嗤う日本の「ナショナリズム」 (NHKブックス)

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  • Amazon.co.jp ・本 (269ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784140910245

作品紹介・あらすじ

若者たちはなぜ右傾化するのか。皮肉屋の彼らはなぜ純愛にハマるのか。70年代初頭にまで遡り、アイロニカルな感性の変容の過程を追いながら、奇妙な「ナショナリズム」の正体をさぐる。あさま山荘事件から、窪塚洋介、2ちゃんねるまで。多様な現象・言説の分析を通し、「皮肉な共同体」とベタな愛国心が結託する機制を鋭く読み解く。気鋭の論客、渾身の書き下ろし。

感想・レビュー・書評

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  • 良く分からないところ多数。
    赤軍 自己批判・自己欺瞞・自己否定
    ずいぶん懐かしい言葉だと感じた。
    学生運動 原動力は何だったのだろう?

  • 《ギデンズは、あらゆる日常的行為において、行為を可能たらしめる慣習・規約の修正、モニタリングが行われているということを認めつつ、そうした慣習・規約への再帰的態度が構造的に行われるようになったのは、近代以降であると論じている。慣習・規約が「変わりうる/変えるべき」ものである、という認識を前提として、個人(もしくは制度)が行為を調整するような態度を一般化した時代、それが近代ということだ。もちろん、近代以前にも「行為の再帰的モニタリング」(反省)は存在していた。つまり、人びとは、過去の行為がもたらした帰結に関する知識を参照しつつ、自らの行為を調整していた。しかし伝統的文化においては、「伝統」というメディアが、再帰的モニタリングを既存の秩序空間のなかに包摂する役割をはたしていたと考えられる(既存の秩序を崩しかねない行為[の結果]や経験は、たとえば、「神の思し召し」「神が下した罰」といった具合に、包括的な世界観によって説明されることになる)。それに対して、「宗教」「共同体」のようなコスモロジーの供給源が失効する近代にあっては、行為の再帰的モニタリングそのものが社会を駆動させる構成的な契機となっていく。》(p.35)

    《女性解放を目指した二人【永田洋子/田中美津】の「同志」は、自己否定の極限化/自己否定の拒絶というまったく異なった道筋をたどり、七〇年代初頭を迎えることになったのだ。》(p.63)

    《世界の構造(「平均的評価水準」)を変えることによって自己の価値を貫徹するのではなく、世界における自己の位置をズラすことによって差異化を実現する、それがアイロニーである。アイロニストはベタな価値意識が持つ暴力性を回避し、蛸壷的な共同体の乱立を肯定する。それは、「内ゲバ」の対極をいく、「六〇年代的なるもの」——自己の位置と「思想」との距離を最小化し、世界の構造の「変革」を目指す——に対するリアクションでもあった。消費社会的アイロニズムは、——少なくとも七〇年代においては——、「六〇年代的なるもの」と対峙しつつ、「左翼的」感覚を延命させるための方法論だったのである。》(p.115)

    《さしあたってここで確認しておきたいのは、連赤的な反省主義と縁遠そうにみえる消費社会的シニシズムにおいても、ある種の形式主義的な行為原理が重要な役割をはたしているということだ。形式主義は、究極の反省=総括、無反省(という反省)の両極において姿を現すのである。》(p.167)

    《『なんクリ』の主人公の述懐「主体性がないわけではない。別にどちらでもよいのでもない。選ぶ方は最初から決まっていた。/ただ、肩ひじ張って選ぶことをしたくないだけだった」とは、「最後の人間」による宣言であると同時に、主体性という言葉に反感を持つことができる程度には主体的だった人間による予言であったといえるかもしれない。》(p.169)

    《二〇〇三年に沖田平和記念公園の折り鶴放火事件のあとに、2ちゃんねるを発信源として立ちあげられた一四万羽プロジェクトの合言葉は「政治的信条抜きに」「グダグダいわずに、とりあえず、折れ」であった。ナチズムとシニシズムの共犯性を剔出したペーター・スローターダイクが指摘するように、アイロニズムが極点まで純化されアイロニズム自身を摩滅させるとき、対極にあったはずのナイーブなまでのロマン主義が回帰する。賭金は、反左派的な本音などではなく——左派/右派の彼岸にある(とかれらが考える)——ロマン的対象なのである。》(p.210-211)

    《思想・世界と自己の立ち位置との突き合わせを過剰に要請する純化された反省=総括から、反省を目的化する態度への抵抗として立ちあげられた「抵抗としての無反省」(消費社会的アイロニズム)、そして総括的なものへの距離意識を欠落させた「無反省」(消費社会的シニシズム)、「無反省」のシニシズムを継承しつつ「人間的であること=反省的であること」を希求するシニカルな実存主義(ロマン主義的シニシズム)へ。私たちがたどってきた反省史はおおよそこのようにまとめることができるだろう。》(p.236)

  • 反省・あえての無反省・アイロニーなどなど
    縦横無尽な分析はきもちよい。

  • 殺伐としたコミュニケーションが展開される「2ちゃんねる」の書き込みは、一見したところ、あらゆる対象から距離をとる「メタ」の立場から語られているように思えます。しかし、その「2ちゃんねる」から『電車男』という「ベタ」そのものの感動物語が生まれたという逆説を、どのように理解すればよいのでしょうか。こうした、皮肉でありながら感動を志向するという対照的な態度の共存は、若者の間に広がる「この私」と「世界」との直結という現象にも見られると著者は述べます。本書は、連合赤軍事件以後の「反省」のあり方の変容をたどることで、こうした問題に答えようとする試みです。

    連合赤軍事件の内部で進行したのは、「総括」と呼ばれる自己否定の無限のプロセスでした。その後、自己否定という反省の形式から距離を置く「抵抗としての無反省」の時代だがやってきます。著者はその象徴的な存在を、コピー・ライターの糸井重里に見ています。彼が生み出した数々のコピーは、単に商品を代理・再現する役目を離れ、それ自体が商品の価値を構築するものとなっていきました。糸井は、消費社会的な資本主義を与件として受け止めながら、世界を記号の集積体として相対化するアイロニズムの戦略を彼が取っていたと著者は論じています。

    ところが80年代になると、こうした「抵抗としての無反省」から「抵抗としての」が脱落してしまうことになります。「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」では、テレビ的な「お約束」を顕在化させてテレビそのもののパロディを作り出す手法が使われました。これは、「お約束」を「お約束」として相対化できるリテラシーをもった視聴者の存在が前提となってはじめて成立する番組だと言えます。ここに至っては、アイロニカルなポジションに立つことは、もはや距離を置くべき相手に対する「抵抗」の意味を失っており、テレビ視聴というきわめて日常的な課題をこなすための前提になっていると言わなければなりません。

    現代において「メタ」と「ベタ」が直結する土壌は、この頃に作られたと著者は言い、こうしたテレビのあり方に抵抗したナンシー関の試みを高く評価しつつも、テレビと馴れ合いつつテレビに冷笑を向ける感性が80年代を通じて育まれていったと論じています。「2ちゃんねる」という空間を支配しているのは、こうした感性に基づく内輪的なコミュニケーションを、ひたすら再生産してゆくための「文法」としてのアイロニズムではないかと著者の主張しています。

  • この本も同じ、2ch的な極私的文脈とアホみたいなニッポンコールがどうして結びつくかというのを解こうとして、ちょっと社会学的な衒学の調味料を使って、何とか学問的に見せているというセコい内容。

  • 書名:『嗤う日本の「ナショナリズム」』(NHKブックス 2005)
    著者:北田暁大(きただ・あきひろ) 理論社会学、メディア史。


    【メモ】
     以前読んだ『文化の社会学』(有斐閣アルマ)で言及されていたので目を通した。感想は特になし。

    【版元の内容説明】
    若者たちはなぜ右傾化するのか。皮肉屋の彼らはなぜ純愛にハマるのか。70年代初頭にまで遡り、アイロニカルな感性の変容の過程を追いながら、奇妙な「ナショナリズム」の正体をさぐる。あさま山荘事件から、窪塚洋介、2ちゃんねるまで。多様な現象・言説の分析を通し、「皮肉な共同体」とベタな愛国心が結託する機制を鋭く読み解く。気鋭の論客、渾身の書き下ろし。


    【目次】
    目次 [003-006]

    序章 『電車男』と憂国の徒――「2ちゃんねる化する社会」「クボヅカ化する日常」 009
    アイロニーのコミュニケーション空間 
    感動と皮肉の共同体 
    『GO』から『凶気の桜』へ 
    二つのアンチノミー 
    本書の課題 

    第一章 ゾンビたちの連合赤軍――総括と「六〇年代的なるもの」 027
    1.1 「総括」とは何だったのか 027
      集団リンチと敗北死
      暴走する反省システム
    1.2 方法としての反省 035
      反省と近代
      自己否定の論理
      立ち位置をめぐる左翼のジレンマ
      高橋和巳の自己否定論
    1.3 反省の極限へ――ゾンビとしての兵士たち 046
      「自己批判」と「総括」のあいだ
      自己否定の極限にゾンビが生まれる
      共産主義化とは何か①――「自己否定」の思想化
      人は形式主義に従属する
      共産主義化とは何か②――死とゾンビ的身体
    1.4 「六〇年代的なるもの」の終焉 060
      自己否定の「脱構築」としてのウーマン・リブ
      女性解放運動の二つの道

    第二章 コピーライターの思想とメタ広告――消費社会的アイロニズム 065
    2.1 抵抗としての無反省――糸井重里の立ち位置 065
      「総括」のあとに
      糸井重里の屈曲
      「ウンドー力」と「コピーライター」のあいだで
      「言葉の自律性」と「パロディ」
    2.2 「メディア論」の萌芽――伝達様式への拘泥 079
      赤軍と『あしたのジョー』
      マンガ論争と「左翼」的感性
      メディア論とマス・コミュニケーション論の代理戦争
      ピンク・レディーをめぐって
      記号論的感性――津村と糸井の共通認識
    2.3 消費社会的アイロニズムの展開――メタ広告の隆盛 097
      「ヘンタイよいこ新聞」の言語空間
      アイロニカルな共同体の誕生
      西武‐PARCOの戦略
      メタ広告の背景
      アイロニーの倫理と資本主義の精神
      多元主義の左翼的肯定――アイロニズムの定義
    2.4 新人類化とオタク化――消費社会的アイロニズムの転態 116
      パロディとしての類型化
      さらなる共同体主義

    第三章 パロディの終焉と純粋テレビ――消費社会的シニシズム 123
    3.1 抵抗としての無反省――田中康夫のパフォーマンス 123
      糸井重里と田中康夫の差
      津村喬の『なんクリ』評価
      NOTESはどのように捉えられたか
      NOTESの戦略
      抵抗の対象そのものをやりすごす
      『なんクリ』のポジション
    3.2 無反省という反省――川崎徹と八〇年代 143
      アイロニズムからシニシズムへ
      ユーモアから(ア)イロニーへ
      『ビックリハウス』終焉の意味
      『元気が出るテレビ』のメディア史的意義
      純粋テレビに外部は存在しない
      つねにアイロニカルであれ!
    3.3 消費社会のゾンビたち――「抵抗としての無反省」からの離床 163
      ベタの回帰としての『サラダ記念日』
      アメリカ的「動物」と日本的「スノップ」
      二種類のゾンビの違い
      島田晴彦の逡巡

    第四章 ポスト八〇年代のゾンビたち――ロマン主義的シニシズム 173
    4.1 シニシズムの変容とナンシー関 173
      ナンシーのためらい
      純粋テレビの弛緩
      感動の全体主義
      受け手=視聴者共同体への批判
      純粋テレビ批判という困難に挑む
      八〇年代とポスト八〇年代のあいだで
      反時代的思想家としてのナンシー
    4.2 繋がりの社会性――2ちゃんねるにみるシニシズムとロマン主義 192
      ギョーカイ批判と戦後民主主義批判が結びつく
      純粋テレビと2ちゃんねるの共通性
      「巨大な内輪空間」の誕生
      テレビと馴れ合いつつ、テレビを嗤う感性
      内輪指向とアイロニズムの幸福な結婚
      コミュニケーションの構造変容
      アイロニズムの極北でロマン主義が登場する
      小林よしのりの軌跡――市民主義批判
      形式主義者たちのロマン主義
    4.3 シニシストの実存主義 216
      「思想なき思想」の再現前
      レフェリーなきアイロニー・ゲーム
      世界の中心で「自分萌え」を叫ぶ
      人間になりたいゾンビたち
      ナンシーのアンビバレッジ

    終章 スノッブの帝国――総括と補遺  192
     議論の「総括」 
     スノップの帝国・日本? 
     純化するスノビズム 
     「あえて」の倫理 
     ローティ的アイロニズムの背景にあるもの 
     共同幻想への信頼を調達せよ 

    注釈 [251-264]
    あとがき(二〇〇四年 一二月二八日 三三歳の誕生日に 北田暁大) [265-269]

  •  反省(内省)をキーワードに戦後日本史を振り返る。

     連合赤軍、糸井重里や田中康夫、80年代テレビ、ナンシー関、2ちゃんねると時代を追いながら私達がいかに前時代を茶化して変化してきたか(?)を考えさせる。
     80年代、90年代を生きてきた者にとっては、難解ながらも何となくあーそうだったのかと腑に落ちたような感じを何度も感じることができた。特に、ナンシー関についてその時代的、思想的な位置づけをされていたのがとても感動した。

  • 60年代生まれの私にピッタリの本である。
    浅間山荘事件のテレビ生中継に釘付けになり、オールナイトニッポンを聴きながら大人の仲間入りをした気になって、「おれたちひょうきん族」、「元気が出るテレビ」を観て、テレビってここまでやって良いの?と目から鱗が落ちた。PARCOのコピーに踊らされて消費社会のお手伝いをして、2ちゃんねるを覗いて多様な意見があることを学んだ。

    流行ものに手を出すのが好きなので、その流行を作り出す人たちにまんまと踊らされてきた訳だ。負け惜しみではなく、別に悔しい訳ではない。むしろ楽しかった。自分が過ごしてきた時代を総括してくれる本に出会ってスッキリした気がする。

    消費社会、メディアを通じてアイロニカルなモノの見方をするのは、我々の世代にとって必然であった。さらに景気や政治情勢などによって、本当の世代というものは形成されるであろうが、サブカルの視点からの社会学的分析は非常に面白かった。

  •  イラク人質事件の頃、「あれって、自作自演なんでしょ?」という声を、現実の耳で聞いて驚いたことがあった。会社の隣の島で、女性が得意げに話していた。ネット上ではそういう現実の「ネタ化」が日常茶飯事だったし、そういう料理の仕方にも慣れ親しんでいたのだが、私にはあまりにも「下品」に思えたので、現実に耳で聞いたときは思わず振り返ってしまった。とうとう現実に2ちゃんねるが侵入してきたのか、と感じた瞬間だった。
     
    「嗤う」という態度ですべてを斬る「2ちゃんねる」。ところが、ベタな恋愛モノである『電車男』にはまってしまうのも2ちゃんねるの住人だ。この、奇妙なシニズムとロマン主義の精神構造はいかにしてできたのか? 著者は「反省」というキーワードを軸に、71年の「あさま山荘事件」から、現代までつらなる変化を描き出している。
     著者が導入した「反省」というキーワードは、かなり成功しているように見える。また、「シニズムの変容」の例として解説されている、ナンシー関(この人の視線と文体が、若者世代に与えた影響は大きいと思う)についての論考もおもしろかった。

    「2ちゃんねる」化する現実に、どう対処していくか。2ちゃんねるは嫌いじゃないけど、あまりにもあっけらかんと「嗤うナショナリズム」になじむことはできない。そんな今の自分の心境を整理するためにも、現状分析としてこの本は興味深く読めた。私は著者とかなり年齢が近いので、そういう意味で共感することも多いのかもしれない。若者にとまどいつつ、上の世代とはなじめない、30代の読者にぜひおすすめ。

  • 講義のため読了。

    この人の本の書き方、

    "意味不明な横文字文章"ーすなわち、"わかりやすい文章"、がなかったら読めなかった。確実に辞めていた。初めて耳にする横文字だらけで、社会学なら普段から触れているのだろうけど、経済学の言葉はわかりやすいとどうでもいい感想。

    同時に、事例研究なので「そんなん取り上げるもの次第やんけ」とは思ったけど、あとがきでそこに触れていたので、まぁキリがないのは事実やけど。100個事例あげたら真実味があるけど99個やとないな、というわけではないからな。

    「事件」は一つで十分だと思う。連合赤軍みたいな。そこに至るまでの過程がたくさんあるし、その分事件という形で表れてきたものを検証する意味は大きいと思うが、人間を対象とする場合、ちょっと難しいような。際立った思想、みたいなことはちょこちょこ放出していくわけで、どうしてもグラつく日もあるやろ


    まぁ、ちょっとレポート書くつもりやけど、もう少し時間的に余裕があるので別の本も読んで書いていこうと思う。

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著者プロフィール

東京大学教授

「2022年 『実況中継・社会学』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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