東京から考える 格差・郊外・ナショナリズム (NHKブックス)

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  • Amazon.co.jp ・本 (297ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784140910740

作品紹介・あらすじ

ともに一九七一年に生まれ、東京の郊外に育ち、同時期に現代思想の洗礼を受けた気鋭の論客二人の眼に、ポストモダン都市・東京の現在は、どのように映ったか。シミュラークルの街・渋谷の変貌、郊外のセキュリティ化、下北沢や秋葉原の再開発に象徴される街の個性の喪失、足立区の就学支援、東京の東西格差、そして、ビッグ・シティを侵食する新たなナショナリズム…これらの考察を経て、リベラリズムの限界と可能性を論じる。東京の光景を素材に、現代社会の諸問題を徹底討論。

感想・レビュー・書評

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  • ★まあ、インテリの議論★年代や育った場所から共感できるところは多々ある。ただ、青葉台がロハス的な広告を信じてる反ジャスコ的というのは、逆に東急の郊外開発が固定してしまいジャスコ的に乗れなかっただけなような気も。この本が2007年のものだから仕方ないが、むしろ今は東急沿線は高齢化して置いていかれた場所だろう。TDLに代表されるようなシミュラークルシティは、バブルの色香がかすかに残る時点の議論だろう。
     「ルポ川崎」を読んだ後だけに余計に強く感じるが、当たり前とはいえインテリの議論ではある。エスニックコミュニティーが見えなくなったというが、一見さんが街を見て回っただけでは言い過ぎだろう。いまはまた川口に中国人街ができているという。あとがきで「都市論論になるのは避けようとした」というが、やはりメタ理論。現実の人間のたくましさとの接点をどう見せたらよいのかを感じさせる。

  • 共通するテーマ「郊外」という概念について、「1995以後」ではインタビュー形式、「東京から」では二人の対談形式とどちらも会話形式を取っているため、個人の生まれた場所、育った場所、生活してきた場所の心象風景のようなものから話が展開されている。
    そのためか、「郊外」というものが文章の中で定義されていない印象がある。
    ニュータウンやロードサイドといったキーワードや記号で郊外が表現されるが、個人の印象の範囲を抜けきらない。
    「都心」、特に「東京の都心」を定義しきらない限り、「郊外」を表現しきれないのではないだろうか。

    自分個人の留学を含めた経験として東京には中心も郊外も無いのではと感じる。
    どちらかというと、世界一安全なスラム、バラック都市という印象。
    そのカオス的状況が東京の特徴であるとも言えるが、東京は都市というより、都市生成の過渡期に生まれている一つの状態にすぎないと思う。
    都市の中心というものは権力と資本によって担保されていて、丸の内や六本木ヒルズに代表されるような、大きな土地を持ち、動かしうる人々による再開発によって、ようやく弱い中心ができつつあるのではないか。それが良い悪いかは別として。
    「1995以後」で提示されているような都心の郊外化といったものは、今まで顕在化していなかった東京の大都市のようなものを形成していた無数の衛星都市の境界がうっすらと見え始めているのではと思う。
    ジェネリックシティという表現があるが、楽観的に考えれば、東京の場合の地域的な個性というものは、ジェネリックシティ化の先にあるのではないだろうか。まずはスラムからジェネリックな都市になることが必要なのではないか。

    ヨーロッパ世界では特に日本の若手建築家の住宅が注目されている。
    向こうの建築家は結構な年齢になっても殆ど実作を持たない人が多い。都市計画のマスタープランをずっとやっていたり、コンペだったり。実作があってもインテリアだけだったり、ペントハウスだったり。
    なので多くの人が大学や教育機関に所属しているのかもしれないが。
    日本の建築家の住宅作品のクオリティを支えているのがそもそもの住宅量であり、郊外という考え方であると思う。建築家として一軒家を建てられる敷地というものは、どんなに都心に見えたとしても郊外なのだろう。それはライトがアトリエを構え、多くの作品をつくったシカゴのオークパークのようなもの。
    なんとなく今の日本の建築の状況(特に東京の住宅、雑居ビル、マンションなど)が、バラックを修理し続けているだけなのではないかという不安がある。

    そうはいっても「東京から」で北田暁大が言及していたのと同じように、自分も横浜帰属型なのだろうと思う。東京の大学まで30分以内という場所にずっといても、住所である横浜への帰属意識は高い。
    都市構造であるとか、それぞれの地域・場所ごとの歴史の認識がしやすいからなのではないかと思うが、横浜は東京の郊外ではなく、地方都市であるという言葉に非常に共感した。
    海外では横浜といってもあまり理解されないので、だいたい東京から来たということにしてしまうのだが。

  • 昔住んでいた、湾岸沿いの埋立地が、まるでシムシティのように、広域に開発されていっている。このまえ、久しぶりにドライブがてら、新浦安のまわりへ立ち寄ってびっくりした。マンションやホテルや、大型ショッピングセンターが立ち並ぶ、少々異国めいた風景が広がった。

    駅やその街の中心には、ジャスコやイトーヨーカ堂が位置するという、典型的な郊外がそこには広がっていた。

    車、コンビニ、巨大ショッピングセンター。関東地域の風景は、きわめて均質なものになってきている。母親が入院している病院がある隣県の街も、駅前に隣接する大手ショッピングセンターを中心に広域の開発が始まっている。古い農村や田園が着々と、首都圏からの新しい住民を抱え込むための、地域へと生まれ変わっている。空虚さと奇妙な美しさを感じた。

    土曜日に、神保町の本屋をふらついていて、東浩紀と北田暁大という若い論客の、東京についての対談「東京から考える」を買って、読み続けている。

    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%B5%A9%E7%B4%80


    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E7%94%B0%E6%9A%81%E5%A4%A7

    ともに1971年生まれの36歳。お受験世代で、ゲーム、インターネット、携帯を空気のように吸ってきた世代でありながら、伝統的な社会科学という、活字を中心とするアカデミズムの伝統をも吸収してきた人々の発言である。

    どうしても、ぼくたちは、家にテレビがなかったことや、カラーテレビが家に初めてやってきた日のこと、コンピュータが巨大で、貴重な機械だった頃のこと、携帯電話が無かった頃のデートのこと、ぴあが無かった頃の名画座での映画との出会いのことなど鮮烈に記憶している。このこと自体、ものごとを相対化できるという意味では、悪いことばかりではないのだが、今後、大多数を占めていくだろう、インターネットやゲームや携帯があたりまえの世代への共感力の点で多大な難があることも事実だ。

    森田博光の「家族ゲーム」という映画の中で、都会で育った少年と少女が、工業地帯の風景を見詰めながら、きれいだな、きれいだねというシーンがあったように記憶する。当時は、批評的ふるまいとして取り入れられたパッセージだが、今となっては、それが、若い世代の普通の感覚になっているのかもしれない。茫漠と広がる郊外の風景の中に、空虚さと美しさと愛着を感じる世代の心を直接に掴むのはもう難しくなってきた。

    だからこそ、この世代の知的発言はとても重要な気がする。

    この本のことは、いずれ、まとめて、考えてみたいのだが、お受験世代の渋谷という街への記憶に始まって、彼らが成長するにつれて、東は東京の西側、北田は東側を生活圏域とする中の実感として、感じた、東京の東西問題を、最終的には、ローティ・ロールズ対立という哲学的機軸まで持っていく語り口はとてもエキサイティングだった。高学歴の二人が、東雲という工場地域の郊外化を語ったり、世田谷、杉並の中の超高級住宅地がGated Cummunity(高級住宅街における住民のイニシアティブによる自己セキュリティ向上の動き)や、アッパーミドル幻想の拠点としての田園都市線の青葉台へな、かなりセンシティブな、反発を食いかねない話題を語りまくるあたりはとても面白かった。

    個性的な街づくりのためには、個性的なコミュニティの存在が前提となるが、ポストモダンな現状の中で、東京自体が郊外化、テーマパーク化していく必然を踏まえながら、その上での発言を構築しているという点に、彼らの世代的な肌触りを感じた。

    東は、同時に、「動物化するポストモダンーオタクから見た日本社会」(2001年)の続編である「ゲーム的リアリズムの誕生―動物化するポストモダン2」(2007年)を出版したところだ。続編の方も早速買い込んで、読み始めたところだ。

  • 都心においても郊外においても、広告都市化、「ジャスコ的なもの」の浸透、「国道16号線」的空間の拡大が進んでいる。

    そして、いわゆる都市やエリアごとの固有性といったものは次第に希薄化してきている。これは、都心vs郊外といった図式でも語ることはできないし、所得階層の高低によってこの変化の度合いが異なっているということでもないようである。

    東浩紀氏と北田暁大氏の対談形式で、渋谷、青葉台、足立区を話のとっかかりに議論が進んでいく中で、そのような印象を受けた。

    そして、次の章で池袋をテーマに都市の個性について議論をする中で、現在は都市の中に「個性ある街」が成立しにくくなっており、その代わりとして「人間工学的に正しい」街をつくるしかないという状況が発生しているという話にたどり着く。

    個性ある街を考えるのであれば、まず個性ある社会集団のイメージが問題になるべきであるという東氏の主張も、この流れから出てくる。もちろん、「下北沢を守ろう」といったような単純な話ではない。そのような話は共同幻想として成立していたものの、それを支える人の集まり自体が流動化している中で、持続的な有効性を失っているのかもしれない。

    むしろ、街に個性を持たせようとすると、エスニシティ、ジェネレーション、所得など様々な社会集団や帰属意識が軸となってきたが、これらが流動化して、その代わりにジャスコ的なもの、国道16号線的なものを人間工学的に正しくつくる都市開発が広がっている。

    そのような話を踏まえたうえで、最終章での議論は話をネイションの次元にまで拡張し、ネイションを形成する身体的動機は何かという問いを議論している。

    東氏は、様々な主体や社会が脱構築化された結果、最後まで脱構築不可能な、生物学的身体(生まれ、血縁)だけが残った人間がナマで存在する状態になっており、この状態を語り得る言葉がないということを述べている。

    「人間が類として自然に寄り添って生きていくこと」と「人間が個として自然に抵抗して生きていくこと」の間の両立をとらなければ、単純な「血のナショナリズム」にしか落としどころがないという点を危惧している。

    そのひとつの取っ掛かりとして、ローティーが唱えた「価値観の共有による共感ではなく、他者の生の具体的な細部との想像的同一化」という意味での共感可能性を挙げている。

    北田氏は、そのような議論が、すべてを身体的・動物的な共感可能性に還元してしまうのではという点で、一定の疑問を呈している。言い方を変えると、そのような共感をベースとした「人間工学的な論理」を全面的に貫徹すると、多元性が保証されなくなっていく可能性はないのか? ということを問いかけている。

    都市の変容を土台に議論をしながら、社会の形成過程における変化を捉えるという話の展開は、興味深いと感じた。

  • 世代は近いけれど、筑駒〜東大の東さんよりは、中等部〜慶大の泉麻人さんの東京論の方が小生にはしっくり来る。ただ、まえがきにもあるように、この本は、東京「について」考える本ではなくて、東京「から」考える本。そう思って読めば、なかなか興味深い論点がいくつかあった。

  • ともに1971年に生まれ、東京校外で生まれ育ち、現在も東京に暮らす批評家と社会学者が、東京の街をネタにして社会論を語り合います。

    こういうの、面白いんだよね。
    自分も東京で生まれ育って、しかも同世代(北田氏とは学生時代個人的に親交があったりする)なので、こういう話を居酒屋でするんだったらぜひ参加したいなと思ってしまう。
    しかし、果たしてこれはアカデミズムなのだろうか、という疑念は読んでいる間常につきまといました。
    だって殆ど個人的な体験と印象のみに基づいた議論なんだもん。
    スノビッシュなお化粧はされているにしても。

    とはいえ、2005年に出された本で出版後7年も経過しているわけですが、ここで語られている現象はますます現実に進行しているようには思えます。
    「国道16号線化(ジャスコ化)」だとか、見た目だけでは地域の貧富差がわかりづらくなっているだとか。

    東氏はそうした「動物的な事実の避け難さ」を容認しているのに対して、北田氏はそれに抵抗したい志向がある、という違い。
    その違いは下北沢の再開発に対する評価の違いなどに現れます。

    自分、個人的にはジャスコ化は仕方ないんじゃないかな…と思ってしまうほうなので東氏寄りと云えるかもしれません。
    でもそれって情報化や人の行き来が簡単になったことにより生じた画一化、というか「画一」範囲の拡大なんじゃないの?という気もします。
    昔は村や集落レベルで「画一」していたのが、東京とか日本という広い範囲での「画一」に拡大した、みたいな。
    まあ、いずれにしても街の個性が薄まって、つまんなくなっているのは確かですけどね。

    今後高齢化が激しく進んだら、こうした街の風景もまた変わっていくんでしょうね。
    どう変わっていくのかはまったく想像がつかないけど。

  • 社会
    思索

  • 東氏が都心に住むのは思想的に敗北、みたいな感覚でいるのは何となくわかる。郊外で育った人間にとっては、車でファミレス、ショッピングセンターというのは原風景ですからね。
    自分も、学生時代、奨学金で下宿する道よりは、車を買って移動を楽にする道を選びました。おまけに自分の場合、アメ車でしたしね。
    結局今は、仕事の都合上、都心に住んでいるし、車も処分したが、何となくあの生活が恋しくなることがある。
    授業にもいかず、昼過ぎに起きて、ファミレスのランチタイムの終了前にようやく滑り込み、本を読みながら、居心地が悪くなるまでドリンクバーを粘り、その後は漫画喫茶。夜になったら家庭教師のバイトで、それを終え帰ってきたらテレビを深夜まで。はぁ、だめ人間でした。

  • 二人の学者が東京についてかれこれ語っている本だが、印象に残った個所は少なかった。印象に残ったのは、成城学園が住民の負担で監視カメラを設置しているという個所。おもしろいと思いました。監視カメラの設置が抑止力になり犯罪が減れば街の価値は上がりますね。こういうのも不動産価値に繋がりそうで、ビジネスチャンスにもなりそうです。

  • 渋谷、青葉台、足立区、池袋など、東京各地から、現代日本のさまざまな問題について、東浩紀と北田暁大が語り合っています。

    三浦展のいう「ファスト風土」に対して、東がそうした現実にある程度同意するという議論を先鋭的に展開し、北田がその問題提起を広い文脈に位置づけつつ話を広げていくという形で議論が進みます。

    東の問題提起は、最初やや意外な感じがしましたが、彼のオタク論の根にある、人びとの動物的な欲望をまずは認めるというスタンスと、緩やかにつながっているところもあるように感じますし、ポストモダンの政治思想の有効性を批判的に検証するための大切な視座を示しているようにも思います。

    そういう意味で、どちらかというと東の提出している問題の方におもしろさを感じたのですが、そうした問題の射程にしても、北田の的確な整理によって気づかされたわけで、2人の議論がうまく噛み合って啓発的な対談になっているように思います。東の参加した対談と言えば、大塚英志にしろ笠井潔にしろ、熱いわりに読者にとっては扱いに困るようなものが頭に浮かぶのですが、本書は成功例になるのではないでしょうか。

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著者プロフィール

1971年東京生まれ。批評家・作家。東京大学大学院博士課程修了。博士(学術)。株式会社ゲンロン創業者。著書に『存在論的、郵便的』(第21回サントリー学芸賞)、『動物化するポストモダン』、『クォンタム・ファミリーズ』(第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』、『弱いつながり』(紀伊國屋じんぶん大賞2015)、『観光客の哲学』(第71回毎日出版文化賞)、『ゲンロン戦記』、『訂正可能性の哲学』など。

「2023年 『ゲンロン15』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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