「デモ」とは何か 変貌する直接民主主義 (NHKブックス 1190)
- NHK出版 (2012年4月28日発売)
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感想 : 19件
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Amazon.co.jp ・本 (224ページ) / ISBN・EAN: 9784140911907
みんなの感想まとめ
デモは直接民主主義の重要な表現であり、その歴史を通じて日本におけるその変遷を考察する作品です。特に、近年のデモが非暴力的で祝祭的な形態に変わってきたことを評価しつつも、単なる行進や占拠では社会を変える...
感想・レビュー・書評
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知りたかったことをしることができました。
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今の世の中は何かおかしい、私たちはどうにかしなければならいと思っている人が少なくはない。世界各地や日本でも貧困、人権問題、環境問題などなど…様々な問題に対して、たくさんの人たちが声をあげはじめている。「「デモ」と聞いてもどこか疎遠に感じ、自分の生活には遠いものだと感じる人々も多数いるだろう」(p.65)。しかし、デモは日本の戦後史の一部である。
昔はドッドッドッと大きな音を鳴らし、ヘルメットをかぶり、鉄パイプや角材を手にした大規模の集団が歩いているという形式のデモが行われた。今はテントを張って半年以上公園で寝泊まりして、勉強会、コンサートなどを行う、非暴力の形のデモもある。今の世の中は反対の声を様々な形で表すことができるようになった。さらにソーシャルメディアが登場したことによって、情報の広がり方が変わり、これがデモの規模や形を大きく変えた。それについて「デモとは何か-変貌する直接民主主義」(2012年4月NHK出版刊)という本に政治学者五野井郁夫は細かく分かりやすく解説している。
リーダーの存在、メディアの役割、日本におけるデモの歴史と当時の政治状況などを語りながら、現在の 「オキュパイ・ウォールストリート」のようなデモの祝祭化を示し、その理由を指摘している本である。社会学に興味がある方はもちろん、今の世の中はどうなっているのか理解したい方にも、大学に入って何をしたいかどんな人になりたいか悩んでいる方にもオススメの一冊である。
(ラーニング・アドバイザー/国際日本研究 NATALIA)
▼筑波大学附属図書館の所蔵情報はこちら
https://www.tulips.tsukuba.ac.jp/mylimedio/search/book.do?bibid=1456096 -
直接民主主義が良いものであることを前提に,デモが直接民主主義の表れであるとし,主に日本におけるデモの歴史を辿る。
結論は,『デモだけで社会を変えることはできない。ロビー活動など,議会制民主主義に影響を与える活動が必要であり,デモを意識する国会議員もまた,必要である』というもの。
デモの歴史を記述する中では,ここ最近のデモが非暴力的なデモ(音楽を用いた祝祭的なデモ)に変化したことを賞賛するものの,思考停止してデモ行進や占拠デモを繰り返しているだけではダメだという結論なので,実は,ここ最近のデモを全肯定するものではない。 -
OWSデモを皮切りに日本のデモの歴史を振り返り、デモとは何かを考察する。
OWSデモがいかに民主主義の理想を体現する可能性にあふれていたかに改めて驚かされる。
デモの歴史を振り返る中で、日本の60年代から80年代のデモ(やそれに準ずるもの)の中にもそういった片鱗が多く見えたように思えた。
それだけに脱原発デモがOWSデモのような多様性や直接民主主義的なものがほとんど見えなかったことが残念でならず、なぜああなってしまったかの考察が待たれる。 -
本のタイトルである「『デモ』とは何か?」の問いへの回答は、結局よく分からなかった。
この本のサブタイトルは、「変貌する直接民主主義」。その象徴がデモと言うことらしい。
オキュパイ・ウォールストリート運動のルポは面白く読んだ。
非暴力、非ヒエラルキーを掲げ、チィーチ・イン、ワーク・ショップ、ゼネラル・アセンブリー等の手法を用いて議論を尽くし、方向性を参加者全員で導く...1つの統率の取れた直接民主主義の形態を実現していたように思った。
いずれにせよ、デモは直接国民が声を上げられる大事な手段であることには変わらない。 -
近年のデモの流れとこれからについて。中国やアジアのデモについて全く言及がなかった。在特会についても言及は少ない。第一章のアメリカのタクシー運転手が発している疑問に対する回答が最後まで読んでもなかったように思える。とりあえずデモに行けばいいということが直接民主主義なのか?いまいちの印象。
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2011年の大地震後の福島第一原発の事故を受けた脱原発デモに私も何度か参加してみた。その時に思ったのは、デモとパレードと何が違うんだろうということ。おそらく参加してみるまで、デモは何か「反○○」のような感じがして何となく自分と相容れないものだと感じていたはず。でも参加してみると、デモとはパレードとの違いが見出せないほどに、まさに本書でも述べているのだが、祝祭的なものだった。参加した人との出会いを通して、まだ自分の思いを行動に移しているという思いを味わえるものだと感じた。
前述の、何となく「反○○」な感じがするというところが日本人の大方のデモ観だったのだと思う。実は何に対する「反」なのかすら明らかにしないまま、ムードとして忌避されてきた。それはかつての「血のメーデー」や安保反対運動が長じて全共闘などの学生運動や連合赤軍と結びつけられてきた歴史があるせいかもしれない。加えて、かつてのデモは知識人や学生など有閑層のものという感じがあったのかもしれない。だが、インターネットやSNSが発達した今日行われるデモは、本書が言うところの「社会運動を持ち歩く」ことだという点にはうなずけた。
だからこそ、ただのパレードに終わるのではなく、何のために何を目指すのかを明らかにして行うことが大切だ。本書が述べるとおり、デモは議会内の政治に対する「院外の政治として民意(直接民主主義)を表明する貴重な方途なのだから。
本書でも、先進国でありながら日本ほどデモが不自由な国はないと述べている。先進国どころでなく、アラブの春の例を見れば途上国を含めてもそうだろうと感じる。警察の先導のもと、列をなし粛々と歩くのが日本のデモの実態。この状況は為政者による抑制であると同時に、社会がデモを忌避していることの表れでもあろう。「デモをしても迷惑なだけで何にもならない」という声もある。本書でも有益なのはロビー活動をしたり、議院会館を訪ね、一人ひとりに訴えて回るほうが有効だという河野太郎氏の主張が紹介されてもいる。
デモが忌避される社会、それは直接民主主義を拒否する姿、自由と責任をとりたがらない姿とも重なるように思う。したり顔して「デモなど無駄」だと言うよりも、行動することが社会を変えることを信じて動き出したほうがよほどいい。そのためには、デモ(パレード)が何たるかをしっかりと位置づけ、市民の責任を示す行動の表れとして位置づけることが必要だ。 -
考察が足りない。
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「デモ」という直接民主主義の現在、これまで、そしてこれからについてわかりやすく俯瞰している。
個人的には、「非暴力」の力、「デモ」における音楽の力、2011年春から全国的に広がった節電の動きを「節電率=不買率」と読み替えることができるとの指摘、日本における「デモ」をめぐるさまざまなクリエイティブな動きが実は世界のにも影響を与えている事実などは、非常に興味深かった。 -
所在:展示架
資料ID:11200238
請求記号:316.4||G63||1190 -
※「わざわざそこまで…」という横文字が多かったのが、不勉強故かも知れないが読みにくかったので☆3つ
前半はアメリカのオキュパイウォールストリートの報告
後半は日本のデモの歴史や変遷を米騒動から
前半•後半を通して見えたことは
二つ
まずは、デモ(だけ)で社会は変わらない
デモを行うことは今まで取り上げられなかった少数者の声や黙殺されてきた論点を多数者に叩きつけ、考慮させるという点では有効でも、そこに集まりシュプレヒコールを上げるだけでは変わらない。
そこに参加して得たものを地元の国会議員に複数で説得に回る
もしくは複数人で地方議会議員に働きかけつつ陳情を出し、意見書を上げる
といった草の根行動を持って初めて社会は変わるということ
二つ目は
デモは社会に必要
さらには自分で考え、動くことが必要
デモ=暴力といったイメージはメディアが作ったもの
実情は
デモ=社会を良くするために、自らの生活や行動を通じて「おかしい!」と思ったことをアピールするお祭り
メディアは伝えたいものしか伝えない、本当のことは自分の手足で見て回ることでしか分からない
といった前提を持つ
そして結論
少数者の意見を無視せず、熟議し、可能な限り最大限反映させることが大事!
その意見表明の場が今までに少なく、参加障壁があったものの3.11以降はその敷居が低くなったのはいい傾向
デモを遠足的に楽しもう!
(関電前含め各地で寒くなってきて、暖かい飲物を売るような屋台ができたら嬉しいし、語らいの場ができて素敵やと思う)
メモ
アメリカ社会
就職の際に逮捕歴等の仕事に関係のない調査をするのは違法
→仮に社会運動で逮捕されても就職の際の汚点にはならず、世の中が変われば就職できる可能性も
リーダー不在
変なヒエラルキーや排除が起こりにくい
指針がない
参加者が話し合い、足りない意見等を補足し合う空間
→誰もが自由に参加しやすい(方向性や結論にはブレなし?)
連帯のための参加意識を高める仕掛け
人間マイク→ニューヨークの公園はマイクやスピーカーの使用不可という前提から生まれたものの、「聞かせよう」と早口や過度に議論や主張がヒートアップするのを防げる
時間はかかるが短く区切って全員が声を発して伝えていく過程で反応を見ながら(指でのサイン)自分の意見を再考•熟考できる
メディアがデモを報じない
暴動ではなく、声をあげるだけの絵しかないから
自民の強行採決→議会制民主主義の破壊者、対米盲従姿勢 -
こんなデモがあった、あんなデモがあった、という話が続く。導入のオキュパイ・ウォールストリートの話は取材に行っているだけあってライブ感もありよいのだけれど、全体的に、サウンドの出番が目立ち、なにかデモは平和なものになった、というメッセージが強すぎるように思えます。「変貌する直接民主主義」というサブタイトルだけど、60年代の院外政治を継続変化し、非暴力になったのが今のデモだ、と。
逮捕者もでない、破壊もない。そりゃ、いいことなんだろうけども。 -
「ネットが変える社会運動」書評欄(恵泉女学園大武田教授)より引用。
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昨今日本でもデモが散見されるようになった。本書は、デモに関する歴史をたどっている。60年代安保反対運動の中心にいた丸山眞男が「(衆参議)院外」の直接民主主義行動とみなしたデモが分水嶺に至ったのが、80年代。
デモを支えるに二大勢力だった、労働組合は新自由主義政策のもとに弱体化し、大学生たちは消費社会化の流れに飲み込まれて、脱政治化をとげた。
こうした旧来型デモと入れ替わるように新しい社会運動が育まれる。左派イデオロギーから離れて、消費社会の中でも様々な矛盾への意義申し立てが行われる。
インターネット、ソーシャルメディアの広がりにより、人々が自ら発信する機会が増えた。参加者の輪が広がる一方で、匿名性と移動性の高さから、言いっぱなしややりっぱなしの無責任な言動もあり得る。
デモは建設的にして批判的な社会運動であり続けられるか。その問いは、20世紀初頭の二人の社会学者の間の論争を想起させる。
「特定の場所に集まって声や身振りで情報交換する群衆は暗示にかかりやすく、衝動的で非合理な存在」としたル・ボン『群衆心理』と、「メディアによって情報を共有する理性的な公衆の登場」を期待したGタルド『世論と群衆』。
人間は集団となったときに、力を合わせて自分たちの未来を良きものに変えるだけの知恵を備えているか、それが常に問われ続けている。 -
2011年以降とデモの形と、近代の日本のデモについてわかる本。
2011年以降の話が意外と少ないなあと思いましたが、その分、日本の近代史がデモを中心としてわかったので、個人的にはありがたい本でした。
ブログはこちら。
http://blog.livedoor.jp/oda1979/archives/4236554.html -
別に面白くはない。
アラブの春、ヨーロッパの夏、ウォール街の秋。
日本でもデモに対するメディアの態度が変わってきたな。
原子力のデモは許容されている。
フジテレビへのデモは放送されることなんてないだろう。 -
”デモ”とは何かではなく、こんなデモも有りました。
ただそれだけの本。
暴力デモと非暴力デモと分けていますが、暴力とは何か、権力側からの規制に対して防御も暴力として一言で括っているのはどうなのでしょうか。 -
ツイッターなどで名前を知っていた五野井氏の、デモに関する本だということで非常に期待しながら読んでみたのだけれど、正直期待はずれだった。
アメリカ(他)のオキュパイ運動や、日本の戦後から現在に至るまでの社会運動を、非暴力直接行動として位置づけながらたどっているのだけれど、事実の羅列が多く、考察がさらっと書かれているのでいまいち議論の根拠がわからない。というか、そもそも「デモとは何か」という、タイトルにもなっている内容への回答が見えてこない。
個人的にもっとも気になったのは、著者が「非暴力直接行動」(あるいは「平和的行動」)ということをしきりに評価しているにもかかわらず、「暴力とはなにか」「直接行動とはなにか」ということをほとんど全く定義していないということである。
デモという行為が「表現の自由」の実践とみなされるとすれば、そこでは当然ながらどのような表現行動が「アリ」で、どのような行動が「ナシ」なのか、ということは慎重に審議されなければいけないはずである。一見「暴力的」に見えるような抗議行動でも、そこに重要な視点が含まれているかもしれないからである。単に通俗的な「道徳」(あるいは「常識」「社会通念」?)や「イメージ」の問題として抗議行動の手法の是非を裁いてしまえば、それは従来の権力構造を温存するおそれすらある。
しかし、この本ではそこを掘り下げることなく、「非暴力=平和的」といった片づけ方をしている。これでは過去の運動は「暴力的だから(あるいはそういうイメージを抱かれたから)支持を失った」とでも言わんばかりではないだろうか。非暴力直接行動などと書くのであれば、せめて向井孝の本の紹介でもして欲しかった。
(もっとも、そこを掘り下げ始めるとそれだけで一冊の本が書けるぐらいのことになってしまうので、徹底的にやれとは言わないけれど、全く定義しないというのはあんまりである。パレスチナの自爆テロのような究極の手段を「肯定しないにせよ、否定はしない」という態度を取る向井のような人間の方が、運動にコミットメントする者の言葉として誠実であると僕は思う。逆に、五野井の態度は「優等生」的な臭みがあるように僕には思える)。
それから、これは毛利嘉孝や雨宮処凛など、社会運動を記述する人にありがちなスタイルなのだが、(ごく)一部に生じた現象を、まるで普遍的な出来事であるかのように語っていることに違和感をおぼえた。
たとえば…
(安保闘争の頃の社会党の活動に触れて)「現在はデモのときに選挙カーを貸してくれる存在として若い世代に認知されている社民党は当時社会党という名称だったが」(p79)
→なにその認知?
「その後、『自隊に入ろう』は多くの替え歌が作られ、(中略)レベル・ミュージックとして受け継がれている」(p94)
→そういう動画がyoutubeにアップされてることと「受け継がれてる」というのはイコールなのか?
(大阪におけるフォークゲリラ活動、梅田地下大学に触れて)「これは今日、日本中で行われている地下大学の原型の一つである」(p94)
→地下大学?日本中?
「このように楽しみつつ行われるデモによって、若者たちの間でデモのイメージは暴力から祝祭へと完全に転換した」(p162)
→「完全に転換」してたらしい…
このような記述と実態のズレは、運動における地域性の問題もあるだろう。要するに「東京の一番盛り上がってるところではそうかもしれないけど、地方ではどうかね」という感じである。
別に、僕も重箱の隅をつつくようなことをしたいわけではないのだけれど、不十分な根拠からある現象を一般的なことであるかのように語ることが、そこから排除される人を生み出すことを考えるに、無駄な指摘ではないと思われるので指摘してみた。
総合的に見ると、どうも事実の紹介も分析(考察)も中途半端さが目立つように見える。デモや運動についてよく知らない人に知ってもらうために使えるかと思ったけど、そういう意味でもイマイチかもしれない。
著者プロフィール
五野井郁夫の作品
