのか/後代の加筆/聖書を一冊選ぶなら、どれが良いか/モーセをめぐる矛盾?/逐語霊感說と十全霊感説


    第3章 プネウマとプシュケー ――キリスト教は霊魂をどう捉えたのか? 
      霊と魂を区別する/「神の霊」はどう表象されるか/二分法的思考と主客未分化の思考/ソクラテスが死を恐れなかった理由/キリスト教と霊魂不滅說/実念論と唯名論/中世哲学の最新成果/オッカムの剃刀/アベラールとエロイーズ/唯名論とは何だったのか/普遍論争の新しい図式/「唯名論は実念論」の背景/唯物論の対立概念とは? 


    第4章 キリスト教と国家――啓示とは何か? 119
      ボルターガイスト騒ぎ/ユダヤ教への改宗/キリスト教の創設者は誰か、教会本来の運営原則/石打ち刑のしきたり/啓示の本質、使徒たちの内ゲバ/型書の行間を読む/なぜ「イエス・キリストの名」なのか/固有名詞という問題/パウロの人間力/ギリシャ哲学の三つの派/貨幣もまた偶像である/「肉体」をめぐるすれ違い/稅金は絶対に払え!/終末の到来/黙示録の革命的要素/悪の数字666


    第5章 人間と原罪――現代人に要請される倫理とは? 161
      ただ、イエス・キリストを通じてのみ/ドイツ語アレルギー克服法/不当拡張と責任回避/原罪はどこから生じるのか/なぜヨーロッパに化け猫はいないのか/仏教とキリスト教の生命観の違い/聖書学の二つの流れ/カール・バルトの啓示至上主義/類比的思考の意義/「身代金」とはどういう意味か/「関係の類比」と部落解放の神学/「存在の類比」とエコロジー神学/受肉とは何か/イエスは神か人間か―― 二つの論争/ロシア革命の精神的背景/宗教改革の本質/「世界教会」という考え方/イエズス会と典礼問題/信者にぶどう酒を飲ませない理由/ユニア教会、登場


    第6章 宗教と類型――日本人にとって神学とは何か? 211
      キリスト教における類型とは?/モナドロジーの考え方/「全体」には複数ある/クロノスとカイロス/歴史と類型/キリスト教をどう土着化させるか/創造神話という地盤/日本キリスト教の実践的課題/アジア類型のキリスト教?/魚木神学の功績/優れた神学書の条件/具体化されなければ無意味である/倫理という過酷な決断/再び、なぜ宗教を考察するのか/神の場の転換


    ブックガイド [250-266]
    あとがき(二〇〇九年一一月 佐藤優) [267-269]

  • 佐藤優による宗教講義。まずは、キリスト教編。神学部出身にふさわしい、神学的なアプローチによる解説が参考になる。聖書は人間によって書かれたものであり、書いてあることの裏を読まなければならないという認識には目を開かされた。

  • 著者:佐藤優(1960-、東京都、作家)

  • 2016年度「哲学演習」後期。
    演習の発表として「一冊の本を要約する」という課題があり、そのためにこれに続く左巻を用いたかったので、準備として読了。
    「見えない世界」と「見える世界」のあいだ、そこが宗教だ、といったことだったと記憶している。高度なことを書いているが記述は平易、全体として明晰。

  • 著者が学んだ同志社の神学的傾向を垣間見ることができた。はじめから「キリストの復活とは、ナザレのイエスが夢に出てきたということ」(13頁)という記述が目に留まり、教科書的な自由主義神学に出会ってしまった、という印象。

    昨今、教勢のみならず神学の面でも主流派になってきている福音派やペンテコステ派については、関心も認識もきわめて薄い。著者が身に付けてきたキリスト教は(良し悪しはともかく)キリスト教界ではマイナーである。

    この著者の神学論がおもしろいのは、やはり政治経済とのからみ。貨幣経済とのアナロジーや、北朝鮮のチュチェ思想とキリスト教との類似性など、情報として興味深かった。

    「無政府主義とかマルクス主義的共産主義は、初期キリスト教のような限られた範囲の、お互いに顔が見えるような中間団体でしか成立しない共産主義的な原理を、国家全体どころか世界全体に拡大できると勘違いした。それで地獄絵ができてしまった」(127頁)という指摘は秀逸。

    チェコにおいて十字架ではなく盃がシンボルとして用いられているのが、イエズス会が十字軍でチェコのプロテスタントを攻めたことに由来している(205頁)というくだりは、なるほどと思った。私が学んだチェコの神学校も、シンボルマークは杯だった。

    キリスト教とは救済である、という言い方がよく出てきたが、著者にとっての「救済」とは何なのか、最後までよくわからなかった。「どんな状態から」「どのように」「どこにむかって」救われるのか、それこそがキリスト教信仰の中心テーマのはずだが。あえて踏み込まなかったのか、それとも、ただの「旗印」に過ぎないのか。

  • 寝る前のフォトリーディング&高速を交えて翌日に熟読。
    自由主義神学を基盤として基督教について語っている。

    仕方ないことであるが、著者はリベラル派が主流だと思っている。後に発展した福音派、ペンテコステ派は「ファンダメンタリスト=原理主義」としている。また十全霊感節を信じるキリスト者の信仰を「責めてはならない」と、一見擁護的な言葉で説明している。(恐らく自分たちの正当性を固く信じて知らず知らずのうちの、高いところからの物の見方なのだろうと思う。あるいは核心的に慇懃無礼な表現をしたのか?そこまで福音主義を知ってはいないと感じはしたが・・・。)

    リベラル神学の歴史がよく分かりとてもためにはなった。しかしなぜ福音主義が生まれ、更にペンテコステ派に至ったかなどは一切触れられていなかった。恐らく著者の神学校ではそのような世界があることはあまり教えられず、自分たちがいわゆる「メインライン」なのだという意識で学問を担っている“自負”があるのだろう。他の日本人が呼んだらこれがキリスト教であるのかと思うような記述で、しかもそれは世界的な信仰の潮流から外れる一時代前の解釈。氏のいうところのファンダメンタリストとしては氏の聖書解釈は全くのでたらめ。これがリベラル派かと思いつつ読み終わった。星は二つとした。

    下記に付箋を貼った箇所の要約をのせる:

    11:見えない世界に対する関心が無い人ほど、自己啓発やマルチ商法などの宗教と名乗らない宗教にたやすく引っかかってしまう。

    13:佐藤氏の復活に対する解釈は夢だそうで・・・。冒頭から自由主義神学丸出し。

    24:超越性を無理矢理否定すると、代替え仏画心に入り込む。それが近代以降のナショナリズム。

    33:金日成のチュチェ思想にはカルバン派の影響がある。

    39:北朝鮮の金日成神話化の過程を読み取れば、聖書の神話化の過程が分かる。(高踏批判の考え方。)

    48-49:カールバルトは「東と西の間にある教会」で、ソ連型共産主義が東ヨーロッパに入ることによって初めて教会と国家が分離できた、と述べている。
    ただし、バルトは現状を理想化しすぎている、と佐藤氏は述べ、東ヨーロッパの牧師神父が事実上の公務員であったことを指摘。

    50:氏の考えでは東ドイツの教会が克服した、教会と国家の問題は、日本においてはすでに克服されていると述べる。すなわち日本で教会は国家の助けを受けず、むしろ迫害されていた。

    64-65:19世紀に活躍した「自由主義神学の父」フリードリッヒ・シュライエルマッハーは、新約聖書重視主義という立場を取ったが、氏はその背景にあるウィクリフやフス、またルターやカルビンは、旧約聖書を暗記するほどに熟知していたと指摘。その上でシュライエルマッハーの考えを基本的に正しいと肯定。

    68:救済自体必要を感じない人々の問題を哲学者のキルケゴールは、絶望のカテゴリーにあるのにそれに気付かない人々の絶望という意味で「非本来的絶望」と呼んだ。

    70:ロシア正教会では信徒が新薬を読むことのみ許している。

    74-75:(ここら辺から自由主義的解釈炸裂・・・。)
    ヨハネはグノーシスの影響が入っているとのこと。

    88:逐語霊感や十全霊感説にたつ信者を批難してはならない(などと氏は私の信仰を弁護f^^;)

    98-99:魂の不滅も処女懐妊もアラム語のギリシャ語変換時にアルテミス女神信仰が混入した結果の誤訳だと氏は述べる。(あきれて物が言えない自由主義神学。)

    193:処女懐妊はさておいたとしても、イエス・キリストは完全な神であり完全な人であったとする(そこは分かってんじゃん!)

    199:フス派(ウィクリフ教の本拠地チェコでは、ルターやカルビンの宗教改革(16世紀)は第二次の物とする。第一次は14世紀のフス派で、ウィクリフが世俗語の聖書を初めに出したとする。

    200:世界教会という考え方では、カトリックは教会再統合を訴え、プロテスタントは再統合ではなく合一を主張している。エキュメニズムにもカトリックとプロテスタントでは違いがある。

    204:カトリックの伝道は教皇とその他いくつかの考え方以外は妥協できるとし、インドではキリストはバラモンの家に生まれたとされている。

    205:フスの本拠地チェコでは、討伐軍で会ったイエズス会が大暴れをしたために十字架を忌み嫌う物として見ている。

    208-209:ウクライナ西部にはユニア教会というイエズス会計の教会がある。これはフス派討伐のために進軍したイエズス会が、東方正教会の領域にまで入り込み、教団同士の戦いになりそうだったため、イエズス会が建てた教会。教義的には教皇を認めれば後は全て正教会のしきたりにして良いとした。初めは正教会側は無警戒。しかし後からまるっきりカトリックの勢力圏であることが分かり大慌てした。ウクライナでロシアとの間で問題になるのは、だいたいこのユニア教会の信徒たちによる問題。

    223:西田幾太郎、田邊元、高山岩男などの京都学派の哲学者たちは自発的、内発的に大東亜共栄圏思想にはまっていった。そして魚木忠一は京都学派の神学版。

    226-227:自由主義神学者である魚木忠一は、日本で基督教が広まるためには土着化が必要だと考えていた。

    228:明治以降のキリスト教徒は神学用語を取り入れた。それは平田篤胤以降の神道を研究してのこと。

    230-233:魚木忠一は西欧の基督教を受け入れるのではなく、日本の基督教が東西を融合させると考えた。
    また基督教文化圏にいない日本は逆にキリスト教の本質を理解しやすいと考えた。

    236:魚木は日本の伝統に回帰した。
    同志社神学部は学部からも信仰からもドロップアウトが多いのが特徴。しかし著者は教会から離れても信仰から離れない人もいるという。それは同志社の伝統として魚木を取り上げていたからだともいう。

  • 死があるから、人は「見えない世界」について考える。
    ふだん死は考えないかもしれないが、ミクロレベルでは、わたしたちの細胞は生成しては死滅している。
    キリストの復活とは、キリストが夢に出て来たということ。

    ユダヤ・キリスト一神教の伝統と、ローマ法、ギリシャ古典哲学を合わせて「コルプス・クリスティアヌム」と呼ぶ。

    金日成の両親は長老派だった。

    北朝鮮には、朝鮮社会民主党というキリスト教徒が国会議員となる特別な政党がある。

    ロシア正教会では、旧約聖書を信者が読むことは今でも慎重。
    共同訳聖書は学術的には優れていたが、そうであったがゆえにカトリックの側では容認できない部分が出てきてしまい、プロテスタントが妥協する形で新共同訳ができた。
    ナチスは黙示録を聖書から除外した。
    イエズス会は先頭集団だが、典礼問題などではけっこう妥協的。
    日本でキリスト教が浸透していくには、「原罪」からの「救い」というこの2ポイントを深く思考していく必要があるかも。

  • プロテスタントの信仰を持つ著者が、宗教とは「見える世界」と「見えない世界」を結びつける役割を果たすものという考えを語った本です。

    著者の議論はキリスト教に限定されているわけではなく、広く宗教一般にまで射程は及んでいますが、やはり著者自身造型の深いキリスト教神学から例が多くとりあげられています。スコラ哲学における唯名論と実在論の対立や、類比の思考についての議論など、たいへん勉強になりました。

    ただ、「見える世界」と「見えない世界」との結びつきそのものは、特定の宗教の教義を前提にしているわけではないという開かれた立場と、それにもかかわらず「見える世界」と「見えない世界」との結びつきにみずから参画していくためには、何らかの宗教に拠るほかないというギャップを、どのように解決しえているのか、という疑問が残ります。自分がとらわれから解き放たれたと確信したとき、もっとも大きなとらわれのなかにあるというアポリアから抜け出る道筋は、容易には見つからないのではないかという気がします。

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著者プロフィール

1960年1月18日、東京都生まれ。1985年同志社大学大学院神学研究科修了 (神学修士)。1985年に外務省入省。英国、ロシアなどに勤務。2002年5月に鈴木宗男事件に連座し、2009年6月に執行猶予付き有罪確定。2013年6月に執行猶予期間を満了し、刑の言い渡しが効力を失った。『国家の罠―外務省のラスプーチンと呼ばれて―』(新潮社)、『自壊する帝国』(新潮社)、『交渉術』(文藝春秋)などの作品がある。

「2023年 『三人の女 二〇世紀の春 』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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