嗤う日本の「ナショナリズム」 (NHKブックス 1024)
- 日本放送出版協会 (2005年2月26日発売)
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Amazon.co.jp ・本 (172ページ) / ISBN・EAN: 9784140910245
みんなの感想まとめ
テーマは、現代日本におけるナショナリズムの複雑な姿を浮き彫りにすることです。著者は、若者たちの右傾化やアイロニカルな感性の変容を探求し、1970年代の学生運動やあさま山荘事件、さらには現代のメディア文...
感想・レビュー・書評
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良く分からないところ多数。
赤軍 自己批判・自己欺瞞・自己否定
ずいぶん懐かしい言葉だと感じた。
学生運動 原動力は何だったのだろう?詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
反省・あえての無反省・アイロニーなどなど
縦横無尽な分析はきもちよい。 -
殺伐としたコミュニケーションが展開される「2ちゃんねる」の書き込みは、一見したところ、あらゆる対象から距離をとる「メタ」の立場から語られているように思えます。しかし、その「2ちゃんねる」から『電車男』という「ベタ」そのものの感動物語が生まれたという逆説を、どのように理解すればよいのでしょうか。こうした、皮肉でありながら感動を志向するという対照的な態度の共存は、若者の間に広がる「この私」と「世界」との直結という現象にも見られると著者は述べます。本書は、連合赤軍事件以後の「反省」のあり方の変容をたどることで、こうした問題に答えようとする試みです。
連合赤軍事件の内部で進行したのは、「総括」と呼ばれる自己否定の無限のプロセスでした。その後、自己否定という反省の形式から距離を置く「抵抗としての無反省」の時代だがやってきます。著者はその象徴的な存在を、コピー・ライターの糸井重里に見ています。彼が生み出した数々のコピーは、単に商品を代理・再現する役目を離れ、それ自体が商品の価値を構築するものとなっていきました。糸井は、消費社会的な資本主義を与件として受け止めながら、世界を記号の集積体として相対化するアイロニズムの戦略を彼が取っていたと著者は論じています。
ところが80年代になると、こうした「抵抗としての無反省」から「抵抗としての」が脱落してしまうことになります。「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」では、テレビ的な「お約束」を顕在化させてテレビそのもののパロディを作り出す手法が使われました。これは、「お約束」を「お約束」として相対化できるリテラシーをもった視聴者の存在が前提となってはじめて成立する番組だと言えます。ここに至っては、アイロニカルなポジションに立つことは、もはや距離を置くべき相手に対する「抵抗」の意味を失っており、テレビ視聴というきわめて日常的な課題をこなすための前提になっていると言わなければなりません。
現代において「メタ」と「ベタ」が直結する土壌は、この頃に作られたと著者は言い、こうしたテレビのあり方に抵抗したナンシー関の試みを高く評価しつつも、テレビと馴れ合いつつテレビに冷笑を向ける感性が80年代を通じて育まれていったと論じています。「2ちゃんねる」という空間を支配しているのは、こうした感性に基づく内輪的なコミュニケーションを、ひたすら再生産してゆくための「文法」としてのアイロニズムではないかと著者の主張しています。 -
この本も同じ、2ch的な極私的文脈とアホみたいなニッポンコールがどうして結びつくかというのを解こうとして、ちょっと社会学的な衒学の調味料を使って、何とか学問的に見せているというセコい内容。
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書名:『嗤う日本の「ナショナリズム」』(NHKブックス 2005)
著者:北田暁大(きただ・あきひろ) 理論社会学、メディア史。
【メモ】
以前読んだ『文化の社会学』(有斐閣アルマ)で言及されていたので目を通した。感想は特になし。
【版元の内容説明】
若者たちはなぜ右傾化するのか。皮肉屋の彼らはなぜ純愛にハマるのか。70年代初頭にまで遡り、アイロニカルな感性の変容の過程を追いながら、奇妙な「ナショナリズム」の正体をさぐる。あさま山荘事件から、窪塚洋介、2ちゃんねるまで。多様な現象・言説の分析を通し、「皮肉な共同体」とベタな愛国心が結託する機制を鋭く読み解く。気鋭の論客、渾身の書き下ろし。
【目次】
目次 [003-006]
序章 『電車男』と憂国の徒――「2ちゃんねる化する社会」「クボヅカ化する日常」 009
アイロニーのコミュニケーション空間
感動と皮肉の共同体
『GO』から『凶気の桜』へ
二つのアンチノミー
本書の課題
第一章 ゾンビたちの連合赤軍――総括と「六〇年代的なるもの」 027
1.1 「総括」とは何だったのか 027
集団リンチと敗北死
暴走する反省システム
1.2 方法としての反省 035
反省と近代
自己否定の論理
立ち位置をめぐる左翼のジレンマ
高橋和巳の自己否定論
1.3 反省の極限へ――ゾンビとしての兵士たち 046
「自己批判」と「総括」のあいだ
自己否定の極限にゾンビが生まれる
共産主義化とは何か①――「自己否定」の思想化
人は形式主義に従属する
共産主義化とは何か②――死とゾンビ的身体
1.4 「六〇年代的なるもの」の終焉 060
自己否定の「脱構築」としてのウーマン・リブ
女性解放運動の二つの道
第二章 コピーライターの思想とメタ広告――消費社会的アイロニズム 065
2.1 抵抗としての無反省――糸井重里の立ち位置 065
「総括」のあとに
糸井重里の屈曲
「ウンドー力」と「コピーライター」のあいだで
「言葉の自律性」と「パロディ」
2.2 「メディア論」の萌芽――伝達様式への拘泥 079
赤軍と『あしたのジョー』
マンガ論争と「左翼」的感性
メディア論とマス・コミュニケーション論の代理戦争
ピンク・レディーをめぐって
記号論的感性――津村と糸井の共通認識
2.3 消費社会的アイロニズムの展開――メタ広告の隆盛 097
「ヘンタイよいこ新聞」の言語空間
アイロニカルな共同体の誕生
西武‐PARCOの戦略
メタ広告の背景
アイロニーの倫理と資本主義の精神
多元主義の左翼的肯定――アイロニズムの定義
2.4 新人類化とオタク化――消費社会的アイロニズムの転態 116
パロディとしての類型化
さらなる共同体主義
第三章 パロディの終焉と純粋テレビ――消費社会的シニシズム 123
3.1 抵抗としての無反省――田中康夫のパフォーマンス 123
糸井重里と田中康夫の差
津村喬の『なんクリ』評価
NOTESはどのように捉えられたか
NOTESの戦略
抵抗の対象そのものをやりすごす
『なんクリ』のポジション
3.2 無反省という反省――川崎徹と八〇年代 143
アイロニズムからシニシズムへ
ユーモアから(ア)イロニーへ
『ビックリハウス』終焉の意味
『元気が出るテレビ』のメディア史的意義
純粋テレビに外部は存在しない
つねにアイロニカルであれ!
3.3 消費社会のゾンビたち――「抵抗としての無反省」からの離床 163
ベタの回帰としての『サラダ記念日』
アメリカ的「動物」と日本的「スノップ」
二種類のゾンビの違い
島田晴彦の逡巡
第四章 ポスト八〇年代のゾンビたち――ロマン主義的シニシズム 173
4.1 シニシズムの変容とナンシー関 173
ナンシーのためらい
純粋テレビの弛緩
感動の全体主義
受け手=視聴者共同体への批判
純粋テレビ批判という困難に挑む
八〇年代とポスト八〇年代のあいだで
反時代的思想家としてのナンシー
4.2 繋がりの社会性――2ちゃんねるにみるシニシズムとロマン主義 192
ギョーカイ批判と戦後民主主義批判が結びつく
純粋テレビと2ちゃんねるの共通性
「巨大な内輪空間」の誕生
テレビと馴れ合いつつ、テレビを嗤う感性
内輪指向とアイロニズムの幸福な結婚
コミュニケーションの構造変容
アイロニズムの極北でロマン主義が登場する
小林よしのりの軌跡――市民主義批判
形式主義者たちのロマン主義
4.3 シニシストの実存主義 216
「思想なき思想」の再現前
レフェリーなきアイロニー・ゲーム
世界の中心で「自分萌え」を叫ぶ
人間になりたいゾンビたち
ナンシーのアンビバレッジ
終章 スノッブの帝国――総括と補遺 192
議論の「総括」
スノップの帝国・日本?
純化するスノビズム
「あえて」の倫理
ローティ的アイロニズムの背景にあるもの
共同幻想への信頼を調達せよ
注釈 [251-264]
あとがき(二〇〇四年 一二月二八日 三三歳の誕生日に 北田暁大) [265-269] -
反省(内省)をキーワードに戦後日本史を振り返る。
連合赤軍、糸井重里や田中康夫、80年代テレビ、ナンシー関、2ちゃんねると時代を追いながら私達がいかに前時代を茶化して変化してきたか(?)を考えさせる。
80年代、90年代を生きてきた者にとっては、難解ながらも何となくあーそうだったのかと腑に落ちたような感じを何度も感じることができた。特に、ナンシー関についてその時代的、思想的な位置づけをされていたのがとても感動した。 -
60年代生まれの私にピッタリの本である。
浅間山荘事件のテレビ生中継に釘付けになり、オールナイトニッポンを聴きながら大人の仲間入りをした気になって、「おれたちひょうきん族」、「元気が出るテレビ」を観て、テレビってここまでやって良いの?と目から鱗が落ちた。PARCOのコピーに踊らされて消費社会のお手伝いをして、2ちゃんねるを覗いて多様な意見があることを学んだ。
流行ものに手を出すのが好きなので、その流行を作り出す人たちにまんまと踊らされてきた訳だ。負け惜しみではなく、別に悔しい訳ではない。むしろ楽しかった。自分が過ごしてきた時代を総括してくれる本に出会ってスッキリした気がする。
消費社会、メディアを通じてアイロニカルなモノの見方をするのは、我々の世代にとって必然であった。さらに景気や政治情勢などによって、本当の世代というものは形成されるであろうが、サブカルの視点からの社会学的分析は非常に面白かった。 -
イラク人質事件の頃、「あれって、自作自演なんでしょ?」という声を、現実の耳で聞いて驚いたことがあった。会社の隣の島で、女性が得意げに話していた。ネット上ではそういう現実の「ネタ化」が日常茶飯事だったし、そういう料理の仕方にも慣れ親しんでいたのだが、私にはあまりにも「下品」に思えたので、現実に耳で聞いたときは思わず振り返ってしまった。とうとう現実に2ちゃんねるが侵入してきたのか、と感じた瞬間だった。
「嗤う」という態度ですべてを斬る「2ちゃんねる」。ところが、ベタな恋愛モノである『電車男』にはまってしまうのも2ちゃんねるの住人だ。この、奇妙なシニズムとロマン主義の精神構造はいかにしてできたのか? 著者は「反省」というキーワードを軸に、71年の「あさま山荘事件」から、現代までつらなる変化を描き出している。
著者が導入した「反省」というキーワードは、かなり成功しているように見える。また、「シニズムの変容」の例として解説されている、ナンシー関(この人の視線と文体が、若者世代に与えた影響は大きいと思う)についての論考もおもしろかった。
「2ちゃんねる」化する現実に、どう対処していくか。2ちゃんねるは嫌いじゃないけど、あまりにもあっけらかんと「嗤うナショナリズム」になじむことはできない。そんな今の自分の心境を整理するためにも、現状分析としてこの本は興味深く読めた。私は著者とかなり年齢が近いので、そういう意味で共感することも多いのかもしれない。若者にとまどいつつ、上の世代とはなじめない、30代の読者にぜひおすすめ。 -
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2005年刊ということで、かなり状況も変わっているだろう。うーん、かなり頑張って読んだのだが、ちょっと違うんじゃないか、という気がした。
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7年前にインターネットにおけるナショナリズムの勃興を検証した一冊。
系譜学の手法によって60年代末の連合赤軍の総括から05年のぷちナショナリズムまでの思想的な流れを追っていく。
2012年に当時の現代社会分析を読むことで、現在の「ナショナリズム」の05年当時の立ち位置がわかってとても有意義であった。
60年代から90年代にかけて、マルクス主義やメディアといった審神者がアイロニーを通して打ち破られる事によって、「何も信じない」という価値観だけが残り、世界と唯一裏切らない実存としての「私」が直接向き合うことを余儀なくされるまでの過程が明らかにされている。この「セカイ系」的感覚がアイロニズムに強いられたものだという指摘は面白かった。60年代から80年台に至る否定の連鎖の結実として2ちゃんねるが存在するという指摘は、2ちゃんねるでしばしば語られてきた団塊の世代に対する怨嗟やバブル世代に対する侮蔑といった戦後日本人の「生き方」の否定についてその根源を指摘できていることからも著者の議論は私にとってはとても説得力を持つように感じられた。
翻って現在について考えてみると、ロマン主義的アイロニズムからより「ナイーブなロマン主義」に移行してきているように感じられる。
否定連鎖の結実として裸一貫でセカイと向き合うことになった私達であるが、結局自らが抱える実存的悩みを独りで受け止めるということも出来なかったのだと思う。そしてその逃避先として「私と分かり合える『仲間』」といった小規模なつながりのもとで日常を暮らし、分かり合えないものについては無視をし、排除をするという社会を構築しているように思われる。「SNS」の登場はその『仲間』のみがいる日常のつながりを加速させる装置として働いている。
一方で周辺諸国の国際的地位上昇に伴い、日本の比較優位が不安定になる中で『仲間』共同体としての日本が強調されるようになってきた。現在のともすればレイシズムや歴史修正主義すれすれのナショナリズムが寛容される下地は、『仲間』の論理を優先している現代日本の状況を表しているのではないか。
著者は本書にて「ぷちナショナリズム」についての評価をペンディングしているが2012年現在の「ぷちナショナリズム」はロマン主義から実体を持つものに変化する兆しを帯びており、嫌な雰囲気を匂わせているのである。 -
著者の北田氏は,岩波書店の雑誌『思想』に1998年に掲載された論文「広告の誕生」に衝撃を受けた。東京大学の社会学専攻はちょくちょく学術出版で活躍するような研究者を排出する。大抵が修士論文の一部をこの『思想』に発表し,評判が良ければ単行本になる。北田氏の場合も修士論文を元にした『広告の誕生』が岩波書店から2000年に発行された。副題に「近代メディア文化の歴史社会学」とあるように,メディア研究でありながら,歴史研究によって現代社会批判であろうとするところは,吉見俊哉や佐藤健二といった東大社会学の系譜に位置づけられる。単なる歴史研究ではなくより抽象的な議論を展開しているところも,小さな本でありながら非常に魅力的だった。しかし,その後2002年に創刊された廣済堂ライブラリーというシリーズの1冊として出版された『広告都市・東京』あたりでおかしくなってきてしまった。吉見俊哉の名著『都市のドラマトゥルギー』の続編たろうとする本書は,自らの広告研究を1980年代以降の東京論として展開するものだが,いかんせん1980年代自体がそうであったように,薄っぺらな都市記述となっている。そして,彼は他の東大出身社会学者の一部と同じ運命を辿ることになるのだろうか。多くの人が知っている宮台真司。彼もかつては理論派の社会学者だったのだ。しかし,いつの間にやらへらへらテレビに出て,ブルセラだの現代社会評論家のようになってしまった。北田氏もさまざまな雇われ仕事をこなすようになり,出版される本は対談集などが増えてくる。
それでも,実際は私は宮台氏の本も読んでいないし,テレビでの発言も聴いていないし,北田氏の対談集も読んでいない。こうして批判めいたことを書くのは単なるひがみなのだが,例えば,もう一人の東大出身の社会学者,大澤真幸氏がいるが,彼の場合は未だに理論研究を進めているが,やはり彼もオウム真理教の研究などがある。出版界で活躍する研究者ほど,歴史研究や理論研究がだんだん現代評論のようなものに移行してくるように思われる。もちろん,それはメディア産業の側が彼らに現代の迷える市民たちに生きる指針を与えてくれるような発言を求めるのかもしれない。私はそういうものを「読む気もしない」と拒絶する一方で,本当のところは彼らが何を語っているのか知りたくもある。ということで,前置きが長くなったが,本書を実際に読んでみたわけである。
実は私は何度か書店で本書を手に取ってパラパラめくったことがある。冒頭は『電車男』の話から2ちゃんねるに展開している。北田氏もやはり歴史研究を捨てて現代社会論か,と呆れる一方で,私が知ろうともしない世界に彼は乗り込んで,何を理解して戻ってくるのか,こないのか,やはり興味は引かれる。しかし,実際は現代社会論だけではなく,一応形式的には歴史社会学としても位置づけられる本で,1970年代から1990年代までを分析して,その先の2ちゃんねる的現代を理解するという内容であった。目次を簡単に示しておこう。
序章 『電車男』と憂国の徒――「2ちゃんねる化する社会」「クボヅカ化する日常」
第1章 ゾンビたちの連合赤軍――総括と「60年代的なるもの」
第2章 コピーライターの思想とメタ広告――消費社会のアイロニズム
第3章 パロディの終焉と純粋テレビ――消費社会的シニシズム
第4章 ポスト80年代のゾンビたち
終章 スノッブの帝国――総括と補遺
「あとがき」で謙虚に断り書きを入れているのが救いではあるが,全般的に本書は1960年代の雰囲気を引きずった1970年代の出来事から,1980年代的なものを論じ,その流れで1990年代を分析し,現代に対処しようとする。
それでも,前半はさすがの爽快な語り口で展開していく。しかし,第1章に入ると,私が馴染みのない歴史的事実が続くせいか,どうにも読みにくくなってくる。最近何本か映画化されたあさま山荘ものを1本でも観ていればちょっと分かりやすかったかもしれない。しかも,この1970年代の出来事は,1960年代的なものの延長のなかで位置づけられているために私にはよけい分かりにくい。そして,その後はやたらと時代精神的なものが強調されるため,面白くなくなっていく。
確かに,1980年代を経て,変容していくテレビの話は,著者が私の1歳下であるためか,ちょうどその頃テレビ漬けだった私には説得的だった。しかし,それですらテレビの一側面をうまく捉えているだけで,それを時代の共通性に結びつけたり,テレビの多様性を無視するのも強引だと思う。そして,その変容を通じてテレビ批判が内在化していくという変化を,ナンシー関を中心に論じ,その傾向が2ちゃんねる的なものへと引き継がれていくという論理展開は面白い。私は実際,テレビの内側にいてテレビを受容しながら批判していくようなナンシー関や現在の2ちゃんねらーたちと違って,私は1990年以降,ほとんどテレビは見ていない。だから,この議論は私がテレビを見なくなった理由をうまく説明しているともいえる。
それにしても,この「○○年代的なるもの」というのはいったいなんなのか?一応,本書は表立って主張はしていないが,言説分析の一種だ。言説作用として,多くの者の思考が同じ方向を向くという不自然な権力のことを,この時代精神的な概念によって示そうとしているのか。その辺は判然としない。
そして,同時に本書の言葉そのものが2ちゃんねる化しているともいえる。本書で参照されるのは,先ほど書いた東大系の人ばかりだ。宮台真司,大澤真幸,東 浩紀,そして世代は少し上だが,北田氏とともに広告研究を進める難波功士,小熊英二,上野千鶴子など。まあ,多様な研究者を一緒くたにするのはよくないが,あまり売れない学術出版物ではなく,多少は売れる学術的出版物の読者たちの間で流通しやすい意味がいっぱい込められている本といえるのかもしれない。 -
大学4年の時に読んだ本。「2ch化する社会」「皮肉と感動の共同体」としての日本社会論。60年代安保闘争以降のアイロニカルな感性の変容。ここ最近の嫌韓流やら炎上マーケティングやら思うところあって再読してみる。
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「嗤う」というかすれた笑いは最近非常に強く感じる。赤軍連合の話、純粋テレビの話… 面白い内容ばかりである。ただ全てを理解できた訳ではない。
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http://booklog.jp/users/awalibrary/archives/4140910240
── 北田 暁大《嗤う日本の「ナショナリズム」200502‥ 日本放送出版協会》
北田 暁大 評論 19711228 神奈川 /東京大学大学院情報学環准教授/理論社会学
パブロフの犬たち ~ 脳内ナショナリズム ~
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20110610
おらが世 ~ 日の丸に心はためく人々 ~
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