コンテンツの秘密 ぼくがジブリで考えたこと (NHK出版新書)

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  • NHK出版
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  • Amazon.co.jp ・本 (248ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784140884584

作品紹介・あらすじ

コンテンツの情報量の仕組み、マンネリを避ける方法、「高そうに見せる」手法…ヒットコンテンツの正体と、トップクリエイターたちの発想法!クリエイティブとはなにか?情報量とはなにか?

感想・レビュー・書評

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  • 新幹線のお供にいいかなと思い、コンパクトなこの本を持っていったのだが、1ページも読まずに、座席前のネットのところにメガネケースと一緒に忘れてしまった、、、

    後日、JR東海に問い合わせ、宅急便で送ってもらったのだが、メガネケースを忘れていなければ、送ってもらわなくていいです、と断っていたであろうこの本を、そこそこの宅配料を払ってまで手元に戻ってきたのも何かの縁なのだろう、ということで読み始めることに。

    なんとなく自慢話を聞かされるような気がしていたのだが、まったくそういうものではなく、もっと早く読んでおきたかった、と後悔しながら読んでいた。

    面白いコンテンツ、それらを作る人たち、そして天才とは?

    そんな根源的な疑問を、気取らず知ったかぶらず、真摯に分析していく過程を含めての考察だったので、わかりやすかった。

    そして、著者の疑問を投げかける相手が、鈴木敏夫や宮崎駿、高畑勲、庵野秀明、宮崎吾朗、西村義明などなど、錚々たる人たちなので、返ってくる答えも面白いものばかりだった。

    アニメーションが軸で、その過去と現在、そして未来。そこに、実写映画やピクサーなどの3DCGアニメーションとの横軸も絡めつつのコンテンツ論。

  • こんなにロジカルに「コンテンツ」そしてそれを生み出す「クリエーター」という事象についてつっこんだ議論があったのかと、震えるぐらい勉強になる一冊。
    大事なところに赤線ひいてたら、本真っ赤になっちまったが、特に注目すべきは、

    (1)ヴィジョンとしての情報量がクリエーターのてによって、コンテンツとして表現されることで
    (2)客観的情報量に変わる。そしてそれがユーザーにとっての
    (3)主観的情報として認識され、同時に摂取可能な情報量だけがユーザーに読み込まれる。

    と表現した、コンテンツ生成からそれが摂取されるまでの過程を論理的にあきらかにした点。

    スッキリ感とまらない。
    感動してばっかじゃなくて、ちゃんと自分のアイデアつくりにいかさねば。

  • 【貸出状況・配架場所はこちらから確認できます】
    https://lib-opac.bunri-u.ac.jp/opac/volume/691706

  • 川上さんだからジブリ側も許可したんだろうな、と感じた。ガチガチの理詰め人間が場の空気読むことなくクリエイターを質問攻めにして煙たがられる光景が目に浮かぶ。その質問の切り込み方がクリエイターとして絶望的にセンスないんだけど、2年間ジブリの現場に滞在して咀嚼した後の言葉がうまいと言うか、説得力ある落とし込みになっているので読む価値はあった。

    <優れたクリエイターは理論か?感性か?>
    ・結論は両方。優れたクリエイターは皆、理論武装もスゴいが、最後は感性で判断している。
    ↑当たり前だよね。料理人はレシピや調理器具というマニュアルをマスターしているが、最終的には味の微調整も盛り付けも感性が問われる。

    <天才とは>
    宮崎吾朗さんと米国の制作現場を見学した時に出した結論としては、
    天才は「自分のヴィジョンを表現してコンテンツを作る時に、どんなものが実際にできるのかをシミュレーションする能力を持っているヒト」とのこと。
    米国ではこれをスタッフ全員でボトムアップ式にお金と手間暇をかけてやるが、予算の乏しい日本ではひとりの天才がやるので結果的に安上がりであると。これができるから日本のアニメは米国に対抗できている、とも言えるが、優秀なクリエイターが安い人件費のアニメ業界にそもそも集まらなくなっているという。天才を安く買い叩いていたからこそ日本のアニメ界が世界と戦えてた、だなんて悲しすぎる現実。手塚治虫さんらのレジェンドらが安く請け負ってしまってたのが始まりだろうけど、こんな状態だから若い才能が他の産業に行ってしまったり、テンセントなどのITジャイアントのエコシステムに引っ越したりするんだ。

    <オリジナリティとは>
    ・脳のヴィジョンを再現する時に偶然できたもの
    ・デタラメ要素入れて意図的に生み出したもの
    ・自分だと生み出せない要素をパッチワークで”奇跡”的にできたもの
    ・既知パターンを分解して再構築した新しい組み合わせ

    <コンテンツとは>
    ・コンテンツとは「双方向性のない遊び」をメディアに焼き付けたもの
    ・コンピュータの登場で、ゲームやウェブサービスでは双方向性が加わり、「遊びをメディアに焼き付けたもの」と言える
    ↑これについてもゲーム、ウェブサービスもゲーミフィケーションをベースにしたUXをどこも重点置いてるよね。

  • ジブリの映画制作の裏側に迫った内容です。
    宮崎駿や鈴木敏夫といった製作者本人ではなく、現場を知っている第三者の視点で語られているのが良かったです。
    本書で語られている「コンテンツ=現実の模倣」とは考えたことがなかったですし、導入部ではちょっとした違和感もありましたが、詳しく聞いていくと「なるほど」と思いました。
    「大衆受けするもの=癖がないもの」「万人受けする美男美女の顔=特徴がない顔」というのも、現実の世界を思い返してみれば、ものすごく納得できました。
    特に共感したのは、宮崎駿や鈴木敏夫が映像重視で作品を観たり、作ったりしていることです。
    何を隠そう、私自身も映像作品は映像重視なので非常に共感できました。映像作家の中には、ストーリーが大事だという人(大根仁)もいれば、世界観が大事だという人(押尾守)、音にこだわる人(庵野秀明)もいて、どの監督の話もおもしろかったです。

  • 2020年7月18日読了。川上量生がジブリ鈴木Pの付き人として過ごした経験から「コンテンツとは何か?」について論じた本。2年間カバン持ちをし続ける、という時点で只者ではないが、なかなかできない経験をベースにしているということもあるが、本書の議論は非常に刺激的で、かつ「なるほど…」と納得させられる点も多い。「情報量」には客観的情報量=実写の情報量と、主観的情報量=アニメのような情報量があり、客観的情報を増やすことは「脳の快感」にはつながらない、などは自分もなんとなく感じていたことをずばり言語化されたようで恐れ入る。「天才は安物のシミュレーター」とは宮崎吾朗監督の発言とのことだが、この人もやはり只者ではないのだな…。コンテンツを作るシステム整備では日本は米中に勝ちようがないため、日本がコンテンツ業界で勝つためには、天才の能力を十分に発揮できる環境を整え、「なんじゃこりゃ!?」という観客の感性に訴えかけること、その成功例が新海誠監督作品なのだろうか。

  •  つまり、宮崎作品が世界で認められているのは、正確に人間の脳と視覚構造が認識しやすい形で描いているから、つまり、描いているものが脳に気持ちいいから。これが鈴木さんの説明です。
     この鈴木さんの説を、別の場所で、庵野監督に対して話してみました。そうすると、庵野監督の感想がまたおもしろかったのです。
    「じゃあ、なぜ宮さんは脳に気持ちいい形を正確に描けるのか? 宮さんはおそらく目が見たとおりをそのまま描いているだけだと思います。つまり脳が認識して、受け取った情報のまま、紙に写しているので、それが結果的に脳が理解しやすい形になるというのが宮崎駿の秘密だと思います」
     つまり脳が認識しやすい絵を描いているわけじゃないというのです。ふつうの人は脳が認識したとおりには絵を描けない。それが無意識にできてしまうのが、宮崎駿の才能だというのです。
     庵野監督によると、脳にとっての最高の写実主義をやってのけているのが宮崎駿だということになるのです。

    「芸術は誇張である」という、よく聞く表現があります。しかし、「芸術は(現実の)誇張」というのではなく、「芸術は脳のなかのイメージの模倣」であり、脳のなかのイメージとは特徴の組み合わせなので、結果的に誇張になっているだけである。こういう解釈のほうがしっくりくるのではないでしょうか。
     人間は現実世界のイメージを脳のなかに持っています。それは現実世界の情報をそのままコピーしているではなく、特徴だけを抽出して組み合わせてイメージをつくっているのです。
     コンテンツのクリエイターとは、脳のなかにある「世界の特徴」を見つけだして再現する人なのです。でも、脳のなかからそれらを見つけ出すのは、簡単なことではありません。
     それこそが創作の苦しみであり、苦しみのなかで脳内から発見した「世界の特徴」こそがコンテンツの真理であり神秘ではないか、芸術を生み出した人間が目指したものではないか。そう思ったのです。

     そう、ぼくたちはよく物事の本質とはなにかと問いますが、物事を記号化して少ない情報量で表現したものがその正体でしょう。なぜ本質が必要かというと、脳は単純な情報しか扱えないからだと思います。
     それが本質の〝本質〟ではないでしょうか。
     脳は本質であるところの単純な情報を組み合わせたイメージで世界を理解しています。
    このように単純化して世界を理解しているからこそ、より単純化された似顔絵や略画、縁と定規を使って描いた波に、本物よりも本物らしさ=本質を感じるという性質が人間にはあるのじゃないでしょうか。

     この章では「コンテンツの本質とは現実の模倣である」という仮定から始まって、そうではなく「コンテンツの本質とは、現実世界を特徴だけで単純化してコピーした脳のなかのイメージの再現である」という結論に行き着きました。
     そして、現実世界のあるものごとを反映した脳のなかのイメージとは、人生における経験のなかで作られるのだろうということを示しました。
     その脳のなかのイメージが、美味しい料理や美男美女のような現実には存在しない理想的な概念の正体だろうとぼくは考えています。

     ぼくが思うに、クリエイターが創作で苦しむ原因は、生活苦とか世間の無理解とかは別にすると、次の三つだけです。
    ・脳のなかのイメージを再現する技術的な難しさ
    ・脳のなかのイメージを見つける難しさ
    ・自分の脳にはないイメージをつくる難しさ
     逆に言うと、この三点を回避すればクリエイターは創作の苦しみから解放されると言えるでしょう。
     とはいえ、この三点を回避すると、きっと平凡なクリエイターとして競争力を失ってしまうような気もします。

     いくら無料だといっても小説の作者も手間をかけて書くのだから、たくさんのユーザーに読んでもらいたい。そうすると、ユーザーの望む小説を書こうとするのです。
     でも、一般にユーザーが望むコンテンツのパターンというのは、実は少ないのです。ユーザーの欲望に忠実であろうとすればするほど、できあがるコンテンツは画一化してしまいます。UGCサイトではユーザーが無料でたくさんコンテンツをつくるから、競争の結果質も上がるし、多様性もあるというのは嘘であり、競争をおこなえばおこなうほど多様性は減っていくのです。
     コンテンツの多様性を守るためには激しい競争をしてはいけないのです。
     激しい競争といえば、お金が儲かるということで、今ものすごい数のコンテンツが作られているソーシャルゲームも、そのほとんどは同じパターンです。ゲームの構造は同じなのですが、キャラクターや舞台設定を変えて、いかにも違った作品のように見せているわけです。いくらコンテンツが増えてもパターンは同じ。コンテンツの世界で競争が起こるとそうなるのです。

     人間にとって魅力のあるコンテンツのパターンというのは大方すでに発見されつくしていて、世の中でワンパターンとして蔑まれているものこそ、大昔のクリエイターが探し当てた、人間の心をつかむ本当に正しいコンテンツのパターンなんじゃないか。いまのクリエイターは本当に正しいコンテンツのパターンを使うと真似になってしまうから、それらをあえてズラしたコンテンツを作ろうとしているのではないか。
     そういう話を鈴木敏夫さんにしてみたところ、鈴井さんが教えてくれた話があります。
     鈴木さん曰く、高畑さんがよく話すことに、ルネサンスとは何だったのかというのがあるのだそうです。
     ルネッサンスとは何だったのか? たとえば、聖母マリアを例にとると分かりやすい。マリアを描き、彫刻に彫るときの大きなテーマはキリスト教の祈り。ルネッサンスの始まりは、そのマリアを荒々しいリアリズムで表現したことにあったそうです。
     それが、時代が進むと、マリアにはその古典となるべき完成形が誕生し、さらに時代が進むと、今度は細部にこだわるようになり、最後はぎらぎら飾り立てるものになったといいます。細部にこだわったときには、本来のテーマであった「祈り」はどこかへ行ってしまい、残ったのは単なる女体だったそうです。
     以上をまとめると、アーカイズム→クラシック→マニエリスム→バロックという流れになり、美術の歴史はこの四つのサイクルの移り変わりになるというのが高畑さんの説です。これはコンテンツの現状を考えるうえで、示唆に富んでいます。
     ちょうど『風立ちぬ』をつくった頃の宮崎さんに、高畑さんはいまの日本のアニメーションはマニエリスムの時代を迎えていると思うと伝えたそうです。宮崎さんは高畑さんの話にいたく感心し、しばらくマニエリスムという言葉を連発していたそうです。
     マニエリスムとはマンネリズムの語源となった言葉です。
     基本的な表現方法が古典的名作として確立されたあと、それを発展させて、より細部にこだわるのがマニエリスムであり、それはマンネリズムに変化しうる、そう考えると高畑さんの言葉には非常に含蓄があります。
     そして『かぐや姫の物語』で高畑さんがやろうとしたことは、マニエリスムからバロックへ移り変わっていく時代のなかで、クラシックの時代へと逆行することで、新しい基本的な表現方法がまだ発見されずに残っていることを示そうとしたとも考えられるでしょう。

     高畑さんの示した四つのサイクルは、そのままコンテンツの発展の歴史にも適用できるように思います。
    本書の最初のほうで示したコンテンツの定義として、(1)メディア、(2)対象、(3)方法のどれかひとつでも違えば別々のコンテンツである、というものがありました。
    (1)のメディアはひとつに固定されているとして、コンテンツとして再現する(2)対象を選らんで、つぎに再現する(3)方法を選ぶわけです。このとき、ひとつの「対象」に対して、コンテンツとして再現する「方法」は複数ありますから、「対象」の数よりも「方法」の数のほうが多いのです。だから、コンテンツのパターンとして最初にやりつくされるのは「対象」になります。
     しかし、コンテンツの表現方法がまだ確立していない初期段階においては、再現されていない「対象」もまたたくさんありますので、この時期のコンテンツにとっては「対象」すなわち、なにを表現するかが重要になります。
     だんだんと表現方法が確立されていくと、どの「対象」をどういう「方法」でコンテンツとして再現すればいいかのパターンが洗練されていきます。この時期に古典的名作となるコンテンツが誕生します。
     次がマニエリスムになりますが、もう、基本的な表現方法はすべて発見されている時代です。そうなると開く率された古典的名作の技法を細部にこだわりながら発展させていくことになります。
     マニエリスムのコンテンツはどれも同じじゃないかということになり、最後はごてごてと派手に飾りたてるバロックの時代になります。
     そして細部にこだわりごてごてにしていく過程で、最初は意識されていた表現しようとする「対象」はなんだったのかが、いつのまにか忘れ去られてしまう。
     高畑さんのいう美術史のサイクルを、この本で説明してきたコンテンツの話として置き換えると、だいたいこんな感じではないでしょうか。

    「本当にすごい映画を見たときは、観客はストーリーなんて気にしない」とも言います。よく、ストーリーのつじつまが合ってないことにケチをつける人がいるけど、問題なのはつじつまが合ってないことではなく、映画がおもしろくなかったことなんだそうです。だからこそ、つじつまが合わないことが気になる。そう鈴木さんは断言しました。

    「作品を見るときになにを見ればいいか。それはつくった人がなにをやろうとしたのか、それを見ればいい。そして、それが上手くいったのか、上手くいかなかったのか、それだけだ」と鈴木さんはそう言います。

     観客の心をいかに動かすか、という観点から考えると、映画は、主人公に感情移入させるようにつくるほうがいいのだそうです。いまの映画のほとんどは、そのようにつくられていると指摘するのは高畑勲監督です。
     高畑監督にこういう問いかけをされてことがあります。
    「宮さんの『魔女の宅急便』に出てくる女の子。魔法が使えなくなって飛べなくなったのに、また、最後に飛べるようになった。なぜなのか?」
     一度は飛べなくなった魔女のキキが、なぜ飛べるようになったのか。それを、宮崎駿は映画のなかで説明していません。なんの説明もなく、キキは飛ぶことができるようになった。これは「宮さんの魔法」だと高畑さんは言います。
     なぜ使えなくなった魔法がまた使えるようになったかは、いろんな説明が考えられるかもしれない。でも、作劇上のテクニックとして解説すると、そのとき観客は、キキに感情移入をしていて、飛んでほしいと願っていた。みんなが「ここで飛べ、飛べ」と思っていたから飛んだ。だから、そこで拍手喝采して、「ああ、よかった。よかった」とカタルシスを感じた。
     願いが叶ったんだから、なぜ飛べたのかということに疑問は感じない。それが魔法のトリックだと高畑さんは言うのです。

     作品は作家ひとりではつくれないとするのであれば、プロデューサーなり編集者なりも、作品をつくったひとりと言ってもいいでしょう。
     自分の脳の中のヴィジョンをコンテンツとして形にするのがクリエイターということであれば、実際に形にしてるのは監督のヴィジョンではなくプロデューサーのヴィジョンであって、監督はその手伝いをしているというような場合も世の中には多いのです。その場合、プロデユーサーと監督で本当のクリエイターはいったいどちらなのか。その境界はとてもあいまいになります。

     高畑勲監督が『かぐや姫の物語』でアカデミー賞にノミネートされ、ロサンジェルスを訪問したときに、現地の取材で、3DCGアニメの利点について語ったことがあります。
     ファンタジーのように誰も見たことのない、現いつではない世界を描くとき、観客はこれは現実の世界であるという実感を与える手法として、現実と見まがうごとくリアルな3DCGは有効な手法だったと言える。そのような実に的確な指摘だったのです。
     では『かぐや姫の物語』のような、見た目に現実ではないと分かる手描きアニメーションは、どんなことを表現するのに有効なのか。それについて高畑勲監督はこんな説明をしてくれました。現実の世界に存在し、みんなが知っていることを、現いつとは異なって見える手描きアニメーションによって表現することで、それより際立たせることが可能ではないか、そういう仮説のもとにつくっているというのです。

     クリエイターの世界とは、傍からはよく分からない感性とセンスでみんなつくっているように見えて、実はすごく論理的な議論が戦わされている場だというのが、ぼくがジブリでの経験で得た結論です。特に優れたクリエイターほど理屈っぽい。理屈でコンテンツをつくっているように見えます。
     そんな感想をいろいろなクリエイターの人に話すと、だいたい似たようなことを言われました。
     いや、でも、最後は感性だ。そう言うのです。
     そもそも、どうもクリエイターは最初はみんな感性でつくるのだそうです。試行錯誤、見よう見まねでつくっているなかで、自分のやっていることに理屈を見つけるのだそうです。
     そして感性だけでつくるなは大変なのだそうです。だから、みんな理屈でコンテンツをつくって楽をするのだそうです。
     でも、最後はやっぱり感性で判断するしかない、みんな、そう言います。
     それは人間の脳のしくみからしてそうなのだと思います。みんないいか悪いかの判断はできても、なぜそうなのかという理由を説明するのはとても難しい。第2章でも説明した、大脳でおこなわれているパターン認識とはそういうものです。
     クリエイターには、手が早くてなんでもさっさとつくってしまうタイプの人と、スケジュールも守れず遅いだけじゃなく仕上がりも予測できない人がいます。
     手が早いクリエイターとは、パターンを組み合わせることでコンテンツをつくっている人です、パターンを組み合わせるだけだと簡単ですし楽な作業ですから、たくさんの数を一定の作業期間でつくることが可能です。
     ヒットする曲のつくり方は分かっているとか、ヒットするゲームの法則を知っているというようなことを発言するクリエイターが時々いますが、そういう人はヒットするコンテンツのパターンをいくつか持っていて、それを組み合わせているのです。
     手が早くないクリエイターとはようするに、コンテンツの創作の苦しみに向き合っている人です。第2章の最後で創作の苦しみは次の三つだと書きました。
    ・脳のなかのイメージを再現する技術的な難しさ
    ・脳のなかのイメージを見つける難しさ
    ・自分の脳にはないイメージをつくる難しさ
     手が早いクリエイターは、ヴィジョンを思い描けないものはつくろうとしませんし、再現するのが難しいと思っているヴィジョンもつくりません。
     こういう創作の苦しみに向き合うのはリスクなのです。いくらでも時間を吸い取られる可能性があるのです。そんな努力はしないと割り切れるクリエイターと、努力をせずにはいられないクリエイターがいるのです。

     人間の脳は新しいものをつくるのは基本的に苦手ですが、新しいものを見て、良いか悪いかを判断するだけであれば得意です。なので実際には、ランダムに試行錯誤した結果を自分の脳で判断して良いか悪いかを決めているのだと思います。
     そうすると、その試行錯誤のプロセスだけを、誰か別の人に委ねるという戦略が生まれます。
     最初のアイデアを誰かに考えてもらうのだそうです。自分で試行錯誤するよりも他人に試行錯誤をしてもらったほうが、自分にはつくれないヴィジョンのパーツが手に入りやすい、つまり、インスピレーションが湧いてくるのです。
     こういった作品のつくり方は、ぼくが知る限り、かなり一流のクリエイターでも使っている、というよりむしろ、一流のクリエイターほど使っている手法のように思います。ゼロからコンテンツを生み出すのは大変なのです。そのきっかけをつくる方法として、他人のアイデアを否定して、使えそうな部分だけを取り込み、自分のヴィジョンを固めていくという作業をおこなっている人はとても多いように見えます。
     一見、これは他人のアイデアを利用しているように見える行動です。
     しかし、時間軸を広げてクリエイターの人生まで考えると、きっと同じような情報処理を積み重ねるなかで、クリエイターとして成長してきたと考えるべきではないでしょうか。たくさんのコンテンツを消費するなかで、あるものは素晴らしいと思い、あるものは駄作だと思い、ある作品には良い部分も悪い部分もあるというようにして、自分のなかにコンテンツの元になるヴィジョンをつくる能力を成長させてきたのがクリエイターの歴史だと思うのです。

  • 川上氏のジブリプロデューサー卒論的な内容。コンテンツというものをジブリの作品等を通して再定義されている。

  • 自分には無かった視点なので、勉強になりました。創作する人には、オススメしたい。

  • スタジオジブリで働いてた川上量生がコンテンツについて説いた一冊。

    わかりやすくて面白かった。

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著者プロフィール

かわかみ・のぶお 1968年愛媛県生まれ。91年京都大学工学部卒業。97年8月ドワンゴを設立。株式会社KADOKAWA・DWANGO代表取締役会長を経て、現在はKADOKAWA取締役、ドワンゴ顧問、学校法人角川ドワンゴ学園理事などを務める。

「2021年 『人と数学のあいだ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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