今こそルソーを読み直す (生活人新書)

著者 :
  • NHK出版
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  • Amazon.co.jp ・本 (256ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784140883334

感想・レビュー・書評

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  • ルソーに強く「共感する」(=同意する、ではない)著者による、ルソー解説書。アーレントなどはルソーについてボロクソに言ってる。アーレントについても類似タイトルの著書(『今こそアーレントを読み直す』)をものしている著者が、果たしてルソーについて何と言うのか。興味深く読んだ。

    著者は論旨が一貫せず、多く矛盾を含むとも、ときには極端な主張も辞さない思想家にすごく共感を持っているのだろうな。ルソーもバリバリの「矛盾した」思想家である。『人間不平等起源論』と『社会契約論』でも書いてることだいぶ矛盾するし。ルソーの著書間で一貫した思想を読み取ろうとするのは無駄ではないかと主張する著者は、そこで各著書を独立したものとして読み込む。とは言っても、もちろん、何のテーマもなく、バラバラに読み込んでも仕方がない。著者が立てるテーマは「社会と自然」「みんなの意思は可能か」といったものだ。

    ルソーの矛盾。たとえば、人民が契約を結ぶにしても、まず、最初には「全員一致」が必要だとルソーは考える。「多数決で決めるべき」ということ自体が1つのルールだ。このルールを用いるべきということが決まるまでは、このルールによっかかって決定できない、という理由があるからだ。しかし、厳密に考えれば、多数決だけではなく、他にも様々な「決定の仕方」について、事前に全員一致で決定しておく必要がある。・・・と、ここまで考えても全員一致の「全員」って誰だとか、ルール決定方法に関するルールは誰が起草・立案するのかとか、その立案者がどのように正当化されるのかとか、ちょっとつっこんで考えてみると「どうなってるの?」と思えるところは多い。が、ルソーはこれについて『社会契約論』の中で、解決策を提示していない、と著者は述べている。

    素人考えだけど、『社会契約論』を読んだとき、ぼくは「この多数決で決めるかどうかも、まず、最初に、少なくとも一度全員一致がなければならない」の解決策として、「社会契約」が出てくる、と自然に解釈していた。正しいかどうかわかんないけど、こういうことだ。ルソーによれば、契約をしなければ(正しい)社会は生まれない。契約には、契約をするものにとってメリットがなくちゃいけない。社会契約を結ぶ頃には、契約を結ばなければ人類は滅びるくらいの外的環境にある、つまり、個人は自分の身を滅ぼしてしまうと仮定している。だとすると「みんな」=全員、今後の契約の根本となる、社会契約には同意するはずだ、この提案に逆らう人はいないはずだ、と、ルソーは考えているんじゃないか。

    まあ、仮にそうだとしても、「多数決で決めていい」と全員一致で決めるまでは、多数決は使えない。同じ無限敗退に陥っちゃうわけだが、「最初の全員一致」の内容には、もう少しいろいろ織り込めるのではないかと疑問に思ったので、今度、ルソー読み直してみる。

    また、全体主義とルソーの関係も、しばしば指摘されるところだ。タルモンやアーレントはルソーを全体主義的な思想家だとして批判しているが、本書ではこれについても取り上げ、検討している。一般意思にしたがって生きること=自由になることとするルソーの考えは、集団的個体に個人を埋没させてしまうし、自由にするのだということを錦の御旗に、様々な義務を市民=臣民に負わせることを正当化してしまう、統治者に都合のよい考えである(タルモン)、社会の仮面を剥ぎ取った人間の自然を、人間本性を社会契約に持ち込むことで、「徳のテロル」を正当化してしまう(アーレント)といった批判だ。

    こうした批判に対し、著者は「ルソーは私的事柄は一般意思の管轄外だとしている」「不平等論と社会契約論をつなげて読むべきではない。ルソーは自然的自由と市民的自由を区別している」と考え、これを退けている。
    個人的には、その理屈にあまり説得力を感じなかったけど。

    というのも、ルソー思想の中に、そうした全体主義へと至る危険性を排除するような仕組みを明確に見出せないし、全体主義的な記述(皆のために死ねと言われたら死ななきゃなんないとか)も著作にあるから。「一般意思」という概念が不明瞭なため、なおさらその危険性は高いんじゃないかと、ルソーを読むといつも思ってしまう。「一般意思は誤りえない」という主張も、理想の記述でしかないことは百も承知だけど、「一般意思だから間違っているわけがない」と社会に言わせてしまう危険があるのは間違いない。もちろん、「誤っているのだから、それは一般意思ではない」と言う可能性にも開かれているんだけれども、

    アーレントのルソー批判も、『不平等論』と『社会契約論』を単につなげて読んだものだとも言い切れないんじゃないか。ルソーはもちろん全体意思と一般意思を区別してるわけだが、それでもアーレントは『革命について』の中で、ルソーにおいては意思=利害となってしまっていること、一般の「同意」ではなく、一般「意思」であることを問題にしている。社会=一般意思だとすると、一般意思には有効な外部がない。社会構成員に共通する利害=意思が、「一般意思」とされてしまいがちだし、ルソーの理屈からもそうならざるを得ないんじゃないか。

    最終章、デリダ的読解からすると、ルソーのテキストを「透明なコミュニケーション共同体」という、ありえないフィクション、法=一般意思という完全なエクリチュールを何とか打ち立てたいという夢想かもしれないと指摘した後、次のようなコメントをしてるんだけど、この「ネット知識人」って誰のことなんだろう。デリダ研究者でないことを祈る。

    「この”透明な共同体”は、単なるフィクションではない。「法=一般意思」という、(「自然状態」あるいは「幼年時代」の)危険な「代補」は、”我々”に、未だ実現したことのない「完全な民主主義」の夢を見させ続けている。ネット技術の発展を通じて”私”たち相互のコミュニケーションが限りなく透明に近づき、いつの日にか直接民主主義が現実化すると夢想する現代のネット知識人たちは、この「代補」に感染してしまった人たちなのかもしれない。

    あ、それとルソーの有名な「不平等三段階説」(不平等は3つの段階に分かれ、最後は専制となり、専制となると逆説的に全員が「平等」になる)を取り上げて解説してるところ(p.78)。著者は専制になると、逆説的に「自由」になると書いてあるけど、これ、「平等」になる、の間違い、ミスなんじゃないの?って思った。いくら『社会契約論』と『不平等論』を繋げて読まないと言っても、「人間はいたるところで鎖につながれている」というのがルソーの現代認識であるとこは変わんないだろうし、不平等起源論を読んでも「自由」ではなく「平等」って書いてある。

  • 近年、「人が自分らしく生きる」ということと、他の人との関係、そして組織や社会との関係に関心があって、そこから暴力とか、エゴセントリシティとか、成人発達とか、文化の違いとか、色々、興味を持って本を読んでいる。

    そういう中で、出会ったのが、ハンナ・アーレントで、彼女の言っていることに全面的に賛成しているわけではなく、一部大きな疑問を持っているとこもあるのだが、問題設定の仕方とか、思考のパターンとかにはかなり共感している。

    アーレントは色々なことを言っているわけだが、何かこうしたらいいという積極的な主張があるわけでは必ずしもなく、彼女の最大の関心は、「全体主義を避けること」で、その他のことは少々問題あっても仕方ないみたいな感じなんだろうと思う。

    というなかで、反全体主義という観点で、最大の批判の対象となっているのがルソーなんですね。(アーレントは、マルクスにも批判的だけど、全面的な批判はなく、肯定的な評価の部分も多い)

    私も昔ルソーの本を何冊か読んだ時の疑問とアーレントの批判はかなり共通の部分があって、共感した。  

    あと、ルソーといえば、現代思想の中では、批判的に取り扱われることが多くて、デリダが、ルソー、およびルソー的な世界観の中にいるレヴィ・ストロースを批判したのは有名。

    というなかで、ルソーの入門書を手に取る。

    著者は、アーレント関係の本もたくさん書いていて、デリダの解説もしている仲正さん。

    で、不思議なことに、これはルソー批判ではなくて、どちらかというとルソー擁護の本です。

    ルソーのテキストに添いつつ、デリダ、ロールズ、アーレントなどとの関係を紐解いていく、まさに私が知りたかったこと。

    ルソーに対する誤解の一部は解けたかな?

    でも、ルソー本人の意図は違ったとしても、やっぱりルソーの思想は結果として全体主義を生み出すのだ、という感覚はあまり変わらないかな?

    好きか、嫌いか、賛成するか、反対するかは別として、ルソーは、今、色々なことを考えるのに大切なところだと思った。

  • ルソーの入門書としてすごくわかりやすく勉強になりました。
    とことん考え抜いた結果アイロニーに行きつく、この世の救いようの無さ

  • 一般意志は、個人の欲望の集積である全体意志から私的利益を除いた、共通の公共の利益(を法として明文化したもの)である。集団的自己統治を重視する共和主義的な自由観は、ギリシアやローマの古代人の自由の再現として評価される。
    第1章
    自然状態とは、実際の野生人ではなく、慣習と精神の画一化が支配的な社会で再構成した、所有(特に諸々の権利を確定する土地)や言語コミュニケーションを媒介しない純粋な生である。レヴィストロースにも影響を与えた非言語自然観に対して、デリダは西洋批判を野生人美化につなげることはむしろ西洋=理性=ロゴスという見方を強化することになるとし、パロールにもエクリチュールが内在しているため、生きた自然のパロールは存在しないと批判している。エクリチュールがパロールを代補し覆い隠す。
    自然状態では、自己保存の「自己愛」と、同胞の苦しみに同情する「憐み」により闘争は起こらなかった。社会が形成されるようになり、比較優位と名誉に拘る自惚れが生まれてきた。
    不平等は、法と所有による貧富の分離、為政者の選任による貧富の確定、主人と奴隷の正当化と移行する。奴隷には権利がないので、主人との服従契約は成立しない。よって暴力による社会法国家は本来正当化され得ないし、権利とは呼ばない。
    マルクスの原始共産主義社会と繋がる自然観である。
    第2章
    理想の社会とは、自らの法規範に従うという自由、一般意志、すなわち、私とみんなの意志が合致した状態。多数決ではなく、満場一致の人民の法が一般意志である。身体と財産を守り、全ての人々と結びつきながら、自分自身にしか服従せず、自由であることが社会契約の条件である。共同的自我に自らを譲渡する、これが国家である。ただし譲渡は、共同体にとって不可欠な全体の部分としての公的人格のみであり、私生活は個人の意志の管轄下になければならない。個別意志から私的利益を相殺した残余が一般意志なのである。相殺は熟議により構成される。
    ロールズは、基本的制度の構築にあたって、自分の身分的位置がわからない無知のヴェールに覆われていれば、正義の原理について合意が可能としている。富者は暴政の扇動者を生み、貧者は暴君を生むため格差はできるだけ小さく抑える必要がある。
    市民宗教と不寛容の禁止により、一般意志を維持する。
    第3章
    一般意志の危険性とは、人民を一つにまとめる一元論。コンスタンは、主権は譲渡せず、利害を調整するため代議制を主張した。タルモンは、人々の内在化する個別利益の禁止の要請を正当化する一般意志を批判した。アーレントは、多様性を理解する複数性を重視し、抑圧や貧困からの解放と自然回帰では討論の場が構成され得ないとした。また、憐みは同情com-passion共に情念を抱くことで、無私を徳として強制させ、公的にaction活動=演技するperson人格としてのpersona仮面を剥奪するとした。しかし、ルソーは公私の権利を分けており、自然回帰ではなく社会契約による自由を目指しているので誤読である。ただし、自然と合理を統一した一般意志を現実化する上で、ロベスピエールの徳のテロル、マルクス共産主義、ナチス民族革命などの解釈による政治的手法を批判する意味では、一定の意義がある。
    エミールでは、法は見せかけであっても、暴力から守る機能と、法の歪みから正義を認識する効果があるとしている。
    終章
    ルソーの抱えていた矛盾とは、エクリチュールのない透明なコミュニケーションが存在しないにも関わらず、エクリチュールを生産しなければならなかったこと。心のエクリチュールを、法というエクリチュールに転記しようとする欲望を抱いた人々が権力を握るとき、政治の悲劇が起こる。透明な共同体に固執するあまり、かえって社会から孤立していく、ルソーの「病」の患者は増殖し続けている。

  • ルソーそのものよりも社会契約論に的を少し絞った上での一冊。

    内容はその『社会契約論』に絞ってあるので、前後の著作にはそれほど多くは触れていない感じなのだけど、この社会契約をもとに全体を説明しようとするバランス感覚が読みやすかった。

    一般意志、自然人、社会契約といったキーワードを軸にして、ルソーは現代までにどういった影響を及ぼしているのか、というごく当たり前の疑問に対して、きちんと著者なりの解釈をしているのでスラスラ読める。

  • 著者:仲正昌樹
    校閲:大河原晶子
    DTP組版:岸本つよし


    【目次】
    目次 [003-006]

    序章 今、なぜルソーなのか? 007
    ルソーの定番的説明  民主主義と自由主義の矛盾  「みんなの意志」は可能か?  社会契約論の再評価  ネット民主主義とルソー  人間本性をめぐる捻れ  「幸福な自然人」という矛盾  ルソーをいかに読み直すか  本書の構成

    第1章 なぜ「不平等」が生まれるのか?――ルソーの格差論 029
    フランス啓蒙主義の特徴  ルソーの二面性  「進歩」がもたらすもの  外観が内面を汚染する  『学問芸術論』の限界  自然状態論の本格的展開  「自然」と「欠如」  コンディヤックの言語起源論  言語が先か? 観念が先か?  パロールとエクリチュール  音声中心主義の罠  デリダの批判  「代補」の問題  社会が自然を「代補」する  善悪の起源  労働から所有へ  不平等へ至るプロセス  「所有」と「自由」  近代人はなぜ野生人に憧れるのか  「自然回帰」に懸かれた人たち

    第2章 「公正な社会」をいかに作るか?――ルソーの国家論 091
    「理想の社会」にいかに到達するか  自由と鎖のジレンマ  自然的自由から市民的自由へ  「私」と「私たち」をどう結合するか  「権利」とは何か  奴隷との契約は成立するか  「人民」になる  人民をめぐる無限連鎖  「私の意志」と「私たちの意志」を一致させる方法  「共同的自我」の誕生  一般意志論は全体主義か?  「団体の意志」のメリット  公的生活と私的生活  一般意志と全体意志はどう違うのか  共通の利益=正義の原理  ルソーとロールズ  一般意志論の現実的側面  法の一般性  「法のエクリチュール化」をめぐる難問  「立法者」の条件  「社会的精神」はいつ生まれるのか  神々という権威?  「神々」の正体  政治と宗教の融合  「近代」という神話

    第3章 「自然」と「理性」のバランスをどうとるか?――ルソーの教育論 171
    多数者の専制  「古代人の自由」と「近代人の自由」  ルソー=全体主義?  タルモンの批判は正当か?  アーレントとルソー複数性の喪失  自由の一弓の系譜合意と意志一般意志から「徳のテロル」へ  「偽善の仮面」を破壊せよ!  「同情=共感」の負の効果  アーレントの批判の難点  二つの理想的人間像  階級闘争史観への影響  「人間」を作るか「市民」を作るか  都市に生きる自然人、エミール  国制教育  「見せかけの法」の効用  エミールをめぐる矛盾  「理性的自然」で全ては解決するか  ルソーの矛盾とどう付き合うか

    終章 なぜ「透明なコミュニケーション」に惹かれるのか? 231
    言語の両義性  「法の絶対視」が悲劇を生む  自然的記号への憧憬  矛盾の本質  「透明なコミュニケーション」に取り懸かれた人たち

    ジャン=ジャック・ルソー年譜 [243-245]
    あとがき(二〇一〇年七月三十一日 金沢大学角間キャンパスにて 仲正昌樹) [247-251]

  • 中川八洋氏(タルモン、アーレント)によると、「ルソーは自然人を理想として人格を改造し、一般意志に従属するロボットとして、全体主義を導く」はずであったが、仲正氏によると、それは誤読で、ルソーはそんなことを主張していないとのことである。そうすると、非難されるべきは、ルソーの思想を利用したロベスピエールやレーニン、スターリンである。それにしては被害者の数が桁違いに多い。中川氏はそこを問題にしているのだろう。

  • デリダによる音声中心主義批判にさらされ、アレントによって全体主義の元凶とされたルソーを、仲正昌樹が「読み直す」ということで、かなり期待して読みはじめました。

    「終章」で文芸批評家のスタロバンスキのルソー解釈に依拠しつつ、「透明なコミュニケーション共同体」を語った「壮大なフィクション」としてルソーの著作を読み解くという方向性は刺激的に感じました。ただし本論は、現代思想的なルソー解釈がきらびやかに展開されるというわけではなく、『言語起源論』や『人間不平等起源論』『社会契約論』『エミール』といった著作にある程度立ち入って内在的に読み解こうとしています。著者の各種「入門講義」でもそうなのですが、現代思想的な解読をそのつど参照しながら、まずは内在的にテクストをたどっていくという姿勢が本書でも示されているように思います。

    著者らしい「キレ芸」は本書にはほとんど見られませんが、「過激なくせに、どっちつかずの態度を取るところが、ルソーの思想の奇妙な魅力になっている」と語る著者に、イロニーの思想家の面目を見てしまいます。

  • つまんなくて断念。ごめんなさい。また時間あるときにチャレンジします

  • 再読。
    でも、やっぱりよく分からない。「一般意志」がどうしても、しっくりこないんだな。
    なかでアーレントの「リバティ」と「フリーダム」の2つの自由に対する概念の違いはおもしろかったかも。前者がフランス革命で、後者はアメリカ独立戦争戦争ってわけだ。
    なんとなく雰囲気は伝わるんだけど、ルソーからは離れていっちゃうんだな。

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著者プロフィール

哲学者、金沢大学法学類教授。
1963年、広島県呉市に生まれる。東京大学大学院総合文化研究科地域文化専攻研究博士課程修了(学術博士)。専門は、法哲学、政治思想史、ドイツ文学。難解な哲学害を分かりやすく読み解くことに定評がある。
著書に、『危機の詩学─へルダリン、存在と言語』(作品社)、『歴史と正義』(御 茶の水書房)、『今こそア ーレントを読み直す』(講談社現代新書)、『集中講義! 日本の現代思想』(N‌H‌K出版)、『ヘーゲルを越えるヘーゲル』(講談社現代新書)など多数。
訳書に、ハンナ・アーレント『完訳 カント政治哲学講義録』(明月堂書店)など多数。

「2021年 『哲学JAM[白版]』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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