- Amazon.co.jp ・本 (269ページ)
- / ISBN・EAN: 9784140910245
感想・レビュー・書評
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2005年刊ということで、かなり状況も変わっているだろう。うーん、かなり頑張って読んだのだが、ちょっと違うんじゃないか、という気がした。
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7年前にインターネットにおけるナショナリズムの勃興を検証した一冊。
系譜学の手法によって60年代末の連合赤軍の総括から05年のぷちナショナリズムまでの思想的な流れを追っていく。
2012年に当時の現代社会分析を読むことで、現在の「ナショナリズム」の05年当時の立ち位置がわかってとても有意義であった。
60年代から90年代にかけて、マルクス主義やメディアといった審神者がアイロニーを通して打ち破られる事によって、「何も信じない」という価値観だけが残り、世界と唯一裏切らない実存としての「私」が直接向き合うことを余儀なくされるまでの過程が明らかにされている。この「セカイ系」的感覚がアイロニズムに強いられたものだという指摘は面白かった。60年代から80年台に至る否定の連鎖の結実として2ちゃんねるが存在するという指摘は、2ちゃんねるでしばしば語られてきた団塊の世代に対する怨嗟やバブル世代に対する侮蔑といった戦後日本人の「生き方」の否定についてその根源を指摘できていることからも著者の議論は私にとってはとても説得力を持つように感じられた。
翻って現在について考えてみると、ロマン主義的アイロニズムからより「ナイーブなロマン主義」に移行してきているように感じられる。
否定連鎖の結実として裸一貫でセカイと向き合うことになった私達であるが、結局自らが抱える実存的悩みを独りで受け止めるということも出来なかったのだと思う。そしてその逃避先として「私と分かり合える『仲間』」といった小規模なつながりのもとで日常を暮らし、分かり合えないものについては無視をし、排除をするという社会を構築しているように思われる。「SNS」の登場はその『仲間』のみがいる日常のつながりを加速させる装置として働いている。
一方で周辺諸国の国際的地位上昇に伴い、日本の比較優位が不安定になる中で『仲間』共同体としての日本が強調されるようになってきた。現在のともすればレイシズムや歴史修正主義すれすれのナショナリズムが寛容される下地は、『仲間』の論理を優先している現代日本の状況を表しているのではないか。
著者は本書にて「ぷちナショナリズム」についての評価をペンディングしているが2012年現在の「ぷちナショナリズム」はロマン主義から実体を持つものに変化する兆しを帯びており、嫌な雰囲気を匂わせているのである。 -
著者の北田氏は,岩波書店の雑誌『思想』に1998年に掲載された論文「広告の誕生」に衝撃を受けた。東京大学の社会学専攻はちょくちょく学術出版で活躍するような研究者を排出する。大抵が修士論文の一部をこの『思想』に発表し,評判が良ければ単行本になる。北田氏の場合も修士論文を元にした『広告の誕生』が岩波書店から2000年に発行された。副題に「近代メディア文化の歴史社会学」とあるように,メディア研究でありながら,歴史研究によって現代社会批判であろうとするところは,吉見俊哉や佐藤健二といった東大社会学の系譜に位置づけられる。単なる歴史研究ではなくより抽象的な議論を展開しているところも,小さな本でありながら非常に魅力的だった。しかし,その後2002年に創刊された廣済堂ライブラリーというシリーズの1冊として出版された『広告都市・東京』あたりでおかしくなってきてしまった。吉見俊哉の名著『都市のドラマトゥルギー』の続編たろうとする本書は,自らの広告研究を1980年代以降の東京論として展開するものだが,いかんせん1980年代自体がそうであったように,薄っぺらな都市記述となっている。そして,彼は他の東大出身社会学者の一部と同じ運命を辿ることになるのだろうか。多くの人が知っている宮台真司。彼もかつては理論派の社会学者だったのだ。しかし,いつの間にやらへらへらテレビに出て,ブルセラだの現代社会評論家のようになってしまった。北田氏もさまざまな雇われ仕事をこなすようになり,出版される本は対談集などが増えてくる。
それでも,実際は私は宮台氏の本も読んでいないし,テレビでの発言も聴いていないし,北田氏の対談集も読んでいない。こうして批判めいたことを書くのは単なるひがみなのだが,例えば,もう一人の東大出身の社会学者,大澤真幸氏がいるが,彼の場合は未だに理論研究を進めているが,やはり彼もオウム真理教の研究などがある。出版界で活躍する研究者ほど,歴史研究や理論研究がだんだん現代評論のようなものに移行してくるように思われる。もちろん,それはメディア産業の側が彼らに現代の迷える市民たちに生きる指針を与えてくれるような発言を求めるのかもしれない。私はそういうものを「読む気もしない」と拒絶する一方で,本当のところは彼らが何を語っているのか知りたくもある。ということで,前置きが長くなったが,本書を実際に読んでみたわけである。
実は私は何度か書店で本書を手に取ってパラパラめくったことがある。冒頭は『電車男』の話から2ちゃんねるに展開している。北田氏もやはり歴史研究を捨てて現代社会論か,と呆れる一方で,私が知ろうともしない世界に彼は乗り込んで,何を理解して戻ってくるのか,こないのか,やはり興味は引かれる。しかし,実際は現代社会論だけではなく,一応形式的には歴史社会学としても位置づけられる本で,1970年代から1990年代までを分析して,その先の2ちゃんねる的現代を理解するという内容であった。目次を簡単に示しておこう。
序章 『電車男』と憂国の徒――「2ちゃんねる化する社会」「クボヅカ化する日常」
第1章 ゾンビたちの連合赤軍――総括と「60年代的なるもの」
第2章 コピーライターの思想とメタ広告――消費社会のアイロニズム
第3章 パロディの終焉と純粋テレビ――消費社会的シニシズム
第4章 ポスト80年代のゾンビたち
終章 スノッブの帝国――総括と補遺
「あとがき」で謙虚に断り書きを入れているのが救いではあるが,全般的に本書は1960年代の雰囲気を引きずった1970年代の出来事から,1980年代的なものを論じ,その流れで1990年代を分析し,現代に対処しようとする。
それでも,前半はさすがの爽快な語り口で展開していく。しかし,第1章に入ると,私が馴染みのない歴史的事実が続くせいか,どうにも読みにくくなってくる。最近何本か映画化されたあさま山荘ものを1本でも観ていればちょっと分かりやすかったかもしれない。しかも,この1970年代の出来事は,1960年代的なものの延長のなかで位置づけられているために私にはよけい分かりにくい。そして,その後はやたらと時代精神的なものが強調されるため,面白くなくなっていく。
確かに,1980年代を経て,変容していくテレビの話は,著者が私の1歳下であるためか,ちょうどその頃テレビ漬けだった私には説得的だった。しかし,それですらテレビの一側面をうまく捉えているだけで,それを時代の共通性に結びつけたり,テレビの多様性を無視するのも強引だと思う。そして,その変容を通じてテレビ批判が内在化していくという変化を,ナンシー関を中心に論じ,その傾向が2ちゃんねる的なものへと引き継がれていくという論理展開は面白い。私は実際,テレビの内側にいてテレビを受容しながら批判していくようなナンシー関や現在の2ちゃんねらーたちと違って,私は1990年以降,ほとんどテレビは見ていない。だから,この議論は私がテレビを見なくなった理由をうまく説明しているともいえる。
それにしても,この「○○年代的なるもの」というのはいったいなんなのか?一応,本書は表立って主張はしていないが,言説分析の一種だ。言説作用として,多くの者の思考が同じ方向を向くという不自然な権力のことを,この時代精神的な概念によって示そうとしているのか。その辺は判然としない。
そして,同時に本書の言葉そのものが2ちゃんねる化しているともいえる。本書で参照されるのは,先ほど書いた東大系の人ばかりだ。宮台真司,大澤真幸,東 浩紀,そして世代は少し上だが,北田氏とともに広告研究を進める難波功士,小熊英二,上野千鶴子など。まあ,多様な研究者を一緒くたにするのはよくないが,あまり売れない学術出版物ではなく,多少は売れる学術的出版物の読者たちの間で流通しやすい意味がいっぱい込められている本といえるのかもしれない。 -
大学4年の時に読んだ本。「2ch化する社会」「皮肉と感動の共同体」としての日本社会論。60年代安保闘争以降のアイロニカルな感性の変容。ここ最近の嫌韓流やら炎上マーケティングやら思うところあって再読してみる。
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「嗤う」というかすれた笑いは最近非常に強く感じる。赤軍連合の話、純粋テレビの話… 面白い内容ばかりである。ただ全てを理解できた訳ではない。
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http://booklog.jp/users/awalibrary/archives/4140910240
── 北田 暁大《嗤う日本の「ナショナリズム」200502‥ 日本放送出版協会》
北田 暁大 評論 19711228 神奈川 /東京大学大学院情報学環准教授/理論社会学
パブロフの犬たち ~ 脳内ナショナリズム ~
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20110610
おらが世 ~ 日の丸に心はためく人々 ~
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現在の日本に「表層上」観て取れる「ナショナリズム」や「右傾化」が言わば換骨奪胎されたものであるということを、日本の社会における「反省」の歴史に焦点をあてて論じた1冊。00年代の「セカイ系」的な物語へも接続可能である分析で、現在日本の状況を読み解く上で、そしてその状況のルーツを知る上でとても示唆に富んでいた。
著者とはほぼ同年代なので、(連合赤軍については事後的な知識でしかないのだが)本書で論じられている社会状況の分析と論の組み立てについては共感できた。
本書が描き出す、現在の日本における「この私」という実存の目的として設定される対象が最早大文字の思想的背景を有していないという(ポストモダン的)状況は、連合赤軍のあさま山山荘事件における反省と「総括」、続く「自己否定」という反省の形式、続く70年代的「反省としての無反省」を糸井重里的ななるものに見出し、消費社会が加速する80年代を「なんとなく、クリスタル」の田中康夫に、ポスト80年代をナンシー関に、そしてそれに接続する2ちゃんねる的なるものという題材を時系列的に追っていくことで説得力を持ち、かつ鮮明に立ち現れている。難を言えば本書の核となる概念である「アイロニー」「アイロニズム」と、その後に続く「シニシズム」、「スノビズム」の概念がやや掴み難い感があったが、総じて論は明快で分かり易い。
著者も認めるように、たかだか250ページ程度の本でこの広大な裾野をもつ問題系を描ききれるはずもないのだが、現在がいわゆる過去の延長線上にあること、そして未来は必ずしもこれまでのように過去の反省という延長線上には無い、ということがこの本で確認できるのではないか。従ってこれからを生きるのに有効な処方箋を描くのは、誰にとってもものすごく難しいということがよく分かった次第。