集中講義! 日本の現代思想 ポストモダンとは何だったのか (NHKブックス)

著者 :
  • NHK出版
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  • Amazon.co.jp ・本 (269ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784140910726

作品紹介・あらすじ

1980年代、「ポストモダン」が流行語となり現代思想ブームが起きた。「現代思想」は、この国の戦後思想をどのような形で継承したのか。海外思想をどのように咀嚼して成り立ったのか。なぜ80年代の若者は「現代思想」にハマったのか。丸山眞男や吉本隆明など戦後思想との比較をふまえ、浅田彰や中沢新一らの言説からポストモダンの功罪を論じる。思想界の迷走の原因を80年代に探り、思想本来の批判精神の再生を説く。沈滞した論壇で唯一気を吐く鬼才による、異色の現代思想論。

感想・レビュー・書評

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  • 21世紀も間近になった頃に大学入学、研究を本格的にはじめたのは2000年代後半というな私は、日々「なんでこんなことになっちゃってるの!?」と叫びたくなるような哲学・思想(と社会との関係)に関する問題にぶちあたることが多かった。――たとえば、「どうして浅間山荘に閉じこもった連合赤軍は仲間同士で殺し合ったのか?」とか「なんで『総括』という言葉がリンチを指すようになったのか?」とか、「なんでこんなに現代思想は、ライトなノリで明るくたのしく語らなくちゃいけない感じになっちゃったのか?」とか。
    本書は、そうして日々ぶつかりながらも、その答えを見出す術同市もなく、喉にささった魚の小骨のようになってしまった問題たちを、一気に溶かしてくれた感じがする。
    私と同世代の、研究者の卵たちは、いろいろな現代思想の本を読み、それを吸収して、自分の研究にいかしながらも、それらの思想の位置づけなどを把握するのにものすごく苦労しているんじゃないかと思う。私自身もまさにそんな最中にある。そういう「地図」も持たずひとりさまよい歩き続けてきた私にとってはとてもありがたい本だった。

  • 仲正による「日本の現代思想」。第一次安倍内閣が立った時のもので、あとがきに当時の著者の、本人らしい所感が印象的。

    内容としてはかなり情報量は多いけども、世界の情勢と思想とかかわりながら、日本の情勢、思想がどのように推移してきているかがよくわかる。

    ざっくりとニュアンスででしかとらえきれていないが、戦後マルクス主義が69年の学生運動にて挫折すると、ポストモダンの時代に突入。レヴィ=ストロースの構造主義とそれすらも相対化させたデリダやドゥルーズ、フーコーらによるポスト構造主義の思想ブームが起こる。日本もこれらの影響を受けながら、それがアカデミックな分野というよりもメディアミックスされた論壇においてのパフォーマティブなものとして影響を与え、80年代、浅田彰、柄谷行人、中沢新一らが活躍、90年代に入り宮台真司や東浩紀などが現れ現代にいたる。サマリーにもなってないが、僕の頭の中は今こんな感じ。

    ただ、今の人文系の論調がユルフワさをもって自嘲するような隘路で乾杯してる理由を考えるにおいて、時代整理の道筋が見えたのが幸い。もう一度は読み直さないと整理されないとは思うが、読み直すかな・・


    17.8.14

  • つねに皮肉っぽい書きぶりであるが、それぞれの時代の思想業界界隈の様子がうかがえて面白い。著者による整理だけに囚われてもいけないが、様々な日本の思想家の文章を読むにあたって、それが書かれた背景をある程度イメージできている方がよいので、こういった本はありがたい。

  • この本にて、80年代に埋め込まれた爆弾が、グローバル化によって爆発を起こしたように勝手ながら想起。
    どうも、構造主義とポスト構造主義は忘れられて、その方法のみが、戦後民主として完成されたように思える。
    民主→個人→相対→(ネットにつながり、家族、社会、共同体、国家を越え)世界=地球(グローブ)→?今現在。
    この様式を批判的に考えるためにも、きっとフランクフルト学派に当たらねばと思う。もちろん、日本の輸入物として。
    デリダ、ドゥルーズ、フーコーは、その目的を日本を外して個別に検討しよう。バランスは、80年代に崩れた。

  • 戦後マルクス主義から構造主義の勃興、ポストモダン思想などを、西欧・英米と日本の状況を踏まえて、主要な人物の著書の要約とともに相関的に把握できる、とてもよくまとめられた著書。特に前段までの主要議論を、続くパラグラフで批判的に継承していく描き方は、思想史を物語的にまとめていて読み物としておもしろく、議論がどのように発展・凋落したかが理解しやすい。
    現代思想が流行らなくなった原因として、冷戦崩壊によるマルクス主義凋落と、不況で消費資本主義を楽観視できなくなったことが挙げられるが、現代は十分にポストモダン化し、少なくとも当時の予測として有効だった。また、極度にわかりやすさが求められる現代においても、二項対立を解除し、ミクロな差異を重視する現代思想を有効である。
    とりわけ、終盤の私見はニヒリスティックだが、最も重要に思われる。
    "もともと「理論」にも「知識人」にもたいしたことができるわけではないと開き直っている人間に言わせれば、無理に将来へのヴィジョンとかオルターナティヴとかを示す必要などない"
    ・序
    従来の思想は、人間の課題に対しての体系的な解答を目指すが、論理的整合性から解答を出せない狭義の哲学の矛盾を是正して、思い切って最終的な解答を出し、自らを画期的な世界観として提示する広義の哲学。文献学者ニーチェ、政治活動家マルクス。それに対し、現代思想は理性の体系を信用せず、むしろその危険性を強調する。脱体系化、脱中心化は、従来の思想からはふざけて見える。浅田彰『構造と力』シラけつつノリ、ノリつつシラける。
    ポストモダンとは、工業、都市、労働、主体における近代化と、自律した理性的な主体としての自我からのズレ。ニーチェ芸術論、マルクス経済学批判、ウェーバー理論社会学の従来の思想に対し、社会学、人類学、精神分析、文芸批評、メディア批評を構成する雑種性が現代思想。論文、評論、批評、記事、エッセイ、芸術作品なのかよくわからない。映像、音声、オブジェ、身体的パフォーマンスになることもあり、脱アカデミズムする、ニューアカデミズム。哲学者、思想家、批評家、知的パフォーマー、専門がよくわからないまま思想家として現れる。座談対談の浅田、体験記エッセイ論文の中沢新一、メディア露出人類学者栗本慎一郎。日本のポストモダンの特性で、ドイツではメディア露出は好ましくない。90年代はニューアカ的なものが当たり前になった。宮台真司は近代的リベラリズムではあるが、援助交際を論文ではなくメディアでの発言とした。現代思想はサブカルチャーと強く結びついている。高尚なものとして特権化せず、サブカル化していった。力を失った90年代後半からは単に同時代の思想哲学を指す言葉に戻った。青土社『現代思想』は文化左翼となった。
    現代思想がうけなくなったのは、学際性、ニュージャーナリズム、サブカルが当たり前になった。国際〜、総合〜、文化〜、表象文化論、相関社会科学など実態のよくわからない専門が増加。ポストモダン的なフリーターが、不況のせいで選択せざるを得ないだけになり、いいこととは思えなくなった。かつての現代思想少年が、近代的な労働主体を回避することに疲れ、安定した着地点を求めたところで望んでも就職できない現実から、市場原理主義、新自由主義に怒りが向くようになった。『現代思想』は、マルクス主義の単純な二項対立を復活させるマニフェストの場になっている。対立軸をずらし問題が見えなくなることは左派から嫌われるようになった。敵味方にわかりやすく分離することが好まれるようになった。
    しかし、二項対立における絶対的正義、絶対知に対する不能性は溶け込んでいる。
    フランスポストモダンは、大量消費社会におけるマルクス主義の代替。日本では、流行分析の現代思想が流行商品として消費され使い捨てされた。
    ・現実離れの戦後マルクス主義
    支持基盤があった伊仏、社会民主主義にマルクス主義が入った英独に比べ、革命幻想に振り回された挙句に新旧分裂し内輪争いとなったことは日本の特性。明治維新をブルジョワ革命と見做し社会主義革命を標榜する労農派『労農』-社会党と、ブルジョワ革命の完遂を目指すソ連影響下による二段階革命論の講座派『日本資本主義発達史講座』-共産党。旧労農派山川均、東大経済学者大内兵衛、九大向坂逸郎、社会主義協会。講座派、経済学者山田盛太郎、法学者平野義太郎、歴史学者羽仁五郎。労農派宇野弘蔵は東大社会科学研究所で原理論、段階論、現状分析の三段階論でイデオロギーから独立したマルクス主義を提唱した。
    民主主義科学者協会の古在由重。唯物論哲学者松村一人と、西田幾多郎の影響を受けた主体性論の梅本克己で主体性論争。場所の論理と疎外論を架橋した梯明秀、人間学的唯物論の船山信一。唯物論研究会の戸坂潤は、究極の形而上学とも言える場所の論理などの京都学派を日本イデオロギーとして危険視した。マルクス主義は思想史を再構成する拡張路線をとる。
    市民派(進歩派)は、政治思想史の丸山眞男、ウェーバー研究の大塚久雄、民法社会学者の川島武宜、米プラグマティズム『思想の科学』鶴見俊輔。市民社会の中での改革を目指す非マルクス主義の左派。ラディカルになれない中途半端な人たち。
    構造改革的社会主義のイタリア共産党トリアッティ「構改派」を受け、江田三郎は修正主義として批判を受ける。他に、イタリア共産党グラムシ研究の石堂清倫、経済学者長洲一二。グラムシのヘゲモニー論は、市民社会の中で知的ヘゲモニーを獲得し、革命への戦略論。有機的知識人がメディア発言をすることで、市民間の合意を形成するしかないという議論。日本では長い間それを革命放棄と捉えられた。
    マルクスが戦闘性を表す指標になり、新しい左翼知識人がさらに新しい左翼から批判を受ける、というのを何度も繰り返すようになった。機動隊との衝突武勇伝を競いはじめた左翼セクトから批判されないように、革命思想のマルクス主義を騙る学者も多数あらわれインフレ状態になる。
    西欧では工場労働者と資本家の緊張関係により革命のリアリティがあり、レーニンが帝国主義政策の植民地との階級闘争における世界的革命を説く。日本は、敗戦で自由主義の再近代化を歩み出したため、マルクス主義を無理に導入する必要はなかった。
    哲学・思想は不可避的に政治・社会に批判的であるため、ラディカルな批判とオルタナティブな世界観を提示するものが注目される。結果的にラディカルなマルクス主義が優位に立つ。保守は現状維持なので、革新に対する反作用として現れる。バークが言うように保守の方が新しい。
    『諸君!』69年、『正論』『Voice』77年創刊。西欧の保守は、ロックヒュームアダムスミス古典的自由主義、ハイエク新自由主義、キリスト教民主主義、ヘーゲル国民的自由主義、国家利益のドゴール主義。日本はまとまった保守がなく、明確な思想性のない自民党的なものに対し無理な二項対立を作ることで、マルクス主義の現実離れが助長された。
    丸山眞男は、西欧近代が機械的画一化・合理化を進めすぎたため、社会秩序・効率性と人間感性・身体性に齟齬が起きていることを指摘し、その克服としてのマルクス主義が問題を大きくしていることを認識していた。そして西欧近代の理念と日本文化の齟齬に注目し、西欧の限界を示唆しながら日本の適応を説くという屈折がある。『日本の思想』では、日本は思想史の構成ができず、つまみ食いで危険思想まで無害な体制順応観念に変貌する無構造であることを指摘した。
    理論は現実を抽象化して生まれる虚構であるということを理解しないまま理論信仰となったマルクス主義。革命が起こらない分析を理論で埋めようとすることを、丸山は理論の物神化と呼ぶ。物を崇めるように理論を崇める。思想を体系的に捉えず、全体における自分の主張の配置もわからず空論を独り歩きさせる。思想の構造化を経ない限り先に進めない。
    ・大衆社会のサヨク思想
    フランスで1968.5の五月革命が起こる。大学管理強化に反対し、学生の蜂起が労働組合も巻き込み、ドゴール政権を退陣に追いやった。ドイツでも、議会外反体制運動APOにより、キリスト教民主同盟社会同盟CDU・CSUから社会民主党SPDの中道左派へ。アメリカではヴェトナム反戦運動、黒人の公民権、女性解放など。資本家vs労働者ではなく、権力vs民衆に代わる。民衆は労働者だけでなく学生などを含む大衆一般。プラハの春のチェコスロバキアへのソ連の軍事介入から、新左翼のマルクスレーニン主義離れが一層起き、旧来マルクス主義も近代合理主義の一元管理にすぎないことが露呈した。二項対立図式では世界を描ききれない、近代の矛盾に対する反体制側の模索としてフーコー、ドゥルーズ、ガタリ、ネグリが影響力を拡大した。
    日本では全共闘、トロツキー永続革命の影響を受けた革命的共産主義者同盟、国民運動を標榜する共産主義者同盟ブントは60年安保闘争ののち停滞する。ブント学生組織の社会主義学生同盟、革共同分裂の中核派・革マル派、第四インター、社会主義青年同盟の協会派・解放派(革労協)、毛沢東思想のML派。日本は左翼同士の対立が目立ち、全共闘と共産党民主青年同盟の対立、ブントは戦旗派・赤軍派・叛旗派・情況派に分裂する。赤軍派のハイジャック、人質事件、内ゲバ殺人事件は一般の支持を失い弱体化する。
    全共闘はカウンターカルチャー対抗文化を生み出した。アングラ演劇、映画、詩、フォークソング、ジャズ、ロック。西欧新左翼は、大衆文化カウンターカルチャーを利用する。日本では、絓秀実『革命的な、あまりに革命的な』によると、新左翼が初期マルクスの疎外論に依拠して身体性、詩的想像力、言葉を解放する美的感性的革命に関心を持つようになった。しかし、主体性を取り戻すマルクス主義と、主体の終焉を告知する現代思想には断絶がある。日本の新左翼は、宿敵三島由紀夫と同様に美的アナーキズムにはまる。歴史が革命という目的=終焉に向かうということを美的に表象しようとした黙示録的革命。バリケードの閉鎖空間は、象牙の塔の裏返しで、わかっていながら切断=解放を求めるのは前衛芸術的な破壊の美学。その結果、連帯すべき大衆を失った。
    新左翼文芸批評家の吉本隆明は、マルクス主義言語によって大衆をつかむことの困難を指摘。共産党花田清輝と戦争責任論争。『擬制の終焉』で民主主義、市民社会という擬制が大衆に根付いていないのに押し付ける共産党の独善性を批判。『丸山眞男論』丸山はエリート主義でブルジョワ革命で解決するような語り方で、資本主義の機能的な近代国家の形成過程としてしか天皇制を捉えていないとして、大衆が希求する民俗的な伝統である幻想の共同性に注目すべきとした。
    天皇制は階級ではなく、宗教から理解すべきとした。マルクスエンゲルスの下部構造=生産様式に規定された国家観を否定し、私的所有の廃棄だけではダメで、民俗的宗教的幻想としての共同体である国家から理論的に解放する不可能性を指摘した。ヘーゲル国家幻想を批判したマルクス主義からの逸脱。『共同幻想論』は、柳田國男『遠野物語』を参照しながら王朝成立を論じ、社会主義革命の不可能性を示唆する。理性中心主義の解体を目指すポストモダン思想への橋渡しとなる。
    大衆が変化を望まないのは、政治意思決定の欲求があるが権力に騙されて現状に満足しているというのではなく、歴史的宗教的な幻想の慣れ・安心感なしに生きていけないということを示唆した。革命という目標は外から持ち込まれた擬制的観念にすぎず、大衆にとっては永遠に受け入れられない。
    左翼知識人、活動家が変化できない大衆ということ。逆に左翼が革命できない言い訳に好都合となった。新左翼は、共同幻想の中に生まれた自己を否定して、革命的な主体性へと転化する困難さを身をもって証明した。
    ドイツ哲学者廣松渉は、疎外論より物象化論を重視した。疎外論は、労働者が商品として疎遠になり、人間の類的本質である労働から疎外されるということ。物象化論は、物である商品自体に交換価値を見出し、その力が人間を支配する現象を物象化といい、崇め畏れるようになると物神化となる。ハンガリーのルカーチ『歴史と階級意識』が強調した。人間的な顔をしたマルクス主義。自己の意味を見出せない主体に、自由の可能性を見るサルトル「アンガジュマン政治的コミットメント」と親和性がある。廣松は、疎外はヘーゲルシェリング由来の意識内部にすぎないが、物象化は『ドイツイデオロギー』以降の社会的関係性を分析するのに重要なマルクス独自の概念であるとした。共産党系正統派マルクス主義は主体性を無視、新左翼セクトは勝ち目のない実存主義。
    廣松は、物象化をフッサールの共同主観性と結びつける。物の連関として世界ができている。普遍的現象で、社会ごとに形成され、イデオロギー化していく。
    マルクスを認識論や行為論として読めるようになり、倫理学者大庭健、熊野純彦、社会学者大澤真幸、宮台真司に影響を与える。しかし、悪しき物象化と、言語記号的な物象化との線引きは難しく、関係論、事的世界観へと転換していく。廣松は、労働者の生の現実を見る疎外論を捨てきれず、相対化するフランス系ポストモダンからは距離をとった。
    ・ポストモダンの社会的条件
    大衆社会=大量消費社会が、文化産業中心の消費資本主義、ポスト産業資本主義へと発展し、ポストモダン思想の背景となる。労働価値説では、資本家の価値増殖のために労働者には生活最低限の賃金だけが支払われるが、独占資本に近づくにつれ、労働力がなくなり価値増殖は挫折する。そこで革命が起こると言うのがマルクスの歴史予測。しかし、レーニン『帝国主義論』にあるように、植民地政策によって国内労働者に還元し、資本主義は生き延びる。しかしなかなか革命が起きないことについて、「消費が資本増殖を可能にする」という発想は、マルクス主義からは出てこなかった。
    ケインズ主義が消費を重視し、流通サービス情報に投資する一方、ソ連ら社会主義国は、公有化すれば生産力が上がるとした。日本の資本主義は経済成長を続け、一億総中流化となり、貧困増大の原則にリアリティがなくなった。そして公害疎外論へと舵を切る。
    ベンヤミンは、『資本論』の商品世界における物神的性格から読み直し、唯物史観を失われた自然を取り戻すユートピア願望の記録として再定義する。ポスト構造主義やカルチュラルスタディーズに影響を与えた。特に初期アドルノの美学における歴史的意味など。『パサージュ論』都市空間におけるブルジョワジーの欲望、商品の発するユートピア的なファンタスマゴリー作用。ファンタスマゴリー=オブジェに光を当て影を映し出す幻灯装置。物が化物のように大きく見えるマルクスの比喩。無限の商品価値が消費欲を刺激し、資本の回転を加速させる。流行における差異の付加価値。太古の自然を表象する商品への憧れが、資本や技術の自然破壊を容認することになる。
    商品世界はユートピア願望の表象空間そのものであり、それを断ち切る革命すらファンタスマゴリーの産物かもしれない。
    ボードリヤール『消費社会の神話と構造』今村仁司訳。モノが人工的な生態系を成し、使用価値とは独立にモノの集合体としての幻惑作用を発揮する。未開社会、大量消費社会の共通項は、象徴する記号。モノの体系が言語・コードであり、伝達しあっている。これが消費の構造。デカルトカント近代自我哲学、マルクス主義的唯物論とも異なる記号論的世界観。言語論記号論への転回は、ポストモダン思想の特徴。大量消費社会では記号は作り出され続けている。差異を承認されたいという願望において、大衆の同一化を示すもの。
    新左翼が物の悪魔性を作り出し、逆説的に支配力を強化している。神話作用。カウンターカルチャーが単なるサブカルチャーとして消費対象となった。ボードリヤールは宇波彰に訳され、ポストモダンブームの先駆けとなった。
    構造主義は、フランスではマルクス主義的な主客二項対立を根底から揺るがし、近代哲学思想に挑戦する思想として勢いを増した。日本では政治的含意は抜かれて手法だけが輸入された。文芸批評家柄谷行人は、『マルクスその可能性の中心』で、ソシュール言語体系とマルクス価値形態論を結びつけ、廣松渉共同主観性を記号論的に読み替えた。物の差異を示す、記号の差異、交換価値がシステムを構成する。記号の実体を見ようとしてイデオロギーに陥る。マルクスの読み直しであり、超えるものではなかった。
    マルクス主義の予測は外れ信用を失い、さらに学生のエリート意識はなくなり大量消費社会に満足しマルクス主義に惹かれなくなった。シラケ世代。渋谷の若者ファッションから始まり、オイルショックを受け団塊シングル女性、大学生、高校生、子供に人工的流行を作り出した。
    一橋大学生田中康夫『なんとなく、クリスタル』文藝賞。ブランド、場所、サークルについての膨大な注が記号消費的で、文章は表面的でファッション雑誌のようだ。村上龍『限りなく透明に近いブルー』に比べると、アメリカに対するアンビヴァレントな態度はほぼない。
    ・近代知の限界
    無意識レベルの数学的記号的構造、構造主義、ソシュール、レヴィストロース、バルト、ラカン。対抗したのがサルトル『弁証法的理性批判』文化人類学を実践的惰性態(物に疎外された人間)、つまり無意識の構造とすると主体的実践を無意味化すると批判。レヴィストロース『野生の思考』主体性、コギトの原理は西欧のローカルな自民族中心主義にすぎない。ここから、構造主義はマルクス主義の敵になる。
    フーコー『言葉と物』各時代の知の体系エピステーメーが、物の関係を規定し、学問を作る。知の形成過程を辿る知の考古学アルケオロジーを試みる。知の在り方が条件づけられていることを歴史的アプリオリという。
    アダムスミスマルクスの近代は人間の本性を前提として労働、言語、生命の知の体系が形成されたが、人間理性を普遍化しない文化人類学、人間以前の無意識の精神分析は人間を前提としない。人間という概念が終焉を迎えるとした。ヒューマニズムの否定と捉えたサルトルは構造主義に抗するが、かえって近代的人間観、マルクス主義の守旧派とみなされ、知の最前線から取り残された。
    プラハの春のソ連介入でマルクス主義は急速に力を失う。マルクス主義的な外の権力への抵抗から、狂気の隔離、医療の身体管理、性の正常異常など、内部化された権力、生権力の問題へ。アルチュセール『マルクスのために』『資本論を読む』各人はイデオロギーを内面に吸収しながら主体化し、社会構造を担う。
    「まともな生を生きねばならない」という内面の声としての権力。社会的マイノリティに対応した社会理論となった。サルトル的な知識人の啓蒙的介入が「まともな生活」規範=正常性として押し付けることになるため、人間の終焉を予告せざるを得なかった。
    日本ではマルクス主義やサルトル実存主義に代わる思想としては受容されていなかった。吉本隆明はフーコーを新しい左翼思想と読んだだけで、主体の解体までは把握していなかった。
    主体を規定する無意識レベルの構造を発見する構造は何か、ということがポスト構造主義の出発点。デリダは、語ろうとする意図は事後的に形成されるだけなので、テクストの外(=主体の内面)はないとした。テクストの隠れた構造をあらわにする手法、脱構築。
    デリダ「コギトと『狂気の歴史』『エクリチュールと差異』理性から狂気を排除するデカルトを指摘するフーコーが理性狂気の二項対立を反復している。『グラマトロジーについて』レヴィストロースの未開人に対する眼差しは西欧的である。未開人の無垢な構造はルソーの幸福な野生人の再現。理性的な我々という西欧中心主義。
    構造主義の試みが二項対立を再確認してしまう。近代を超える知ということが近代知の産物で、エクリチュール内部としての知の限界、有限性を知ることを示唆する。最終的な解答を示さないデリダのテクストは、終わり=目的のないポストモダン思想の難解さを象徴している。
    ドゥルーズガタリ『アンチオイディプス』『千のプラトー』フロイトを批判的に読み替え、マルクス主義と異なった資本主義批判。父の名に象徴される社会規範の超自我に適合し、母体回帰的な原初世界に戻る無意識を抑圧し、自我が形成され、文明が成立するというストーリーは、エンゲルス『家族、私有財産、国家の起源』父と同じ労働力が再生産される議論と合致する。マルクーゼは文明の抑圧に対する無意識の解放を訴えたが、主体形成が前提で無意識を解放することは無理があった。
    『アンチオイディプス』人類史は単線的な文明の抑圧ではなく、各人の無意識な欲望が自己増殖する欲望機械。単純な再生産以外に、再生産の過程で異質なものを取り込み変容する。
    →スピノザ 個体、ライプニッツモナド、ベルクソン生物学
    資本主義、エディプス三角形も過渡期的現象。欲望機械は変容するスキゾ的で、同様に主体も安定化しない。『千のプラトー』遊牧民ノマドがスキゾ的欲望機械の原型。短期間滞在する高原プラトー。農耕により定住し、国家を作る。生産力を上げるため、パラノ的に労働するが、限界に達する。
    →ハイデガー環世界ゲシュテル、フーコー先験的経験的二重体
    資本国家は拡大し、外へ脱国境化しノマド的になる。各人のスキゾ的消費側面が増大するとパラノ的再生産は崩壊する。外からの暴力的破壊なしに、内から不可避的に変質していく消費資本主義という構図が、日本の大量消費社会に対応しており、絶妙なタイミングで浅田彰が紹介したことで現代思想が流行した。クリステヴァはエディプスに現れない女性を指摘し男根中心主義、構造から排除された他者性をポストフェミニズムへとつなげる。中沢新一の理論的源泉。
    ・日本版現代思想の誕生
    マルクス主義はあらゆる学問をマルクス用語で論じることを可能にしたがゆえに、矛盾を抱え自己崩壊した。そのような絶対知、大きな物語の終焉こそ『ポストモダンの条件』リオタール。日本では、元左翼学生が急増した私大文系などで教員となり、丸山吉本廣松の行動でない左翼理論、マルクス主義をベースにする方が楽だった。
    栗本慎一郎は、市場の虚構性を指摘したポランニー、蕩尽論バタイユに通じていた。蕩尽論、労働は祝祭への欲求。ネイティヴアメリカンのポトラッチは、富を誇示するために大量の贈り物を贈り、破壊するために労働する。戦争も祝祭。栗本慎一郎『幻想としての経済』経済的な交換にも過剰を蕩尽する欲求がある。理性的人間を否定する。
    『パンツをはいたサル』日常ではパンツを履き(生産労働エロス)、非日常で蕩尽する(消費破壊タナトス)。聖なるものを祝祭時のみに許し、うまく管理する技術が聖職者、王族の起源。日常/非日常の区分は文化人類学山口昌男によりポピュラーになっていた。生産から消費へマルクス主義的理性的人間に取って代わるもの。
    浅田彰『構造と力』近代的主体を相対化する、シラケつつノリ、ノリつつシラケる。道を諦め通の評論家になるのでもなく、トライしてノる。全面的にシラケるのは無気力。
    カイヨワ俗=日常、聖=非日常「没入」、遊=あらゆる価値体系との総合を拒否「レジャー」。第三項を重視する。
    蕩尽が機能するのは冷たい社会においてのみであり、熱い社会においては、象徴秩序が崩壊しているので、祝祭でカオスを回収できない。そこで、増大する貨幣のように一方向への前進の過程のみが安定をもたらす。岩井克人の不均衡累積過程論、貨幣が信用によって価値増大していく。走り出したら止められない自転車操業。日常が持続的ポトラッチ化している。冷たい社会は静的な差異の体系、熱い社会は常に差異を生み出す差異化様式の構造。差異化しながら破綻を遅延させる差延(デリダ)。
    貨幣は、冷たい社会の象徴的なモノではなく、欲望を吸引し続けるブラックホール。一方向のパラノ的状態。スキゾ的に分散化するリゾーム(根のように全体図が見えない)状態へ移行する可能性を示唆。『逃走論』闘争から逃走へ。ノマド的に放浪し続ける。
    健全な家族は、資本主義サイクルを回すエディプス的家族にすぎない。スキゾキッズをパラノ人間に改造する。病的なパラノ社会は、近代の動的安定を保つためには正常だったが、成長可能性がなくなるとスキゾキッズにその病因を押し付けようとする。パラノファミリーに不可解な行動は、そこからの逃走である。主体になりきらないスキゾキッズは、マルクス主義的二項対立の闘争を避けている。
    パラノ人間のいう、表現力は紋切型の反復、対話能力は予定された弁証的な統一的総合に甘んじる鈍感さ。スキゾ的パロディー化、フットワーク、差異化に可能性がある。2ちゃんねるやブログ炎上を見れば、この浅田の楽観的な見通しは悪い冗談でしかない。
    二項対立における前提に内在する構造が自己解体に向かう。デリダ脱構築的な手法。実践的でなくとも、批判的分析が新たな現実のオルタナティブな探究につながる。社会哲学思想家、フランス語教師哲学者などが受け入れ、ポスト構造主義を日本に定着させる。『中央公論』『群像』『現代思想』。
    柄谷行人の引用したゲーデル不完全性定理、無矛盾体系においても証明・否定できない論理式=命題が存在する。証明のための初期ルール設定は、体系内部では証明できない。自己言及のパラドックス。貨幣、構造、私も同じ。体系の内に、外部が介在している。「探究」ウィトゲンシュタイン言語ゲームから排除される他者と外部。浅田柄谷によって、ポスト構造主義を中心に、現象学解釈学分析哲学フランクフルト学派、吉本山口廣松栗本が位置付けられる。
    ・ニューアカデミズムの広がり
    従来のアカデミズムはいわゆる高みから客観的分析を行い、マルクス主義実践的現場から理論的論文という方法論であったが、ニューアカデミズムは対象と自分を区別せず、オブジェクト客体と半ば同化し、パフォーマンス性が高い知的実践をする。
    研究者が、周縁的な新しい特殊な芸術家やパフォーマーと対話し、映像などで記録すればアカデミックな業績として通用する。これは新設された大学のPRのために好都合で、サブカル、異文化コミュニケーション、業界論などカリキュラムに取り入れ、イベントをするようになった。映画スポーツ評論家蓮實重彦、演出家渡邊守章が1986年に東大表象文化論を設立し、映画演劇コンピューターアート創作講演を開催するようになる。2006年小林康夫の司会で爆笑問題との対談企画。
    文化人類学山口昌男『文化と両義性』あらゆる文化が中心と周縁によって成立している。経済人類学栗本慎一郎、宗教人類学中沢新一など、フランス構造主義同様に、文化人類学がポストモダン的ニューアカデミズムに寄与した。文化人類学は、対象に密着し哲学的分析との横断をすること、あらゆる社会・文化を対象とできること、専門知識の領域がわかりにくく口出ししてもアプローチと見られたこと。柄谷行人、小林秀雄などの文芸批評家は、元々文芸批評が学問的ディシプリンか創作エクリチュールかはっきりしなく、文化人類学によって同様に扱われることでやりやすくなった。時代を下ると、文化人類学に近いのは宮台真司らの社会学。
    中沢新一『チベットのモーツァルト』クリステヴァ『ポリローグ』の中のソレルス『H』評からの一説がタイトルになる。日常的な音素の順序による意味構造を、微分=差異化し、より微妙な差異、意味の襞を浮上させる。モーツァルト、チベット仏教声明音楽のモノトーンから意識の深部へ。
    理論的著作ではなく、宗教的な身体技法への誘い。体験をそのまま述べ、宗教的信念と合理的知識を区別しない。オカルト的で隠喩換喩でつなげていく。『雪片曲線論』流体土木技術者としての空海に注目する。秩序的な建築的思考だけではなく、絶え間なく変化する流体的思考をあらゆる面に発揮した。それを論理的には説明せず、万濃池のエピソードの根拠なしの解釈のみ。曼荼羅も渦巻きも流体モデルで、雪片のフラクタル(細部が無限のギザギザ)のようにどんどん微分=差異化される。
    実証主義者に批判され、経済学者西部邁が中沢を東大駒場教養学部助教授に推薦したところ、共産党系・旧新左翼系教官の共闘により否決され、西部らが辞任した1988年の「中沢事件」が起こる。マルクス主義がポストモダン思想に取って代わられる危機意識がやっと起きた。しかし、90年代に入ると駒場にニューアカ的な教員が増えた。
    ・なぜ現代思想は終焉したのか
    80年代後半から哲学思想の新しいスターは生まれず、91年に『批評空間』が創刊されるが、浅田柄谷の人気に頼り得意テーマを繰り返したにすぎなかった。同誌から東浩紀がデビューするが現代思想から関心がずれていった。フランス現代思想に目新しさがなくなり、思想家も相次いで亡くなった。世界的にも英米系分析哲学、科学哲学、リベラリズム正義論、責任論にトレンドがシフトした。理性的主体を前提に世界を論理的体系で解明しようとする近代知の中に収まるもの。カルチュラルスタディーズ、ポストコロニアルスタディーズは、普遍的理性を解体するものではなく、文化的抵抗に留まる。ポスト構造主義は単にフランス趣味になった。
    日本では、バブル崩壊によって、フリーターが気楽なイメージから、引きこもり、下流社会、ニートなど「社会でやっていけないダメな若者」になった。パラノ人間の再評価。左派の中でも近代的労働の解体ではなく、基礎にしてロールズ的な再配分などの公正さを求めるようになった。また、ソ連解体によるマルクス主義の凋落によって、新自由主義に対する危機意識から、消費社会を肯定した現代思想に否定的評価がなされた。多様性差異化は主体性の錯覚であって、結局体制順応させるだけ。
    東浩紀『存在論的、郵便的』自己差異化をデリダ『葉書』を援用して郵便の誤配として再提示した。メッセージが他の主体によってまったく違う意味にとられる。それがまた誤配され、意味がずれていく。オリジナルの意味はないに等しいが、オリジナルの意味の亡霊に取り憑かれている主体が不安を覚え、純粋なコミュニケーションを求めると悪循環を起こす。自己差異化を、浅田のスキゾキッズとは異なり、不安として描いた。郵便的不安、大きな物語がなく、アイデンティティの不安を覚える。
    『動物化するポストモダン』人は小さな物語で満足し、動物化した。アニメオタク。興味を失ったら別の物語に乗り換える。思想家にできるのはせいぜい小さな物語の交通整理。メディア社会学者北田暁大、鈴木謙介もネット上の物語の分析。ネットサービスを記号論などを援用して局所的に分析することに終始する。
    郵便的不安をどうするか。宮台真司の不安絶望でもあえてまったりした日常、福田和也のあえて天皇制にのる擬似コミュニケーション。絶望系かセカイ系か。いずれにせよ、コミュニケーションによる普遍的合意は無意味。個別テーマに矮小化し、人間社会の本質などは成立しなくなった。
    ニューアカ系のポストモダン思想家はマルクス主義に代わって反権力、左旋回するようになった。冷戦崩壊によって主軸が右(アメリカ自由主義)に傾き、ポストモダンの反近代・反権威主義が際立つ。反権力的でもマルクス主義と同一視されなくなった。二項対立を回避すると右だけが強くなる。デリダ『マルクスの亡霊たち』『法の力』でマルクス主義的な視点からアメリカグローバリゼーションを批判。ハーバマスも連帯する。スピヴァク、脱構築をフェミニズム、西欧中心主義批判に応用。コーネル、フェミニズムジェンダーの脱構築的な読み替え。ネグリハート『帝国』フランスポスト構造主義と英米リベラリズム反グローバリゼーションの融合。
    文芸批評家加藤典洋『敗戦後論』左右が日本の戦死者を弔い、日本国民としてアジアの死者を弔う。哲学者高橋哲哉『戦後責任論』自国戦死者の美化ではなく、汚辱の記憶を保持し、恥じ入り続ける。高橋は鵜飼哲、仏文学者石田英敬、国文学者小森陽一らと『脱パラサイトナショナリズム』世界に開かれた国家戦略の必要性を連名した。柄谷行人NAM生産労働者ではなく、消費者として企業に対抗する。
    ・カンタン化する現代思想
    ポストモダン雑誌柄谷上野千鶴子『at』や『現代思想』『前夜』の方がラディカルな左旋回をし、新新左翼となった。しかし、マルクス主義的な理論的根拠がなく、高橋や姜尚中の理論的背景なしのスター化で知的権威が低下している。保守も適当な冷戦崩壊でターゲットを失い、迷走している。わかりやすい二項対立を受け入れないとわからないという現代思想のカンタン化が起きている。
    ポストモダンは唯物史観に依拠して解体を目指していたので、大きな物語を形成できない。小さな物語しかないのに、グローバリゼーション、アジア外交など大きな政治の右傾化に大同団結しようと物語の構築に焦っている。左右が虚構の敵を膨らませ、二つの物語の弁証法が強く働き、中立、傍観者、曖昧、アイロニカルな態度が難しくなった。ネグリハートのネットにおけるマルチチュード(多数性=群集)は、最終的にはゲルマン移動的なものを目指す息の長いもので、あまり評判がよくない。
    柄谷行人『批評空間2-22』ソ連崩壊、湾岸戦争後で、デリダドゥルーズにおけるマルクス主義のアイロニーが成立せず、単に資本主義の肯定になった。ポストモダン論者の自己否定。
    労働力再生産の時代が過ぎ、消費社会によってスキゾ的主体が表に出るようになった。スキゾは、資本主義の主体、疎外、物象化の克服だったが、不況により明らかになったのは、ポストモダン化に不安と痛みが伴うという当然のこと。しかし、ソ連崩壊したからといって資本家と労働者の二項対立に戻ったわけではない。スキゾ的な多様な生き方は増え、消費社会は欲望を喚起している。難解なテクストを読んだところで郵便的不安は解消されないが、二項対立に戻るのはまた幻想である。デリダ、ドゥルーズ、フーコーのミクロな差異は、複雑化したポストモダン的現状分析に今こそ有効である。
    ドゥルーズガタリのノマド論は、企業内労働における主体性アイデンティティ形成に寄与し、消費文化、若者文化、IT化の分析に有用である。理論にも知識人にも大したことはできないから、無理に将来を示す必要はない。本当に危機なら、政治的指導者でもないのに、下手な実践で混乱に拍車をかけたりすべきではない。分析装置を提供できれば上等なものだ。マルクスを担ぎ上げ直すなら、常識を疑わざるを得なかった懐疑の眼差しを学ぶべき。現代思想は、完全に動物化していない我々人間の若干の分析装置として役立つはず。
    ・あとがき
    右派が学生ボランティアやニート徴農を強制させようとしているが毛沢東政策と同じで、左右どちらがやろうと野蛮。保守伝統の物語として安倍晋三が担ぎ出され、左翼が見事に乗っかってやたらと生き生きしている。左右「安倍を畏れよ」という命題を共有して二項対立を加速させる。現代思想の本を出せば、武器としての思想を期待されるが、そうでないとわかると「現実を見ていない」と言われる。

  • 難しいテーマだが読みやすい。昔の本だが、人文系だから問題ないと思う。

  • 懐かしい。80年代に京都で学生していた。友人の部屋の本棚には、本書で登場するキ思想家、サルトル、レヴィ=ストロース、メルロ=ポンティ、フーコー、吉本隆明、柄谷行人、浅田彰らの著書が並んでいた。こんな本を読むと頭が良くなるかと、かじってみようとしたが、舐めることもかなわず。せいぜい入門書を読んでわかった気になった程度で、思想書そのものは読まずじまいに終わった。
    90年代以降は、本屋でも軽めの棚をみるだけになった。てっきり、自分が知らないだけで「知的営為」は紡がれているのだろうと信じていた。第四章、『「現代思想」の左展開』以降に書かれている思想界の衰退は読んでいて辛いものがあった。二項対立しか成り立たなくなった思想界と、ネットで右と左が罵り合う現状へと続いているのだと知らされた。

  • 明晰でよかった。ポモ思想の内在的な解説ではなくて、歴史的な話をきっちり説明してくれているからありがたい。翻訳、輸入の過程にはタイムラグも当然あるし、全部翻訳されるわけでもないし、受容のプロセスみたいなところはおさえておかないといかんよね。仲正先生の本をちゃんと読むのは初めてだったが、真っ当な解説という印象で、ほかの本とか、界隈での評価とかは詳しくないが、生産性がすごい。修論博論も厚い本にされているが、研究的な話はどうなのだろう。

  • 日本のポストモダンのごちゃごちゃした感じをすっきりと位置づけてくれるのである程度関連や位置関係が見やすくなる日本のポストモダンの総ざらい。柄谷、吉本、中沢、浅田などの有名所の言説と歴史的な背景、課題など含め書いてある。読みやすい。

  • 右派思想にも左派思想にも鋭く切り込み、現代の日本社会の思想の在り方に警告をならす。筆者が描く戦後マルクス主義者たちの系譜はギャグマンガのようである。が、大変ためになる。頭の中におぼろげながら戦後の知識人たちの見取り図が描けるようになった。

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著者プロフィール

哲学者、金沢大学法学類教授。
1963年、広島県呉市に生まれる。東京大学大学院総合文化研究科地域文化専攻研究博士課程修了(学術博士)。専門は、法哲学、政治思想史、ドイツ文学。難解な哲学害を分かりやすく読み解くことに定評がある。
著書に、『危機の詩学─へルダリン、存在と言語』(作品社)、『歴史と正義』(御 茶の水書房)、『今こそア ーレントを読み直す』(講談社現代新書)、『集中講義! 日本の現代思想』(N‌H‌K出版)、『ヘーゲルを越えるヘーゲル』(講談社現代新書)など多数。
訳書に、ハンナ・アーレント『完訳 カント政治哲学講義録』(明月堂書店)など多数。

「2021年 『哲学JAM[白版]』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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