ローティ『偶然性・アイロニー・連帯』 2024年2月 (100分 de 名著)

  • NHK出版 (2024年1月25日発売)
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Amazon.co.jp ・雑誌 (116ページ) / ISBN・EAN: 9784142231607

作品紹介・あらすじ

民主主義の危機は、「哲学」が守る

「トランプ現象」を20年近くも前に予言したとして、一躍注目された哲学者リチャード・ローティ。彼は、現代アメリカを代表する哲学者でありながら、真理の探究を目指し「理性」を重視する従来の哲学(近代哲学)を、社会の分断や差別をもたらすものとして根本から否定する。そして、『偶然性・アイロニー・連帯』などの著作を通して、「人と人との対話を止めない」ことを軸とする新たな哲学の役割を提示し、あるべき社会の在り方を論じた。
社会の分断やポピュリズムが広がり民主主義が脅かされている現在、私たちはどのような社会を構想すればよいのか。ローティのダイナミックな思想を手がかりに、そのヒントを探っていく。

感想・レビュー・書評

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  • BRUTUS web版で朱喜哲さんが連載中の『バザールとクラブの哲学』を読んだことが本書を手に取ったきっかけ。ここ最近のPodcastやYouTubeでも聴いたり、見たり。

    本書はローティの『偶然性・アイロニー・連帯』の紹介を通して、彼の哲学思想を説明するというもの。いきなり原文読んでも分からなかっただろうし、非常に勉強になった。

    『バザールとクラブ』という譬え話は現代を理解する上で大事だと感じた。自分が過ごしている多くのコミュニティは、どこに位置付けられるのか?

    また「ことば」についてもその重要性が言及されているのも気になった。負の側面の参考として伊藤計劃『虐殺器官』があがってた。購入済みだから積読の順番を変えて読んでみよう。

    プラグマティズムに興味持ったので少し勉強したいな、と思いました。

  • ローティは、トランプ大統領(のような政治家)の登場を予言した、20世紀アメリカの哲学者。ローティの哲学は、従来のような、本質的な結論(真理とか)を目指して、「終極の語彙」で相手を黙らせる(論破する)ことが目的では無い。言葉や考え方に変化がある可能性を容認する前提のもと、人々が議論を続け、共感・連帯を生み続けることが目的だという。

    100ページ程度の「解説書」にも関わらず、読んで理解するには集中力が必要。さ~っと読んでしまうこともできるが、それでは頭に全く入ってこないのである。久しぶりに、「ゆっくり丁寧に読む」「読み返す」という取り組みを意識的に行った。

    中には「バザールとクラブ」や、ナボコフの小説『ロリータ』を事例としたローティ哲学の説明もあり、少しリラックスできるパートもある。紙面が限られる中で、素人に何とかローティ哲学を分かり易く伝えようとする解説者の心遣いを感じた。

    西洋哲学史のおさらいや、「プラグマティズム」等の基礎用語を学ぶことができ、教科書という感じの一冊であった。

  • 番組を見てすぐに買いました。
    著者の朱さんの解説が明瞭でとても興味深い回でした。
    現代を生きる我々へ生きる上での様々なヒントや納得を与えてくれる本だと思います。

  • 「哲学の使命は『会話を継続させること』」。読み始めたときはうまく理解が出来なかったが、読み進めるごとにピントが合ってくるような読書体験だった。
    世の中を知れば知るほど「断定できることなどなにもない」と相対的な立場に傾いてしまうが、その場に硬直せず、本を読み世の中の出来事をかみしめて想像力を通じて人間を拡張すること、会話を止めないこと、そういったことこそが希望だと気づかせてくれるよい本だった。

  • まずこのテキストで予習。そして録画テレビで朱先生の解説、戸田さんの朗読、伊集院さんの切込み、安部さんの進行全て胸を熱くしながら、一字一句理解しながら、一時停止しまくりながらノートに書きながら講義受けた。朱先生の話ずっと聞き入ってたくて終了が寂しい。

  • この番組は本当に素晴らしい。出来ることなら原著に当たるべきなのだろうが、多分、挫折するだろう。私には、番組とテキストで分かった気になるぐらいでちょうど良い。

    哲学について、新しい、というよりも、原点回帰のような。

    「終局の語彙」が個人の深いところにあるからこそ、その書き換えは屈辱や苦しみを生じる。言葉が人を殺してしまうことも。伊藤計劃『虐殺器官』はよく表現している。

    人権が本質ではなく言葉でしかない、そうなると、全く力がない。

    哲学は、切り離されてしまった○○学の間に漂い、人と人をつなぐものなのかなぁ、と思う。

  • 再読

  • 同僚に借りて全然興味なく読み始めたけれど、これは新鮮な視点! こんなふうに考えたことはなかった。小説を読まない人に「Amazonの要約を読めばいいじゃん」と言われてどう反応したものかと思ったことがある。でも、小説こそが実際に大事なものだと書かれていて、目が見開かれる思いだった。難解な哲学書の引用部はやはり難解だけれど、噛み砕かれた解説で読みやすかった。どうか、残酷なことの起こらない世の中になりますように…。

  • ローティに言及した、いくつかの著作に触れ、感銘したことに伴い、本書も紐解いた。

    本質を求めないが故に、辿り着ける世界がある。その結論がもたらす行く末の可能性の大きさを十分に感じられたナビゲートであった。

  • うーん、久しぶりに難解な内容でした。理解不能です

  • 終極の語彙の再記述
    虐殺の文法
    人権が機能しないメカニズム

  • 「ローティ『偶然性・アイロニー・連帯』」朱喜哲著、NHK出版、2024.02.01
    107p ¥600 C9410 (2024.03.21読了)(2024.01.26購入)

    【目次】
    【はじめに】哲学者とは会話の守護者である
    第1回 近代哲学を葬り去った男
    第2回 「公私混同」はなぜ悪い?
    第3回 言語は虐殺さえ引き起こす
    第4回 共感によって「われわれ」を拡張せよ!

    ☆積読中
    「ロリータ」ナボコフ著・大久保康雄訳、新潮文庫、1980.04.25
    ☆関連図書(既読)
    「虐殺器官」伊藤計劃著、早川書房、2007.06.25
    「アンクル・トムの小屋」ストウ著・丸谷才一訳、河出書房新社、1993.03.10
    (アマゾンより)
    民主主義の危機は、「哲学」が守る
    「トランプ現象」を20年近くも前に予言したとして、一躍注目された哲学者リチャード・ローティ。彼は、現代アメリカを代表する哲学者でありながら、真理の探究を目指し「理性」を重視する従来の哲学(近代哲学)を、社会の分断や差別をもたらすものとして根本から否定する。そして、『偶然性・アイロニー・連帯』などの著作を通して、「人と人との対話を止めない」ことを軸とする新たな哲学の役割を提示し、あるべき社会の在り方を論じた。
    社会の分断やポピュリズムが広がり民主主義が脅かされている現在、私たちはどのような社会を構想すればよいのか。ローティのダイナミックな思想を手がかりに、そのヒントを探っていく。

  • 東浩紀『訂正可能性の哲学』に議論の展開が似ているような…。東さんはローティからの影響がかなりありますが、この本の著者の方は暗に東さんを参照しているのかもしれません。ローティ(と東さん)のリベラルっぽさと保守っぽさの両面を再確認しました。

  • 会話を続けながら、バランスを取っていくこと。そして、連帯のための言葉を大切にすること。

  • 最初のほうの"ローティの思想を一言で言うなら、「哲学とは『人類の会話』が途絶えることのないよう守るための学問である」"が、さまざまに「偶然性」「アイロニー」「連帯」を論じたあと、最後のほうで"誰かを黙らせることを目指さない。「われわれ」を少しずつ拡張していくことによって、会話を守る。ローティの主張は一貫しています。そしてここに、「偶然性」「アイロニー」「連帯」がすべてつながってくるのです。"に導かれて、ほとんど泣きそうになった。会話が止まることで、相互理解が阻まれ、分断が起き、対立がはじまり、社会は混乱し、一歩間違えば戦争に。そうならないために哲学にできることは、と。◆人の本質というものに軸をおかないことで、偶然的な存在として、一緒にやっていける可能性がでてくる。一緒にやるためには、公私を使い分けることばづかい、会話をとめない言葉づかいが大事だ。「人間や社会は具体的な姿形をとったボキャブラリーである」のだから。◆"「人間には本質的に人権が付与されている」と考えるのならば、翻って「人間でないものには人権がない」ということにつながるのです"...ひるがえって、人間でないとみなすあいてにはどんな残酷なこともできてしまう。これは、いまパレスチナでおきていることでは?また歴史上多くの場面で見られてきたことでは。"どうすれば私たちは「残酷さ」に対する感性を磨くことができるのか。共感を育むことができるのか。"という問いには、フィクション、エスノグラフィ、ジャーナリズムがあげられている。◆

  • 哲学の役割とは何か。

    おそらく人それぞれの考え方があると思いますが、私は、普遍の真理を目指したり、本質を考えることが哲学の役割だと思っていました。

    「会話を守ること」

    それこそが哲学者のミッションであると、リチャード・ローティは説きます。

    本質を突くことはむしろ相手を黙らせてしまい、分断を生んでしまう。この考え方は、戦争がなくならない理由として、とても説得力があると感じます。

    人間も民族も国家も多くの矛盾を抱えており、いくら正義を振りかざしてもその矛盾は解消できるわけではありません。むしろ矛盾を抱えたもの同士が、会話を続けることに知恵を絞ろうというローティの姿勢に学ぶべきことは多いのではないでしょうか。

    『偶然性・アイロニー・連帯』を読むのはハードルが高いなと思っていましたが、見事な編集力でローティの思想をまとめてくれた「100分de名著」に感謝です。

  • 「バザールとクラブ」の比喩、公共空間としてのバザールは安全だけれど息苦しく、私的空間としてのクラブは魅力的だが危ういという対比は、様々な場面で応用できそうで印象的だった。どちらの必要性も認めたうえで、公共的な正しい言葉と私的な正しくない言葉(本音)は、一人の人間の中で共存してよい、というローティの提言には納得させられた。
    また、ローティが批判する本質主義や、「自分に固執する態度ほど、実は他者に対して鈍感になる」という指摘、そして残酷さを描き出す「ことば」を理解するために小説や詩が重要だという議論から、小説『世界99』が思い起こされた。
    世界99の、自己にまったく固執しないからっぽな主人公は、ローティの言う「われわれを拡張せよ」の理想型にも見える。しかし、そのような人物がディストピアとして描かれる点に、ローティ思想への批判的な示唆が潜んでいるようにも感じた。ローティの本を読んでみたくなったし、『世界99』も読み返したくなった。『虐殺器官』も読んでみたい。

  •  私たちの社会は、全員が同じ目標を共有しているわけではありません。それぞれの信念、欲求、価値観において対立する人々が、それでも何とか一緒に生活しようとしています。これは厳然たる事実です。他方、偶然の産物としての私たちの道徳というものもたしかにあります。偶然とはいえ私たちが大切にしてきた言語、ことばづかい、価値観、それらに基づく道徳です。しかしながら、それはあくまで偶然の産物であり、その正しさを保証してくれるものは何もありません。ですからひとえに、互いを保護する(傷つけない)という最小限の目的をお互いにすり合わせながらやっていくほかない。そういうものが私たちの社会のありさまであると、ローティは考えているのです。目的はバラバラで、「同調を避け」ているけれど、お互いを保護するという意味では協力することができる。そんな者たちがそれでも何とかやっていく。それがローティの言う「リベラルなユートピア」という社会の描像です。
     そんなリベラルなユートピアの市民に必要なのが、「自己の偶然性」の認識です。一緒にやっていく人同士のあいだでは、自分が相手に影響されたり、相手が自分に影響されたりする可能性があると認識する。つまり、それぞれが変わりうる存在であり、必然に固執するのではなく偶然に開かれていることを認識する。そうやってお互いを改定されることに対して開きながら、どうにかしてときには手を携える。そこに、連帯の可能性や必要性が出てくるのだとローティは言います。つまり、「必然的な本質を共有しているわれわれだから、わかるはずだ」ではなく、むしろ本質など持たない、互いに偶然的な存在であるからこそ、何かしら一緒にやっていくことができるという可能性が出てくる。ここが、偶然性から連帯の契機が出てくるという、このあとの議論につながる部分です。

    「アイロニー」という言葉を聞くと、みなさんはどんなイメージが思い浮かぶでしょうか。「皮肉」「冷笑的」「斜に構えた」など、どちらかというとネガティブな意味合いや用法が浮かぶ方が多いかもしれませんね。
     ローティが言うアイロニーを「皮肉」と訳すと、少々ミスリードになります。ここでのアイロニーとは、「ロマンティック・アイロニー」に近い意味でのアイロニーです。
     ロマンティック・アイロニー(浪漫主義的イロニー)とは、十八世紀末~十九世紀はじめのドイツ・ロマン派の批評家・シュレーゲルらが用いたことばで、芸術家が自らの作品を高みから見下ろし、反省し、さらなる創造につなげていく態度を指します。「作品の完成度はバッチリだ」と無反省に終わるのではなく、常に別様の表現がありうるのではないかと自らを疑う。それによって次の創造の可能性を開く。これがロマンティック・アイロニーです。
     ローティの言うアイロニーもこの用法と同じく、語り直す態度というものに力点が置かれています。『偶然性・アイロニー・連帯』第Ⅱ部第4章「私的なアイロニーとリベラルな希望」から、その定義を引用してみましょう。
       アイロニストとは以下の三つの条件を満たす者であると定義してみよう。第一に、自分がいま現在使っている終局の語彙を徹底的に疑い、たえず疑問に思っている。なぜなら、他の語彙に、つまり自分が出会った人びとや書物から受け取った終局の語彙に感銘を受けているからである。第二に、自分がいま現在使っている語彙で表された論議は、こうした疑念を裏打ちしたり解消したりすることができないとわかっている。第三に、自らの状況について哲学的に思考するかぎり、自分の語彙の方が他の語彙よりも実在に近いと考えてはいない。つまり、自分の語彙の方が他の語彙よりも実在に近いところにあり、自分以外の力(たとえば、合理性、神、心理、歴史)に触れている、とは考えていないのだ
    「終局の語彙」ということばが出てきました。これは『偶然性・アイロニー・連帯』のキーワードのひとつです。終局の語彙とは、それを否定されるともう同語反復以外では二の句が継げなくなるという類の語彙で、ローティは次のように説明しています。
       人間は誰しも、自らの行為、信念、生活を正当化するために使用する一連の言葉をたずさえている。私たちはこうした言葉を用いて、友人への賞賛や敵への軽蔑、長期的な計画、とても根深い自己疑念、とても崇高な希望を明確に述べる。こうした言葉を用いて、時に先を見越しつつ、時に振り返りつつ、人生の物語を語る。このような言葉を、その人の「終局の語彙(ファイナル・ボキャブラリー)と呼んでおくことにしよう。
    そしてローティは、終局の語彙の大半を占めるのはたいていの場合、「キリスト」「イングランド」「革命」「進歩的」といった「地域特有の性格が強い用語」だと指摘します。もちろん、「理性」とか「人間性」といった普遍的な用語が終局の語彙となるケースもありますが、「同じ人類」と言われるよりも狭く、「我々〇〇」と言った方が強い感情的な紐帯をもたらしうる、というのは(残念ながら)ローティの指摘通りでしょう。
     しかしながら、その前の引用に戻れば、自分たちが最終的にそれにすがるしかないような終局の語彙でさえも、アイロニストは「たえず疑問に思っている」とローティは言っています。自分にとっては「ファイナル」と思えるボキャブラリーさえも、よりよくなる可能性に開かれたものだと考えることが、まさにアイロニーだということになります。
     ローティは、アイロニストは自分の終局の語彙が絶対のものだとは思っていない、なぜなら事実、他人の終局の語彙に感銘を受けることがあるからだと言っています。たとえば小説を読み、自分とはまったく境遇が違う人の話に触れる。自分がキリスト教徒だとして、仏教徒が真剣な信仰を抱いているかについて学ぶ。そうしたことを通じて、自分とは異なる終局の語彙を持つ人が存在することを知る。そしてややもすれば、自分もそちらの終局の語彙に近づくことさえできると知る。これが、自分を疑うことができるという意味でのアイロニカルな態度です。
     こうしたアイロニストは、「自分の終局の語彙だけは人間でない何か(合理性、神、心理など)に触れている」と考えることはない、とローティは述べています。
     そしてローティは、「アイロニーの対極にあるのは常識(コモン・センス)である」と言います。
       というのも、これこそ、自分や身の回りの者が慣れ親しむ終局の語彙を用いて、重要なことの一切を自意識を介在させずに記述する者の合言葉だからである。常識を持っているとは、こうした終局の語彙で明確に述べられた言明があれば、別様の終局の語彙を使う者の信念、好意、生活を記述し判断、裁決するのに十分である、という点を当然視することに他ならない。
    自分は正しい、なぜなら自分の考えは人間としての常識だからだ。こう言ってはばからない人は、たしかにアイロニストの対極にあると言えます。この点で、先に指摘したように自身の終局の語彙が「地域特有の性格が強い」ものだと自覚することは、アイロニストへの第一歩として重要なのですね。

    「公」と「私」は統一できないものとして区別しよう。一人の人間のなかに「公」と「私」が相矛盾するものとして同時に存在してもいい。このローティの提言は、現代のわれわれにとってこそ役に立つものであると私は思います。私的なつもりの発言が公的な見解だと取られて炎上する。自分は本音を言っただけだと聞き直ってさらに炎上する。「そんなこと言ったら何も言えなくなるじゃないか」と外野も参戦して紛糾する。このように、現在の言語空間では言葉に対するいろいろな主張がもつれ合うことで、より一層の問題が生じています。
    こうした状況は、ローティ的に考えるとかなり整理されます。たとえば、公共空間に提示される広告物などで、ステレオタイプで多くの場合に性的特徴を強調された女性の表象が使われることがしばしば問題になります。「不快だし、不安になる」「いや、過度な規制は表現の自由を奪う」という平行線の議論があるわけですが、これもローティ的に考えるとうまく切り分けられます。性的なイラストや写真などを見ることによって気まずくなったり安全が脅かされると感じたりする人がいるため、公共空間ではそれらは露出すべきではない。しかし、だからといってそうしたものを書いたり見たりしたいという欲望自体の抹殺は目指さない。このように整理すれば、公共的な安全と、私的な関心をもとに尊重することができるはずです。
    残る問題は、どこを「公共的」「私的」な場と設定するかという論点でしょう。そして、この問題は、現代においては私的空間や私的ボキャブラリーをどう確保できるかが、むしろ課題ではないかという視点を浮上させます。
    現代の私たちは、あらゆる場所がパブリックな空間として判断される傾向が強い社会に生きています。言語活動のほとんどがインターネット上で行われる現在においては、個人的なやりとりも常に暴露される可能性をはらんでいる。「ここは私たちの会話が絶対に出ない安心なプライベートな空間だ」と言える言説空間自体、ほとんどないという状況だと言えます。多くの「炎上」は、この点から生じています。
    またインターネットにおいては、私たちのなかに往々にしてある、「公共的な」空間で活躍したいという欲望も暴走しがちです。ソーシャルメディア上に、表面的な匿名性を盾にとりながら「私の意見は公共的に正しい」という信念や熱量を携えた空間が飛び交っているのは、みなさんもよく目にしていると思います。
    こうした状況を考えると、現代のわれわれが考えるべきなのは、むしろ私的な空間やボキャブラリーをどう確保していくか、ということかもしれません。いまの社会では、公共的なバザール空間でのことばづかいを意識せざるを得ない現状がある。しかし、そこから漏れ出る、あるいは締め出されてしまうような本音を、どうすくい上げるか。間違っているかもしれない本音を安心して話せる場をどうつくるか。持続的な関係性をお互いに望むことを前提に、私的な信念を開陳し、自己を改訂に開きうるような回路をどう作るか。そうした危うさをともないながらも「アイロニー」を育む場でもある「私的なクラブ」をどうつくるかということこそが、公共的な課題なのではないかと思えます。

    第Ⅱ部第四章の結びでローティは、この本の第Ⅲ部では「小説家が社会的に有用な事をなしうる」ことの実例を紹介すると予告し、「私たちは、小説家のおかげで、残酷な行為が起きているのはまさにそれが気づかれていない領域でなのだという事実ばかりにではなく、残酷さは私たち自身のうちに源があることにも注意を向けることができるようになる」と述べています。私たちのなかにありうる「残酷さの芽」というものに対して意識を向けさせてくれる。これもまた、フィクションの役割だというのです。
    ローティは、第Ⅲ部「残酷さと連帯」の導入部分で次のように述べています。
      この種のもので最も有用な書物は、ある種の人たちが別種の人たちの苦痛に目を閉ざしているさまをまざまざと見せてくれる作品である。[……]このような書物を読めば、自律的であろうと試み、特定の種類の完成(パーフェクション)を成し遂げようと私的に取り憑かれてしまうと、自らが[他者に]与えている苦痛や屈辱を忘れてしまいかねない、ということがわかる。
    「自律的であろうと試み」に注目しましょう。これは、他者にまどわされず自分にとことんこだわり、自分自身を高めていこうとする姿勢です。道徳的完成主義とも言います。バザールとクラブの話でいえば、クラブ的な空間のなかで自分についてより洗練された再記述を行っていく、私的な趣味を追求していくことと考えてよいでしょう。このように自分に固執するほど、他者に対しては鈍感になる。これは程度の差こそあれ、私たちみなが持ちうる構造的な弱点なのだ。ローティはそう言っています。そして、その事実をまざまざと見せてくれるのもフィクションである。つまり、残酷さに直面した被害者への共感のみならず、「われわれは加害者にもなりうる」ことへの想像力への醸成にも、フィクションは役立つのだとローティは指摘しているのです。

     私たちは誰であれ、それぞれに何らかの私的な「善」の構想を持っています。そこには正しくないものも多分に含まれうるでしょう。そして私たちは、そうした善の構想を追求するときには、ハンバート[『ロリータ』の主人公の中年男性]のような残酷さを無自覚のうちに行使してしまうことがある。それは、自分なりの善や道徳意識を持っている人間――つまり、私たちのようなタイプの人間が表してしまう残酷さなのです。私たちはこうした類の残酷さを、ハンバートほどの過剰さをもって描き出されることによって、初めて自らのうちに認めることができる。そしてそれを内側から恐れることができる。これが、『ロリータ』がわれわれに与えてくれる「感情教育」なのです。
     さらに踏み込むなら、ハンバートの残酷さとは私たちの残酷さであると気づくことによって、「われわれ」が拡張されたとも言えます。ここはローティらしいひねりが利いているところです。「われわら」を拡張するとは、第一には、残酷さのさなかにある被害者に共感することによって実践されるものでした。しかし同時に、加害者もまたわれわれと同類だと気づくことによっても、「われわれ」は拡張するのです。『偶然性・アイロニー・連帯』は、公私の区別を提案したり、アイロニーに積極的な意味を見出したりするなど、私たちが一般的に「よい」あるいは「そうすべきだ」と考えることと逆のことを、説得するというよりは魅力的に語ってくれる本だと言えます。その本の終盤で、ローティは被害者への共感を語るのではなく、加害者の話を通していかに我々自身に目を向けさせるかを考えている。ここもやはり、ローティらしいおもしろさではないかと思います。

     ローティの予言の文脈と、彼がそれを一九九八年に描いた意図を補っておきましょう。〝Achieving Our Country〟は、九〇年代にアメリカ左派が推し進めていた「アイデンティティ・ポリティクス」への警告として書かれました。アイデンティティ・ポリティクスとは、主に人種、ジェンダー、性的志向など、特定のアイデンティティを持った人たちが共通の利益や政治目標に向かって行う政治活動です。アイデンティティ・ポリティクスを行うのは、多くの場合、少数派(マイノリティ)です。われわれは少数派だがたしかに存在している。しかしその存在が認められていない。承認が与えられておらず、いないものとして扱われている。それに対して異議申し立てをする。これがアイデンティティ・ポリティクスの基本構造です。しかし、この「論法」が、いずれマジョリティである白人労働者、特に男性の白人労働者によって乗っ取られることを警告したのが、ローティの本でした。
     ローティによれば、誰もが当事者であるはずの政治という場面において、アイデンティティに訴える論法はある意味で相手を「黙らせる」ものです。「俺のつらさはお前にはわからないだろう」といったことが言えてしまう。ローティは、この論法自体が持つある種の危うさこそが問題だと言っていたわけです。
     ただ、ここは大いに注意が必要で、ローティの議論を丁寧に見る必要がある部分です。マイノリティにとっては、自身のアイデンティティに訴えて「ここにこういうニーズを抱えて困っている当事者がいる」と表明することは、ほとんど唯一可能な政治的手段でもあります。なぜなら、マイノリティはそもそも存在しないものとされ、政治的意思決定のプロセスにおいてまったく顧慮されない存在になってしまっている。だからこそ「私はここにいる」と言う必要がある。その点はもちろんローティも見失ってはいません。アイデンティティに訴える論法を使う者がみな悪いと言っているわけでは必ずしもなく、マイノリティにとってはその論法を使わざるをえない局面があることをローティもわかっています。
     ただし、この論法そのものが持っている「会話を止める」という機能には注意しなければならないと彼は考えたのです。「お前にはわからない」という、ある意味で反駁不可能な主張をすることで、相手は二の句が継げなくなってしまう。その構造的な問題点にローティは着目しました。これは発話者が悪いわけでは必ずしもなく、そうした叫びをあげるほかない状況に追い込んでしまう、議論や会話の主導権を握っているはずの多数派にこそ問題がある。ローティの指摘の主眼はそこにあるのです。
     そうすると、この問題に対する処方箋の方向もおのずと見えてきます。アイデンティティ・ポリティクスがときに会話をストップさせてしまうような営みであるなかで、こうした論法をどのように避け、どうやって会話を継続させることができるか。会話を打ち切らせるような試みに対し、どのようにしてそれを抑止し、会話を守ることができるか。それを考えていくのが処方箋の方向性になるはずです。そのことを、キャリア全体を通じて考え続けたのが、リチャード・ローティなのです。
     第1回で見てきた「心理」や知識の基礎づけを目指す哲学者の特権的なことばづかいへの批判、第2回での自身の枢要なアイデンティティに関わる「終局の語彙」さえ改訂に開くべきだというアイロニー論、第3回での「人権基礎づけ主義」への批判、いずれもが何らかの形で「会話を止める」作用を持つ話法を相手どっていたことを思い返してみてください。九〇年代におけるアイデンティティ・ポリティクス批判もまた、こうした同型の脅威への警鐘として提出されているのです。
     ここまで見てきたように、ローティは哲学者としてのキャリアの絶頂期に出した『哲学と自然の鏡』によって大学における哲学の世界での居場所を失い、それと引き換えに、より広い読者を相手に文化や社会についても語るようになりました。九〇年代には、今回紹介したアメリカ論など、より実際的な政治思想に関わる論客、知識人として知られるようになります。このように多様な話題を扱い、複数の顔を持つように見えるローティですが、実のところ最初から最後まで変わらぬひとつの使命感を抱き続けていた、一本気な哲学者だったと評するべきでしょう。
     ローティは初期の著作『プラグマティズムの帰結』(一九八二年)において、「探求に課せられた唯一の制約は、会話への拘束だけである」(引用は筆者による訳)と述べています。哲学者が行うような探求の議論に何か制約があるとすれば、それは真理を目指すことではなく、むしろ会話への拘束だというのです。つまり、探求の議論とは、あくまでも人類が織りなしているさまざまな会話のひとつにすぎない。だからより重要なのは会話なのだ。哲学者は会話をいつか終わらせようとするのではなく、会話こそ守るべきなのだ。
     誰かを黙らせることを目指さない。「われわれ」を少しずつ拡張することによって、会話を守る。ローティの主張は一貫しています。そしてここに、「偶然性」「アイロニー」「連帯」がすべてつながってくるのです。

  • 偶然性、アイロニー、連帯。
    偶然性によって人間は成り立っている。
    古来からの哲学が追究した、普遍の真理、正解、論理的で崇高な思考/言葉というものはない。それぞれが自分の言葉で自分を形作っている。それがそれぞれの正解。その視点は目から鱗だった。色々な書籍を読んで、「人間とはこうだ」「人間とはこうあるべきだ」などという意識の高い正解を追い求めるような自分がいたことは確かだった。その考えが甘いのかもしれない。たしかに、道徳や正義といった共通して認める考え方はある。ただ、それぞれが自分の利益で動いているというある種達観したような視点はとてもいい。その視点によって、相手を見下すような姿勢は無くなっていくように思える。
    アイロニーを備えたい。
    自分の考え方、ファイナルボキャブラリーが常に改訂に開かれているべきである。個々の言葉、考え方を持つことには自信を持ってよいが、それを常に自分の正解として固執してはいけない。変化していくものであることを認める。むしろ変化させなければいけない。色々な書籍を読んで、「この考え方が自分にとっての真理だ」と正解を得た気分になってはいけない。常にまだオルタナティブがあるのでは?という疑う姿勢は、研究をする中でも重要だと考える。
    連帯をしよう。
    連帯には感情教育が必要であり、文学やジャーナリズムはその役割を持つ。それも自分にとっては大きな発見だった。僕は小説や文学をあまり読まない。興味が湧かないのだ。ただ、ローティの連帯の説明を聞いて非常に興味が湧いた。感情に訴えかけるようなものは論理的主張に劣る、とどこかで考えてしまっている自分がいた。そんなことはないのだ。感情で連帯する。それが非常に強力であることは多い。まずは興味をもった人たちの「言葉」が綴られた文学を手にとってみようと思う。

  • 朱喜哲「100分で名著 リチャード・ローティ 偶然性・アイロニー・連帯」(NHK)
    ローティはトランプの登場を予言したとも言われるアメリカの哲学者。
    彼によると、これまでの哲学は「普遍の追求」「人間の認識の本質」「論理の本質」など、物事の根本原理を追求してきたが、もうそんなことをやめようと言っているらしい。哲学が歴史を超えて真実を追求しているのというのは錯覚で、古代ギリシア、中世欧州、近現代それぞれの社会の中で課題が生まれ議論が行われているのが実態だと。では哲学は何を目指すべきかというと人々の対話を続けることに意義がある。知識の本質、人間の本質、人権の本質などの基礎づけ主義によらず、個々に違う考えを持ち、公私で態度も変わるのが人間だとした上で、そんな人達の間でどのように共感が見出せるか、協力関係を構築できるかが大事だという。「人間とは」とか「人権尊重」と言ったところで「あんなクズは人間じゃない」という言説には対抗できない。昨今のアイデンティティポリティクスについては、マイノリティにとって追求せざるを得ない面もあるとするが「私の苦しみは貴方にはわからない」まで行ってしまうと会話が閉ざされてしまう。会話を続けることが大切だと。

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著者プロフィール

朱 喜哲(ちゅ・ひちょる):1985年、大阪府生まれ。哲学者。大阪大学社会技術共創研究センター招へい准教授ほか。著作に『〈公正〉を乗りこなす』(太郎次郎社エディタス)、『人類の会話のための哲学』(よはく舎)、『バラバラな世界で共に生きる』(NHK出版新書)など。


「2026年 『増補 ネガティヴ・ケイパビリティで生きる』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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