日本という方法 おもかげ・うつろいの文化 (NHKブックス)

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  • Amazon.co.jp ・本 (318ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784140910672

作品紹介・あらすじ

アワセとキソイで「日本的編集方法」を探る。あまたある「日本論」「日本人論」のなかでも日本を「方法の国」として考えるという、大胆な試みはされてきただろうか。何らかの情報を得て受けとめる方法のすべてを「編集」であると見て史書の編纂から日記、短歌、連歌などにとどまらず政治・経済のシステムや、書くこと話すこと、生きることそのものまでを編集行為として捉え、長年考察し続けてきた成果をもとに日本を日本ならしめている「日本的編集方法」を探っていく。ことさらに「主題」を求めようとするのではなく歴史に蓄積された「日本という方法」を発見していく注目の書。

感想・レビュー・書評

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  • 著者の提唱する「編集工学」の観点から、日本の精神史・文化史を見なおす試みです。

    日本の歴史には、強いナショナル・アイデンティティを確立するためのよりどころとなるような特定の「主題」などは存在せず、また数人の思想家や芸術家によって日本を代表するイデオロギーが確立されたこともないと著者はいいます。そうしたいささかとらえどころのない日本の精神史を論じるにあたって、本書では「日本」を「方法」として見なおすという立場がとられています。

    日本は、中国や西洋の文化を取り入れるさいに、日本に固有の文化と外来の文化とを対質させるのではなく、両者を共存させる方法を採ってきました。こうした指摘は丸山真男や加藤周一がそれぞれの観点からおこなっていますが、「外来コードを輸入して、内生モードを作る」という「編集方法」に著者は注目します。本書では、こうした編集方法として、「カサネ」「キソイ」「ソロエ」「アワセ」などがとりあげられ、考察されています。

    さらに著者は、「おもかげ」と「うつろい」ということばを重視しています。特定の「主題」を中心に置くことなく、多様なテーマを多様なしかたで移行し、反映し、編集する「方法」によって特徴づけられる日本精神史の性格を、これらのことばが示していると著者は考えています。

    著者の用いる「編集」という概念がきわめて包括的な意味をもっているため、正直なところ著者が日本精神史をどのように規定しているのかわかりにくいようにも感じられます。しかし、著者がそもそも日本の精神史を一定の「主題」によって規定すること自体を拒んでいることをわすれてはならないでしょう。本書がめざすのは、むしろさまざまな観点から日本精神史を見なおす「切り口」を提示することで、あらたな「編集」へと読者を挑発することだといえるように思います。

  • P:*318 抜き書き+感想:6236字 付箋数:17
    (対ページ付箋割合:5.35%、付箋毎文字数:367、抜書量加点+1)★★★★

    ※付随して読みたい本
    江戸の市場経済 岡崎哲二
    近代日本の日蓮主義運動 大谷栄一
    化城の昭和史

    ・日本はたしかに一途なところはあるのですが、それとともにたいそう多様な歴史を歩んできました。日本は「一途で多様な国」です。
    信仰や宗教の面からみても、多神で多仏です。『源氏』と信長の横着と芭蕉のサビが同居しているのです。考えてみれば、日本には天皇制や王朝文化がずっと主流になっていたことなど、ないのです。天皇と将軍がいて、関白と執権がいて、仏教と神道と儒教と民間信仰が共存してきた。
    >>/> 権力は確かにずっとWスタンダードのまま。

    ・東アジアの風土は大きくは北のナラ林帯と南の照葉樹林帯で構成される。ハルビンと瀋陽を結ぶ満州のあたりでその境目が分かれ、日本もこれに応じ東北がナラ林帯、西南が照葉樹林帯になっている。
    ナラ林帯は、旧満州、沿海州、アムール川下流域、朝鮮半島の大半を経て日本の東北部につながいます。植物学的な用語ではモンゴリナラ帯といいます。この帯域には内陸型と沿海型があって、内陸型ではクマ・シカ・トナカイなどの狩猟と若干の採集生活が展開し、前開きの皮衣、ガンジキの使用、クマ祭りなどが目立ちます。沿海型はアザラシ・イルカ・サメ・サケ・マスなどの漁労を中心に、竪穴式住居で定住し、多くは聖なる魚の信仰のようなものをもっていたと想定できます。いずれもイヌを飼育していた。
    照葉樹林帯のほうは、中国南部から東南アジア北部に広がっていて、生活活動が成熟した時期には、その大半が焼畑農耕をしています。食料にはアワ・ヒエ・ソバ・オカボなどの雑穀、モチ・チマキ・オコワなどの粘性のある穀物、サトイモ・ナガイモなどのイモ類を栽培して、さらにワラビ・クズ・カシの実などは水に晒してアク抜きをしています。味噌・納豆などの大豆発酵にも長けてもいた。日本各地のモチ正月やイモ正月の分かはこのような大陸の特徴といろいろつながっていたのです。
    >>/> 季節風土も、多様なんだな。アイヌとか熊祭りは日本全体に固有な訳ではないのか。

    ・日本人にはお茶を飲む習慣があること、家のなかでは履物を脱ぐこと、ご飯茶碗は夫婦のあいだでも個人用になっていて吸い物のお椀は共用すること、主語を省いて話すことが多いこと、擬音や擬態語がきわめて多いこと、話していて非定型はセンテンスの最後にもってくること、能楽や邦楽の間拍子に表と裏の間があること。
    >>/> 茶碗と汁椀!コーヒーカップも愛用があるなあ。何故だろう。wikiで調べると、属人器と言うようですね。

    ・「おもかげ」という言葉をよく見ると、そこには「かげ」(影)という言葉がくっついていることに気がつきます。つまり「影」とは何かの具体的なシャドウなのではなくて、本体にくっついている影なのです。プロフィールそのもの、映像そのものなのです。同じく木陰や人影の「かげ」も、木や人そのものの本体であって、つまりプロフィールです。
    のみならず、影はしばしば光を意味してさえいました。用例を見るとすぐに見当がつくと思いますが、『万葉集』の「渡る日のかげにきほひて尋ねなてな清きその道またも遇はむため」の「かげ」は光のことです。日・月・星・火の光。これは「かげ」が「かがみ」(鏡)や「かがやく」(輝)と同根の言葉だったことからも察せられることでした。
    >>/> 光もかげ!つまり影響、風?

    ・ホメロスは六脚韻という編集技法を駆使することによって、その物語や神話が語り部に記憶されやすく工夫し、それこそがやがてギリシア・アルファベットによるギリシア語を生んだのです。
    つまり、ギリシア語があってホメロスが叙事詩を書いたのではなく、ホメロスらの語り部たちがいてギリシア語が生まれていった。そのあとさきが重要なのです。ウェルギリウスがいて古代ローマ語が生まれ、ダンテがいてイタリア語が生まれたというべきだということです。古代ローマ語があったからウェルギリウスが物語を書けたではなく、イタリア語が確立したからダンテが出現したのでは“ない”のです。
    >>/> そうすると。日本人は日本語で育って、日本語で思考するけれど、その日本語の使われ方の文化の方が根本にあるということか。

    ・和漢朗詠集。部立は上帖を春夏秋冬の順にして、それをさらに細かく、たとえば冬ならば「初冬・冬夜・歳暮・炉火・霜・雪・氷付春氷・霰・仏名」と並べています。すなわち時の「うつろい」を追ったのです。これに対して下帖は、もっと自由に組み、「風・雲・松・猿・故京・眺望・祝…」といった四十八の主題を並べた。最後はよくよく考えてのことでしょうが、「無常」「白」というふうにすべてが真っ白になってしまうように終えています。
    これをアクロバティックにも、漢詩と和歌の両方を交ぜながら自由に組み合わせたのです。たとえば「無常」では、次のように漢詩と和歌が記されています。

    身を観ずれば岸の額に根を離れたる草
    命を論ずれば江の頭に繋がざる船 (巌維)

    世の中をなににたとへむ朝ぼらけ こぎゆく舟のあとの白浪 (満誓)

    巌維の漢詩は、「根を離れたる草」と「岸を離れる舟」の絵画的な比較をもって、生死の哀切におよんでいます。ところが満誓の和歌は、そんな劇的な対比はしていない。ただただ「こぎゆく舟のあとの白浪」に、生死の無常を託しているのです。
    >>/> うーん、凝ってる。身=草、命=舟に対して白浪は、意識を追っているようだ。深い。こんな古い時代の歌なのに。

    ・神は在るもの、仏は成るもの。神は来るもの、仏は往くもの。神は立つもの、仏は座るもの。
    >>/> 引用の引用です。

    ・悪党には、楠木正成のようなめざましい地域リーダーがたくさんいました。気概と武力をもってのちに後醍醐天皇の南朝を支援します。なおここで「悪」といっているのは、「ふつうのことばではいいあらわせないような」「これまでの型にはまらないような」という意味です。親鸞の悪人正機説にいう「悪人」もそういう意味でした。
    >>/> 他力本願を良しとする仏教とはこの悪人像ははまらない気がするが、、この時代であればどうか。

    ・連歌(順番に百首まで)には韻の縛りが無い代わりに賦物(フシモノ)の約束があった。名所を必ず入れる、頭に「い・ろ・は・に」を埋め込む、鳥と魚の名前を歌に埋め込む、など。
    ふりかえってみれば、連歌は季節・色合・歌枕・名物・本歌などをつかって、いま連衆たちが詠みあげていく言葉にさまざまな「見立て」を投じていく編集技法でできあがっていあのでした。そこには類似・比喩・対照を用い、対立・付属・共振を揺らし、引用・強調・重用を散らせて、つねに連想を鍛えに鍛えぬくという下地ができています。それを茶の湯は引用していったのです。
    茶の湯も主客が心をつなげて「取り合わせ」をたのしみます。その日の季節や時間にあわせて趣向を用意する。床に掛物を掛け、その日の趣向を暗示する花を活けておく。一輪かもしれないし、花のない草かもしれません。釜も選びます。茶入れや茶杓にも賦物の行こうが忍ばせてある。やがて亭主があらわれて茶を点て、用意の茶碗を客に差し出すと、そこに一番の「好み」があらわれ、その茶席の数寄の感覚がどのような賦物で見立ててあったのかが、忽然と見えてくるのです。
    >>/> 凄いな、連歌。その歴史が積まれていて、数寄と趣向を茶の湯に凝らしたなら、省いたものを詫びた中に一番の好みを工夫する事も、できるのか。

    ・徳川体制とは東アジアの中国中心の華夷秩序から自立するための体制だったということです。わかりやすくえいば徳川社会は日本が日本として自立する可能性に賭けた。これは白村江の敗戦で「倭国」が「日本」にやむなく自立したことにくらべると、すこぶる自覚的なものだったと思います。
    …徳川幕府が考えた「中国モデル→天皇→徳川幕府」の方程式とは、中華秩序にあやかって日本の位置を確定し、徳川幕府がその正当な嫡子であることを立証しようというものでした。林家の儒学はその理屈を要するためのものでした。しかし実際には、この幕府御用の「中国をモデルとした正当性」をめぐるプランはうまく作りきれなかったのです。なぜできなかったのか。直接の原因は“本場”であったはずの中国で明朝の崩壊と、漢民族では無い清朝(最初は金)の台頭がおこったことにありました。しかもその時期が徳川幕藩体制の確立の時期とぴったり重なっていたのです。
    …焦ったのは幕府だけではありません。水戸藩の徳川光圀らも憂慮した。水戸黄門です。明の崩壊は、さまざまな意味あいで日本人に「日本史」というものをどのように組み立てるかをはじめて突きつけたのです。
    >>/> この流れ。運が良いのか悪いのか。明治は欧に、昭和は米に。合理的な方法を探しているんだろうけれど、もう理念や宗教で無く、ただ方法で良いのだから、自ら考えるべきだろうな。

    ・天保の改革は株仲間のしくみに文句をつけた。天保の大飢饉によって物価上昇が社会不安を拡大させていた時期、徳川斉昭や水野忠邦は物価騰貴の原因が十組問屋などの株仲間の価格コントロールにあるのではないかと見たのです。それでどういうことになったかというと、天保の改革はまったく逆のほうへ進んでしまう。天保12年、株仲間禁止令が施行されてしまったのです。規制緩和が断行されたのです。たとえば菱垣廻船などの積荷はこれまで株仲間がその取引を仕切っていたのですが、これ以降は一般人が自由に売買してよろしいという触書でした。翌年には全国の株仲間にこれが適用された。しかし、この方針は物価騰貴を解決しなかったばかりか、いたずらに流通機構の混乱を増大させます。規制緩和や民間主義は正しいと思いこみすぎていたのです。
    …この10年のあいだに徳川経済は混乱し、こういうときにかぎってちょうど重なってきた黒船騒ぎの外圧によって、社会全体が幕末に向かって軋んでいくことになってしまいます。経済政策というものはまかりまちがうと怖いもの、たいていは現場の声を無視するところからおこるのでしょうが、社会の危機はその声とは別の様相を呈することが多いのです。規制緩和が事態を好転させるともかぎらない。とくに問題は取締りを受けたほうの声が無視されることにあります。
    >>/> 株仲間は特権階級に見えるだろう、それは。自民党の官僚と社団法人と同じに。であれば、どうすればその仕組みを透明にできるのか。

    ・陽明学と徳川社会との関係をあらわす例に、たとえばこういう問題があります。儒学では古来より次のような難問をかかえてきました。それは「父子天合」に対して「君子義合」という考え方があるのですが、これをどう解釈するかという問題です。
    「父子天合」とは、もし父親が間違った行為をしたら、子たるものは、「三タビ諌メテ聞カザレバ、スナワチ号泣シテ之ニ隋ウベシ」という教えです。
    一方の「君子義合」は誤った君に対しての臣は、「三タビ諌メテ聞カザレバ、スナワチ之ヲ逃ル」ということでもよいという教えです。
    しかし徳川社会においては家族関係を示す「父子天合」はともかくも、主従関係をあらわす「君子義合」が大問題です。家臣が三度諌めて殿様がその言うことを聞かなかったら、家臣はその城や家を離れていいというのでは、幕府が嫌ったお家騒動はいくらでも正当化されてしまいます。
    こうして「義」とはどいういうものか、いろいろ議論が分かれます。徳川社会では「武家諸法度」がその代表ですが、「義」には父祖に対する「孝」と主君に対する「忠」があって、そのいずれの「義」をも管理しようとしていたのです。そのため、元禄期の赤穂浪士の仇討を「義」と見るかどうか、大いに意見が交わされました。
    これが忠臣蔵問題、すなわち日本独特の「忠臣とは何か」という問題です。西鶴や近松もそこを問い、西鶴は「義理」を、近松は「人情」を新たに想定して、その深みを文芸思想によってあらわそうとしました。
    >>/> うーん、中華思想というと君子天合のイメージ。任侠ではそれでも義理が重いと言ったようだけど、でも義兄弟の契りを結ぶんだよなあ。

    ・なぜキリスト者の内村が陽明学に関心をもったのでしょうか。似たような話があります。キリスト教と陽明学を比較した幕末の志士がいたのです。才気煥発の高杉晋作です。高杉は当時の聞きかじりの知識ではあるものの、それでも幕末や上海のキリシタンの動向や心情を見てキリスト教の本質を嗅ごうとしていました。なぜバテレンやキリシタンたちが強い決意をもっているか、その理由を知りたかったのです。それが長崎で『聖書』を読んでパッとひらめいた。「なんだ、これは陽明学ではないか」。(陽明がつねに唱えていたことは「知行合一」と「抜本塞減」。知ることと行動は一緒で枝葉末節にこだわらずに由ってきたる根本を抜いて、その源を塞ぐことによって知行を一致させた行動を起こせ、それに尽きるということ。仕事をしながら鍛えるという方法は「事上練磨」と呼ばれ、陽明自身は「立志して、事上練磨する」ということを薦めました。)
    >>/> まあ、聖書では道徳は神にあり、法と行動規範が人に与えられている。行動で語る事、か。ふふふ、つまり起業論も自己啓発も、陽明学なのだ。

    ・さきほど私は、日本には「制度法」がないということを言いました。それが黒船以降の幕末の動揺を決着させられなかった原因のひとつであって、ひいては「王政復古と欧化体制」というバランスを崩させて欧米一辺倒となり、その反発が日本主義や排外主義やウルトラナショナリズムへと日本を駆り立てたという経緯ものべておきました。けれども、内村から見るとキリスト教社会では最初から制度がありすぎて、その制度から抜け出せないことこそがそのその精神を根底から腐敗させていると感じられたのです。
    これは私などがなかなか気付けなかったことです。内村を読んでいてここにさしかかったときは、呻くように唸ったものでした。
    >>/> 何故制度を作ろうと思うのか。それも、文化だろうし、国の方法なんだろう。

    ・まず、日米がほぼ同時に文明国になったのだとしたら、それはいつのことだったのか。アメリカのばあいは明治31年(1898)に米西戦争でスペインに勝ったとき、日本のばあいは明治38年(1905)に日露戦争でロシアに勝ったときでしょう。
    >>/> アメリカは意外と新しい。あれこそ人工で、プログラムで、実験で。でもアメリカも慣習法なんだよなあ。

    ・法華経はインドにも西域にも中国にも朝鮮にもひろがった経典ですが、その解釈をめぐっては日本がきわめて独自の位置をもちました。法華経を激しい国家改革と国家安寧の議論のテキストにしたのは、『立正安国論』を書いた日本の日蓮だけなのです。
    >>/> あんなに中身の無い、至上の念仏であると歌っているだけの、あれが。考えると不思議だ。

    ・私は「日本という方法」がわかりやすいほうがいいなどとは思いません。めんどうな手続きや微妙なルールがあったほうがずっといいだろうと思っている。いやしくも日本は国家であり海流であり、ブナであり少年少女たちであり、記憶でありニュースであり、制度であって面影です。それが安直に進むわけはなく、どんなことにも迷いが生じるはずなのです。それならどんなことにだって、醒めても胸が騒ぐのは当たり前。むしろ醒めもせず、夢もなく、胸騒ぎもなくなってしまうことのほうが危険です。
    …日本の面影は、いまさまよっているかもしれません。けれども、さまよわない面影なんてないのです。大切なことは「おもかげ」や「うつろい」を主題ばかりで埋めつくさないことです。まだ主題が何かがわからない方法から、蝶が羽ばたくか、蝉が啼くかを見るべきです。
    >>/> あとがき。言う事は、無い。

  • 考え方が深まった。

  • 思索

  • 日本をどのように見るか
    天皇と万葉仮名と語り部
    和漢が並んでいる
    神仏習合の不思議
    ウツとウツツの世界
    主と客と数寄の文化
    徳川社会と日本モデル
    朱子学・陽明学・日本儒学
    古学と国学の挑戦
    二つのJに挟まれて
    矛盾と葛藤を編集する
    日本の失敗
    失われた面影を求めて

    著者:松岡正剛(1944-、京都市、編集者)

  • 今年最初の本は、松岡正剛「日本という方法」

    万葉、菅原道真、紀貫之、村田珠光、本居宣長、このあたりが相変わらず気になってる

  • 【要約】


    【ノート】
    ・「空気を読むな!」で挙げられてたんだな。blog not found でまた出会った。

  • 社会・政治

  • 大人向けの「日本思想史実況中継」といった趣の本。教科書的な事柄を、著者の感覚で自由にアレンジして語ってみせた、というところだろう。全体としてのまとまりとか、議論の妥当性とかにあまりこだわらなければ、ネタとしておもしろいところはいろいろある。たとえば、日本の陽明学の動向、荻生徂徠や本居宣長の方法、国学の展開、それと西田幾多郎や北一輝のあたり。

  • ばづくーるラボメンバー H.Y. さんのオススメ

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著者プロフィール

一九四四年、京都府生まれ。編集工学研究所所長、イシス編集学校校長。一九七〇年代、工作舎を設立し『遊』を創刊。一九八〇年代、人間の思想や創造性に関わる総合的な方法論として″編集工学〟を提唱し、現在まで、日本・経済・物語文化、自然・生命科学、宇宙物理、デザイン、意匠図像、文字世界等の研究を深め、その成果をプロジェクトの監修や総合演出、企画構成、メディアプロデュース等で展開。二〇〇〇年、ブックアーカイブ「千夜千冊」の執筆をスタート、古今東西の知を紹介する。同時に、編集工学をカリキュラム化した「イシス編集学校」を創設。二〇〇九~一二年、丸善店内にショップ・イン・ショップ「松丸本舗」をプロデュース、読者体験の可能性を広げる″ブックウエア構想〟を実践する。近著に『松丸本舗主義』『連塾方法日本1~3』『意身伝心』。

「2016年 『アートエリアB1 5周年記念記録集 上方遊歩46景』 で使われていた紹介文から引用しています。」

松岡正剛の作品

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