嗤う日本の「ナショナリズム」 (NHKブックス 1024)

  • 日本放送出版協会 (2005年2月26日発売)
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Amazon.co.jp ・本 (172ページ) / ISBN・EAN: 9784140910245

みんなの感想まとめ

テーマは、現代日本におけるナショナリズムの複雑な姿を浮き彫りにすることです。著者は、若者たちの右傾化やアイロニカルな感性の変容を探求し、1970年代の学生運動やあさま山荘事件、さらには現代のメディア文...

感想・レビュー・書評

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  • 良く分からないところ多数。
    赤軍 自己批判・自己欺瞞・自己否定
    ずいぶん懐かしい言葉だと感じた。
    学生運動 原動力は何だったのだろう?

  • 《ギデンズは、あらゆる日常的行為において、行為を可能たらしめる慣習・規約の修正、モニタリングが行われているということを認めつつ、そうした慣習・規約への再帰的態度が構造的に行われるようになったのは、近代以降であると論じている。慣習・規約が「変わりうる/変えるべき」ものである、という認識を前提として、個人(もしくは制度)が行為を調整するような態度を一般化した時代、それが近代ということだ。もちろん、近代以前にも「行為の再帰的モニタリング」(反省)は存在していた。つまり、人びとは、過去の行為がもたらした帰結に関する知識を参照しつつ、自らの行為を調整していた。しかし伝統的文化においては、「伝統」というメディアが、再帰的モニタリングを既存の秩序空間のなかに包摂する役割をはたしていたと考えられる(既存の秩序を崩しかねない行為[の結果]や経験は、たとえば、「神の思し召し」「神が下した罰」といった具合に、包括的な世界観によって説明されることになる)。それに対して、「宗教」「共同体」のようなコスモロジーの供給源が失効する近代にあっては、行為の再帰的モニタリングそのものが社会を駆動させる構成的な契機となっていく。》(p.35)

    《女性解放を目指した二人【永田洋子/田中美津】の「同志」は、自己否定の極限化/自己否定の拒絶というまったく異なった道筋をたどり、七〇年代初頭を迎えることになったのだ。》(p.63)

    《世界の構造(「平均的評価水準」)を変えることによって自己の価値を貫徹するのではなく、世界における自己の位置をズラすことによって差異化を実現する、それがアイロニーである。アイロニストはベタな価値意識が持つ暴力性を回避し、蛸壷的な共同体の乱立を肯定する。それは、「内ゲバ」の対極をいく、「六〇年代的なるもの」——自己の位置と「思想」との距離を最小化し、世界の構造の「変革」を目指す——に対するリアクションでもあった。消費社会的アイロニズムは、——少なくとも七〇年代においては——、「六〇年代的なるもの」と対峙しつつ、「左翼的」感覚を延命させるための方法論だったのである。》(p.115)

    《さしあたってここで確認しておきたいのは、連赤的な反省主義と縁遠そうにみえる消費社会的シニシズムにおいても、ある種の形式主義的な行為原理が重要な役割をはたしているということだ。形式主義は、究極の反省=総括、無反省(という反省)の両極において姿を現すのである。》(p.167)

    《『なんクリ』の主人公の述懐「主体性がないわけではない。別にどちらでもよいのでもない。選ぶ方は最初から決まっていた。/ただ、肩ひじ張って選ぶことをしたくないだけだった」とは、「最後の人間」による宣言であると同時に、主体性という言葉に反感を持つことができる程度には主体的だった人間による予言であったといえるかもしれない。》(p.169)

    《二〇〇三年に沖田平和記念公園の折り鶴放火事件のあとに、2ちゃんねるを発信源として立ちあげられた一四万羽プロジェクトの合言葉は「政治的信条抜きに」「グダグダいわずに、とりあえず、折れ」であった。ナチズムとシニシズムの共犯性を剔出したペーター・スローターダイクが指摘するように、アイロニズムが極点まで純化されアイロニズム自身を摩滅させるとき、対極にあったはずのナイーブなまでのロマン主義が回帰する。賭金は、反左派的な本音などではなく——左派/右派の彼岸にある(とかれらが考える)——ロマン的対象なのである。》(p.210-211)

    《思想・世界と自己の立ち位置との突き合わせを過剰に要請する純化された反省=総括から、反省を目的化する態度への抵抗として立ちあげられた「抵抗としての無反省」(消費社会的アイロニズム)、そして総括的なものへの距離意識を欠落させた「無反省」(消費社会的シニシズム)、「無反省」のシニシズムを継承しつつ「人間的であること=反省的であること」を希求するシニカルな実存主義(ロマン主義的シニシズム)へ。私たちがたどってきた反省史はおおよそこのようにまとめることができるだろう。》(p.236)

  • あの時の時代だけではなくて、人間の性質と置き換えて見ることもできて、それもよかった。
    今のSNSでも同じような構造と反転が見られる。アカウント枠から、かっこいいものを載せるよう要請されているわけだから。媒体、憑依、素の熱、こういった作りが見える。立憲主義的な、守破離的な、過去を捨てないことで現在にそれを召喚でき、未来に繋げられる。要は資本主義の無限サイクル、新しいラベルを張り替える作業のせいで、未来に行けなくなっているし、この本で解説されていた時代の癖、転倒が起きるのだと思う。

    個人的な書留

    僕の場合は好きなことをやると最後まで行けない。ドーナツのようなもので、頭で、言葉で説明できるものは言葉の説明に限界がこない。そのように好きなものは、こだわりがあって崩せない。つまり、うまくやれない。こうやれば売れるのにとかそういった展開ができない。
    明確に好きなことはダメだが、無意識的なもの、それをやっても嫌じゃないし好きらしいようなこと。そういうものは理屈が湧いてこない。言葉にできるようなことではなく頭はやや外せるので、余計な口出しをさせないで済む。言葉で説明できるものはその重力から抜け出せない。でも言葉にならないような好きなものは、勝手にやれる上に変なこだわりもなくやれるし、うまくいく。
    頭で狙ったものはドーナツの穴の部分で、いくら頑張っても終わりがない。読書が好きだが一生かかっても終わらないと思う。そうではなくて終わりのあるものをやれている時にうまくいく。言葉や頭を外せるので、いうならば菩薩状態でやれる。そのように「それ」ではないもの。「それ」の外に、なんとなくだけど間違いないく好きなものがあり言葉にしなくて済む。そのドーナツの実の部分でうまくいく。

    終わりがあるだろうと思っているもの。終わりのないものは穴の部分だし。

    まあそういった感じの頭のこだわりが、いうならばズッコケが作ってきた60年代以降が説明されているのかなと思った。頭が信じているのだから、頭を外せないよ。信じていたら煩悩、越えられない。

  • 反省・あえての無反省・アイロニーなどなど
    縦横無尽な分析はきもちよい。

  • 殺伐としたコミュニケーションが展開される「2ちゃんねる」の書き込みは、一見したところ、あらゆる対象から距離をとる「メタ」の立場から語られているように思えます。しかし、その「2ちゃんねる」から『電車男』という「ベタ」そのものの感動物語が生まれたという逆説を、どのように理解すればよいのでしょうか。こうした、皮肉でありながら感動を志向するという対照的な態度の共存は、若者の間に広がる「この私」と「世界」との直結という現象にも見られると著者は述べます。本書は、連合赤軍事件以後の「反省」のあり方の変容をたどることで、こうした問題に答えようとする試みです。

    連合赤軍事件の内部で進行したのは、「総括」と呼ばれる自己否定の無限のプロセスでした。その後、自己否定という反省の形式から距離を置く「抵抗としての無反省」の時代だがやってきます。著者はその象徴的な存在を、コピー・ライターの糸井重里に見ています。彼が生み出した数々のコピーは、単に商品を代理・再現する役目を離れ、それ自体が商品の価値を構築するものとなっていきました。糸井は、消費社会的な資本主義を与件として受け止めながら、世界を記号の集積体として相対化するアイロニズムの戦略を彼が取っていたと著者は論じています。

    ところが80年代になると、こうした「抵抗としての無反省」から「抵抗としての」が脱落してしまうことになります。「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」では、テレビ的な「お約束」を顕在化させてテレビそのもののパロディを作り出す手法が使われました。これは、「お約束」を「お約束」として相対化できるリテラシーをもった視聴者の存在が前提となってはじめて成立する番組だと言えます。ここに至っては、アイロニカルなポジションに立つことは、もはや距離を置くべき相手に対する「抵抗」の意味を失っており、テレビ視聴というきわめて日常的な課題をこなすための前提になっていると言わなければなりません。

    現代において「メタ」と「ベタ」が直結する土壌は、この頃に作られたと著者は言い、こうしたテレビのあり方に抵抗したナンシー関の試みを高く評価しつつも、テレビと馴れ合いつつテレビに冷笑を向ける感性が80年代を通じて育まれていったと論じています。「2ちゃんねる」という空間を支配しているのは、こうした感性に基づく内輪的なコミュニケーションを、ひたすら再生産してゆくための「文法」としてのアイロニズムではないかと著者の主張しています。

  • この本も同じ、2ch的な極私的文脈とアホみたいなニッポンコールがどうして結びつくかというのを解こうとして、ちょっと社会学的な衒学の調味料を使って、何とか学問的に見せているというセコい内容。

  • 書名:『嗤う日本の「ナショナリズム」』(NHKブックス 2005)
    著者:北田暁大(きただ・あきひろ) 理論社会学、メディア史。


    【メモ】
     以前読んだ『文化の社会学』(有斐閣アルマ)で言及されていたので目を通した。感想は特になし。

    【版元の内容説明】
    若者たちはなぜ右傾化するのか。皮肉屋の彼らはなぜ純愛にハマるのか。70年代初頭にまで遡り、アイロニカルな感性の変容の過程を追いながら、奇妙な「ナショナリズム」の正体をさぐる。あさま山荘事件から、窪塚洋介、2ちゃんねるまで。多様な現象・言説の分析を通し、「皮肉な共同体」とベタな愛国心が結託する機制を鋭く読み解く。気鋭の論客、渾身の書き下ろし。


    【目次】
    目次 [003-006]

    序章 『電車男』と憂国の徒――「2ちゃんねる化する社会」「クボヅカ化する日常」 009
    アイロニーのコミュニケーション空間 
    感動と皮肉の共同体 
    『GO』から『凶気の桜』へ 
    二つのアンチノミー 
    本書の課題 

    第一章 ゾンビたちの連合赤軍――総括と「六〇年代的なるもの」 027
    1.1 「総括」とは何だったのか 027
      集団リンチと敗北死
      暴走する反省システム
    1.2 方法としての反省 035
      反省と近代
      自己否定の論理
      立ち位置をめぐる左翼のジレンマ
      高橋和巳の自己否定論
    1.3 反省の極限へ――ゾンビとしての兵士たち 046
      「自己批判」と「総括」のあいだ
      自己否定の極限にゾンビが生まれる
      共産主義化とは何か①――「自己否定」の思想化
      人は形式主義に従属する
      共産主義化とは何か②――死とゾンビ的身体
    1.4 「六〇年代的なるもの」の終焉 060
      自己否定の「脱構築」としてのウーマン・リブ
      女性解放運動の二つの道

    第二章 コピーライターの思想とメタ広告――消費社会的アイロニズム 065
    2.1 抵抗としての無反省――糸井重里の立ち位置 065
      「総括」のあとに
      糸井重里の屈曲
      「ウンドー力」と「コピーライター」のあいだで
      「言葉の自律性」と「パロディ」
    2.2 「メディア論」の萌芽――伝達様式への拘泥 079
      赤軍と『あしたのジョー』
      マンガ論争と「左翼」的感性
      メディア論とマス・コミュニケーション論の代理戦争
      ピンク・レディーをめぐって
      記号論的感性――津村と糸井の共通認識
    2.3 消費社会的アイロニズムの展開――メタ広告の隆盛 097
      「ヘンタイよいこ新聞」の言語空間
      アイロニカルな共同体の誕生
      西武‐PARCOの戦略
      メタ広告の背景
      アイロニーの倫理と資本主義の精神
      多元主義の左翼的肯定――アイロニズムの定義
    2.4 新人類化とオタク化――消費社会的アイロニズムの転態 116
      パロディとしての類型化
      さらなる共同体主義

    第三章 パロディの終焉と純粋テレビ――消費社会的シニシズム 123
    3.1 抵抗としての無反省――田中康夫のパフォーマンス 123
      糸井重里と田中康夫の差
      津村喬の『なんクリ』評価
      NOTESはどのように捉えられたか
      NOTESの戦略
      抵抗の対象そのものをやりすごす
      『なんクリ』のポジション
    3.2 無反省という反省――川崎徹と八〇年代 143
      アイロニズムからシニシズムへ
      ユーモアから(ア)イロニーへ
      『ビックリハウス』終焉の意味
      『元気が出るテレビ』のメディア史的意義
      純粋テレビに外部は存在しない
      つねにアイロニカルであれ!
    3.3 消費社会のゾンビたち――「抵抗としての無反省」からの離床 163
      ベタの回帰としての『サラダ記念日』
      アメリカ的「動物」と日本的「スノップ」
      二種類のゾンビの違い
      島田晴彦の逡巡

    第四章 ポスト八〇年代のゾンビたち――ロマン主義的シニシズム 173
    4.1 シニシズムの変容とナンシー関 173
      ナンシーのためらい
      純粋テレビの弛緩
      感動の全体主義
      受け手=視聴者共同体への批判
      純粋テレビ批判という困難に挑む
      八〇年代とポスト八〇年代のあいだで
      反時代的思想家としてのナンシー
    4.2 繋がりの社会性――2ちゃんねるにみるシニシズムとロマン主義 192
      ギョーカイ批判と戦後民主主義批判が結びつく
      純粋テレビと2ちゃんねるの共通性
      「巨大な内輪空間」の誕生
      テレビと馴れ合いつつ、テレビを嗤う感性
      内輪指向とアイロニズムの幸福な結婚
      コミュニケーションの構造変容
      アイロニズムの極北でロマン主義が登場する
      小林よしのりの軌跡――市民主義批判
      形式主義者たちのロマン主義
    4.3 シニシストの実存主義 216
      「思想なき思想」の再現前
      レフェリーなきアイロニー・ゲーム
      世界の中心で「自分萌え」を叫ぶ
      人間になりたいゾンビたち
      ナンシーのアンビバレッジ

    終章 スノッブの帝国――総括と補遺  192
     議論の「総括」 
     スノップの帝国・日本? 
     純化するスノビズム 
     「あえて」の倫理 
     ローティ的アイロニズムの背景にあるもの 
     共同幻想への信頼を調達せよ 

    注釈 [251-264]
    あとがき(二〇〇四年 一二月二八日 三三歳の誕生日に 北田暁大) [265-269]

  •  反省(内省)をキーワードに戦後日本史を振り返る。

     連合赤軍、糸井重里や田中康夫、80年代テレビ、ナンシー関、2ちゃんねると時代を追いながら私達がいかに前時代を茶化して変化してきたか(?)を考えさせる。
     80年代、90年代を生きてきた者にとっては、難解ながらも何となくあーそうだったのかと腑に落ちたような感じを何度も感じることができた。特に、ナンシー関についてその時代的、思想的な位置づけをされていたのがとても感動した。

  • 60年代生まれの私にピッタリの本である。
    浅間山荘事件のテレビ生中継に釘付けになり、オールナイトニッポンを聴きながら大人の仲間入りをした気になって、「おれたちひょうきん族」、「元気が出るテレビ」を観て、テレビってここまでやって良いの?と目から鱗が落ちた。PARCOのコピーに踊らされて消費社会のお手伝いをして、2ちゃんねるを覗いて多様な意見があることを学んだ。

    流行ものに手を出すのが好きなので、その流行を作り出す人たちにまんまと踊らされてきた訳だ。負け惜しみではなく、別に悔しい訳ではない。むしろ楽しかった。自分が過ごしてきた時代を総括してくれる本に出会ってスッキリした気がする。

    消費社会、メディアを通じてアイロニカルなモノの見方をするのは、我々の世代にとって必然であった。さらに景気や政治情勢などによって、本当の世代というものは形成されるであろうが、サブカルの視点からの社会学的分析は非常に面白かった。

  •  イラク人質事件の頃、「あれって、自作自演なんでしょ?」という声を、現実の耳で聞いて驚いたことがあった。会社の隣の島で、女性が得意げに話していた。ネット上ではそういう現実の「ネタ化」が日常茶飯事だったし、そういう料理の仕方にも慣れ親しんでいたのだが、私にはあまりにも「下品」に思えたので、現実に耳で聞いたときは思わず振り返ってしまった。とうとう現実に2ちゃんねるが侵入してきたのか、と感じた瞬間だった。
     
    「嗤う」という態度ですべてを斬る「2ちゃんねる」。ところが、ベタな恋愛モノである『電車男』にはまってしまうのも2ちゃんねるの住人だ。この、奇妙なシニズムとロマン主義の精神構造はいかにしてできたのか? 著者は「反省」というキーワードを軸に、71年の「あさま山荘事件」から、現代までつらなる変化を描き出している。
     著者が導入した「反省」というキーワードは、かなり成功しているように見える。また、「シニズムの変容」の例として解説されている、ナンシー関(この人の視線と文体が、若者世代に与えた影響は大きいと思う)についての論考もおもしろかった。

    「2ちゃんねる」化する現実に、どう対処していくか。2ちゃんねるは嫌いじゃないけど、あまりにもあっけらかんと「嗤うナショナリズム」になじむことはできない。そんな今の自分の心境を整理するためにも、現状分析としてこの本は興味深く読めた。私は著者とかなり年齢が近いので、そういう意味で共感することも多いのかもしれない。若者にとまどいつつ、上の世代とはなじめない、30代の読者にぜひおすすめ。

  • 講義のため読了。

    この人の本の書き方、

    "意味不明な横文字文章"ーすなわち、"わかりやすい文章"、がなかったら読めなかった。確実に辞めていた。初めて耳にする横文字だらけで、社会学なら普段から触れているのだろうけど、経済学の言葉はわかりやすいとどうでもいい感想。

    同時に、事例研究なので「そんなん取り上げるもの次第やんけ」とは思ったけど、あとがきでそこに触れていたので、まぁキリがないのは事実やけど。100個事例あげたら真実味があるけど99個やとないな、というわけではないからな。

    「事件」は一つで十分だと思う。連合赤軍みたいな。そこに至るまでの過程がたくさんあるし、その分事件という形で表れてきたものを検証する意味は大きいと思うが、人間を対象とする場合、ちょっと難しいような。際立った思想、みたいなことはちょこちょこ放出していくわけで、どうしてもグラつく日もあるやろ


    まぁ、ちょっとレポート書くつもりやけど、もう少し時間的に余裕があるので別の本も読んで書いていこうと思う。

  • 2005年刊ということで、かなり状況も変わっているだろう。うーん、かなり頑張って読んだのだが、ちょっと違うんじゃないか、という気がした。

  • 7年前にインターネットにおけるナショナリズムの勃興を検証した一冊。
    系譜学の手法によって60年代末の連合赤軍の総括から05年のぷちナショナリズムまでの思想的な流れを追っていく。

    2012年に当時の現代社会分析を読むことで、現在の「ナショナリズム」の05年当時の立ち位置がわかってとても有意義であった。
    60年代から90年代にかけて、マルクス主義やメディアといった審神者がアイロニーを通して打ち破られる事によって、「何も信じない」という価値観だけが残り、世界と唯一裏切らない実存としての「私」が直接向き合うことを余儀なくされるまでの過程が明らかにされている。この「セカイ系」的感覚がアイロニズムに強いられたものだという指摘は面白かった。60年代から80年台に至る否定の連鎖の結実として2ちゃんねるが存在するという指摘は、2ちゃんねるでしばしば語られてきた団塊の世代に対する怨嗟やバブル世代に対する侮蔑といった戦後日本人の「生き方」の否定についてその根源を指摘できていることからも著者の議論は私にとってはとても説得力を持つように感じられた。

    翻って現在について考えてみると、ロマン主義的アイロニズムからより「ナイーブなロマン主義」に移行してきているように感じられる。
    否定連鎖の結実として裸一貫でセカイと向き合うことになった私達であるが、結局自らが抱える実存的悩みを独りで受け止めるということも出来なかったのだと思う。そしてその逃避先として「私と分かり合える『仲間』」といった小規模なつながりのもとで日常を暮らし、分かり合えないものについては無視をし、排除をするという社会を構築しているように思われる。「SNS」の登場はその『仲間』のみがいる日常のつながりを加速させる装置として働いている。
    一方で周辺諸国の国際的地位上昇に伴い、日本の比較優位が不安定になる中で『仲間』共同体としての日本が強調されるようになってきた。現在のともすればレイシズムや歴史修正主義すれすれのナショナリズムが寛容される下地は、『仲間』の論理を優先している現代日本の状況を表しているのではないか。
    著者は本書にて「ぷちナショナリズム」についての評価をペンディングしているが2012年現在の「ぷちナショナリズム」はロマン主義から実体を持つものに変化する兆しを帯びており、嫌な雰囲気を匂わせているのである。

  • 著者の北田氏は,岩波書店の雑誌『思想』に1998年に掲載された論文「広告の誕生」に衝撃を受けた。東京大学の社会学専攻はちょくちょく学術出版で活躍するような研究者を排出する。大抵が修士論文の一部をこの『思想』に発表し,評判が良ければ単行本になる。北田氏の場合も修士論文を元にした『広告の誕生』が岩波書店から2000年に発行された。副題に「近代メディア文化の歴史社会学」とあるように,メディア研究でありながら,歴史研究によって現代社会批判であろうとするところは,吉見俊哉や佐藤健二といった東大社会学の系譜に位置づけられる。単なる歴史研究ではなくより抽象的な議論を展開しているところも,小さな本でありながら非常に魅力的だった。しかし,その後2002年に創刊された廣済堂ライブラリーというシリーズの1冊として出版された『広告都市・東京』あたりでおかしくなってきてしまった。吉見俊哉の名著『都市のドラマトゥルギー』の続編たろうとする本書は,自らの広告研究を1980年代以降の東京論として展開するものだが,いかんせん1980年代自体がそうであったように,薄っぺらな都市記述となっている。そして,彼は他の東大出身社会学者の一部と同じ運命を辿ることになるのだろうか。多くの人が知っている宮台真司。彼もかつては理論派の社会学者だったのだ。しかし,いつの間にやらへらへらテレビに出て,ブルセラだの現代社会評論家のようになってしまった。北田氏もさまざまな雇われ仕事をこなすようになり,出版される本は対談集などが増えてくる。
    それでも,実際は私は宮台氏の本も読んでいないし,テレビでの発言も聴いていないし,北田氏の対談集も読んでいない。こうして批判めいたことを書くのは単なるひがみなのだが,例えば,もう一人の東大出身の社会学者,大澤真幸氏がいるが,彼の場合は未だに理論研究を進めているが,やはり彼もオウム真理教の研究などがある。出版界で活躍する研究者ほど,歴史研究や理論研究がだんだん現代評論のようなものに移行してくるように思われる。もちろん,それはメディア産業の側が彼らに現代の迷える市民たちに生きる指針を与えてくれるような発言を求めるのかもしれない。私はそういうものを「読む気もしない」と拒絶する一方で,本当のところは彼らが何を語っているのか知りたくもある。ということで,前置きが長くなったが,本書を実際に読んでみたわけである。
    実は私は何度か書店で本書を手に取ってパラパラめくったことがある。冒頭は『電車男』の話から2ちゃんねるに展開している。北田氏もやはり歴史研究を捨てて現代社会論か,と呆れる一方で,私が知ろうともしない世界に彼は乗り込んで,何を理解して戻ってくるのか,こないのか,やはり興味は引かれる。しかし,実際は現代社会論だけではなく,一応形式的には歴史社会学としても位置づけられる本で,1970年代から1990年代までを分析して,その先の2ちゃんねる的現代を理解するという内容であった。目次を簡単に示しておこう。

    序章 『電車男』と憂国の徒――「2ちゃんねる化する社会」「クボヅカ化する日常」
    第1章 ゾンビたちの連合赤軍――総括と「60年代的なるもの」
    第2章 コピーライターの思想とメタ広告――消費社会のアイロニズム
    第3章 パロディの終焉と純粋テレビ――消費社会的シニシズム
    第4章 ポスト80年代のゾンビたち
    終章 スノッブの帝国――総括と補遺

    「あとがき」で謙虚に断り書きを入れているのが救いではあるが,全般的に本書は1960年代の雰囲気を引きずった1970年代の出来事から,1980年代的なものを論じ,その流れで1990年代を分析し,現代に対処しようとする。
    それでも,前半はさすがの爽快な語り口で展開していく。しかし,第1章に入ると,私が馴染みのない歴史的事実が続くせいか,どうにも読みにくくなってくる。最近何本か映画化されたあさま山荘ものを1本でも観ていればちょっと分かりやすかったかもしれない。しかも,この1970年代の出来事は,1960年代的なものの延長のなかで位置づけられているために私にはよけい分かりにくい。そして,その後はやたらと時代精神的なものが強調されるため,面白くなくなっていく。
    確かに,1980年代を経て,変容していくテレビの話は,著者が私の1歳下であるためか,ちょうどその頃テレビ漬けだった私には説得的だった。しかし,それですらテレビの一側面をうまく捉えているだけで,それを時代の共通性に結びつけたり,テレビの多様性を無視するのも強引だと思う。そして,その変容を通じてテレビ批判が内在化していくという変化を,ナンシー関を中心に論じ,その傾向が2ちゃんねる的なものへと引き継がれていくという論理展開は面白い。私は実際,テレビの内側にいてテレビを受容しながら批判していくようなナンシー関や現在の2ちゃんねらーたちと違って,私は1990年以降,ほとんどテレビは見ていない。だから,この議論は私がテレビを見なくなった理由をうまく説明しているともいえる。

    それにしても,この「○○年代的なるもの」というのはいったいなんなのか?一応,本書は表立って主張はしていないが,言説分析の一種だ。言説作用として,多くの者の思考が同じ方向を向くという不自然な権力のことを,この時代精神的な概念によって示そうとしているのか。その辺は判然としない。
    そして,同時に本書の言葉そのものが2ちゃんねる化しているともいえる。本書で参照されるのは,先ほど書いた東大系の人ばかりだ。宮台真司,大澤真幸,東 浩紀,そして世代は少し上だが,北田氏とともに広告研究を進める難波功士,小熊英二,上野千鶴子など。まあ,多様な研究者を一緒くたにするのはよくないが,あまり売れない学術出版物ではなく,多少は売れる学術的出版物の読者たちの間で流通しやすい意味がいっぱい込められている本といえるのかもしれない。

  • テレビとかマスメディアを叩くのって、単にマスメディアがダメだからとか言うだけではダメかなと思った。本書を読むとマスメディアを叩くというアイロニカルな態度そのものが60年代~(あるいはそれ以前から?)の日本の社会の通奏低音となって引き継がれていることが分かる。私が実際に経験したのは2ちゃんねるぐらいで、本書に出てくるサブカルチャーをあまり知らないせいかもしれないが、ちょっとサブカル系固有名詞が多くて読みづらかった。以下、読書メモ。



    1章
    ----
    連合赤軍による「総括」は、到達不可能な自己へ至る、限りない自己否定(反省)のプロセスである。「革命のために死を賭すことができるか?」という問いかけに答えることは本質的に不可能。なぜなら、生きているものは生きているがゆえに死を賭していないとなるか、「敗北死」した、ということになるかのどちらかであるから。連合赤軍の森恒夫は自己の総括によって仲間のもらい泣きを誘ったことによって、身体的に肯定された。
    このときから森は死にながら生きるもの(=ゾンビ)としての身体性を獲得した。結局「総括」とは、歴史をめぐる主体性の問題(唯物史観に対する、毛択東/サルトル的主体性の獲得)から離れて無限に自己を反省しなおすオートマティックなプロセスになった。無限に自己を反省しなおすプロセスとはアンソニー・ギデンズのいう「再帰的近代」の理論で説明される。

    再帰的近代=近代以前には歴史とか伝統は所与のものであり、それに背くような出来事は「神の怒り」とかで片付けられた。近代に入って歴史・伝統に対して、私達は参照しながらも、それを再帰的に再生産しているのだという認識が生まれた。

    連合赤軍の「総括」がただ頭のおかしい人たちのいかれた行為なのではなく十分に「合理的」な行為であったという点に注意すべき。


    2章
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    60年代的反省を反省する「無反省」な態度の象徴的存在が糸井重里であった。「好き/嫌いが判断基準で、他の人が嫌いだろうと自分が好きだったら良い」という相対主義的な態度は「コピーライターの論理」(=言葉の主体性。現実世界を正しく反映するものとしての言葉ではなく、それ自体現実を変えていく力がある)を基盤としている。70年代的アイロニーはコピーライターの論理によって、過剰なメタ指向に向かう。一方オタク的共同体主義的な指向(膨大な文脈を読み、閉じた共同体内でしか分からない笑いを共有する)もこのころ。

    3章
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    メタ/ベタの両方に足を踏み入れながらそれを笑いとしてしまう「ユーモア」とベタでありつつメタを偏執狂的に指向してしまう「アイロニー」。「ビックリハウス」の消費社会的アイロニーは、テレビで反復され、80年代のテレビは「お約束」を嗤うことによって視聴者を獲得していった。川崎徹的「アイロニー」が糸井重里的「ユーモア」を打ち負かしたのが80年代であった。80年代のテレビは、テレビという虚構をネタ(=虚構)として楽しむ「純粋テレビ」である。このようなテレビを楽しむためにはアイロニカルな視点、虚構を虚構として楽しむリテラシーが必要である。このようにしてアイロニカルな嗤いの共同体が広まった。アイロニーの方法論が形式化して大衆に広まっていった。(「サラダ記念日」)このような形式主義は連合赤軍の総括の回帰であるようにも見える。

    4章
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    なぜ2ちゃんねるはアイロニーと「電車男」のようなベタな感動が共存することができるのか?メディアそのものを嗤う2ちゃんねらーには、「虚構を信じる他者/虚構を信じない自分」という二重化ができない。なぜなら、80年代のテレビが担った「虚構を信じる他者」を与えてくれる超越者を持たないからである。2ちゃんねらーにとっての他者は、自分に接続する可能性のある、希薄な他者であり、自分は絶えず、アイロニストとして振舞わなければならない。認知の水準/行為の水準、ベタ/ネタの区別が失効した、アイロニカルであることが困難な状況の中でアイロニカルたろうとする絶望的な試みがロマン主義的シニシズム(内面なき実存主義)となって現れる。

  • 大学4年の時に読んだ本。「2ch化する社会」「皮肉と感動の共同体」としての日本社会論。60年代安保闘争以降のアイロニカルな感性の変容。ここ最近の嫌韓流やら炎上マーケティングやら思うところあって再読してみる。

  • あまり覚えていないが、2000年代後半の若者の思想が反映されていたと思う。2010年代に入った今読み返してみると、現在が相対化できて面白いと思う。

  • 「嗤う」というかすれた笑いは最近非常に強く感じる。赤軍連合の話、純粋テレビの話… 面白い内容ばかりである。ただ全てを理解できた訳ではない。

  • [ 内容 ]
    若者たちはなぜ右傾化するのか。
    皮肉屋の彼らはなぜ純愛にハマるのか。
    70年代初頭にまで遡り、アイロニカルな感性の変容の過程を追いながら、奇妙な「ナショナリズム」の正体をさぐる。
    あさま山荘事件から、窪塚洋介、2ちゃんねるまで。
    多様な現象・言説の分析を通し、「皮肉な共同体」とベタな愛国心が結託する機制を鋭く読み解く。
    気鋭の論客、渾身の書き下ろし。

    [ 目次 ]
    序章 『電車男』と憂国の徒―「2ちゃんねる化する社会」「クボヅカ化する日常」
    第1章 ゾンビたちの連合赤軍―総括と「六〇年代的なるもの」
    第2章 コピーライターの思想とメタ広告―消費社会的アイロニズム
    第3章 パロディの終焉と純粋テレビ―消費社会的シニシズム
    第4章 ポスト八〇年代のゾンビたち―ロマン主義的シニシズム
    終章 スノッブの帝国―総括と補遺

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    [ 関連図書 ]


    [ 参考となる書評 ]

  •  
    http://booklog.jp/users/awalibrary/archives/4140910240
    ── 北田 暁大《嗤う日本の「ナショナリズム」200502‥ 日本放送出版協会》
     北田 暁大 評論 19711228 神奈川 /東京大学大学院情報学環准教授/理論社会学
     
     パブロフの犬たち ~ 脳内ナショナリズム ~
    http://d.hatena.ne.jp/adlib/20110610
     おらが世 ~ 日の丸に心はためく人々 ~
     

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著者プロフィール

東京大学教授

「2022年 『実況中継・社会学』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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