- Amazon.co.jp ・本 (297ページ)
- / ISBN・EAN: 9784140910740
感想・レビュー・書評
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昔住んでいた、湾岸沿いの埋立地が、まるでシムシティのように、広域に開発されていっている。このまえ、久しぶりにドライブがてら、新浦安のまわりへ立ち寄ってびっくりした。マンションやホテルや、大型ショッピングセンターが立ち並ぶ、少々異国めいた風景が広がった。
駅やその街の中心には、ジャスコやイトーヨーカ堂が位置するという、典型的な郊外がそこには広がっていた。
車、コンビニ、巨大ショッピングセンター。関東地域の風景は、きわめて均質なものになってきている。母親が入院している病院がある隣県の街も、駅前に隣接する大手ショッピングセンターを中心に広域の開発が始まっている。古い農村や田園が着々と、首都圏からの新しい住民を抱え込むための、地域へと生まれ変わっている。空虚さと奇妙な美しさを感じた。
土曜日に、神保町の本屋をふらついていて、東浩紀と北田暁大という若い論客の、東京についての対談「東京から考える」を買って、読み続けている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%B5%A9%E7%B4%80
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E7%94%B0%E6%9A%81%E5%A4%A7
ともに1971年生まれの36歳。お受験世代で、ゲーム、インターネット、携帯を空気のように吸ってきた世代でありながら、伝統的な社会科学という、活字を中心とするアカデミズムの伝統をも吸収してきた人々の発言である。
どうしても、ぼくたちは、家にテレビがなかったことや、カラーテレビが家に初めてやってきた日のこと、コンピュータが巨大で、貴重な機械だった頃のこと、携帯電話が無かった頃のデートのこと、ぴあが無かった頃の名画座での映画との出会いのことなど鮮烈に記憶している。このこと自体、ものごとを相対化できるという意味では、悪いことばかりではないのだが、今後、大多数を占めていくだろう、インターネットやゲームや携帯があたりまえの世代への共感力の点で多大な難があることも事実だ。
森田博光の「家族ゲーム」という映画の中で、都会で育った少年と少女が、工業地帯の風景を見詰めながら、きれいだな、きれいだねというシーンがあったように記憶する。当時は、批評的ふるまいとして取り入れられたパッセージだが、今となっては、それが、若い世代の普通の感覚になっているのかもしれない。茫漠と広がる郊外の風景の中に、空虚さと美しさと愛着を感じる世代の心を直接に掴むのはもう難しくなってきた。
だからこそ、この世代の知的発言はとても重要な気がする。
この本のことは、いずれ、まとめて、考えてみたいのだが、お受験世代の渋谷という街への記憶に始まって、彼らが成長するにつれて、東は東京の西側、北田は東側を生活圏域とする中の実感として、感じた、東京の東西問題を、最終的には、ローティ・ロールズ対立という哲学的機軸まで持っていく語り口はとてもエキサイティングだった。高学歴の二人が、東雲という工場地域の郊外化を語ったり、世田谷、杉並の中の超高級住宅地がGated Cummunity(高級住宅街における住民のイニシアティブによる自己セキュリティ向上の動き)や、アッパーミドル幻想の拠点としての田園都市線の青葉台へな、かなりセンシティブな、反発を食いかねない話題を語りまくるあたりはとても面白かった。
個性的な街づくりのためには、個性的なコミュニティの存在が前提となるが、ポストモダンな現状の中で、東京自体が郊外化、テーマパーク化していく必然を踏まえながら、その上での発言を構築しているという点に、彼らの世代的な肌触りを感じた。
東は、同時に、「動物化するポストモダンーオタクから見た日本社会」(2001年)の続編である「ゲーム的リアリズムの誕生―動物化するポストモダン2」(2007年)を出版したところだ。続編の方も早速買い込んで、読み始めたところだ。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
都心においても郊外においても、広告都市化、「ジャスコ的なもの」の浸透、「国道16号線」的空間の拡大が進んでいる。
そして、いわゆる都市やエリアごとの固有性といったものは次第に希薄化してきている。これは、都心vs郊外といった図式でも語ることはできないし、所得階層の高低によってこの変化の度合いが異なっているということでもないようである。
東浩紀氏と北田暁大氏の対談形式で、渋谷、青葉台、足立区を話のとっかかりに議論が進んでいく中で、そのような印象を受けた。
そして、次の章で池袋をテーマに都市の個性について議論をする中で、現在は都市の中に「個性ある街」が成立しにくくなっており、その代わりとして「人間工学的に正しい」街をつくるしかないという状況が発生しているという話にたどり着く。
個性ある街を考えるのであれば、まず個性ある社会集団のイメージが問題になるべきであるという東氏の主張も、この流れから出てくる。もちろん、「下北沢を守ろう」といったような単純な話ではない。そのような話は共同幻想として成立していたものの、それを支える人の集まり自体が流動化している中で、持続的な有効性を失っているのかもしれない。
むしろ、街に個性を持たせようとすると、エスニシティ、ジェネレーション、所得など様々な社会集団や帰属意識が軸となってきたが、これらが流動化して、その代わりにジャスコ的なもの、国道16号線的なものを人間工学的に正しくつくる都市開発が広がっている。
そのような話を踏まえたうえで、最終章での議論は話をネイションの次元にまで拡張し、ネイションを形成する身体的動機は何かという問いを議論している。
東氏は、様々な主体や社会が脱構築化された結果、最後まで脱構築不可能な、生物学的身体(生まれ、血縁)だけが残った人間がナマで存在する状態になっており、この状態を語り得る言葉がないということを述べている。
「人間が類として自然に寄り添って生きていくこと」と「人間が個として自然に抵抗して生きていくこと」の間の両立をとらなければ、単純な「血のナショナリズム」にしか落としどころがないという点を危惧している。
そのひとつの取っ掛かりとして、ローティーが唱えた「価値観の共有による共感ではなく、他者の生の具体的な細部との想像的同一化」という意味での共感可能性を挙げている。
北田氏は、そのような議論が、すべてを身体的・動物的な共感可能性に還元してしまうのではという点で、一定の疑問を呈している。言い方を変えると、そのような共感をベースとした「人間工学的な論理」を全面的に貫徹すると、多元性が保証されなくなっていく可能性はないのか? ということを問いかけている。
都市の変容を土台に議論をしながら、社会の形成過程における変化を捉えるという話の展開は、興味深いと感じた。 -
世代は近いけれど、筑駒〜東大の東さんよりは、中等部〜慶大の泉麻人さんの東京論の方が小生にはしっくり来る。ただ、まえがきにもあるように、この本は、東京「について」考える本ではなくて、東京「から」考える本。そう思って読めば、なかなか興味深い論点がいくつかあった。
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ともに1971年に生まれ、東京校外で生まれ育ち、現在も東京に暮らす批評家と社会学者が、東京の街をネタにして社会論を語り合います。
こういうの、面白いんだよね。
自分も東京で生まれ育って、しかも同世代(北田氏とは学生時代個人的に親交があったりする)なので、こういう話を居酒屋でするんだったらぜひ参加したいなと思ってしまう。
しかし、果たしてこれはアカデミズムなのだろうか、という疑念は読んでいる間常につきまといました。
だって殆ど個人的な体験と印象のみに基づいた議論なんだもん。
スノビッシュなお化粧はされているにしても。
とはいえ、2005年に出された本で出版後7年も経過しているわけですが、ここで語られている現象はますます現実に進行しているようには思えます。
「国道16号線化(ジャスコ化)」だとか、見た目だけでは地域の貧富差がわかりづらくなっているだとか。
東氏はそうした「動物的な事実の避け難さ」を容認しているのに対して、北田氏はそれに抵抗したい志向がある、という違い。
その違いは下北沢の再開発に対する評価の違いなどに現れます。
自分、個人的にはジャスコ化は仕方ないんじゃないかな…と思ってしまうほうなので東氏寄りと云えるかもしれません。
でもそれって情報化や人の行き来が簡単になったことにより生じた画一化、というか「画一」範囲の拡大なんじゃないの?という気もします。
昔は村や集落レベルで「画一」していたのが、東京とか日本という広い範囲での「画一」に拡大した、みたいな。
まあ、いずれにしても街の個性が薄まって、つまんなくなっているのは確かですけどね。
今後高齢化が激しく進んだら、こうした街の風景もまた変わっていくんでしょうね。
どう変わっていくのかはまったく想像がつかないけど。 -
ただ単に都市論に終わることなく、包括的な議論になっていて非常におもしろい。「ジャスコ化」「国道16号線的」「ファスト風土化」様々な呼び方や現象があるが、人間工学的な都市作りが果たしてこれからどのように日本の都市形成に影響を及ぼしていくのだろう。
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やっぱりこういう東京・都市をめぐる評論は、身近で具体的な話からスタートすることもあり、さくさく読めて楽しい。特に自分と年代の近い論者の個人的な体験が織り交ぜられているこの本は、読み物としてとてもおもしろく読んだ。
驚くのはわずかの間に目まぐるしく状況が変わり、すでに2006年には隔世の感すらあること。そのこと自体が恐ろしくもあり、このジャンルのエキサイティングなところでもある。
東京を論じること自体が困難になりつつあるというのは住む者の実感としても感じるが、「住む者の実感」を頼りに視点を保ち続けられるところもまた都市論の面白いところ。たまには読みたいもんです。 -
当時2006年。この後発生したIKEA、シェアハウスなどの現象についての前夜的対談が面白い。
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前半部分の都市を機軸にした議論は印象論に基づきつつも、「存在」を元に議論が派生しておりその矛先も興味深かった。
テーマパーク的郊外と国道16線型郊外。富裕層の庶民との不分化。幻想に基づく住民監視。都市工学による生活改編の可能性。そして個々人としての街の取り込み方。
ただしナショナリズムの章になるにつれと、対象なき議論になり、議論に関しての議論になる。作者もあとがきでとくに注意したと書いているぶん残念だ。
とはいいつつピックアップされたテーマ自体はつまらなくはない。サイバーネットワーク化した集団犯罪はきっと今度の趨勢になり、血によるナショナリズムの時代に、私はもうなっている気がする。
脱構築して壁がないといいはる、壁があるから仕方ないと開き直る、第三の道はあるのだろうか。 -
やや軽薄ではあるが、世代の眼は確かに共有している。