希望論 2010年代の文化と社会 (NHKブックス)

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  • Amazon.co.jp ・本 (224ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784140911716

作品紹介・あらすじ

「戦後日本」が終わりを告げたいま、私たちの社会のリアリティは大きな変容を遂げた。この現実を否認した「希望」も「絶望」も無効である。情報社会とサブカルチャーの戦後から現在をふまえ、日常と非日常が混在するこの日本社会の本質を明晰に描写。震災復興が叫ばれる今、ありうべき日本社会の姿を探るため、いま、もっとも注目される若き俊英二人が徹底討論。

感想・レビュー・書評

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  • 社会
    思索

  • 宇野さん・濱野さんがこれまで主張してきたことの再録+α版。1章は原発の議論+『リトルピープルの時代』を基にした宇野さんパート。2章は濱野さんによる情報社会論の捉え直し。個人的にはここが胸熱。濱野さんがなんで『アーキテクチャの生態系』で日本社会論にこだわったのか。それは日本的な(ひろゆき的な)ネット空間を分析しなければ、日本独自の「フロンティア」が見えないから。このパート、普通に情報社会論の基礎的な流れの確認としても読めるし、そこに+αで濱野流の情報社会論の日本的な捉え直しもあって熱い。「梅田望夫的(アメリカ的)」と「ひろゆき的(日本的)」という括りは実感としてはすごく納得で、日本の土壌を受け入れた上で外発的にではなく、内発的に(宇野の言葉だとハッキングで)変えていくしかない。

    ただ疑問もある。日本的、ガラパゴス的、匿名的ネット空間に可能性がある―というのはどうしてなのか。確かに、日本のネット文化・土壌を受け入れた上で希望を語る、議論を展開していくしかない―というのはわかる。でも、日本的な環境「だからこそ」希望がある、というのはどうしてなのか。もう少し言及がほしい。

    そして、この本にある最大の問題。果たして、この本に収められている言葉は、どこに届いているのだろうか。ハイコンテクストで、これまでに思想の言葉に触れていなければ、いやむしろ具体的に『リトルピープルの時代』『アーキテクチャの生態系』を読んでいなければ、はっきり言ってわからない議論だったのは間違いないと思う。この本を市場に放り投げた時、購入者は思想地図界隈を好む読者に限られるだろうし、例え「誤配」が起こって他の読者に読まれたとしても、おそらく宇野さん・濱野さんの言葉はその読者には届かない。排除されてしまうはず。

    思想地図界隈のマーケットなんて(東さんが前にLife現代思想の回で言っていたけど)せいぜい3万人くらい。多く見積もっても数万人程度。そこへ向けたところで、規模は果てしなく小さい。

    宇野さん・濱野さんの議論が悪いというわけじゃない。むしろ、抜群に本質的でクリティカル。だからこそ、その議論は多くの人に届けるべきだし、その届ける努力がみられなかったのはもったいない。徹底的につけられた注釈そのものがハイコンテクストで、思想地図界隈の「外側」にいる読者には絶対にわからない。そのあたりの「議論」ではなく「姿勢」(思想系の言葉でいうならば、コンスタンティブではなくパフォーマティブな側面)について2人はどう考えているのだろうか。

    また、議論が極めてレトリカルだったのも気になる。いや別にレトリックを用いることは悪い事じゃない。問題は議論が具体例に落とし込まれたとき、途端に弱くなることだ。おわりに濱野さんが「その具体的な提言となると、稚拙さも目につくものだろう」と告白しているように、抽象的なレベルにとどまっているという指摘は回避できないはず。その意味において宇野さんがいう「文芸評論家だから」というロジックは言い訳にしかならない。だからこそ、具体的な構想をレトリックで片づけるのではなく、現実の実務的な、届く言葉で方てほしかったし、語るべきだと思う。そのあたり、多分宇野さんも濱野さんも自覚していると思うし、今後のポイントなんじゃないかなと思う。

  • 対談は良い。その人がいま考えていることの「原石」が直接提示される。本書のそれは、非常に目映い。本書が語るのはお定まりの「希望」そのものではなく、個々人が自分の間尺にあった「希望」を探すための基本戦略であり、そのために「現代という時代をどのように位置づけるか」という問いが、くり返し問い直されている。

    見田宗介による戦後史の区分(「理想の時代」「夢の時代」「虚構の時代」)を受けて、大澤真幸は現代(1995年以降)を「不可能性の時代」と呼び、東浩紀は「動物化するポストモダン」と呼んだ。宇野氏は両者を止揚するかたちで「拡張現実の時代」と言う。このアイデアには正直痺れた。

    《ここで言う拡張現実的なものとは現実と虚構の混在、現実の一部が虚構化することで拡張〔多重化〕することです。それは言い換えれば日常と非日常の混在でもある。〔…〕インターネットは現実のコミュニケーションを「拡張」 する方向にしか作用していない。〔…〕…〈ここではない、どこか〉を仮構するのではなく〈いま、ここ〉を多重化する方向へと虚構に求める欲望が変化している。〔…〕…虚構(ゲー ム)と現実(社会関係)がここでは入れ子状に絡まり合って現実を拡張していると言える》[宇野、p40-41]。

    現代が「拡張現実の時代」と位置づけられるならば、もはや、大きな「父」の代弁者として「ここにない希望(理想)」を語る言葉には意味がない。あるいは、「父」への抵抗として「ここにない希望(虚構)」を弄んでみても欺瞞的なだけだ。《グローバル資本主義下、ネットワーク社会下においては誰もがただ存在するだけで〔否応なく〕貨幣と情報を通じて小さな決定者であり発信者、つまり小さな「父」として機能してしまう》[宇野、p206]。《もはや僕ら一人一人が経済主体であり、メディアであるこの時代に、〔エルサレム賞受賞スピーチでの村上春樹のように〕「自分は卵の側である」と断言することは非常に危険だと思う。誰もが「壁でもあり卵でもある」世界をとらえ、変えていく言葉が僕は必要だと思うんです》[宇野、p31]。

    そうした《誰もが「壁でもあり卵でもある」世界をとらえ、変えていく言葉》として両氏がキーワードとして挙げるのが「ゲーミフィケーション」であり、これは「希望」を創るための基本戦略として非常に説得力がある。

    《要するに現実は「クソゲー」すぎるんだ、ということなんですね。〔…〕それなら現実のほうをゲーム化し、ハマりやすいかたちに〔ボトムアップ的に〕かえればいいんじゃないか、と。もはや政治的なイデオロギーや美しい理念だけで人は動かないのだとすれば、ゲームこそが社会運動の原動力となる》[宇野、p194]。

    以上が本書の骨格であり、これらアイデアが「原石」状態で提示された本書は、最近の両氏の著作の中で群をぬいて刺激的だ。逆にいえば、本書のアイデアの展開版であるはずの両氏のAKB48論や『リトルピープルの時代』がなぜ面白くないのか、考えこんでしまう(端的に言って、貴重な「原石」を磨くための材料を間違えてしまっているのでは?と思う)。

    とにかく、本書が「2010年代(と言うより、1990年代以降)の文化と社会」を読み解く際に(その賛否は別として)無視することのできない一冊であるのは間違いない。
    読んで本当に良かったと思えた本の一つ。


    (追記)
    …と、偉そうに書いてみたものの、この本で個人的に一番印象に残ったのは、じつは宇野氏の「まえがき」での言葉でした。《京都は、いい街だった。いまでも三日に一度くらい「帰りたい」と思う。〔…〕僕はこの好きな街から離れたくなくて、ここでのんびり暮らすつもりだった》[p8]。自分も数年前までまったく同じことを書いていて、今もそう思っています。この一言でこの人に問答無用の親近感を感じました。いつまでも、三日に一度くらい「帰りたい」と思う場所を抱えながら、自分も此処で生きていきたい。そう思いました。

  • 宇野常寛と濱野知史の対談本です。

    ハーバーマス的な「公共性」がこの国に欠如していることを嘆くのではなく、現代日本のネット空間に広がっている「繋がりの社会性」を認めた上で、そこからどのような制度設計が可能なのかを検討することこそが「希望」につながるというメッセージが発信されています。

    情報社会論を専門とする濱野は、アメリカにおけるネット文化が「国家対市民」という対立構図の中で育まれてきたのに対して、村井純に始まる日本のネット文化は、コミュニケーションの内容よりもコミュニケーションそれ自体を目的とする、北田暁大のいう「繋がりの社会性」を実現するために発展してきたことを解説しています。そうした「繋がりの社会性」が、「2ちゃんねる」や「ニコニコ動画」といった、生産者と消費者が融合した「プロシューマー」的なコンテンツを生み出してきたことに、積極的な意義を見るべきだと主張します。

    梅田望夫の主張するような、主体的な個人がネットを通じて意見を発信することで形成されるコミュニティを理想視し、「2ちゃんねる」のような「繋がりの社会性」を貶める二項対立的な図式をズラそうとする著者たちの意図はそれなりに理解できるのですが、ハーバーマス的な「公共性」に見切りをつけることができずにいる者としては、「希望」といっても甚だ景気の悪い話しかないじゃないか、と感じてしまいます。

    たとえば宇野が、ネット文化における偽史的な想像力に期待を語っているのを見ると、そういう想像力は容易に囲い込まれてしまうのではないか、と反射的に思ってしまいますし、また望田の技術決定論を批判しているのを見ると、そういえば技術決定論批判の大御所はカール・シュミットだったのではないか(そういえば宇野は「決断主義」者でした)、といったようなことが思い浮かんでしまうのですが、そういう私のような読者にとっては、両者の語る内容は刺激的ではないかと思います。

  • 震災後の日本における
    希望とは何か。

    宇野氏と濱野氏は
    若き評論家と学者。

    日本のインターネットや
    ポップカルチャーで得られた
    知見を参考に
    ポジティブな提案ができればと述べる。

    Ⅰ震災から考える では
    「原発」を内部的な力の暴走と言う。
    では復興への希望をどうとらえるのか。
    地域コミュニティの再生に
    ソーシャルメディアを使った
    ボトムアップ型の復興を
    推奨しているように読める。
    そこに異議を唱えながらも
    結局、同意しているように読める。
    そうではあるが。
    それでは少し希薄なように感じる。
    メディア論と新たなメディアから
    生まれる新しい形の復興は理解できるし
    そうした試みはさまざまに行われているし
    行われていくのだと思う。
    しかし、インターネットやソーシャルメディアと
    現実との融合やリンク、拡張現実の部分を
    もっと議論してほしかった。

    Ⅱ「戦後以降」を考える では
    「虚構の時代」の終わりから
    「拡張現実の時代」へ。
    70年代以降~高度成長の終わり以降~
    を切っている。
    そこで日本的なインターネットの
    独自の発展の姿を取り上げて
    インターネットやそこで広がる
    ポップカルチャーに目を向けている。
    ニコ動とかAKBとか
    日本的想像力(創造力)をクローズアップする。
    それはわかる。
    しかし、経済的なデフレ状況が
    これまでのこうした気分をつくってきて
    これからインフレに向かうとき
    そこがどう変わるのか。
    70年代以降の「虚構の時代」は
    終わりを告げ、大きな物語は語られず
    右肩上がりは終焉した。
    しかし、経済という下部構造が
    こうした時代の空気をつくってきたとするなら
    これから変わりゆく世界をどう見るのか。
    そこを語ってほしかった。

    Ⅲ「希望」を考える では
    希望とは自己承認ととらえ
    またインターネットが出てくる。
    もちろん、日本的ガラパゴス的
    ネット上でさまざまな承認が
    されうる機会がある。
    そして、仕事での承認ではなくていい
    的な論調もあった。
    しかし、しかし。
    長い目で見ると
    仕事はその人の人生に
    大きな時間を強いる。
    お金を生み出す。
    もちろんネットからのビジネス展開も
    大いにあるが、そこにはあまり触れていない。
    文化論だけでなく、
    経済論として、ネットを考えないと
    全体的な論議にならないと感じる。

    アベノミクスは本質的な潮流なのか
    あだ花なのかはまだわからない。
    しかし、こうした政治、経済の動きも踏まえて
    これからの「希望」を語ってくれることを
    希望したくなった一冊だった。

  • そもそも絶望なんてないーという言葉で締めくくられている。文学的な想像力に表れる現実の形を捉え直す文化時評的な対談。希望論と銘打っているが、あまり希望は見出せない。今の社会の変化を肯定的な視線で捉えているからか。逆に言えば、草食化やソーシャル化、内向き思考など今の社会を否定的に捉える目線が多すぎるために、この本が「希望論」になり得るのかな。

  • 「自己承認なんてものは、もはや断片的で確率的なものでしかあり得ない」

     失われた10年だったのがいつの間にか20年になって、僕たちが青春を過ごした時代が無意味だったかのようなことを言われちゃって、それを聞く僕たちも、何となくそんな気分になっていたけど、それに異を唱える人がいる。そのうちの二人が著者。何反省しちゃってるんだふざけるなと。
     おっちゃんたちが見ていた世界は確かに停滞の時代だったかもしれないけれど、オッチャン達が見ていなくて僕たちが見ていた世界では時代は確実に進んでいる。僕たちの青春時代は決して反省の対象にされるものではないのだと。著者は、着実に発達してきた自由の拡大を、最大元に享受して発言を続けている。
     自由の拡大という進歩と、superflatからcooljapanへと流れる日本文化の肯定感(ちょっと狙いが違うけど)この2つを利用して、日本にドメスティックな希望を見いだす。だから希望論。
     同世代の人が本気でそう考え実行しているのは題名のとおり希望になる。素直に未来に対するワクワクした期待感がもてたことが嬉しい。
     他には、共同体についての議論が結構あるけど、Facebookとかシェアハウスとかを見ると、確かに断片的な自己承認の詰め合わせで承認欲求を満たそうとしている私たちがいて、そこに僕もいる。そしてその欲求が決して満たされる事はないからこそ、流動的にならざるを得ないという面がある。
    これは善し悪しのもんだいではなく、受け入れざるを得ないものなのかもしれない。

  • テクノロジーを手触り感の部分に惜しげもなく使うのが日本の文化で、それのインターネット版がドワンゴです。っていう話は、まあそういう見方もあるねえくらいの話。ゲーミフィケーションで世の中を良くしていこうってのは、姿勢として正しいとおもうので私もその線でなにかやりたい。VR>ARってのはこじつけだけど、割合とメタファーとしては優れていて話しとしては面白かった。いろいろと考えるきっかけになるネタに溢れていて、それはこの対談形式というフォーマットもプラスに作用しているんだろう。新書としては満点だな。

  • 宇野さん・濱野さんがこれまで主張してきたことの再録+α版。1章は原発の議論+『リトルピープルの時代』を基にした宇野さんパート。2章は濱野さんによる情報社会論の捉え直し。個人的にはここが胸熱。濱野さんがなんで『アーキテクチャの生態系』で日本社会論にこだわったのか。それは日本的な(ひろゆき的な)ネット空間を分析しなければ、日本独自の「フロンティア」が見えないから。このパート、普通に情報社会論の基礎的な流れの確認としても読めるし、そこに+αで濱野流の情報社会論の日本的な捉え直しもあって熱い。「梅田望夫的(アメリカ的)」と「ひろゆき的(日本的)」という括りは実感としてはすごく納得で、日本の土壌を受け入れた上で外発的にではなく、内発的に(宇野の言葉だとハッキングで)変えていくしかない。

    ただ疑問もある。日本的、ガラパゴス的、匿名的ネット空間に可能性がある―というのはどうしてなのか。確かに、日本のネット文化・土壌を受け入れた上で希望を語る、議論を展開していくしかない―というのはわかる。でも、日本的な環境「だからこそ」希望がある、というのはどうしてなのか。もう少し言及がほしい。

    そして、この本にある最大の問題。果たして、この本に収められている言葉は、どこに届いているのだろうか。ハイコンテクストで、これまでに思想の言葉に触れていなければ、いやむしろ具体的に『リトルピープルの時代』『アーキテクチャの生態系』を読んでいなければ、はっきり言ってわからない議論だったのは間違いないと思う。この本を市場に放り投げた時、購入者は思想地図界隈を好む読者に限られるだろうし、例え「誤配」が起こって他の読者に読まれたとしても、おそらく宇野さん・濱野さんの言葉はその読者には届かない。排除されてしまうはず。

    思想地図界隈のマーケットなんて(東さんが前にLife現代思想の回で言っていたけど)せいぜい3万人くらい。多く見積もっても数万人程度。そこへ向けたところで、規模は果てしなく小さい。

    宇野さん・濱野さんの議論が悪いというわけじゃない。むしろ、抜群に本質的でクリティカル。だからこそ、その議論は多くの人に届けるべきだし、その届ける努力がみられなかったのはもったいない。徹底的につけられた注釈そのものがハイコンテクストで、思想地図界隈の「外側」にいる読者には絶対にわからない。そのあたりの「議論」ではなく「姿勢」(思想系の言葉でいうならば、コンスタンティブではなくパフォーマティブな側面)について2人はどう考えているのだろうか。

    また、議論が極めてレトリカルだったのも気になる。いや別にレトリックを用いることは悪い事じゃない。問題は議論が具体例に落とし込まれたとき、途端に弱くなることだ。おわりに濱野さんが「その具体的な提言となると、稚拙さも目につくものだろう」と告白しているように、抽象的なレベルにとどまっているという指摘は回避できないはず。その意味において宇野さんがいう「文芸評論家だから」というロジックは言い訳にしかならない。だからこそ、具体的な構想をレトリックで片づけるのではなく、現実の実務的な、届く言葉で方てほしかったし、語るべきだと思う。そのあたり、多分宇野さんも濱野さんも自覚していると思うし、今後の課題なんじゃないかなと思う。

  • 東日本大震災によって既存の枠組みに対する絶望感が生まれる中、日本人はどこに「希望」を見出したらいいのか?
    戦後日本の社会構造、日本におけるインターネットの発達史などを紐解きながら、2010年代の「希望」へとつながる萌芽を探っていく本。

    実世界とコンピュータがより密接につながりリアル空間を広げてくれる「拡張現実」という概念は、世界中で着実なムーブメントを起こしている。
    (例:Facebookを通じた実名による社会交流の拡大、ネット選挙による政治活動の多様化)

    もちろん、日本でもこういうムーブメントは起きている。
    しかし、この本ではそれ以上に、日本からスタートした、特有の動きにも注目している。

    例えば、
    現実のコミュニケーションがその一部をゲーム化する「ソーシャルゲーム」
    「繋がりの社会性」的な無内容なコミュニケーションを起点にしたネットワーク
    (友人との雑談を重視したmixiやLINE、2chのまとめサイト)
    などなど。

    欧米では、個々人が相互に自律的に判断する能力を持って「契約」を結ぶ個人像が前提となり、TwitterやFacebookのような個人全面押し出し形、世の中には意味を持たせなければならない、みたいな発想のサービスが発展してきた。

    一方、日本ではソーシャルゲーム、mixiやLINEみたいな、個人がそこまで自己主張するわけでもなく、一見すると中身の無いようなサービスが発展している。
    でも、そういう無内容に見えるコミュニケーションこそ、日本人の根底に息づくものであり、もし日本に「希望」を見出すなら、むしろそういったところから突破口を広げ、日本らしさに根ざしたムーブメントを起こさなければならない。

    …というふうな感想を抱きました。
    インターネット普及から2011年までのの日本情勢が簡潔にまとまっており、新しい枠組みを作っていく上でのヒントが詰まっているのではないかと思います。

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著者プロフィール

1978年生まれ。評論家。批評誌「PLANETS」「モノノメ」編集長。主著に『ゼロ年代の想像力』『母性のディストピア』(早川書房刊)、『リトル・ピープルの時代』『遅いインターネット』『水曜日は働かない』『砂漠と異人たち』。

「2023年 『2020年代のまちづくり』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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