ハンナ・アーレント『全体主義の起原』 2017年9月 (100分 de 名著)

制作 : 仲正 昌樹 
  • NHK出版
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  • Amazon.co.jp ・本 (116ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784142230785

感想・レビュー・書評

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  • ユダヤ人の学者アンナハーレントの思想を解説。
    なぜ全体主義がうまれナチスによる迫害がとまらなかったのか?について向き合った生涯。


    まず彼女は全体主義の起源を以下のように定義する。
    ヨーロッパにおける大衆の誕生は19世紀の末くらいから。そこで強調されたのは市民との違いであった。
    市民とは大衆社会以前の概念。自分たちの利益やそれを守るにはどうすればいいかがクリアだった。
    理由は階級社会。
    労働者は労働者階級、貴族は貴族階級、資本家は資本家階級でわかりやすかった。
    しかし選挙権が普通選挙に拡張されることによって、階級意識が希薄化していき階級ではなく大衆が誕生。
    大衆は自分の利益がなになのか?を明確に意識することもすくないしわからない。
    階級社会の時代は同じ階級に属するだれかが自分の利害をさししめしてくれる。階級に束縛されるわずらわしさはある一方でシンプル。これがなくなることで、束縛から自由になる一方で選ぶべき道を示してくれる人も利害を共有できる仲間もいなくなりすべてを自分できめなければいけない状況に放り出される。
    そうした状況の中で全体主義政党が、「排外的な政策をかかげて世界観を提示」。ナチスとロシアが成功した。
    現在でも大衆がとびつくのは完全に武装蜂起とか核武装とか完璧に規制緩和といったわかりやすい政策。しかし世界はそれほど単純ではない。ちょっと待てよと現状認識を俯瞰することが大事。わかりやすい説明や唯一無二の正解を求めるのではなく、試行錯誤をつづけることが全体主義を避ける重要な姿勢だと示唆。
    上記は「全体主義の起源」の主張。
    そのあとで彼女はナチスのホロコーストを指導したアイヒマン裁判についてかいていく。
    なぜアイヒマンか?
    彼はわたしは法に忠実にしたがったからだ、だから正義はわれにありと主張。とくにカントにしたがって生きたと強弁。
    カントはむしろ人は法にしたがうだけでなく法の背後の精神と同一化しなければならないと主張しているのだがそこが欠落し、法律=ヒトラー、法を遵守してなにがわるいのかと。
    アイヒマン裁判のあとにアメリカでミルグラムの実験がおこなわれた。
    学生が先生役と生徒役にわかれる。で、生徒が間違えると電気ショックをあたえる。
    でふつうだとそんなひどいことはしないはずだが先生役の学生のそばに権威者を置いて命令をさせると、6割の先生役の学生が躊躇なく電気ショックをあたえるようになり、生徒がもだえくるしんでいても続けていく。
    これはアイヒマンと同じ状況だ。つまり人はだれもがアイヒマン的な部分をもってるという実験。
    つまり権威者の命令に服従し、善悪の自己判断を超越して残酷なことをしうるということをしめした実験になる。これを克服するには、考えることを放棄しないにつきるがこれが難しい。全体主義は常に絶対的な悪を設定し考えることを放棄させていく。
    だれにがアイヒマンになる恐ろしさを秘めている。そうならないための処方箋は、「自分とは異なる意見」をきく耳を自分のなかにもちつづけることだと彼女は語る。
    人は自分を支持してくれる意見をききたがる。しかしそれではダメだ。自分が理解しにくい意見をちゃんときき深く考えること。これがアイヒマン化しないポイントだと。
    マネジメントでいくと、アイヒマンはもっとも忠実な部下とも言える。
    こういう部下をたくさんもってると統率のとれたマネジメントをしてるといわれるだろう。
    しかしそれは善なのか?というとそうではない。

  • ハンナ・アーレントの主著『全体主義の起源』(全三巻)と『イェルサレムのアイヒマン』についてNHK『100分de名著」シリーズで紹介された内容の書籍化。トランプ大統領の誕生で、アメリカでも時を超えてベストセラーになっているという。手っ取り早く理解したかったので購入。

    20世紀の前半を暗いものにした全体主義について歴史的に考察したのが『全体主義の起源』である。なぜあのようなことが起こりえたのかを理解することは現在においても重要な課題でもあるといえる。全体主義に関して階級に属さない「大衆」の発生が大きな影響を与えたとしている。反ユダヤ主義は、敵を必要としていた国民国家において、「大衆」に提示された「世界観」だったのである。ナチスは国家政党というよりも「運動」であった。その状況に関しては現時点でも同じことが言えるのだ。

    アイヒマン裁判を傍聴してまとめた『イェルサレムのアイヒマン』は、絶滅収容所におけるユダヤ人協力者の存在を隠さなかったり、アイヒマン自身を極悪非道な人間と描かなかったことにより、ユダヤ人社会含めて批判を受けたという。冷静になると、アイヒマンが凡庸であったことの方が空恐ろしい。

    「アーレントのメッセージは、いかなる状況においても「複数性」に耐え、「分かりやすさ」の罠にはまってはならない ー ということであり、私たちにできるのは、この「分かりにくい」メッセージを反芻しつづけることだと思います」

    「分かりやすさ」というものに対しては警戒を続けなければならない。ネットとモバイルが隅々に広まった現在においてはさらに重たいメッセージなのかもしれない。

  • ナチスドイツや全体主義については、「20世紀の遺物だろう」と勝手に過去のものにしてしまっていたが、『全体主義の起原』で描かれている内容に、予想以上に現代社会とのオーバーラップを感じ、驚いた。
     
    更に、第4回の『エルサレムのアイヒマン』においては、命令と法を遵守する平凡な人間が、その「無思想性」故に大量虐殺者になってしまった経緯を考えるにつけ、法に則って仕事をしている自分も、いつかアイヒマン側に脱落してしまうのかもしれないという軽い恐怖さえ覚える。
     
    それを防ぐにはどうしたらいいのか。
     
    ・「複数性(多様性)」に耐えること。
    ・「分かりやすさ」の罠にはまらないこと。
     
    まずは、番組とテキストで提示されたこの2点について、丁寧に向き合っていくことが必要なのだろうと思わされる。

  • 5歳の娘に「妹のおもちゃ取り上げて遊ぶのは、バイキンマンと同じ」「次々におもちゃを買って捨てる人は、ヒーリングッとプリキュアの敵」と伝えてきたその言葉が、ブーメラン返しに自分に刺さる本。
    ホロコーストも優生思想も、普通の人が自分を普通と決め込んで、口を拭うことから始まっている。『すばらしい新世界』(オルダス・ハクスリー)や『命の選別』を読んだ後では、それのことが一入、身に染みた。

    ーー人が他人を心置きなく糾弾できるのは、自分は「善」であり、彼は「悪」だという二項対立の構図がはっきりしている場合に限られます。(p.98)

    小さな子どもの中にも、凡庸な悪の芽はある。
    それを糾弾する私の中にも。
    政治家の愚行や富豪たちの不道徳を弾劾する言説の中にも。
    鬼退治に熱狂するムーブメントの中にも。

    不安に耐えろ。
    わかりやすさを求めるな。
    「安住できる世界観」を疑え。
    宙ぶらりんの自分を受け入れろ。
    「複数性に耐える」ことを通して考え続けろ。
    相対的に悪から自由になるために。

  • 「100分de名著 ハンナ・アーレント『全体主義の起原』」。仲正昌樹。NHK出版。2017年8月出版。



    世界最大の悪は、平凡な人間が行う悪なのです。



    強烈な「共通の敵」が出現すると、それまで仲間意識が希薄だった人々の間に強い連帯感が生まれ、急に「一致団結」などと叫ぶようになる。

    それを維持・強化するために、つねに新たな「敵」を必要とします。身近にいる誰かを仲間外れにしないと、自分たちのアイデンティティの輪郭を確認できないからです。

    自分たちは悪くない、と考えたい。それが人間の心理です。異物を抱えているせいで問題が発生しているのだ--と考えたい。

    自分たちに、自分に、根本的な問題があると考え、それを直視しようとすることには大きな痛みが伴いますが、異分子に原因を押し付ければ、それを排除してしまえばよい、という明快な答えに辿りつくことができます。



    国民国家と帝国主義は、そもそも相容れないものだった。
    「ここは我々の土地だ」「なぜ異民族に支配されなければいけないのか」



    民族的ナショナリズムの特徴は、自分の民族が「敵の世界に取り囲まれている」「独りで全てを敵とする」状態に置かれているという主張である。

    いずれのキーワードも戦後70年を経て右傾化が見える現代の日本にぴたりと符号するのではないでしょうか。



    全体主義は砂上の楼閣です。常に立ち止まることが許されない「運動」だったということです。



    「大衆」の存在が浮上したのは19世紀の終わり頃。「市民」と異なり「大衆」が自分たちにふさわしいと思ったのが全体主義です。

    大衆は共通の利害で結ばれていない。資本主義経済の発展により、「労働者」「資本家」などの階級に縛られた人々が解放されることは、大勢の「どこにも所属しない人々」を生み出す。
    てんでバラバラに、自分の事だけを考えて存在している状態。大衆の「アトム化」。19世紀末から20世紀初頭にかけて、西欧世界全般で見られました。
    そもそも大衆の多くは、政治に対する関心が極めて希薄でした。その人数が多すぎるか公的問題に無関心すぎるがゆえに、政党、利益団体、自治体、組合などのかたちで自らを構成することをしない人々の集団。

    投票率で言えば、日本人の半数は「投票に参加せず政党に加入しない生活で満足している」大衆だということになります。

    求めるのは安直な安心材料や、判りやすいイデオロギーのようなものです。それが全体主義的な運動へとつながっていったとアーレントは考察しています。

    ヨーロッパ大陸でもっとも人口が多かったのが、ドイツとロシア。実際に大衆を動員して政権を奪取できたのは、ドイツとロシアだけだった。



    人間は、アナーキーになっていく状況の中で、偶然に身を委ねたまま没落するか、一つのイデオロギーの狂気を帯びた一貫性に己をささげるか、という二者択一の前に立たされたときには、常に後者を選び、死をすら甘受するだろう。愚かとか邪悪だからということではなく、カオスの状態では、こうした虚構の世界への逃避こそが、最低限の自尊と人間としての尊厳を保証してくれるように思えるからなのである。



    人間は、何が真実なのか分からない、自分だけが真実を知らされていない状態というのは落ち着かないものです。秘密結社に入っても、トップシークレットを知り得るのはヒエラルキーの階段を上り詰めた一部の人だけです。自分も知りたい、教えて貰えるポジションにつきたい。と思わせるヒエラルキーを、ナチスは構築したわけです。

    いじめの第1歩は、仲間外れを作り出すことです。任意の人物を、集団の意思決定のネットワークから排除する。するとそれまで無関心だった人も、身近に意思決定のネットワーク、いじめっこグループがあると分かる。分かると気になって、自分もそのネットワークに加わり、なるべく中核に近いところに行こうとします。それが自分を安心させ、満足させるもっとも手近な方法だからです。



    強制収容所は死そのものをすら無名なものにする。死という物がいかなる場合にも持つことが出来た「意味」を奪った。




    政治においては、服従は支持と同じだ。



    良心の呵責に苛まれることなくユダヤ人を死に至らしめた人々のメンタリティも、全体主義支配を通して形成された。全体主義支配が人間の「自己」を徹底的に破壊する。

    全体主義は、単に妄信的な人の集まりではなく、実は、「自分は分かっている」と信じている、思い込んでいる人々の集まりなのです。

    人間は、自分とは異なる考え方や意見をもつ他者との関係のなかで、初めて人間らしさや複眼的な視座を保つことができる。

    閉鎖的な環境において、その場の権威者の命令に従う人間の心理、どこまで残虐になれるか。そうならないためには「複数性に耐える」ことがカギになる。簡単に言うと、物事を他者の視点で見るということ。複数性が担保されいてる状況では、全体主義はうまく機能しません。

    全体主義は絶対的な「悪」を設定することで複数性を破壊し、人間から「考える」という営みを奪うのです。

    「悪」のない人間はいないといっても過言ではないでしょう。むしろ正義感の強い人、何か強いこだわりをもって、それに忠実であろうとする人ほど、実際は悪の固まり、ともいえます。

    そもそも異なる意見、複数の意見を受け止めるというのは、実際には非常に難しいことだからです。

    (以上全て本文より)

  • テレビでは十分に解説されていなかったところを補っているだけでなく、さらに詳しい解説が施されていて、アーレントの思想の一端を窺い知ることができる。

  • アーレントを100分にまとめると「こうなるのか」といった内容。100分にまとめるというよりも「テレビでやるとなるとこうなるのか」という方が近い気もする。
    テキストの方は放送よりも良いので、放送は再度見たいとは思わないけど、テキストはそつなくまとめられていてよいです。

  • あまり100分de名著は読まないのだけど、友だちに貸してもらってアーレントの予習復習。
    仲正氏のお話は要点が凝縮されていて理解しやすく、アーレントが訴えかけていることが伝わってきてすごくよかった。とりわけアイヒマンの所。
    アーレントに挑戦する人は一読の価値あり。

  • 『全体主義の起源』と、波紋を呼んだ『エルサレムのアイヒマン』は、現在も全体杉をめぐる考察の重要な源泉となっています。この二作を通じてアーレントが指摘したかったのは、ヒトラーやアイヒマンといった人物たちの特殊性ではなく、むしろ社会なかで拠りどころを失った「大衆」のメンタリティです。現実世界の不安に耐えられなくなった大衆が「安住できる世界観」を求め、吸い寄せられていくーーその過程を、アーレンとは全体主義の起源として重視しました。
     人々の間に国家への不信、寄る辺のない不安が広がっているのは今の時代も同じではないでしょうか。政情不安、終わりの見えない紛争、そして難民問題。世界はどこへ向かおうとしているのか、それを動かす社会の仕組みがどうなっているのかということについて、多くの人が「教科書的ではない」説明を求めています。
     日本も例外ではありません。今世紀に入った頃から、政治について関心があり、「かなり分かっている」つもりの人たちでさえ展開が読めないことが多くなり、良いしれぬ不安を感じる人が増えている気がします。
     ただ安穏としているのも困りますが、だからといって不安に感じすぎるのも問題です。極度の不安は、明快で強いイデオロギーを受け入れやすいメンタリティを生む、とアーレントは指摘しています。
     自分が置かれている状況の変化をきちんと把握しつつ、「分かりやすい」説明や世界観を安易に求めるのではない姿勢を身につけるには、どうすればよいのか。それを考える上で、こん顔取り上げる二つの著作が参考になると思います。

     アーレントが『全体主義の起源』の第一・二巻で提示したキーワードを整理すると、「他者」との対比を通して強化される「同一性」の論理が「国民国家」を形成し、それをベースとして「資本主義」の発達が版図拡大の「帝国主義」政策へとつながり、その先に生まれたのが全体主義ーーということになります。いずれのキーワードも、太平洋戦争へと突き進んだ戦前の日本、戦後七十年を経て再び右傾化の兆しが見える現代の日本にぴたりと付合するのではないでしょうか。
     全体主義の、そもそもの起源をたどっていくと、そこには同一性の論理に基づいて支配を拡大させた帝国主義が、ストレートに全体主義につながったというわけではありません。帝国主義と帝国主義と全体主義の間には、帝国の基盤となっていた「国民国家」の衰退と、それに伴う危機意識があるとしています。

     世界観によって大衆の心をつかみ。組織カスすることが全体主義の最初のステップだとすると、その世界観が示すゴールに向けて、大衆が自発的に動くよう仕向けるのが次なるステップになります。その手法を、ナチスは秘密結社に学んだとアーレントは指摘しています。
     模範として秘密結社が全体主義に与えた最大の寄与は、奥義に通ずるものとそうでない者との間にヒエラルキー的な段階づけをすることから必然的に生ずる、組織上の手段としての嘘の導入である。虚構の世界を築くには嘘に頼るしかないことは明らかだが、その世界を確実に維持するには、嘘はすぐばれるという周知の格言が本当にならないようにし得るほどに緻密な、矛盾のない嘘の網が必要である。全体主義組織では、嘘は構造的に組織自体の中に、それも段階的に組み込まれることで一貫性を与えられており、その結果、ナイーヴなシンパ層から党員と精鋭組織を経て指導者側近に至る運動の全ヒエラルキーの序列は、各層ごとの軽信とシニカルな態度の混合の割合によって判別できるようになっている。全体主義運動の各成員は、指導層の猫の目のように変わる嘘の説明に対しても、運動の中核にある不動のイデオロギー的フィクションに対しても、運動内で各自が属する階層と身分に応じた一定の混合の割合に従って反応するように定められているのである。このヒエラルキーもまた、秘密結社における奥義通暁の程度によるヒエラルキーときわめて性格に対応している。
     単なる下っ端の「よく分かっていない人間」のままなのは嫌だ、という大衆の心理を巧みに利用して、秘密結社的なヒエラルキーを導入したということです。アーレントは「奥義」と表t言していますが、「真実」あるいは「トップシークレット」と言い換えてみるとイメージが湧くのではないでしょうか。
     人間は、何が真実なのか分からない、自分だけが真実を知らされていない状態というのは落ち着かないものです。秘密結社に入っても、トップシークレットを知り得るのはヒエラルキーの階段を昇り詰めた、ごく一部の人たちだけです。自分も知りたい、教えてもらえるようなポジションに就きたいーーと思わせるヒエラルキーを、ナチスは構築したわけです。
     信用されればされるほど、上に行けば行くほど、より多くのことを知ることができる組織と言えば、ある程度の年齢の方であれば、オウム真理教のケースを想起されるのではないでしょうか。これはメンバーの通精神と組織の求心力を高める、最も効果的な方法です。
     もともと上昇志向が強い人はもちろんですが、出世に無関心であったような人でも、一度「他の人が知らないことを自分は知っている」ということの妙を味わうと、知らないまま(知らされない状態のまま)ではいられなくなります。
     こうした心理状態は、いじめという現象のなかにも見出すことができます。いじめの第一歩は、仲間外れを作り出すことです。任意の人物を、集団の意思決定のネットワークから排除する。すると、それまで無関心だった人も、身近に意思決定のネットワークーーいじめっ子のグループがあると分かる。分かると妙に気になって、自分もそのネットっワークに加わり、なるべく痛覚に近いところへ行こうとします。それが自分を安心させ、満足させる最も手近な方法だからです。ヒトラーには、このような人間の心理がよく分かっていたのだと思います。
     アーレントは、全体主義は「国家」ではなく「運動」だと言っています。奥義通暁の程度に応じて細分化されたヒエラルキーも、大衆の心を組織の中枢へと引き寄せ、絶えず運動していくための仕組みといえるでしょう。
     通常の国家は、指導者を頂点として、命令系統が明確なピラミッド状(もしくはツリー状)の組織を形成します。法による統制を徹底するには、それが不可欠だからです。これに対し、組織が実態として固まっていかないのが「運動」。イメージトしては台風や渦潮に近いと思います。

     強い不安や緊張状態にさらされるようになったとき、人は救済の物語を渇望するようになります。それまでの安定と、現在の不安とのギャップが大きければ大きいほど、分かりやすい物語的世界観の誘惑は強くなります。経済的格差が拡大し、雇用や福祉制度などの社会政策が崩壊しかけていると言われる今の日本は、物語的世界観が浸透しやすい状況と言えるかもしれません。
     ナチスも、結党当初はそれほど強い支持を得ていたわけではありません。しかし第一次世界大戦で敗北して以降、急速に経済が逼迫するなか、当時の政権(ヴァイマル共和政の社会民主党政権)は、大衆が国の再興を実感できる(期待できる)処方箋を提示できずにいました。議会での民主的審議を重視するあまり、物事を決定できなくなっていたのです。戦勝国に対しても、強い交渉力を発揮できていないように(大衆には)見えた。我慢できなくなった大衆が求めたのは、強力なリーダーシップを発揮できる剛腕でした。様々な問題を一発解消してくれる秘策が、どこかに必ずあるはずーーそう期待したのです。それまで政治に対してまったく無関心・無責任だった人たちが、危機感のなかで急に“政治”に過大な期待を寄せるようになると、そういう発想に陥りがちだという点にも留意する必要があるでしょう。
     現代でも、特に安全保障や経済に関連して、多くの人が飛びつくのは単純明快な政策です。完全に武力放棄するか、徹底武装するか。思い切った量的緩和こそ最後の策と主張する人がいる一方で、古典的自由主義に則って市場介入を一切やめるのが正解という人もいますが、世界はそれほど単純ではありません。
     単純な解決策に心を奪われたときには、「ちょっと待てよ」と、現状を俯瞰する視点を持つことが大切でしょう。人間、何かを知り始めて、下手に「分かったつもり」になると、陰謀論じみた世界観にとらわれ、その深みにはまりやすくなります。全体主義は、単に妄信的な人の集まりではなく、実は、「自分はわかっている」と信じている(思い込んでいる)人の集まりなのです。
     分かりやすい説明や、唯一無二の成果を求めるのではなく、一人ひとりが試行錯誤を続けること。アーレントの『全体主義の起源』は、その重要性を言外に示唆しているように思います。

     ナチスがユダヤ人を抹殺したように、あるいはユダヤ社会がアイヒマンを糾弾しようとしたように、絶対悪を想定して複数性を破壊するような事象は私たちの身近にもあふれています。会議の場で自分と異なる意見の人を攻撃したり、都合の悪い意見を排除(あるいは無視)しようとしたりすることは、よくあることです。それが複数性を阻害する「悪」だと考えると、「悪」のない人間はいないと言っても過言ではないでしょう。むしろ正義感の強い人、何かに強いこだわりをもって、それに忠実であろうとする人ほど実際は悪の固まり、ともいえます。
     考えるという営みを失った状態を、アーレントは「無思想性」と表現し、アイヒマンは完全な無思想に陥っていたと指摘しています。
     彼は愚かではなかった。まったくの無思想性ーーこれは愚かしさとは決して同じではないーー、それゆえ彼はあの時代の最大の犯罪者の一人になるべくしてなったのだ。
     アーレントのいう無思想性の「思想」とは、そもそも人間とは何か、何のために生きているのか、というような人間の存在そのものに関わる、いわば哲学的思考です。それは、異なる視点を持つ存在を経験し、物事を複眼的に見ることで初めて可能になるとアーレントは考えていました。そこに他者の存在、複数の目がなければ、自分では考えているつもりでも、数学の問題を解くように処理しているに過ぎないと指摘しています。
     彼女が本書で「悪」としているものも、善の対極というより、哲学的に思考することをやめた人が陥るものとしてイメージされています。そういう意味でいうと、私たちが普段「考えている」と思っていることのほとんどは「思想」ではなく、機械的処理。無思想性に陥っているのは、アイヒマンだけではないのです。

     私たちは日々、いろいろなことを考えています。しかし、本当に「考える」ことができているでしょうか。実は既成観念の堂々巡りを「無思想に」処理しているだけではないでしょうか。
     例えば、インターネット上には、様々な池にゃ主張が飛び交っているように見えます。検索すれば「多様な意見や考え方に触れることができる」と思うかもしれませんが、実際には自分と同じような意見、自分が安心できる意見ばかりを取り出して、「やはり」「みんな」そう考えているのだ、と安心して終わっているとが多いのではないでしょうか・
     なぜそういうことになるかというと、一つには、そもそも異なる意見、複数の意見を受け止めるというのは、実際は非常に難しいことだからです。職場や学校で議論していても、基本的に人は自分が聞きたい話を聞いているだけで、他人の話を聞いているわけではありません。異論や反論に耐えるということに慣れていないため、聞かないことで自己防御しているのです。
     自分と同じような意見を求めてしまうもう一つの原因は、それが「分かりやすい」ということです。深く考えなくても、分かった気になって安心できるからです。『全体主義の起源』第三巻が指摘していたように、これはまさに全体主義的世界観を支持した「大衆」の心理に他なりません。
     アーレントは、分かりやすい政治思想や、分かったつもりにさせる政治思想を拒絶し、根気強く討議し続けることの重要性を説いた政治哲学者だと思います。「分かりやすさ」に慣れてしまうと、思考が鈍化し、複雑な原意jつを複雑なまま捉えることができなくなります。思考停止したままの政治的同調は、全体主義につながるーーそのように警鐘を鳴らしつづけたのです。

  •  2016年の米国大統領選でトランプが勝利、2020年の大統領選でバイデンに敗北したものの、米国のポピュリズムへの傾斜に拍車をかけたのは間違いない。ヨーロッパの民主主義の国々でもポリュリズムへの傾斜を認める。
     2022年2月24日にロシアはウクライナへの特別軍事作戦(軍事侵攻)を開始し、ロシアの威信を取り戻そうと必死だ。それに対し、NATO(北大西洋条約機構)をはじめ西側諸国は団結して経済制裁をかける。しかし、各国の経済状況や地政学上の位置などによる不揃いな面は否めない。一方、中国は、21世紀後半を見据え覇権への歩みを進めている。
     今後、中国の台頭により、西側諸国で経済などの不安定さから国民の不安がますます増大することにより、いつか来た道、そう全体主義へのスイッチを国民が入れてしまうかもしれない。そんな不安を持ち本著を読んでみた。
     原典をじっくり読んでみたい。

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