100分de名著 歎異抄 アンコール放送 信じる心は一つである (2017年10月) (NHKテキスト)

  • NHK出版 (2017年9月27日発売)
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Amazon.co.jp ・雑誌 (108ページ) / ISBN・EAN: 9784142230792

感想・レビュー・書評

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  • 書かれた背景等の説明もあり分かりやすかった。

  • 歎異抄(たんにしょう)・親鸞聖人をたたえる人々:
    西田幾多郎(哲学者)
    司馬遼太郎(作家)
    ハイデガー(哲学者)

    参考:http://xn--6quo9qmwi.com/

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    ・仏教は修行や悟りなど自己研磨型の宗教だったけど、親鸞はキリスト教やイスラム経のように救済型の仏教を作った。
    →成功した人間だけが救われるのじゃなくて、頑張ってダメだった人も、頑張れなかった人も救われる。
    ・「他力本願」(誰もが阿弥陀仏に救済される)
    ・「悪人こそ救われる」善人が救われるのならが、悪人こそ救われるべきだ。
    →泳げる人と泳げない人がいたら、泳げない人から救うべきだ。
    ・仏教は善悪で決めない。偏りを嫌う多様性の宗教。
    ・30代の唯円が80代の師・親鸞に本音を聞く。
    →「救済があってもうれしくない」「浄土は恋しくない」→実は私もじゃ。死ぬのが怖い。→だけど、こんな煩悩を持ってる私たちは、ちゃんと阿弥陀仏に救われる。
    ・罪を抱えたまま生きよ。煩悩を抱えたまま生きよ。念仏を唱えると罪が消えるわけではない、自分の罪がありありと見えてくるだけだ。

    ・自分の力で生きてると思っていたのが、あらゆるものに生かされていたと気づく。
    ・「自然(じねん)」は自然(しぜん)とは違う。「あるがままの存在」

    ・現代人は宗教の中から都合の良い情報をつまみ食いしようとしているが、宗教には差別性や暴力性も含まれている、もっと体系的にとらえてリミッター(ほどほど)を理解していく必要がある。

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    コメント:
    ・親鸞や浄土真宗が好きになった。
    ・対極にあると思っていた臨済宗や禅宗に似てると思う。禅宗は悟りを開く事が目的とされており、知識ではなく、悟りを重んじる。 禅宗における悟りとは「生きるもの全てが本来持っている本性である仏性に気付く」ことをいう。 仏性というのは「言葉による理解を超えた範囲のことを認知する能力」のことである。
    →浄土真宗はもっと「あるがまま」に現在を認識すること。それは悪や煩悩でも気づき受け入れること。

  • (※「歎異抄」が仏教の書物だとは承知の上で、敢えてカテゴリを「Quo Vadis」とさせていただいています)

    「歎異抄」について最初に知ったのは大学を卒業してしばらく経った頃でした。当時私はクリスチャンで、しかし神の御心に適うであろう生きかたができない己れに罪深さと後ろめたさ、無力感を抱いていました。
    そんな当時の私は例えばマタイ5-3「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである」と聖書に書かれた言葉にすがるような思いでいました。
    キリストは正しい者のために来たのではなく、罪ある者のために地に遣わされたのだと。医者が健やかな者のためではなく病める者のために門をひらくように。

    そんなときに母が日本の仏教にもこういう教えがあると話してくれたのが歎異抄の一節でした。
    「善人なほもって往生をとぐ。いはんや悪人をや」
    その頃不勉強で浄土真宗の教えについては何も知らなかったものの、この一節は心に染み入ったのを覚えています。

    結局その後、教会に通いつづけることがあまりに苦痛で教えを棄てるに至りました。神について考えることがまったくなくなったわけではないものの、息苦しいほどに神を意識する日々とは別れを告げました。

    身の上話が長くなってしまいましたが!
    このたび縁あって「歎異抄」について書かれたこのテキストを見かけ、吸い寄せられるように手にとりました。
    このテキストでは平易な言葉で「他力本願」の教えが解説されてあります。

    「救い」はひとから求めもたらされるというよりは、阿弥陀如来がわたしを救いたいと思い立ってくださったがゆえにもたらされるもの。わたしが救われたくて念仏するのではない、阿弥陀如来がわたしを救いたいと願ってくださって呼ぶ、その呼び声に導かれて往生する。

    と、そのように私はこのテキストから理解しました。正しく読みとれているかは自信がないのですが…それでも。
    如来のまえに私は何とも小さき存在で、如来が私に何を求めているのか、何を徳として積むべきなのか私には少しもわからないのだけれども、そもそもひとに過ぎぬ身で徳など積めるのかもわからないのだけれども、そんなちっぽけな存在でも如来は看過することなくすくいあげて浄土へ導いてくださる。
    それは、たぶんクリスチャンの頃の私が喉から手が出るほどに渇望した救いであり、私が思い描いたキリストの相似形でした。

    ひとの身で、神の心を推測できるはずもなく、神の正義など理解すべくもない。しかしこの無知蒙昧な存在を神は憐れんでくださっている、限りない神の慈悲は取るに足らぬわたしを救おうと手をのばしてくださっているのだと。

    「ザアカイよ、急いで下りてきなさい。きょう、あなたの家に泊まることにしているから」(ルカ19-5)

    「そのとき、主の名を呼び求める者は、みな救われるであろう」(使徒2-21)

    「わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マタイ9-13)

    …私はまだ神から逃げきれていないんだな…。

  • NHK講座のテキストですが、端的によくまとまって、とても分かりやすいです。
    歎異抄の成り立ちから、著者、根本の考え方などが、歴史的な考察も含めて、詳しく書かれています。

    今生に、いあかにいとほし不便とおもふとも、存知のごとくたすけがたければ、、この慈悲始終なし。
    親鸞は世間で善い行いとされる社会奉仕などを否定していたわけではないと思います。しかし、仏道という点から言うならば、「それは不完全なものと認識せよ」と言っているのです。「雑毒の善」という言葉がありますが、自分の都合が入った善であるという意識なしに、つい善いことをしている気分になって満足するなというのです。 ー 24ページ

    善いことをしているという慢心がないか、時々わが身を振り返って考えてみたいと思います。

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著者プロフィール

1961年大阪生まれ。僧侶。専門は宗教学。相愛大学学長。論文「不干斎ハビアン論」で涙骨賞優秀賞(第5回)、『落語に花咲く仏教』で河合隼雄学芸賞(第5回)、また仏教伝道文化賞・沼田奨励賞(第51回)を受賞している。著書に『お世話され上手』(ミシマ社)、『不干斎ハビアン』『法然親鸞一遍』『歎異抄 救いのことば』など。

「2023年 『日本宗教のクセ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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